ボツ文供養:台牧「△□▽◇くん、もうあがっていいよ」
皿を無心で洗っていたらそう背中のほうから声が聞こえて、青年は蛇口をひねり止めてから振り向いた。
「ワイですか?」
「厨房の奥にいた店長にそう問うと、いかにも若い頃はやんちゃしていたようなガタイの良さを誇る男が頷く。
「ああすまん、そうだったな。ウルフウッドくん、あがっていい。お疲れ! また明日頼む」
「こちらこそありがとうございました。お先に失礼します」
律儀に頭を下げてウルフウッドは厨房から出て行く。深夜にしては、いや深夜だからこそにぎわう客席を抜けて店外へ一度出た。
黒髪の上から巻いていたバンダナを取って、着ていたエプロンも脱ぎながら店隣の小屋に入る。そこがこのラーメン屋のスタッフルームだった。
また明日、と言われたならばアルバイト初日の働きはなかなか上等であったと評価されたといっていいだろうか。ウルフウッドは自分の仕事ぶりにそう自負しながら鼻歌をかまし、あてがわれたロッカーを開けた。トートバッグにバンダナとエプロンを突っ込んでタイムカードを退勤で押してから再度外へ出る。
夜、たいがいの会社員が仕事を終え帰路についているか飲み明かしている時間帯。
人々が英気を養うためにそれぞれの灯りに集っている。
そんな繁華街の光景が好きである彼は、時折聞こえる酔っ払いの笑い声だとか自由な雑踏に気を良くしながら背を向けた。
電車の走る音が木霊するトンネルの中を歩き、点滅する外灯の下を歩き、さっきまでの光景とは裏腹にひっそりと静まりかえった住宅街の坂を登りながら、空を見上げると大きな丸い月が煌々と存在していた。
自分の足音だけがやたらと響く。
誕生日プレゼントに貰ったスニーカーは履き心地だけでなく足音すら良くて、ウルフウッドはくすりと笑った。
「おーい」
靴のほうへ向けていた目線を上げると、坂の頂上で手を振っている影がいる。
目をしばたたかせ歩み寄っていくうちに、影が外灯の下へ入って様相を明らかにした。
金の髪をとんがらせた男が笑顔をこちらに向けている。
近寄ってから、ウルフウッドはわざとらしくため息をついて苦笑した。
「不審者やめえや」
「迎えに来てやったのにそれはないでしょ。お疲れ、バイトどうだった」
「悪うない感じやったで。チャーシュー飯がもらえてなあ、美味かった」
「いいね。今度食べに行っていい?」
「やったらワイも行くから、休みなったらな」
「うん。学校にばれないようにしないとね」
「多分な、先生とか来うへんと思うんやけどなあ」
夜なので声を控えめにひそひそ話し合いながら、二人は肩を並べて自宅へと向かった。
ウルフウッドが高校に入学してからアルバイトをはじめたのはこれで五件目だった。
日中は学校なので、働くのはいつも夕方から夜にかけて。深夜にさしかかると時給が上がるので喜んでその時間帯も働く。
そうしないと自分の生活をまかなえないからだ。
同居人であるほうき頭はそんな忙しくする彼の生活をいつも、口をはさまず肯定的にとらえていてくれた。
それがありがたい。
ウルフウッドは話に夢中な隣の男を横目に見てから、その楽しそうな、哀しみの片鱗も見えない表情を眺める。気づかれていないだろうか、気づかれているだろう。いつも盗み見ているつもりではあるが、この男が気がつかないはずがない。
不意にウルフウッドが夜の寒気にくしゃみをすると、隣の男が言葉を切った。
「夏といっても、夜は肌寒くなってきたよね」
「せやな。でも」
ウルフウッドは一瞬ためらってから、えいやと隣でぶら下がっていた手を握りしめた。
お、と声を一音発してきょとんとした男の顔をにらんでから言う。
「一人ん時より寒うない」
喧嘩でもしかけるような低い声になってしまったが、言い切った自分を褒めてやりたい。
顔面に熱を覚えながらも、ここで手を離したら負けだという強迫観念があってひたすら我慢して前方を見つめ歩いていると、にわかに握り返してくる力が強くなった。
「そうだね……うっ」
「は? オドレまさか」
「いや、なんでもないんだ、ぐすっ」
なんでもなくないだろう、と絶句してから、隣をまじまじと見る。うつむいた顔を空いたほうの手で拭っている男に、これは我慢できず声を上げた。
「こんなことで泣くなや!」
「泣いてねえもん!」
「明らか鼻水たらしとるが?」
「もう、うるさいなあ、放っといてくれよ」
「こんやりとりなんべんする気なんや全く……」
ぐすぐす水音を響かせる男の手を引いて、ウルフウッドは歩調を速めた。
「早よ帰って、あたたまんで」
「なにそれ……まさかお誘」
「ドアホ! 風呂入るちゅうことや!」
「ああそういうことね。一緒に入る?」
ウルフウッドに置いていかれまいと速くなった男が、顔を近くして聞いてきたので声をなくしていると、彼は逆に小走りになってウルフウッドを追い越した。引いていたはずの手がぐんと伸びて、ウルフウッドも地を蹴る。
「俺が先に着いたら、一緒に入るってことで。よーいどん!」
「いや、手、手ぇ離せや!」
誰もいない夜の道を男が二人手をとりあって先を争う。
恥ずかしげもなく、ウルフウッドは笑いをかみ殺して手が離れないよう男に追いすがった。
◆
再会した時は、いったい誰なのかさっぱりわからなかった。
ぽかんとしてただその黒髪と涙黒子をもった綺麗な顔の男を見上げていた。
そうしていると、その男は「薄情者」と辛辣な台詞とともに破顔して泣き崩れた。
ウルフウッドが六歳の時であった。
公園で一人砂場で遊んでいた。夕暮れ時まわりに人気はなく、自分の小さな体を声を上げて泣きながら抱きしめてきた男のことが、不思議と怖くなくて、呆然としていたのをよく覚えている。
ウルフウッドのことを迎えに来た――自宅は公園の真ん前だった――母親が公園に現れてその現場を見た時、どう思っただろう。悲鳴よりも早く怒声でもって「離れなさい!」と叫んだ母親に、泣きじゃくっていた男が慌てていた姿は滑稽そのものでウルフウッドは幼心にようやくその男がどこの誰かわかったのだった。
「トンガリ?!」
「嘘、思い出した!?」
仰天する子どもと見知らぬ男が、歓声を上げて再び抱き合うので、聡い母親は横に立ちつくしながらどういうことなの、と呟いていた。
そういうわけで怪しいという印象しかない男とウルフウッドは出会ったのである。
黒い髪をおろして、白いシャツに青いジーパン、緑とも青ともつかない瞳の色をした年齢不詳の若い男。左手は常に手袋をしていて、いつ何時もへらりとした笑みを絶やさない男は「ヴァッシュ・ザ・スタンピード」と名乗った。
「本当、突然申し訳ありません」
砂場の上で土下座をする男を母親は冷たい目で見下ろしながら、しかし誰かに見られたら大変だと思ってもいたのだろう、冷静そのものに言葉を吐いていた。
「なにか事情がおありのようですね」
「聞いてくれるんですか!?」
ヴァッシュが目を輝かせるのと、土下座する成人男性の傍から離れない実子とを見比べて、母親はため息をついた。
「子どもが怖がっていたら問答無用で現逮ですけども。とりあえず体を起こして、ベンチに座ってください。言い分を聞きます。でも△□▽◇に近づいたら殺しますので気をつけて」
「は、はい。……君のお母さんなんかすごいね」
仁王立ちする母親の前でヴァッシュがそう小声で言ってくる。ウルフウッドが「おかん、けーさつかんやねん」と教えてあげると男は青ざめた。母親からは「△□▽◇は静かに。お母さんの後ろにおって」とぴしゃりと告げた。
尋問は十数分で終わりを告げた。
ヴァッシュはなにも言葉を飾ることなく、正直に話していた。かつての友達であること、かけがえのない友人であること、再び会えて嬉しいこと。奇妙奇天烈な言い分を涙混じりに、どこか興奮したように言い連ねていく様は子供心にも不味い手法に思えてならなかった。もっともらしい嘘をつくことも、聞き手の顔色をうががい言葉を選ぶこともできていない、愚直さだけで突進しているような説明は、説明というには拙すぎる。ウルフウッドは途中途中、母を見上げて声を上げるしかなかった。
「僕の友達なんです、ウルフウッドは。初めての友達でした。いっしょに旅をして、笑ったり喧嘩したり、すごく楽しかった。ずっと昔のことだけど、忘れることなんて一度も出来なかった。それくらい強烈な奴だったんです」
「……あ、あんな、そういう、夢、みたいな。前世、みたいなあ……」
「まさかこんな、また会えるなんて。ウルフウッドも僕を覚えているなんて。こんなことが起きるなんて思ってもみなかった! すごい、本当にすごいと思う、信じらんないよ、嬉しくて、もしかして俺が夢見てるだけだったらどうしようって思っちゃう。でも、ほんとに昔と同じように、言ってくれた。トンガリって。懐かしい、その変な呼び名。後にも先にもそんなのお前しか言わなかったんだ、だから、だから特別になったんだよ俺にも」
「昔はな、髪の毛がとんがっとって……それで、トンガリって呼んでて。ああもう泣き虫なん変わっとらんな、泣いとる場合か今?!」
ここでもしも「やはり不審者極まりない」と烙印を押されたならば、もうヴァッシュと会って話すことは叶わないだろう。ウルフウッドは焦りを覚えながら、どうにかこうにか母親から信頼を得られないかと小さな頭でうんうん考えていた。
その間ずっと母の顔色に変化はなかった。
「なるほどね」
だんだんと、ヴァッシュが思い出話を引っ張り出してくるだけの時間になった頃に、母はそう切り出した。
「だいたいわかりました。ヴァッシュさん」
「は、はい!」
まるで氷のような冷たさを誇る声色で呼ばれ、ヴァッシュは背筋を正した。ウルフウッドも同じく、彼女の足下で気を付け、とばかりに直立不動の姿勢をとった。
「不思議なことがあるものですね。息子が、あなたのお友達だった人と同じ人だなんて……。信じられへんわ」
「そ、そうですよね。でも……!」
「でも、本当かもしれないとも思います」
ヴァッシュはぱぁっと顔を晴らすと、思わず立ち上がった。そして真剣そのものの顔で懇願する。
「お願いします。ウルフウッドとこれからも会うことを許してください。会って、ただ話せればいいんです。おかあさんが見張っていてくださって構いませんから、どんな条件があってもいい、またこいつと喋って、笑って、それで、それだけで……」
目尻をたらして男は声を詰まらせる。ウルフウッドは固唾を飲んで母を見上げた。
「……わかりました」
母は瞑目して、少しばかり諦念も含ませて承諾してくれた。
ヴァッシュは今にも飛び上がりそうな勢いで「ありがとう! 本当にありがとう!」と母の手を取った。ぎょっとする間もなく、華麗に、反射的に一本背負いの形で男の体を吹っ飛ばした母は、砂場に投げ捨てた男を見下ろしている。
「まだ、信用しているわけではありません。次は夫がいる時においでください」
「はい……」
砂の中から顔を上げて、男は目を閉じたまま何度も頷く。
その姿に既視感があって、ウルフウッドは場違いに懐かしさを感じていた。運転がど下手くそだったこの男は、よく乗り物を大破させて顔から砂地に突っ込んでいたっけ。
「ほんまに、トンガリなんやなあ」
記憶にはない髪型と髪の色だったから、どうにも決定づける要素がなかったのだけど、改めてヴァッシュ本人であることを確信したウルフウッドは尻餅をつく男に駆け寄った。母が「こら」とたしなめていたが、聞こえない。
「あーあー、大人が砂だらけになってもうて」
小さい手で男の体につく砂をはたき落としていくが埒があかない量だ。体のものは諦めて男の頬をこすることにする。砂を落として、顔をまじまじと見やった。
ああ、変わってない。変わってない。この目が好きだった。この顔が笑うのが一等好きだったのだ。
「トンガリ……」
ウルフウッドがそうささやいて、ヴァッシュは瞳を揺らした。
じわりと目の表面に水分が現れて、男は大きな両手でウルフウッドをかき抱きかけて、でも手を止めた。母の視線が痛かったのだろう。
「会えて、よかったなあ」
そう言うと、ヴァッシュも頷いた。
ウルフウッドは今日のところはそれで満足して母のもとへ舞いもどる。
母が無言で威嚇している間に、ヴァッシュは立ち上がり、深々と頭を下げてから公園を歩き去っていった。砂だらけで汚れたまま、しかしはっきりとした迷いのない足取りでどこかに歩いて行く。追いかけたい衝動に駆られたが母がそれを許さないだろう。ヴァッシュの姿が見えなくなってから母はひとつ息をついた。
ウルフウッドはそんな母親の顔を見上げる。
「おかん、おおきに。信じてくれてありがとお」
「……ほんまは信じられへんけど。トンガリってあんたがよく言う言葉やから」
「へえ?」
「あんた、二歳ん時かな、お風呂のヒヨコさんのことトンガリやって、言うとったよ。それによく変な夢の話しとったやろ? 砂の星がどうの、銃がどうの。それや、ってぴんときた。ああほんまに、昔の話しとるんやって。歴史で言うやろ、こん星が昔は砂しかなかったって」
「よう知らん」
「学校で習うから。ともかく、これからは気いつけなあかんよ。一人で会うたらいかんからね。あんたは賢い子やから、大丈夫やと思うけど。誰もいないところであん人に会ったら迷わずヴィーて言うアレひっぱって逃げるんやで! 友達やったからってまだあかんよ、おかあさん許してへんからね!」
その時、母のポケットで音が鳴る。携帯電話だった。
「おとんや。心配させてしもた、早よ帰らな」
母はそう言ってウルフウッドの手をとって歩き出しながら、携帯電話を取り出した。
家では生まれたばかりの弟の面倒を父が一人で見ているのだ。いつまで待っても帰ってこない二人にしびれをきらしたのだろう。
親に手を引かれながら、ウルフウッドはヴァッシュが消えたほうの道を見るが、彼の残滓はなにひとつ無かった。
「次はいつ会えるかなあ」
母にそう問うてみるが、電話で父と会話している母には聞こえなかったようだ。
すぐだといいが。ウルフウッドはそう祈りながら帰宅した。
小学校に通っている頃は、ヴァッシュとはほとんど顔を合わせる機会は無かった。
平日は学校に通っているし、土日になると共働きの毎日忙しそうにしている両親がなんとか休みをとって家族の時間を過ごすから、まだ小さい弟の面倒もあってウルフウッド自身にもヴァッシュに割く時間をつくることができなかった。というよりも、子ども心というものは流れる時間の速さにどうしても興味をもてないのである。
あれをしよう、これをしよう、と目まぐるしく生きている間にあっという間に時が経つ。
虫を追いかけている間に夏が終わり、運動会とともに秋が、雪遊びとともに冬が終わる。
春がやってくると新生活がやってきて新しい友達を作っては遊んでいるうちに一年が終わる。
そこに、ヴァッシュとの時間が入り込む隙が無かった。
それでもウルフウッドは特別気にしてはいなかった。親の監視のもと会う日が年に一、二度あったし、月に三通はヴァッシュから手紙が届くから。家族の次に出会う人間、という位置づけに満足していた。ヴァッシュもそれでよさそうだった。いつも彼は笑っていたし、寂しそうな顔など一度も見なかった。
ウルフウッドが小学校を卒業する時に、ヴァッシュは言っていた。
「君は未来を見る。これから会う人たちと生きていく。俺はもうそれは終わったからね、ただお前を見ていられればそれでいい。それで充分なんだ、それ以上のことなんてありはしないんだよ」
意味はよくわからなかったが、ウルフウッドは少しずつ背が伸びて彼の隣に並ぶのがいつも楽しかった。
大人になる頃にはきっと前のように彼と肩を並べることができるだろう。その日を夢見ると早く大人になりたい気持ちになる。
ウルフウッドは、昔の、ノーマンズランドの頃の景色を夢に見ることはほとんど無い。だがこのヴァッシュという男との思い出が眩しいものだという実感だけはあった。具体的な内容を問われると困ってしまうが、なにかと楽しい目にあったような気がする。だからきっと、この男と過ごす大人の時間は楽しいものになるだろう。それだけを信じていた。それだけを知っていた。
弟が生まれて十年が経った頃。半年後にはウルフウッドも高校生になる。中学校に入ってから野球部に入り、毎日日が暮れるまで練習に明け暮れていた日々もこの前終わりをつげた。
ぽっかりとあいた放課後の余暇にはまだ慣れない。
弟は学校が終わると学童で時間をつぶしていて、ウルフウッドはその迎えをするお役目をあてがわれるようになったが、正直あまり好ましい時間とはいえなかった。
ずっと忙しくしていたので、もう少しこの隙間の時間を楽しみたかったのだ。
弟を迎えに行くと家に帰らなければならない。もう少し友達と遊びたい時も自分だけ帰らなければいけなくて少し、少しだけ、不満だった。
そんな想いになると、自分がとたんに悪者になったように思えてウルフウッドは首を強く横に振り雑念を散らしていた。
良い子でいなければならない。
そうでないと悪いことが起きる。
最近になって、時折見る夢の雰囲気が変わっていっているような気がしていた。
以前は、ヴァッシュか、もしくは明るい女性二人組が現れては食事をしたり話したり移動したりしているだけの夢ばかりだったのに。
なんだか最近は違う気がする。いや、前から同じ景色であったとも思うが、ウルフウッドが成長したことで読み取りの解像度が上がっただけなのかもしれない。
延々と続く砂の大地が熱くて喉が枯れるような苦しいものであることに気がついた。
町にだどり着くと厄介な出来事に巻き込まれるが、その際の銃声が本物であることに気がついた。当たれば怪我をしかねないものがすごい速さで飛んでくるのだ、それを避けたりはじいたりしている自分とヴァッシュの技に惚れ惚れするとともに、恐怖もじわじわと感じるようになった。
きわめつけは、人を殴った時の自分の拳の痛みだ。悪い輩を殴ってスカッとするどころか、手は痛いし報復は怖いし、動き回るのは大変疲れるものなのだと、夢から覚めると冷や汗をかいている時もあった。
だから、少しずつ、ウルフウッドは眠ることが怖くなってきていた。
そのことを手紙に書いてヴァッシュに言おうと思ったことは何度もある。
でもヴァッシュからの「最近見た綺麗なもの、楽しかったこと、優しいものの話」を読むたびに、ウルフウッドの胸には陰がさす。こんな美しい手紙に、自分はよどんで暗い手紙を返すわけにもいかないだろう。
たかが夢の話を、どうしてこんな暗いふうに捉えるのだろうか。
それだったら起きている間の新しく見知ったものの話をしたほうがずっといい。
ウルフウッドは一度も夢の話をしなかった。昔の話をしなかった。
ヴァッシュもそれに合わせたように、昔の話をすることはほとんどなかった。
中学卒業直前。両親が弟と三人で旅行に出かけた。ウルフウッドは部活の集まりがあると嘘をついて一人家に残った。一泊だけのことだから、両親もそこまで心配していなかっただろう。ただ母の目はなにかを察しているようにも思えた。じと、と見つめられて目をそらしたのがいけなかったのかもしれない。母が小声で言っていた。「分別はわかるな?」ウルフウッドはただ重々しく頷くことしかできなかった。
誰もいなくなった居間に寝転んで、窓からの陽光を大の字で浴びていた。
「極楽……」
飯を食うための金は親がおいていってくれている。
つまり、自分で好きなものを選んで食べていいのだ。父や弟の嫌いなもの、アレルギーがあるものが出てこない食卓から解放されたし、普段家に無い菓子やジュース類に手を出したっていい。めったに食べられないピザとかドーナツとかだって予算内でおさまるのならばもちろん許される。テレビだってつけっぱなしでも怒られない。勉強をしろ、と注意もされない。
「最高……」
同じような言葉を呟いて、ウルフウッドはうっとりと目を閉じた。
それから数分経って、はっと我に返って目を開ける。いけない、眠るところだった。それではこの時間がもったいない。慌てて体を起こし、なにをしようかと模索する。
いつも時間に追われていた部活中心の生活によって、ウルフウッドはたいがい行動の終着点から逆算してなにをいつまでにするのか、とスケジュールをたてる癖ができていた。
だが、この時に限っては、そういった考えそのものからの解放を目論んで得た時間なのだと思い出す。
だから数十秒たっぷりとぼうっとしてから、また背中を床に戻した。
このまま寝たっていいんだ。昼寝だって有意義なものだ。
ふと、小腹がすいていることを自覚して平らな腹を撫でた。
買い物に行かなくては希望の食べ物は手に入らないだろう。
――誰か買うてきてくれへんかな。
なんてよこしまな考えが浮かんだ時、ウルフウッドはヴァッシュの存在を思い出した。
そういえばあいつにこの休みがあることは伝えていない。今は親がいないから本当は会うことは禁じられている。次に会う日も決まっていないが、一応まだ義務教育課程にあるうちはそういうふうに付き合おう、という暗黙の了解がヴァッシュと親の付き合いに存在するようであった。
だけど今は親は遠くにいるから。
ウルフウッドはごろりと横向きに体勢を変えて、キッチンにある家の据え置き電話を見上げた。
もしかしたら会えるかもしれない。でも急なことだから会えないかもしれない。
どうしよう、とウルフウッドは視線を彷徨わせる。
だいたい自分はあの男に急に会いたいのか? そう自問自答したら胸の中の声がすんなりと「そりゃあ会いたいとも」と答えてきた。あんまり即答だったので苦笑がこみあげるほどに、声は素直だった。
気がつくと起き上がって電話を手に取っていた。
自分から彼の電話番号にかけたことは数えられるほどしかない。それでも番号はしっかりと記憶していた。
あのヴァッシュ・ザ・スタンピードがスマートフォンを持っているなんて不思議だな、と笑いながら呼び出し音に耳を傾けていると、音は途切れた。
『はい、ヴァッシュですけど……』
彼の久方ぶりに聞く声は、おそるおそるといったふうだった。ウルフウッドの家から電話がかかってきたことに驚きと戸惑いがあったのだろう、親からのものかと思ったのかもしれない。
「トンガリ、ワイやけど」
『なんだ君か』
なんだとはひどい言い草だな。声に歓喜がなくてウルフウッドは鼻白む。
「今ええか、仕事中?」
『ううん、全然。いつも通り暇してた。最近仕事入らなくってえ、お前が言ってたアニメでも見ようかってDVDかりてきたとこ。見てる間ドーナツとかお茶とかあったら素敵だろ。それを買いに行こうかなあとか考えてただけだし。どうした?』
「あんなあ、実は」
ウルフウッドはそこで自分が言いかけている事実にはた、と声を止める。
今家に誰もいないから遊びに来ないか?
そんな普通の誘い文句が喉にひっかかって出てこない。何故か、とてつもなく恥ずかしくなっていた。
頬ががっと熱くなって、ウルフウッドは「あ、いや……」と言葉を濁す。
『? 実は?』
「あ、あー……」
『何? そういえばお父さんたちは? 』