獅子神さんの迎えを待つ村雨さんの話(ししさめ)　村雨礼二は医者である。
　それは何か特別な意味のある比喩などというわけではなく、単なる事実だ。ギャンブラーではなく医者だ、と本人が口にしたように。獅子神はそれを聞いた時、これだけ強い人間にそう言われてしまってはどうすればいいのだと場違いにも複雑な感情を抱いたが、なかなかどうして事実この男はしっかりとした医者であった。
　今終わった。また行ける日を伝える。
　医者としての過酷な労働を終えた村雨が獅子神にその業務連絡のようなメッセージを送信したのは、もう遅い時間だった。いくら村雨が普段は弟らしさを存分に発揮して年下の恋人に自由奔放に振る舞っているとはいえ、社会人だ。更に言えば、こんな時間に通知音で起こすのは気が引けるので音が鳴らないように無音で届くように設定をした上で送った。獅子神ならば、その通知に気付けば時間に関係なく車を出そうとすることは想像に難くない。これは一般的には自信過剰だと笑われてもおかしくないかもしれないが、ああだこうだと言いながらも、友人の帰りを数十分ではなく数時間も待つ男だ。恋人に対して見せる愛情の強さなど、わざわざ言うまでもあるまい。
　ぐ、と村雨が目元をおさえる。今日は一段と疲れた。目の疲労はもちろん、肩もこっている。叶うならば獅子神の顔を一目見てから眠りたい。もし会えたとすれば獅子神は、お疲れ、と静かな声で言いながら下心など一つもない手つきで村雨の頬を撫でるだろう。そんな光景を想像して、いくらか落ち着いた。それと同時に、随分と甘ったるい、想像というよりは最早妄想の域に達した自分の思考に村雨は呆れた。学生でもあるまいに、少しだけでも顔が見たいというのは浮かれすぎだと笑われても仕方がない。
　気恥ずかしいような何とも言えないその感覚を振り払うようにぐるりと首を回してから常よりも少しばかり緩慢な動作で着替えて、さあ一刻も早く帰ろうと外に出た瞬間のことだ。村雨のスマートフォンが震えた。まさか、いやさすがにそれはないだろう、と半信半疑でそれを取り出して確認する。
　悪い、トレーニングしてて遅くなった。今から行くけど間に合いそうか？
　獅子神だった。通知が行かない設定にしたはずだが何故、というその指摘は意味を成さないだろう。トレーニングをしていた。それは事実か否か分からず、もしかすると村雨に気遣わせないための、いわゆる嘘も方便というものかもしれない。単に投資関係のことでスマートフォンに触れていた可能性も大いにある。獅子神に真偽を問うたところで、照れ臭そうに目を逸らして事実を打ち明けようとはしないだろう。いや、存外素直に、少しでも会いたいから連絡が来ないかと待っていたと言うのだろうか。村雨は人の考えを読むことに長けているが、それが恋愛に関係することとなると精度は僅かに落ちるため断言は出来なかった。
　とにかく獅子神は村雨からのメッセージに気付き、そして読んだ上で村雨の元に来ようとしている。それが全てだ。ここで、その気持ちは嬉しいが休んでいてくれ、と返すのが世間一般の恋人の正しい返事だろう。獅子神の返信はあくまで社交辞令として捉えるべきであり、先刻送ったように、また日を調整して会いに行くと改めて伝えるのが普通だ。だけれど、そうすれば獅子神は分かりやすく落胆するタイプの人間である。そっか、とあの勝ち気な印象を与える眉を僅かに下げて寂しそうに笑うのだ。平素の言動からはいささか分かりにくいが、というよりも意図的に分かりにくくしているのだが、村雨は獅子神には笑って過ごしていてほしいと思っている。と、村雨はそこで考えることを放棄した。どれも自分が喜んでいることへの言い訳だ。腹を括って文字を打ち込む。
　待っている。ただしくれぐれも安全運転で来るように。
　可愛げの無い文章だが、そんなものは獅子神とて最初から求めてはいないだろう。スマートフォンをしまって、獅子神がいつも迎えに来る際に落ち合う場所へと向かう。職場をあとにした今は、医者の村雨礼二ではない。そう更なる言い訳を重ねて、獅子神敬一の恋人である村雨礼二として車の中であの柔らかな金髪を撫でるくらいは許されるだろうか、と夢想しながら。