ホラー 台葬現パロ 葬小学生なので注意⚠️…………
近所の寺で鬼ごっこをしていた日のことだった。
集まる子どもたちの顔ぶれはいつもと同じで、放課後から夕方過ぎの鐘が鳴るまでの間、彼らは気兼ねなく戯れている。
鐘が鳴ると、子どもたちは一人、また一人と帰宅していく。
引っ越してきたばかりのニコはそれが少し不満であり、寂しくあった。境内の砂利の中にぽつんと立つ大きな石にまたがって一人空を見上げていた。
ニコの両親は帰りが遅いから鐘が鳴った時刻に帰宅してもまだ家の中はがらんどうだ。まだ慣れない新しい我が家は子どもには少々息詰まるところがあった。
自宅が顕著なのかもしれないけれど、この国の家というのはどうにも部屋がひとつひとつ狭くて壁と天井が近く感じる。木で出来ているからだろうか、時折人がいないのにぎしりとどこかでなにかが軋むのも気味が悪い。一人きりでなければ気にはならないのだけど、両親が帰ってくるまでの小一時間がニコにはここのところあまり好きな時間ではなくなっていた。
「……あほらし」
硬い石肌を蹴って砂利に降り立つ。
放り捨てられていたランドセルを拾いかついでから、木々と笹でうっそうとした小道を通っていく。子どもが自宅への近道として使う分にはこの獣道は大変便利であったが、それを見つけた住職は以前やめなさいと叱ってきた。どうやらこの道は人が使うためのものではないらしく──それがどういう了見からなのかニコにはてんで意味がわからない──苔むした土や湿った草を踏んで、小さい地蔵がたたずんでいるのを横目に眺めながらそんなことを思い出しながら歩いていた。子どもであろうと納得のいく理由がなければいうことなどきくものか、叱られようとわざわざ近道を使わないという選択肢はなかった。
人でないものが通るとしたら、やはり手入れのされていない獣道であるから動物が通るのだろうか。しかしこの小道の出入り口には竹で作られた簡易的な扉が設置されている。それはいつも開かれた状態で紐で固定されていた。動物しか使わないとするならその扉を閉めるべきだと思うが、開いているからには誰かが通っているのではないか。動物は扉をくぐってしまえるが、人は扉が閉まっていれば、ここは通ってはいけないのだなと判断するだろう。ニコだってそうする。でも、住職曰くこの道は「人が使うためのものではない」。では一体誰が通る?
夏にさしかかろうという季節であるからか、田んぼ道は蛙の声で賑やかであるのに反し、この林はしんと静まりかえっていた。半袖の中に生暖かい風が吹き込んでくるのを脇で感じた時、背高の葉がざあとこすれあってかなりの余韻を残しながらニコの天上をなにかが通り過ぎた。なにか、というのはもちろん風のことであるけれど、足下に視線を落としながらとぼとぼ歩いていた子どもの視界には大きな陰りが通り過ぎたように見えた。引っ越してくる前に見た、炎天下のアスファルトに陰った飛び立つ飛行機のそれに似ていた。思わず小さな顎を上げて見上げてみるもそこには揺れている緑だけ。ぽつり、となにかあたった気がした。雨でも降るのかもしれない、となると尚のこと早く帰らなければならない。
葉の間からわずかに見える空は、既に朱色を含んでいる。夕焼けはここからではのぞめない。一層暗くなってきている林の中でニコはふと立ち止まった。
道は一本道であるが、こんなに長かっただろうか。
振り返ると前方と同じ景色が広がっている。静かな林だ。すん、と鼻をすすると濡れた草の匂いが強い。ほぼ毎日通る道がどうしてかこの日はやけにいつもと違うような気持ちになった。肩にくいこむランドセルの肩紐を両手で握りしめ、やや足早に進む。
静謐が耳の中に満ちてくることが気になり出して足音をわざと強めた。早足から、いつの間にか駆け出していて、後ろからなにかに追いかけられていると思い込みだす。
それははじめ遠く離れたところから現れた。
だが子どもの足よりかなり早く毛むくじゃらに覆われた体の中には長い足があってばたばたと高速に動くと一気に間合いを詰めてくる。緩やかな弧を描く獣道でそれはすぐさま背後に近づいてきた。
ニコは走りながら耳で衣擦れか石を蹴る音なのかなにか後方から音を拾った。それに恐怖を抱き意を決して半眼振り向く。
なにもいるはずがなかった。
いるはずがない、空想だ。
振り向きながら走っていたら突如林を抜けた。落ちて茶色に染まった葉に足をとられて盛大に尻餅をついた。体がそのまま葉の上を滑って小さな崖だったそこから横道にどすんと落ちた。
は、はと荒くなった呼吸のまましばし呆然としていた。路肩の側溝に落ちなかったことは幸運だった。落ちていたらもう少し怪我をしていたかもしれないし側溝の向こうは車道だ。今は車の通りが無くともそこに身を投げ出すことは恐怖でしかない。周囲に誰もいないことも僥倖だった。立ち上がって土に汚れた姿を見られたら恥ずかしい。背負っていたランドセルを一度下ろし汚れを手で払ったが跡が伸びるだけだった。衣服やむき出しの腕の汚れもここではどうにもなりそうになかった。諦めてまた鞄をかつぐとニコは歩き出す。
自分の想像によってふりかかった災難は自業自得でしかなく、子ども心にもかなりの屈辱であった。横断歩道を渡り家が建ち並ぶ区画に入ってすぐさま現れた自宅を見上げながら、苛立ち気味に親の駐車スペースと小さな花壇を通り過ぎて玄関にたどりついた。
首にさげた紐を引っ張り出して、鍵を穴にさしこむ。玄関の扉は重いので両手で開ける。滑り込んでから扉の鍵をしっかりかけた。
家の中は、やはり静かだった。
ニコはランドセルを玄関マットの上に置くと、今一度自身を検分した。土汚れを床に落としてしまったら母親が後でどう言ってくるかおおいに予想がついた。手で払える分は払ってから風呂場の脱衣所に向かい、てきとうなタオルを濡らして玄関に戻った。従兄弟からおさがりでもらったランドセルを拭くとタオルは茶色く汚れた。それは洗面台に放り捨てて、続けて服も脱ぐ。ポロシャツとズボンも同じく洗面台に放っておいてやっと腕をびしゃびしゃと水と石けんで洗った。土に汚れなかったタンクトップとパンツ、靴下という姿で鏡を見ると、あれと思い至った。
頬にぽつりと赤い点がある。指先で触れるとそれは消えた。代わりに付着した指の腹を見る。
「血……?」
痛みは感じないがどこか怪我をしてしまったのかもしれない。赤い汚れは水で流し、手ぐしで髪の毛をすいてみる。はらはらと落ちたのは砂汚れだけだった。
どこも怪我はしていないようだ、もしかしたら林の中でなにか虫でもつぶしたか、あるいはなにかの花や実でもかすめたのかもしれない。今思えば赤いから血かと思ったけれどそんなことはない気がしてきた。ニコはすぐさま切り替えると玄関でランドセルを拾ってリビングへの扉を開けた。
ランドセルは床に置いて冷蔵庫に向かう。喉が乾いていたのでなにか飲み物を手に入れようと思った。が、突如インターホンが響き渡る。びくりと肩が反射的に跳ねた。仕方なく冷蔵庫を閉めて玄関に向かおうとしたところで、今度は大きな音で電話が着信を告げた。
テレビ台に置かれた子機の電話がぴかぴかと光りながら着信音をがなりたてている。やかましさに足を止めたところで、音に重なってもう一度インターホンが鳴り響く。
ああもう。ニコは顔を歪めた。知らせを告げる音といっても重なると騒音でしかない。
テレビの前を通りがかる時に子機を拾いあげて玄関に向かう。
今一度インターホンが鳴る。来客者はどうやらせっかちらしい。
「そう何度も押すなや」
愚痴りながら電話の応答ボタンを押し耳にあてた。同時に、玄関にたどりつきさっき脱ぎ散らかした靴に足先をつっこんで扉の鍵に手を向ける。
『開けちゃだめだ』
電話の向こうからそう声がして、鍵を回そうとした指を止めた。耳に唇をあてて直接吐息とともにささやかれたような、生暖かさを耳介に感じて思わず受話器から耳を離す。
『 』
電話の聞き取り口からまたなにか声がしたが耳を離していて聞き取れなかった。
怪訝としながら手を扉から引っ込める。が、直後水平である鍵のつまみがぎしりと動いた。
「──へ」
鍵のつまみは、自動的に回っていく。呼吸を忘れてそれを見ていることしかできなかった。電話の向こうからはなにか声がしているが、そんなことは忘れてしまっている。
かちん、と小気味よい音をたててつまみは縦になった。玄関の鍵が開いたということになる。
ニコが息をつめ靴を放って玄関上に退がるのと扉が開け放たれたのはほとんど同時であった。
「ただいま~」
扉の向こうから現れた人物に、ニコはおおいに脱力した。仕事から帰ってきた母その人はくたびれた様子で玄関に入ってくると扉を閉め鍵をかけた。
「あれ、ニコも今帰り? おかえり」
疲労の見える顔を溌剌としたものに転換させて母は笑いかけてきた。ニコは硬直したまましばし母の顔を見つめた後、はっと我に返り手の中の電話を見て耳にあてた。通話は切れていた。同じ音が繰り返し聞こえるだけだった。
母とあたりさわりない会話をしながら、リビングに戻る。電話の親機へ向かい着信履歴を確認すると「非通知」と表示されていた。そしてもうひとつ、リビングの壁にそなえつけられたインターホンの受器画面を確認すると、たしかに母が帰宅する直前に押された履歴がある。しかしインターホン内のカメラにはなにも映っていなかった。
「なあ、おかん」
「ん?」
「おかんが来る前に誰か来よったんやけど、出られんくて。誰かおった?」
「ううん。なんだろね、またパパがなんか通販したかな」
まあまた来るよ、母はあっけらかんとそう言っていた。たしかに応対できなかった客は用事があるのならきっとまた来るだろう。ポストも後に確認したが何も入っていなかった。
「また、来る」
ニコはそう呟きながら思い出していた。電話で聞いた若い男の声が耳に残っている。まるでどこからか見えていたかのようなタイミングで告げられた指示は、ぞっとするようなことであったけれど不思議と怖くなかった。
母には一応伝えようと思ったがなんだが変な目で見られそうだったのでやめた。そしてその日の不思議な体験は寝て起きた時にはすっかり忘れていた。
翌日、同じように放課後寺に行くと知らない男性が他の子どもたちと一足先に遊んでいた。
「え、だれ」
手近な友人にささやくとその子どもは首をかしげる。なんだか知らないが優しくて面白い、と他の子どもが言っていた、という曖昧な情報は手に入れた。
「ニコと同じで外国の人だろ、友達になってきなよ」
子どもの発言にニコはため息をつく。
「世界にどんだけ国があると思うとんのや、わいからしたらみんな外国の人やしそれでひとくくりにされたらたまったもんやない。知らん人と遊んだらいかんておかんは言っとったで」
友人はニコの言葉に反応を示さずさっさとその見知らぬ大人の輪に加わっていった。どうやらかくれんぼをするらしい。その大人が鬼のようで子どもたちが境内に散っていく。
木の幹に向いて視界を遮断しながら数を数えている大人の背を、ニコは遠巻きに呆れたまま見ていた。金髪に赤いパーカー姿はたしかにこの国の大人らしからぬ格好だ、余計に怪しくて参加する気にはまるでならない。帰ろう、とランドセルを拾いあげたところで地面に陰がさしていることに気づき顔を上げると大人が仁王立ちしていた。反射でびくりと体が反応したことが恥ずかしい。
「帰るの?」
陽光を背負っているため表情が暗く見えない、丸いサングラスの向こうに目があるはずだがそれを確認できなくてニコは半歩後退した。すると男の朗らかな顔が陽の下に現れる。目の下に黒子があるのが印象的ないかにも好青年でニコはさらに警戒を強めた。
知らない人と話をしたらあかんっておかんに言われとるので、と口に出そうとしたがそうしたら話しのきっかけになってしまう。しかし無視をしてはいけないだろう、とニコは子どもながらに考えて頭をひとつ下げた。ランドセルをかつぎ踵を返す。
いつもの開きっぱなしの木柵をくぐったところで男の声が背中にかかる。ためらいまじりのそれは優しい声で思わず足を止めそうになった。
「そこは、よくないよ」
振り返ってはいけない気がして結局無視する形になってしまった。
連日晴れているというのに空を覆うような葉だから、踏みしめる土は湿っぽい。
いつもよりもずっと早く帰宅することになってしまったので忌々しくて、朗らかな顔を浮かべていた大人の顔を思い出し舌打ちをした。
「よくないなら、扉閉めればええやろ!」
誰もいない空間を荒々しく進みながら。子どもの怒声が響いていた。
帰宅して一人でテレビを見ていた。
特に面白くない。なにも心に響かない。
腹が減っていたが母はあまり食べ物を買い込まないので、ニコは水をコップにそそいで飲んでいた。
椅子に座って、ぼんやりと輝く液晶を見つめている。
引っ越してから父はほとんどニコと顔を合わせなくなった、仕事が忙しく夜中に帰ってきてすぐまた出て行くらしいから仕方ないとはいえ、たまに寝ている自分を起こしてでも顔を見せてくれればいいのにと思う。
そして学校はどうなのか、友達はできたのか、勉強はついていけているか、そんなふうに聞いて欲しい。そうしたら笑って全部大丈夫だと答えるから、偉いなと一言でいいから褒めて頭を撫でてくれれば、いいのにと詮無きことを思う。
母も毎日仕事続きで、きっと疲れている。ニコはそう賢いわけでもないと自分を評価しているからせめて母の負担が少ないようにと、日増しに口数を減らしていった。母が今日はなにがあったかと聞いてきたら当たり障りのないことを、さりとてつまらなすぎて心配をかけさせない程度の刺激を含めたねつ造の体験談を語る。
本当は、日常にそう変化など訪れないことを子どもだって知っている。
学校に行って、授業を受けて、友達と会話しただけの一日が続いている日々でも、大人は口をそろえてそれが幸せなのだと言ってくるから、到底そう思えなくても成る程これ以上の幸せはこの先得られないのかと自分を納得させる。
想像の中だけなら不思議なことが起きたり、とんでもない事件に見舞われて物語のような活劇を体験したっていいと思うから、普通の幸せな日常にほんの少しスパイスという名の嘘を取り入れて母に話す。これがまた好評らしく母は安心した顔で話を聞いているから、ニコはこれでいいんだと思っていた。
そんな毎日だ。
つまらない、退屈で、なにかが足りない。
なにが足りないのか知らないが、不満が埃のように心の隅にたまっていく。
だんだんと部屋の中が暗くなってきたので電気をつけてカーテンを閉めてまわっていると、インターホンが鳴った。
またか、となんの気なしに思ってから、壁にくっついているインターホンカメラの通話ボタンを押す。
「は──」
はい、と声をかけようとした声がひたりと止まった。
黒い画面がボタンを押すとぱっと外を映すのだが、そこに、なにか映っている。
画面の下半分、人影のような丸みをおびた、頭頂部のように見えるがカメラにぐっと近くて判然としないそれに、ニコは口を開けたまま見入った。
ゆらゆらと揺れているその人影らしきものが、まるきり黒に染まっている。
背後は夕焼けに染まっている。赤の中に半円の黒い陽炎が揺らめいている。
これは、人か? インターホンを押したのだから人でしかないだろうに。でも人はここまで黒いだろうか、ここまで、揺れるものだろうか。
ぴんぽーん、とまた大きな音が響いてぎょっと我に返る。ニコは今度こそ応答した。
「は、はい。今、開けます」
通話を切って、玄関に向かう。母はいつもこう言って玄関を躊躇なく開けて宅配人を受け入れていた。でも、もしこれが宅配でなかったら、とわかっているのに相手を待たせていることのほうが怖くてニコは靴に足先を入れた。瞬間、電話の着信音に動きを止めた。
家中に響き渡る音に振り向いて固まる。
昨日も同じ事があったことを思い出していた。
電話に出なければいけないが、客が扉のむこうで待っている。
どちらを優先すべきか迷っていると、三度目のインターホン。電話はひっきりなしに鳴っている。
二つの音にひっ迫されてニコは呼吸をつめた。思い浮かんだのは母の顔だった。昨日のように、帰ってきてほしいと心底願った。その気持ちがニコに靴を履かせた。玄関の鍵のつまみに指をかける。
電話が鳴り止む。煩わしい音が消えて、ほっとしたと同時に玄関の扉を開け放った。
「おま」
お待たせしました、と大人のまねごとで口から自然と言葉が出ようとしたのに、目の前に立っているものに唖然としてそれは途中で切れた。
自分と同じくらいの背丈だけれども、黒いなにかが立っていた。人間の形をしている、でも全てが黒塗りでところどころに朱色が乱雑に混じっている色味の、ゆらゆら揺れる薄いなにかがいた。
喉がひきつって悲鳴が勝手にニコの口から漏れる前に、それは俊敏な動作で文字通り地面を滑ってニコの横を駆け抜けた。リビングにさあっと入って姿を見失う。
驚愕は声にもならなかった。玄関口に尻餅をついていたことに今やっと自覚したほどだ。
家に、なにか入った。動けないニコの横で玄関の重い扉が手を離したことで閉まっていく。がちゃり、という音が大きく聞こえてはっと顔を上げると鍵のつまみがまるで巻き戻し再生のように回って水平になった。鍵が自動的にかかった。
自分の視界が信じられなくてニコはふらりと立ち上がり鍵を開けようとつまみをひねるが、うんともすんとも動かない。
「どあ、あかない」
事実が口からぽろりと出る。でないと、理解が及ばない。ここから外には出られない、ということを飲み込むのに時間を要した。
開けっぱなしのリビングへのドアの向こうで、動きがあった。電気がふっと消えたのだ。
家の中は薄暗くなった。厚みのあるカーテンのせいでまだ夕焼け時であろう外の光は家の中に届かなくなった。ニコは自分が震えていることに気がつく。そろっと音を出さないように動いて玄関の電気をつけようと靴を脱ぎ上がって、スイッチを押す。かちっと小気味よい音がしたことに息を飲んだ。頭上の電気は光を灯さなかった。電気はつかない、何故だかはなにもわからない。
でも、あの入ってきたアレのせいだろう、ニコはそうわかっていた。わかっていたが信じられなくてスイッチに手を触れさせた体勢のまましばらく固まっていた。落ち着け、落ち着け、落ち着け、心の中で何度も唱えてみる。
リビングのほうから、かたり、と音がして壁を睨んでいたニコはゆっくりと目を見開いたまま振り向いた。リビングへの道が異様な空間に見える。
ここにいてはいけない。それだけはわかっている。
浅い息が荒くならないよう細心の注意を払いながら、一度覚悟を決めるために強く目を閉じて開いた。
視界いっぱいに黒い人間の顔が近づいていて今度こそ悲鳴をあげた。ニコの目をのぞくように眼球がすぐそこにあって白目すら黒色で脳裏にその景色がこびりついた。
ニコの絶叫が終わる前に黒いなにかは目の前からかき消えていた。
わあ、わあ、わあ! ともう理性もなにもない恐怖しかない声を上げながらニコは玄関の下駄箱を開けて中から懐中電灯をひっつかむともつれる足で二階への階段を駆け上がった。
足が全然思うように動かない、靴下のせいか床が非常に滑る。寝室に入り急いで扉を閉めて、クローゼットの扉を開け滑り込んだ。中からなんとか扉を閉めて、暗闇に身を潜める。
怖い、怖いと奥歯ががちがちと鳴るから、これでは見つかってしまうと空いている片手で口をふさぎ思い切り強く歯を噛み合わせた。
やはり、アレは人だ。でも影のようにぺらっぺらでそこにいるようでいなくて、漆黒の姿がとてつもなく気味が悪い。
幽霊? 妖怪? なにがなんだかわからない。でももう、あの目を見たくない。黒くて開かれていて。なのに形が崩れていた、まるで失敗したゆで卵のようだった。母が勢いよく鍋に投入したせいでどこか割れてしまったまま熱湯であぶられた崩れた卵のような。人間の目ってあんなふうに形が崩れるものだろうか、ものすごい勢いでとんかちで殴ったらああなるのだろうか。想像してぞっとする。
ばくばくと心臓が高鳴る。反して手は異様に冷たかった。暗闇の中、荷物に埋もれるように身を隠している。耳がきいんと奥でなにか鳴っているようで、それでいてとても聴覚が鋭敏になっている気がした。緊張でなにもかもが過敏になっている。
ぎし、ぎしと聞こえる。
階段を上がってきているんだ。
ニコはその音に全神経をもっていかれるようだった。息をひそめて祈る。頼むから、なにもしないから、どうかこの部屋に入ってこないで。お願い。
祈りはむなしく。
扉が、開く音がする。すぐ近くで聞こえた、間違いなくこの寝室の扉だろう。
まばたきも忘れて、ニコは震えながら目の前の荷物の山を見つめていた。母は片付けが苦手な人だ、いつか片付けると言っていたけれど、いつになるだろう。どうでもいいことが頭の端をよぎる。足音が部屋の中をうろうろしている。出て行ってください、ニコは祈り続けた。冷や汗が止まらない。
足音が止んだ。
聞こえなくなったのではない、このクローゼットの前で止んでいる。
思考も時の流れも凍りついた。
クローゼットの扉がことさらゆっくりと開いていく、ニコの震えは大きくなる。開け放たれて、大きな人影がニコを見下ろしていた。
「みつけた」
見開かれた両目から滂沱の涙が流れるままに、膝を抱いて震えたまま、ニコは人間の声を聞いた。
そこに立っていたのは寺で出会った金髪の男だった。薄闇の中でもわかるシルエットだった。
男はしゃがみこむと優しげな声で「怖かった、かな」とニコに言った。
ニコの眼球がようやく自律活動を思い出して、まばたきをしてから男の姿を下から上と検分した。男は今の状況にあるまじき明るさで申し訳なさそうに頬をかく。
「勝手に入ってごめん。君のことが心配で。用事が終わったらすぐ帰るから、許してくれるといいな」
口の中はからからで舌が使い物にならなそうだった。ニコはまだ動けない。
男は手をひらりと振って「ああ、君はそのままでいいよ」と告げる。
それから立ち上がって部屋を出て行こうとした。
「あ……」
舌の根をなんとか動かして、ニコはクローゼットから転げるように床を這って出る。
「ま、まって」
不審者であるには違いないのに、今は一人になることが怖くてたまらなかった。
足を止めた男は頬を濡らし震える足ですがりつこうとしてきた子どもに再度膝を折る。
「そっか、ごめん。一人は怖いか」
いけないいけない、と忘れ物でも思い出したような気軽さで男はニコの頭を撫でてから脇に手を差し入れた。そのままひょい、と軽々とニコを抱える。折った片腕に座らせるように抱えるから、ニコは男の金の髪にすがりついた。人肌のあたたかさに莫大な安堵を覚える。
ニコが取り落とした懐中電灯を男は拾い、電源を点けた。すっかり暗くなって闇に染まっている家の中をそれで照らしながら、男は無防備に部屋を出る。
それに恐怖したニコが震えたからか、男は言った。
「帰る家を間違えたみたいだね」
「……?」
「もう一人の子さ。家に帰りたいんだと思うよ、君についてきちゃって家を間違えたんだ」
「あ、あの、黒いの?」
「そう。まあ、多分だけど」
あはは、と男は愛想笑いを浮かべた。ニコの頭の中は混乱している。
男は家の中をあてどなく彷徨って、やっとリビングのダイニングテーブルの近くで足を止めた。
「ほら、みつけた」
灯りを向けた先、テーブルの下にあの黒い人影の片鱗が見えてひっとニコは声をあげかける。だが、灯りに照らされた円の中に現れたのは、人間の足だった。黒くないいたって普通の形をした、裸足の子どものものだった。そのまま光を滑らせると、身をちぢこませた子どもの半身が照らされて、その人物は眩しそうに腕で顔を覆ったから男はすぐに電灯を消した。
「君の悲鳴に怖くなって隠れてたんだね」
ニコは呆然とする。まさか、それは自分のことだ。この勝手に入ってきたものが同じように怖がって隠れていたなんて信じられなかった。
「それじゃ」
男はニコを床に下ろした。まだ暗い家の中が怖くて男の腕が離れるのはわびしく、男の背後にひしっとつかまる。男はやんわりと、そのニコの小さな手を取り払った。
「僕はあの子と一緒に帰るから。もう、大丈夫だからね」
また頭をぽんぽんと撫でてから、男は身をかがめてテーブルの下に潜り込んだ。そうして誰かと二言三言話してから、黒い影の手をとって連れ出す。
テーブルの下から出てきた二人から、ニコは壁まで後じさって退避した。男が手を握っているなにかは直視したくなくて目を極力細めた。
男はリビングの大きな窓に向かい、カーテンを開けて呆気なく窓の鍵を開ける。ふわりと風が外から舞い込んだ。外は夜になっていたようで暗かったが、はためくレースカーテンは月光を反射しているのか淡い黄色に見えた。大きく揺れるカーテンの内側で男がニコに振り向いたようだった。
「お邪魔しました」
ざあっ、と葉が擦れ合うような音が響いたかと思うと、風が止みカーテンが動きを止めて。そこにはからからと開いた窓だけが残されていた。不審者も奇妙な影もかき消えていた。
ニコの頭上でリビングの電気がぱっと灯る。何事もなかったように。
床にずるずると力なく尻をついて今まで見たものはなんだったのかと呆然としていた。ほどなくして、玄関の鍵がかちりと開いて「ただいま~」と心の底から求めていた母の声が聞こえる。ニコは思わず玄関へ駆けだして困惑する母の胸に飛び込んだ。
放課後、寺で遊び終えた友達が帰宅していく。
最後の一人になったニコは、獣道の入り口で立ち止まっていた。
「そこ、よくないよお」
突如かけられた声に顔を上げると、怪しい男がにんまりと笑ってニコを見下ろしていた。橙の丸いサングラスを見つめながら、ニコは思いのほか冷静に男に問う。
「あの、子どもって、なんやったん」
「……」
男は少し考えてから、まいっか、と小さくこぼした。
「この道を抜けたとこ、車道でしょ。あそこで、車にね……。君と同じようにこの道を使って家に帰る子だったみたいだよ。だから、間違えちゃったのかな」
「この道って」
「霊道って、知ってるかな。お寺にくるイロンナお客さんが使うものだからさ。君はあっちを通ろうね」
男が指をさしたのはしっかり整備された歩道だった。少し遠回りになるが帰路にはつける。
ニコが頷くと、男は嬉しそうに破顔した。
ランドセルを背負い直し歩道へと足を向ける。
男はついてくるでもなく、ただ「怖がらせてごめんねぇ」と言ってきた。
だからニコは振り向いてきっぱり言う。
「おんなじ子どもだったんなら、怖くなんて、ない。あん時びびらせてごめんって、言っておいて」
「……わかった」
「あと、おにいさんも。ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をすると、男は目を丸くしてから、うなり声をあげた。
「ほんとのこと言うとさ、ちょっと僕のせいでもあって」
「なにが?」
「君、霊感とか無いだろ。あの時僕の血がつかなれければなあ。体質変えちゃったかもで、ちょっと申し訳なく思っててさ」
「なんのこと?」
「まあまたなんかあったら、ちゃんと行くから。罪滅ぼしもかねて。ね」
「なあ、なんのこと?!」
男はにこりと笑んだまま立っている。
なにか不穏な気配を感じて、ニコはその男の顔をまじまじと見ていた。