一問一答ネタ「顔写真」「おかえりなさい。」
ジャンの忙しい一日の中で、最も心が安らぐ瞬間だった。仕事で時間に追われる日も、無理難題を抱えながら明日に繰り越す日も、心無い言葉を浴びせられる日も、いつだってジャンの心に平穏を与えてくれる。
それが、妻の「おかえりなさい」だった。
ジャンはその黒髪を抱き寄せ彼女の額に口づける。
少し照れくさそうに身をよじったが、ミカサも同じように小さな口づけをジャンの下顎へ残した。
「夕飯は食べていないでしょう?座っていて。今、温めなおす。」
ミカサは長い髪を翻し、ジャンの手からすり抜けた。ジャンはもう少しこの甘い時間を享受していても良いと思っていたが、夫婦となって十年近い月日が経てばこんなものだろう。
「子どもたちは?まだ二階の明かりがついていたが…。」
「さっきおやすみを言ったところなのだけど…まだ起きているかもしれない。起きているようだったら顔を見せてあげて。またお父さんは遅いの?と拗ねていたから。」
現在、ジャンはエルディアに住まいを持ちながら外交官として働きながら諸外国との連携や支援に尽力している。
実際国外任務にあたることも多いため、子どもたちと顔を合わせる時間が少ないことは事実だった。
ジャンはネクタイを緩めながら2階へ上る。ついでに、夕飯の前に部屋着に着替えてしまおうと思ったのだ。
子どもたちの寝室は、階段を上ってすぐの部屋である。その隣にジャンとミカサの寝室がある。ジャンは自身の寝室になるべく音を立てずに入ると、隣から聞こえる物音に聞き耳を立てる。
内容まではよくわからないが、姉妹二人で何やらケラケラと笑っている。
「おやすみ」と言ったものの寝ていないのは明白だが、きょうだいで仲が良いのは良いことである。
堅苦しい背広を脱ぎ、シャツにカーディガンを羽織ったジャンは隣の部屋をノックする。瞬間、子どもたちの声はぴたりと止み、代わりにドタドタとせわしない足音が近づいてきた。
「お父さん!」
「おかえり!!」
子犬のようにジャンの両脚にしがみついてくる姉妹たち。ジャンは自身とミカサの髪の色それぞれを受け継いだ二人の頭を撫でまわし、一度腰を落としてから二人を両の手で抱きあげた。
「こら、まぁだ起きてたのか?」
「もう寝ようと思ってたの!」
「ほんとだよー」
ジャンは姉妹たちの額にそれぞれ口づけをして、「でも、お前たちの顔が見られて良かった」と笑った。
暴れる子犬のような二人をそれぞれのベッドまで運ぶと、ジャンは視線を止めた。姉妹が共用で使っているサイドテーブルに本が置かれていた。姉妹たちが読む本にしては少し難しそうな装丁で、ジャンは首を傾げた。
「なんだ、二人で本を読んでたのか。随分難しそうな本を読んでるんだなぁ。」
ブランケットに身をうずめる姉妹たちはお互いに目を合わせ、くつくつと肩を震わせ始めた。
二人の行動の意味が分からないジャンはただ二人の表情を左右見比べながら苦笑いを浮かべるだけだ。
「何だ??」
「ふふふ…ふふ…あはははは!」
姉妹たちは耐えきれない!と言わんばかりに身を起こし、「お父さん座って!!」と二人のベッドの間にジャンを座らせた。
姉妹はジャンを挟むようにその隣に座り、サイドテーブルの本を取った。二人の小さな手ではやっとやっとで支えられるような分厚さの本だったため、ジャンは補助するように背表紙を支えた。
「今日ね、図書室で本が借りられる日だったの。」
「ああ、そうだな。週に2回借りられるんだよな。」
「前にねお母さんに聞いたの。」
長女は小さな手をいっぱいに広げ、ジャンが抱える本のページをめくり始めた。
「歴史の本に…、」
長女は手を止める。
そこには、アルミンやアニ、ライナーなど「天と地の戦い」で共に戦った仲間たちの顔写真が並んでいた。
ジャンはようやくこの重い本がエルディアの歴史書であることを知る。
巨人が出てくるおとぎ話ではない。人間が作り上げてきた人間の歴史の記録だ。
「お父さんの顔が載っているって。」
ジャンはここまで来て、自分の中に封印されていた羞恥がふつふつと湧いてくるのを実感した。それは、この歴史書に載っている写真を撮影したときのことだ。
「天と地の戦い」から三年、ジャンら和平大使は地鳴らし以来初めてエルディアに来訪した。
主要各国の首脳陣と対談したあと、和平大使として世に知らしめる目的で写真撮影が行われたのだ。
元来可愛らしい顔立ちであり、和平の立役者としての自信を滲ませているアルミンや、精悍で男らしい顔立ちのライナー、あまりにも目つきが悪かったため修正されることになったアニなど…が並ぶ中、ジャンの カメラ写りはその後コニーやピークからいじられ続けることになった。
「お父さんだけこっち向いてて面白いんだもん!」
キャハハとかわいらしい声で笑い合う姉妹たち。
二人が指さす先には、ナチュラルな表情で斜め方向を見上げる顔写真が並ぶ中、ジャン一人だけがカメラ目線でばっちり表情を決め、下顎に手を添えている「若気の至り」の究極体で写っていた。
現在の自然な立ち上がりをしたジャンの前髪を普段見ている姉妹たちからすれば、整髪料をふんだんに使ったキメキメのヘアスタイルも面白いらしい。
「お父さん髪長い!」
「なんでこんなにカメラ睨んでるの??」
「…お前ら、よくこんなの見つけたなぁ…。」
ジャンはぐったりと項垂れた。しかし、自身の若気の至りもまた愛おしいものとして見られるようになった心のゆとりもどこかにあるのもまた事実だった。
「あなたたち、まだ起きているの?」
しかし、愛おしい人にそれを見られて平気かといえばそれはまだ事情が違う。ジャンは背後から投げかけられた声に慌てて歴史書を閉じた。
いつまでも降りてこないジャンを不審がってか、それとも娘たちに掴まっていることを案じてか。ミカサは「おやすみ」を言ってから随分長いこと経っている娘たちにお小言を言いに来たようだった。
「あのねぇ、お父さんのわへいたいしの頃の写真見てたの。」
「お父さんだけすっごく面白い顔で写ってるんだよ。」
そう言って次女は歴史書のジャンのマネをして下顎に手を添える仕草をする。我が子ながら煽り方が上手いのがシャクである。ジャンは慌てて次女を身体ごと引き寄せた。
「ほら、お前たちはもう寝る時間だぞ。お父さんをからかうのはまた明日にしなさい。」
「ふふふ。はぁい。」
「はーい。」
ジャンは姉妹にそれぞれブランケットをかけてやると、瞼へキスを落とし「良い夢を」と告げる。
瞼を下した顔はまだ幼気である。どうせ親が姿を消せばまた二人でおしゃべりを始めるのだろうが、ジャンとミカサは明かりを消して、階下へ降りることにした。
「あいつらさぁ、和平大使の写真を見てたんだよ。もう恥ずかしくてたまらねぇよ。」
ジャンは頭を掻きながら自身の赤い顔を隠した。予期せぬ子からの弄りに、ジャンはもはや子たちを侮れないな…と感じていた。
「どうして?」
「え??」
突然足を止めたミカサに並ぶ形でジャンは顔を向かい合わせる。
「どうして恥ずかしいの?」
「エッ。」
煽りではない。ミカサの目は純粋にジャンに問いかけている。
「私は、あの写真はかっこよく写ってると思う。」
「いやいや、どう見ても自意識過剰なヤツだろ。」
「…あなたらしくて素敵な写真。少なくとも、私はそう思う。」
そう言って、ミカサは微笑んだ。
ミカサが和平大使の顔写真を見たのは、確か新聞の紙面が最初だったはずだ。和平大使だった彼らがパラディ島を発った日のことだったと思われる。
和平大使の面々は知りすぎている仲であるにも関わらず、皆どこか「作られた表情」でまるで他人のように思えたのも事実だった。アニに至っては修正されているので、まさに「誰」という状態であった。
そんな中、カッコつけた表情でこちらを見つめるジャンの表情を見つけたミカサは思わず笑ってしまった。
(ああ、ジャンらしい。)
その時湧いたこそばゆい感情こそが、二人の関係を変えたのだとミカサは思っている。
「さぁ。お父さんの時間はもうおしまい。今度は私とお話をして。」
ミカサはジャンの手を取り、残りの階段を足早に下りていく。
「ああ。レディの仰せのままに。」
ジャンは空いた手を下顎に当て背後を振り返る。
覗き見ている小さなレディたちに「早く寝ろ」と伝えるため。
そして、面白い顔写真を再現してやるために。