百合を手折る指先を染めて 晶は、がらんどうになった魔法舎を歩いてまわっていた。
たったひとりだけで歩く廊下は、その絨毯が足音を吸収し、静けさをより際立たせる。賑わいのあった食堂や談話室も華やぎをうしない、大きな窓から差し込む明るい陽光によって、家具や柱に寂しげな影が落ちる。訓練室もまた静かで、使う者のない道具が棚の中で整列していた。
大いなる厄災との戦いは、終結した。二十一人の魔法使いが誰ひとりとして欠けることなく戦いに勝ち、この世界は永遠に救われたのだ。
それは喜びと共に称えられ、国、いや、大陸中で祝われた。
賢者の魔法使い。それは、忌むべき存在の集団ではなく、この世の救世主たちの代名詞となった。英雄の姿を見ようと人々が、魔法使いたちが集い、歓声が上がり、安堵と歓喜に満ちた笑顔は何よりも素晴らしかった。
そして祝いの後で、昨日まで『賢者の魔法使い』と呼ばれていた英雄たちは、それぞれの国へと帰って行った。晶はいま、彼らが帰ったとの魔法舎をひとり歩いている。
厄災を打倒し、魔法使いたちから『賢者の魔法使い』であることを示す百合の紋章が消えた。その時、晶もまた賢者ではなくなった。本当にただの、ひとりの人間に戻った。役目もなく、ただの真木晶になるのは、随分久しぶりなことのように思えた。
そんな、『賢者』と呼ばれ世界のために尽力した若い娘を心配して、魔法使いたちは自分たちの国に来ないかと誘った。
「晶ちゃん、我らの屋敷においで」
「晶様、ぜひ神酒の歓楽街へお越しください」
「晶様、我がグランヴェル城へどうぞ」
「晶様が良ければ、ブランシェット領でゆっくりしてください」
「晶、雲の街はどう? いいところだよ」
晶は、どの誘いも嬉しくて、彼らの好意がくすぐったくて、けれど誰の手も取らなかった。
「ありがとうございます。もう少し、魔法舎に居ようと思います」
誘いを断った晶を責める者は誰も居らず、魔法使いたちは魔導のエレベーターの扉が閉まる最後の瞬間まで、彼女を気にかけていた。
晶は魔法舎の中庭に出た。この中庭で、魔法使いたちとたくさん話をした。楽しい話も、切ない話も、中央に置かれた噴水はいつでも彼らに寄り添っていた。その水面は、落ちる水で揺れて、覗き込んでも晶の顔を映さない。
いまどんな顔をしているのか、分からなくて良かったと晶はほっとした。そし、自分の狭量さに苦笑いをして、噴水の淵に腰掛ける。
この世界は救われた。もう誰も、世界の崩壊に怯える必要は無くなった。それは、異世界から来た晶にとっても喜ばしいことだ。この世界が救われるために、手を、心を尽くして来たのだから。しかさ同時に、寂しさが募る。魔法舎での賑やかな生活は、元の世界に戻れないことの寂しさを埋めていたが、しかしそれは永遠に戻らない。この世界で、魔法使いたちの助けがあれど、晶には身寄りはなく、ひとり生きていかねばならない。
そして、もう『賢者』ではない。
魔法使いたちは、晶が賢者ではなくなっても親切に、気にかけてくれた。誰の手をとっても、優しい日々が待っていたことだろう。だが、『賢者』にならなかったら、はじめからただの人間として、魔法使いの彼らとであっていたら、彼らの長い歳月において、自分は路傍の石だったろうという事実が頭によぎる。
彼らが、自分を『賢者』ではなく『晶』と呼ぶその優しさに、怖気付き、誰の手も取れなかった。この魔法舎での日々の中であんなに、優しさを分けてくれて、心を大切にする彼らと過ごして、その気持ちが嘘ではないことを知っているのに。
いや、だからこそか。自分の気持ちに、嘘がつけなかったのだ。怖気と、なにより、心の底に潜んでいた熱を無視することできなかった。
どこから来たのか、猫が、晶の足元に擦り寄ってくる。
「撫でさせてくれる?」
晶がそうたずねると、猫は言葉がわかったかのように膝に飛び乗る。亜麻色の毛の猫。その柔らかな毛を撫でるにつれ、賢者という役目で心の奥底に閉じ込めていた、ひとりの魔法使いの姿が過ぎる。目深に被った大きな帽子から見える亜麻色の癖毛に、色のついたサングラスの奥から真っ直ぐに正義を見つめる紫水晶の瞳。
東へ向かうエレベーターが閉まる直前、晶は、ファウストを咄嗟に見てしまった。湧き上がる熱に、突き動かされて。魔法使いたちが去るまで、誰に対しても誠実な『賢者』でありたかったのに、隠していた思慕が顔を覗かせてしまった。ファウストの瞳が驚きに見開かれたのを、思い出す。
途端、眼前がおぼろに揺らぐ。涙が溢れてくる。賢者ではない、ただの真木晶はこんなにも涙脆かったのかと、驚かされた。
猫が心配そうに晶を見上げてきた。小さな足で、晶へ触れてくる。
「心配してくれるの? いい子だね」
しかし、猫はにゃあとひと鳴きして、晶の膝を降りて行ってしまう。猫が去った後の中庭には、ただ噴水の音ばかりが耳に届く。空は薄雲が広がり、先ほどまで中庭を照らしていた陽光が翳りはじめた。風はざわめき木々を揺らすが、晶の濡れた頬を乾かしはしない。
魔法の時間は終わったのだ。
晶はそのことを実感し、立ち上がる気力も湧かず、噴水の水を見つめていた。相変わらず、晶の顔は映らない。どんな顔をしているのか、自分でさえ、わからない。
これからどうしよう。
でも、きっと生きていける。
この痛みも、ひと晩眠ればまた凪いでいく。
仕事を探さないと。賢者ではない自分にできる仕事を。
「晶」
そう、晶。真木晶として。
でも、この世界でアキラという名前は目立つだろうから、偽名を考えないと。ライカ、あるいはキアラなんてどうかな。文字を入れ替えただけでも、充分それらしくなった気がする。
「晶!」
不意に腕が掴まれる。
「えっ」と驚いて声を上げ、振り返った先には、紫水晶の瞳があった。
「ファウスト……?」
「僕以外で、この魔法舎に陰気な呪い屋がいるなら教えて欲しいけど」
「どうして魔法舎に? 帰ったんじゃなかったんですか?」
「君こそ、どうしたの」
ファウストは、指先で晶の濡れた目元を拭う。
「あはは、ちょっと、寂しくなっちゃって」
笑って誤魔化そうとしたが、ファウストの真剣な目に見つめられて、晶の作り笑いは消えていく。
ファウストは晶の腕を放すと、服についた皺を伸ばすようにそっと撫で、晶の隣に腰掛けた。
ファウストは、長い裾が邪魔だろうに、しかし器用にも脚を組んで、その上に両手を置いた。その手が落ち着きなく、組まれたり、離れたりする。
ややあって、彼は口を開いた。
「……嵐の谷の精霊が」
しかし、その言葉の続きが容易に出てこない。
晶は先を促すように「はい」と応えた。
「……君の撫で方を、いたく気に入ってて」
嵐の谷の精霊は、可愛らしい猫の姿をしている。なので晶はつい猫のように接して、精霊たちを撫でさせてもらったことがある。
「……君を連れて来いって、うるさいんだ」
ファウストの言葉に、晶は思わずくすりと笑った。涙は、とっくに引っ込んでいた。
「精霊がですか?」思わず、揶揄うような声が出る。
ファウストは答えず、「元気が出たなら、顔を洗っておいで」と言った。
晶は隣に座るファウストの服の袖を、ぎゅっと掴んだ。
「ありがとうございます」
「君の、あんな眼差しを受けて、ひとりにできるわけがないよ」
静かな優しい声が晶の心に響いて、温かく広がっていく。それを味わうように、晶は目を閉じた。
ファウストが、袖を握る晶の指をほどいて、優しく手を握った。温もりが指の先から広がっていく。
風はいつの間にか凪いでいた。薄雲の隙間から日が差して、いく筋かの光が中庭を照らす。
目を開けた時、晶はその光のひとつが照らすものを見た。中庭の隅にある花壇。そこへいつか若い魔法使いたちと一緒に、晶は球根を植えた。その球根から花開いた白い百合が、陽光に輝いて浮かび上がっていた。
晶は立ち上がると、その百合に近づいた。強い、甘い香りが鼻に届く。白い花弁の中で、黄色い雄しべが鮮明だ。
晶はそれを、一輪手折った。手折る時に下手をして、花粉が手についてしまったが、気にせず、それを持って噴水へと戻る。
「これを、ファウストの家に飾ってくれませんか」
晶は、百合をファウストに差し出した。
「この百合を……?」
「はい。私が植えたんです」
ファウストは、花粉で汚れた晶の手を見た。晶の白い指が、黄色く色付いている。その指の上に、ファウストは手を重ねた。
「君が飾って。僕は一番いい花瓶を探すから」
晶は、微笑んで、頷いた。