図書館ネタの台葬(現パロ) 「あるところに一見すると完璧に見える、それはそれは見目麗しい高校生男子がいました。」
などとクラスメイトの女子に見つめられながら脳内で唱えられていることなど露とも知らぬ金髪の少年は、ぼんやりと窓辺からグラウンドを眺めていた。
放課後前のホームルームともなるとほとんどのクラスメイトが気もそぞろで、担任の話など真面目に聞いている者はほとんどいない。それがたとえ新入生の春先、所属する委員会を決める内容であっても、いやそれだからこそヴァッシュも含めやや怠惰な雰囲気に包まれた教室内では会議は膠着状態に陥っていた。
「立候補がいないようだったらじゃんけんとかで決めることになるけど」
と担任が仕方なさそうに、ため息まじりで一同を見渡している。
いくつかまだ空席が目立つ委員会が黒板に記されていて、ヴァッシュはぼんやりとその羅列する文字を眺めていた。
彼は知るよしも無いが、その彼自体の行動を見守っているクラスメイトが実は何人か存在している。委員会は基本的に男女一人ずつが所属することになるから、あわよくば眉目秀麗成績優秀、それでいて常に温厚極まりなくどんな人間にも分け隔て無く公平に接する優しい少年とお近づきになりたい女子たちが虎視眈々と彼と同じ委員会に所属したいと狙っているのだ。そのせいもあってもともと不人気であるいくつかの地味な活動内容である委員会に、立候補する者はおらず、担任や何人かの生徒たちが辟易している事態となっていた。
その時──彼を観察していた者たちにとっては──ようやくヴァッシュが手を上げた。
「じゃあ僕、図書委員になろうかな」
担任が顔を晴らしたのと同時に数名の女子たちが同時に手を上げた。獣の威嚇のように、彼女たちは音を上げ椅子を押し立ち上がり、我先にと立候補する。
にわかに教室内は騒がしくなって、図書委員枠の争奪戦がはじまった。
そんな喧噪とは一線を画して、ヴァッシュはまたのんびりと開け放たれた窓際の席で外を眺めている。
風がそよそよと吹いていて、気持ちがいいなあ、と暢気に思っていた。
放課後になるとヴァッシュの席の周りに人が集まるのは毎日見られる光景だった。
「ヴァッシュくん、委員会よろしくね」
席の前に立って微笑む女子に、ヴァッシュはふわりと相好を崩してみせる。
「うん。よろしく」
「なんで図書委員なの? 本、好きなの?」
横に立った快活そうな女子の問いに、ヴァッシュは照れたように目を細めた。
「一番人気なさそうだったから……誰かはやらなきゃだし」
「さすが、優しい~!」
「ヴァッシュが受付ならわたしも本借りに行こっかなあ」
後ろのあいた席に座り込んだ女子がそう言うと他の面々も頷いていた。
「あたし図書室行ったことないけど」
「うちも。マンガあっかな?」
「ヴァッシュくんは本読むの?」
「読みそう~。似合うし」
にぎやかに笑う彼女たちの中心で少年は困ったように笑っている。
「そんなに、読まないかな」
彼の返答がどんな内容でも彼女たちはさして興味がないだろう。どんな内容でも受け入れて同意をしてくるだけだ。ただ矢継ぎ早に交わされる会話の中で、少年の口数はどんどん減っているのだけど、その場の誰も気がつくことはなかった。
帰りたいのだけど周りを囲われていてどう切り出すべきなのか、少年は考えている。
帰るね、と素直に言うとこの者たちは当然のごとく同行してくるのだ。
何故、と思うし、助けを乞いたいのだけど。彼女たちの外側にいるクラスメイトはヴァッシュと目が合わないことが多い。とりわけ男子たちなどむしろ敵意を含んだ睨みを返してくるから、ヴァッシュはもう外部に助けを求めることは諦めていた。
──ああ、友達が、欲しいな。
微笑む少年はそう切実に思っていた。
委員会というのは多くの生徒が面倒に思うことであろうが、ヴァッシュの感情は一切動くことのない活動であった。
図書委員会が忌避される最大の理由は、図書室の受付当番が発生して放課後や昼休みという貴重な自由時間を拘束されることにあるのではないか。そのせいか、活動に慣れてきた頃から受付当番を放棄する生徒が現れはじめた。クラス関係なく決められたローテーションに則してヴァッシュが当番に来ると、同じ時間に来るはずの当番が現れないことがままある。ヴァッシュは必ず当番をすることが知れ渡っているのかもしれない。受付などたしかに一人いれば充分だ。そういうことだから、今日もヴァッシュは一人で当番をする。
「あの、探してる本があるんだけど」
「あ、はい。一緒に探しますね。なんていう本ですか?」
ヴァッシュ目当ての女子生徒は同学年だけにとどまらず最初の一ヶ月は大変忙しかったが、それもだんだんとおさまっていった。
図書室は静かで、テスト前でも無い今の時期は閑散としている。
受付台の中に座って、ヴァッシュは本を黙々と読んでいた。月に一冊、この当番中の時間だけで読みきることができるくらいの本を選ぶことにしている。ただ単にそうでないと暇だからだ。今まで読書にとんと興味が無かったから、読み切るたびになかなか誇らしい気持ちになるのであった。
「ああもう、またもう一人いない」
呆れた声を落としてヴァッシュの傍にやってきたのは図書委員長の女子であった。眼鏡の奥で憤懣やるかたないといった様子の目を光らせている。
「ちゃんと注意しとくからね」
彼女がそう言ってくれるたびヴァッシュは曖昧に笑うにとどめた。本音を言うと一人が気楽なので相方の当番はいつもいなくていいとさえ思っているのだが、それを告げることははばかられた。
彼女のことは嫌いでは無い。職務に忠実で、ヴァッシュ個人に興味が無い様子はむしろ好印象だ。当番中も無駄な会話は一切してこないから安心できる。
だが今日は珍しく声をかけてきた。下げかけていた視線を上げると、彼女は真面目そうな顔で言う。
「もっとお客さんが来るようにしたいんだけど、どうしたらいいと思う?」
そんな質問が自分に投げられるなど困惑以外のなにものでもなかったが、彼女から見ればヴァッシュは当番を文句なくこなすうえに読書好きの男子に見えていたのだろう。この当番以外では一切読書などしていないヴァッシュは、小首をひねるにとどめた。
「先生に考えろって言われてさあ。困っちゃうよ。読みたい人が読んで来たい人が来るだけでいいじゃんって思うんだけどさあ」
先輩女子はそう言ってうなっている。
「なんか良い案うかんだら教えて」
「……はい」
微笑むことで会話を終息させられたことに安堵しながら、ヴァッシュは再び文字に目を落とした。
休日、しとしとと窓を叩く滴をリビングの中から見つめていた。
手の中で震えたスマートフォンを見れば、メッセージアプリ内のグループでクラスメイトの女子が発言している。雨への文句と、本日の予定であるカラオケへの期待がつづられていた。
ヴァッシュはそれを既読してため息をつく。
クラスメイトの数人でカラオケに行くことになったことは、まだいい。誘われて断る理由が無かったのは事実だし、同行者の半分は男子であるから友人の集まりであるはずだ。だけどメンバー内の一人の女子が、どうも最近きな臭い。きな臭いというのは周りの反応もあってのことだ。数人で会話をしていたのにそれとなくその女子と二人きりにさせられたり、移動教室の時もそうだ、授業でペアを組む時もそうだ。こんなあけすけでは察しが悪い男だって気がつくのではないか、ヴァッシュは時折憂鬱になる。
好きでも嫌いでもない他人との距離を周囲の圧力で無理矢理縮められると、どうなるかわからないのだろうか。意識していなかったのに不快になってどうとも思っていなかったのに嫌いになるんだ。そしてそんな自分に嫌気がさして憂鬱になる。いいことなどひとつも無い。
「レム、図書館に行ってくる」
双子の兄がそう言って玄関に向かっていた。
「えー、雨降ってるわよ。ちょっと待って、送ってあげるから」
「別にいい」
「わたしもたまには行きたいから、いいの」
ソファに身を沈めながら、家族の応酬を耳にしていた。玄関前で立ちすくんでいる兄の眉間には皺が寄っていることだろう。義母は慌ただしく洗濯物籠をしまいこんでから身支度を整えている。
ヴァッシュはアプリに一文を送った。そして立ち上がり兄のもとへ歩み寄る。
「僕も行く」
対面した兄の顔は予想通りしかめ面であった。
「お前、用事は」
「なんか面倒になっちゃって」
肩をすくめてみせると兄は意外にも口の端をわずかにつり上げた。笑ったのだ。
「本読むのか?」
「知らなかった? こう見えて図書委員なんだぜ、僕」
「知ってる。似合わないことをはじめたもんだ。レム、まだ?」
「今行く! あら、ヴァッシュも? いいね。じゃ帰りに喫茶店寄りましょ」
義母が車の鍵をつかみ、外への扉を開けた。ポケットの中でスマートフォンが連続した通知のため震えていたが、見る気にはならなかった。
市内の図書館に到着した途端兄も義母も思い思いの目的に沿って行動しはじめたのでヴァッシュはすぐに一人になった。来館は初めてではないが、いつも付き添いで自分の意思で来たことはない。本を読む習慣が無いせいかどちらかといえば苦手意識さえあった。
でもそれが今日は違う印象を受けていた。学校の図書室に通うようになって慣れたためか本を読むようになって自信がついたためか。以前は疎外感さえあってなにをしたらいいかわからなかったけれど、今日は落ち着いて周りを見渡せる。
自動ドアを抜けた先はしんと静まりかえった空間だ。実際にはページをめくる音、人の足音、そういう雑多な音があるのにここはとても静かである、と思える。
入ってすぐのところにスタッフによりおすすめされた本が並んでいる。その隣は児童書のコーナー。雑誌のコーナーには席が多く設けられていてまばらに読書をしている人たちが座っていた。
子どもの笑い声があがって、大人がたしなめている声が続いた。そちらを見ると、奥の絨毯のようなスペースで床に直接寝転んで絵本をめくっている子どもがいる。親だろう、大人が一緒に座って子どもを眺めていた。へえ、こんなところがあったのか、と新しい発見に口元が自然とほころんだ。
ぶらぶらと館内を彷徨いながら、ヴァッシュは図書委員長である生徒の言葉を思い出していた。利用者数を増やすにはどうしたらいいか、ということのヒントでももしかしてありはしないかと、そう真剣ではないがぼんやり思っていた。
より奥まった本棚の間に兄がいた。脚立にまたがりなんだか小難しそうな医学書とかが並ぶところで本を何冊も腕に抱える兄を遠くから見るにとどめる。
また違う、カジュアルな本が並ぶところで義母を見つけた。手芸用の写真が多い薄くて大きな本が並んでいるところで彼女は真剣に本を選んでいる。腕まくりまでして本棚のすみからすみまで見ているから、こちらも声をかけずにおく。
さて、せっかく来たからには自分もなにか、一冊くらい見つけたいものだ。
そんな希望が湧くだけでもヴァッシュとしては新鮮だった。
つまらない、と時間が無為に過ぎるのを待つばかりだった自分とは少し変わったような気がする。今は、家族二人が帰る前に見つけなければ、見つけたい、とむしろ時間に縛られている。でもそれが悪いことではないように思えた。
入り口のほうへ戻っておすすめの棚を今一度見てみることにした。
図書館のスタッフというからには読書のスペシャリストであろう、ということは初心者の自分が選ぶよりずっと面白い本に出会えるに違いない。
ジャンルは様々であった。とりわけテレビドラマの原作になったものが何冊か並んでいるところを眺めていた。映像化されるくらいだから、大衆向けに面白いだろうと。恋愛には興味が無いから、サスペンスとかだろうか。ぼうっと眺めていると不意に声をかけられた。
「選んでやろうか」
いつの間にか隣にやって来た兄がにやりと笑んでいる。意地悪そうな顔だ。ヴァッシュはむっとして首を横に振る。
「いいよ。ナイが決めたのつまんなそうだし」
兄の手の中にある分厚い本をちらりと見る。どれも異国語で書かれたようなものでそらおそろしい。
「早く決めろよ、ヴァッシュ待ちだぞ」
「もう、うるさいなあ」
急かされても、別に本気で急いでいるわけではないからヴァッシュはのんびり本のタイトルを目で追っていた。あんまり長くなさそうで、話題性があって、できれば読後に気持ちよくなれるような明るい話がいい。
白くて細長い手が横から、目の前の本を一冊抜き取った。
「これおすすめよ、活劇ものなんだけどね、ドラマすっごく面白かったの。主人公と相棒のドタバタがもうすごくって、これどう?」
義母が跳ねるような声で言ってくる。広々とした青い空と雲が特徴的な装丁のその本に、ヴァッシュは苦笑した。
「じゃ、それにする」
「やった」
「レムが選んだのはいいのかよ」
「ナイよりは絶対いい」
兄に不敵に笑ってみせると軽く肘で小突かれてしまった。そして、急に腕の中に本を渡される。
「じゃあヴァッシュ、お前が全部かりてこいよ。図書委員が図書館も利用したことないなんて良くないからな」
「いいわね、よろしくねヴァッシュ」
義母も何冊かの本を渡してきて、ヴァッシュの両手はたちまちふさがった。
「こんなに借りれるの?」
「大丈夫。カード作ってもらうといいわ、こんなこともあろうかと学生証持ってきてるし」
「なんでレムが持ってるの……」
「あなたが鞄をリビングに放りっぱなしにしているせいでしょうね。はい行ってらっしゃい」
背中を軽く押されて、渋々カウンターへ向かうことにした。全く自分の家族は横暴が過ぎる。少し緊張しながらカウンターの前に立つと、首からスタッフ証らしきものを提げ着席している男性が顔を上げた。
「どうぞ」
「あの、初めて、です」
どう言えばいいのかわからないままそう伝えて、本を台に置く。男性の顔色はなにも変わること無く「カード作りますね」と妙ななまりで言ってきた。
「座って、これ書いてください」
「はい」
椅子に座ると大人の手がペンと紙切れを滑らせてきた。名前とか住所とかを記入する。学生証をいっしょに出して一息ついた。
「あ」
途中、男性スタッフが一声そう漏らして、どきりとヴァッシュは身を強ばらせた。なにか不備があっただろうか。
それは杞憂で、スタッフはにこやかに「これ、おすすめしたの自分で」とあの義母がヴァッシュに勧めた青空の本を見せてきた。
「ええよなこれ、ドラマ見ました?」
「い、いえ。でも家族が面白いって言ってました」
「せやろ。でもな、本のほうがおもろいねん。映像より文字のほうが勢いすごくてな。読んだらドラマも見てみ、絶対びびるで」
「はあ……」
本のバーコードを読み取りながら男はくだけた口調で笑いかけてくる。黒い髪に溌剌とした雰囲気の男性をこっそり観察しながら、およそ読書が好きそうなタイプには見えないな、と失礼なことを思っていた。
「はい、カードもできました」
「ありがとうございます」
手渡された利用カードにはたしかに自分の名前が印字してある。
「返却期限はこっちに書いてあるから。返すときはあっちのカウンターな。ご利用ありがとうございました」
微笑む男の言葉を皮切りに席を立ってヴァッシュは本の山をえっちらおっちら持ち上げようとする。すると、男がカウンター下からするりと大きな袋を取り出した。
「これに入れてってええよ」
「え」
「大丈夫、ワイの私物やから。返す時またこれに入れたったらええから」
私物と聞くと余計悪い気がしたが、男があっという間に派手な柄のビニール製の袋に本をつめてしまったので、ヴァッシュは持ち手を受け取った。
「ありがとう、ございます」
「いいえ。本の感想、よかったら教えてな」
ぺこりと頭を軽く下げて今度こそカウンターを離れると、次の利用者が本を持ってきていてスタッフと話し始める。
ヴァッシュはほっと肩の力を抜きながら家族が待っている入り口へと駆けた。
雨はそれから、しばらく続いていた。
あの日カラオケに行くことをキャンセルしてしまったことについて、翌日クラスメイトたちに謝罪すると彼らは軽く文句を言うだけで許してくれた。
しかし一人だけ、あの女子の元気が見るからに無い。
「ヴァッシュ君と出かけるの楽しみにしてたからね、あの子」
他の女子がちくりとそう、言ってくる。
言外に謝った方がいい、と言われているような気がしたがヴァッシュは彼女に謝罪をしなかった。全員に向けて謝罪したのだから、それで済んでいるだろうと思いながらもどこか後ろめたい気持ちにとらわれていた。時折クラスの隅で女子が集まってこちらを見ている気がする。そういう時はいつもあの女子が集まりの中心にいて、他の子から慰められているようだった。もしかしたらヴァッシュに怒っているのかもしれない。それで他の女子からも目の敵にされているのかもしれない。そう想像すると冷ややかなものに触れるようで少し怖かった。
ヴァッシュは女子のことが段々と怖くなっていた。いつも見られているような気がして、当番がなくても用事がなければ昼休みは図書室に足を向けるようになっていた。なにしろこのことを相談できるような友達などいなかったから。
誰も何も言わない。自分の空想で居心地が悪くなっているだけだ。そう思っても、やはり怖くていつしか笑うこともぎこちなくなっていた。
授業の合間、短い休憩時間も席に誰かが寄ってこないように、図書館で借りた本をすぐさま取り出して読みふけるようにした。本当は周りが気になって文字の上を目が滑るだけということもしばしばあったけれど、読書のフリをしているだけでも誰も寄りついてこないと知るとやめられなくなった。
「ヴァッシュくん、それ読んでるんだね」
たまにドラマか本か、知っている生徒がそう声をかけてくる。その時だけはヴァッシュはにこやかに対応した。だが、その後自分と喋ったその生徒が女子の団体に囲まれてなにか言われている姿を偶然廊下で目にしてしまってからは、それもしなくなった。
なにが正しいのかなにもわからなくなって、ヴァッシュは少しずつ殻にこもるようになっていた。それでも視線は常に、学内ではまとわりついてくるように思えて、いつしか視線も足下に落ちるようになっていた。
何も起きていない。変わったのは自分だけだ。
それなのに、息がしづらい。
快活で、仲間との会話にあふれていて、衝突してもまた仲直りして、他人との距離をつめていくことは、物語の中だけのことになっていた。
本は、とても面白かった。
返却期限が来て、ヴァッシュは一人で図書館にやってきた。家族の分も合わせて、借りた袋の中に全て入れて持ってきた。利用カードももちろん忘れていない。
返却カウンターに行くと以前の男性スタッフではなかった。袋を借りた旨を話すと、よくあることなのだろうか、スタッフはすぐさま合点がいったように承知してくれて受け取ってくれた。
次はなにを借りようか、と手ぶらになって館内を歩いていると不意に肩を叩かれた。
振り仰ぐと自分より背の高い、大人の男性だった。黒い髪に、スポーツが得意そうな顔立ちの男だ。あの袋を貸してくれた男性スタッフだった。
「あ、あの、袋ありがとうございました」
「ああ、あんなんええよ。ぎょうさん用意しとんねん。本おもろかった?」
「あ、はい。すごく面白くて」
ぽろり、と短い感想を述べるはずが、ヴァッシュは自分でも驚くほどに言葉をつなげた。この二週間あの本としか付き合っていなかったのだから無理も無い。あの本を読むこと以外一体なにをしたのか、どうにもうまく思い出せないくらいだったが本の内容はよく覚えていた。
つらつらと話していると、男は口にこぶしを当てて急に笑い出した。館内であるから声を殺している、が肩は震えている。こぶしからはみ出した口の端をヴァッシュはぽかんと見ていた。
「すまんすまん。兄ちゃんがあんまりにも感動したいうから、嬉しくて。今日もなんか本借りてくん?」
「は、はい。今選んでて」
「それワイが決めてもええかな」
「え?」
男は自分のスタッフ証である胸にさがるそれをつまんで見せてきた。顔写真と一緒に名前も書いてある。ニコラス・D・ウルフウッド。
「一応そういうんも仕事のうちやねん。一緒に考えたほうがええかなあ思ったけど、あ、誰かと来とったら邪魔やな」
ぱっと笑う男にヴァッシュはゆるく首を振った。
「一人なんで、べつに……」
「お。じゃあええか。んじゃまず同じ作者のな、新しいのが似てる感じでな」
男はヴァッシュの背中をやさしく押してから歩き出した。小声で話す男についていきながら、ヴァッシュは少し、わくわくしていた。
「じゃ、またなあ」
男がひらりと手を振ってくれるのでヴァッシュも軽く手を振り図書館を後にする。今日は鞄を背負っていたので、借りた本はそこに入っていた。
足取りはこの数日間で一番軽かった。
「ヴァッシュくん、今日の放課後、ちょっといいかな。話があって……」
小柄で可憐な女子生徒がそう指を絡めながら、ほのかに赤い顔をうつむかせて、震える声で伝えてきた。その女子生徒の少し離れた後方では数人の女子が応援のつもりかこちらの様子を見守っている。
ヴァッシュはうん、ともいいよとも言ったのか、覚えていなかった。
こういうことは今までに何度もあったけど、どうしてかこの時ばかりはひどく沈鬱だった。
授業中何度も家に帰りたいと思ったが、実行はしなかった。
放課後呼び出された場所に赴くと、その途中で応援していた数人の女子生徒たちとすれ違った。くすくす笑っていて、こちらを見ていたような気がした。
校舎裏で、女子生徒は「好きです。付き合ってください」と告げてきたが、ヴァッシュは日陰の肌寒さと流れる風が葉をこする音が不気味に思えることに思考を割いていた。
「ごめんね」
懸命に微笑んでそうことわってから、あとはなにを言おうかと頭をひねる。いつもは当たり障り無い言葉を重ねてなんとか誠実に対応していたけれど、この時は頭は空回るばかりで口はなにも台詞を吐くことがなかった。
女子生徒はほろりと涙を頬に落とすと、ぱっと駆けてその場から去って行った。
傷つけてしまったのだろうか。
でも、ヴァッシュはクラスメイトであるその女子生徒のことを何も知らない。名前くらいしか知らない。大変申し訳ないが、知りたいという欲求も無い。であれば、付き合うなど、できないだろう。だがそう端的に言ってしまえばきっと角が立つ。
「どうしたらよかったのかな……」
無表情にそうこぼした声は、風の音より小さくて儚かった。
「ヴァッシュくん、暗くなったよね」
「なんかいつも本読んでるし」
「あいつ誘っても来ねえんだよな」
「告白した子、ひどいフラれかたしたらしいよ」
「上級生と付き合ってるらしいって」
「かっこいいけど、ちょっととっつきにくいよね」
「綺麗だけど、怖い」
「友達いないし」
「いい人だったのに」
実際耳にすることもあれば、そんなふうに言われているような気がするだけの妄想であったりもする。
でも、一部を除いてはおおむね真実のような気がする。
学校にいる誰にも興味は無いから、冷たくて怖い人間なんだろうし。
誘われても行きたくないし。
友達はいないし。
いい人だったことなんて、一度も無いし。
一人でいても、案外平気であるから。ヴァッシュは今日も本を読んでいた。
◆
「最近よう会うてたな」
図書館に行くと会えるこの男性スタッフが、気づけば家族以外で唯一喋る相手となっていた。
そんな事実に恥ずかしくなることも、気落ちすることもあるけれど、彼はそんな事情は一切知らないのでヴァッシュは自己嫌悪しながらもたくさん図書館に足を運んでいる。
「本って面白いんだって、ウルフウッドさんのおかげで知ったから」
「そか。せやな。カード作った日は、君んこと見た時こいつ絶対本読まん奴やろって思うとったけど」
「あはは、それ僕も思ってた」
「はあ? 司書にむかってそれはないやろ」
「いやだって絶対そういう見た目じゃん」
「おい」
「煙草吸うし」
「煙草は関係無いやろ。本には匂いうつらんよう気ぃつけとる」
「そうだけど。でもやっぱこうして外で会うとほら、服に匂いついてる」
「仕事着にはつけんようしとる」
「そうだね」
「…………やめたほうがええかなあ」
「んー。でも僕は、この匂い嫌いじゃないよ」
コンビニの入り口でアイスの袋を開けながら、ヴァッシュはすんと鼻から息を吸った。隣の男の匂いがする。図書館の仕事が日中に終わった彼と、時折こうして時間をともにするようになった。そういう時男はひとつ、なにかおやつを買ってくれる。
「なら、まあええか」
灰皿の近くで、男は胸元から煙草を取り出した。
「高校生ん前で吸うんは慣れんけど」
「じゃあやめればいいのに」
「いやでも我慢もよくない。君はもう友達やから、ダチん前で自分ごまかしてもあかん」
くわえたままそう告げて、火をつけた。甘いような苦いような、変な匂いがヴァッシュの鼻に届いた。かじったアイスはたしかに甘い。
「…………」
夏も終わりに近づく頃だが、まだ昼間は汗ばむ陽気だった。アイスの冷たさが身にしみて、美味い。男のほうを見ると、同じくうまそうに煙草を吸っている。その首はしっとりとしていて一筋汗が流れ落ちていくのが見えた。
「あっつ……。夏休み今日で終わりなんやったっけ? また学校はじまったらこんな会えんくなるな」
からから笑う男に、ヴァッシュは無言を貫いた。すると男がこちらを見下ろしてくる。
「……がっこう、行きたないか?」
そんなことを聞かれたのは初めてで驚いて目線を上げると、男はもうこちらを見ていなかった。
「ワイなんか全然行かんかったわ。バイトせんと飯も足りんかったし、給食無いなら行く意味無かった。施設のおばちゃんにはよう怒られとったけど」
過去の悪行に思いをはせているのか、男はそれでも可笑しそうに笑っている。
「でもこうやって普通に大人やっとるし。学校なんかな、行きたないなら行かんでもええねん。君はこうやって大人と友達になれるんやから、コミニュケーションは充分とれる。人間できとる」
「唯一の友達は悪い大人だけどね。あと、コミュニケーションだよ」
「うざ……」
男のうんざりした顔を見て、ヴァッシュは声をあげて笑った。
晴れ渡る空を見上げながら、呟く。
「……学校は、嫌いじゃないんだ。ただ、学校からは嫌われてる気がしてさ」
「おん」
「だから、行くよ。行かない自分はなんか、嫌だし」
「強いなあ、自分」
「そんなわけないよ。……ウルフウッドさんと、本がいたから、大丈夫なんだ」
自分の首元が熱く感じられた。じわじわと頬も、赤くなっている気がする。
熱いのは、気温のせいだ。きっとそう。
隣の男がこちらを見ている。わかっていてもその時顔を見返す勇気がなくて、ヴァッシュは上空に目を見張っていた。手に溶けたアイスが到達しているのはわかっていた。
「──本読むんが面白いんなら、おどれは人間が一等好きってことや」
「え?」
「本は人間が生み出すもんやから。やから、大丈夫」
見返すと、真っ黒の瞳がこちらを見ていた。その瞳に自分が映っているのが見えた気がした。
「なあ。今度は、恋愛の本も読んでみん? ワイも苦手なんやけど……一緒ならええやろ」
大人の声は真剣味を帯びていたけれど、やわらかくてどこか、意地が悪かった。
ヴァッシュはごくりと生唾を飲み込んでから、必死の形相でこくりと頷いていた。
見上げた大人の顔も、赤くなっていて、二人はしばし見つめ合った後どちらからともなく恥ずかしさにくすくすと耐えきれず笑い出した。
ウルフウッドが大きな手で、ヴァッシュの金髪を撫でまわす。
「ふたりならきっと、大丈夫やから」
がしがしと照れ隠しか力強いそれに、ヴァッシュは振り回されるフリをしてうつむいていた。目からこぼれた滴が、相手に見えていないといいと願っていた。