【ブラレノ】「また今度」は遠くない。 まとまった小金の用意ができたから、近いうちに飲みに行かないか。
そうレノックスから切り出されたのは、ブラッドリーの誕生日から暫く経ってのことだった。
バーでの飲み代を賭けた勝負も、先送りを理由にした食事代の請求も、どれもが相手の同意を得ずにブラッドリーが勝手に押し付けたようなものだというのに。『俺の財布が耐えられるといいんだが……』と苦笑いを浮かべるだけで、これといった拒絶もしない。そんな彼は良く言えば気のよい相手であったし。悪く言えば、絶好のカモでもあった。
忘れたふりをされたって、ブラッドリーには『酒の席の出来事だしな』と不問にする懐の深さを見せるつもりだった。だというのに律儀に自分から話題を蒸し返し、奢る前提で進めていくあたり、相当に根が真面目であるのだろう。だからと、相手から金を出すと申し出てくれているのを、わざわざ止める道理もなかったが。
「おい、どこまで行くんだよ、羊飼い」
ざくざくと、石畳と靴底の合間の小砂利が擦れて独特の足音を響かせる。
元々、魔法舎にあるシャイロックのバーではじまったやりとりだ。なのでブラッドリーは当然のように、その後の出来事も同じ場所で展開されるのだろうと思い込み、そう信じて疑っていなかった。
しかしレノックスの提示した集合場所とはその予想を裏切るものであったのだ。
言われた通りに中央の国のエレベーター前で落ち合った後、今は男二人で並びながら、活気の薄れかけた市場を歩いている。
露店のほとんどには布が被されて、店員不在の光景なので当たり前ではあるものの、目ぼしい商品もすべて姿を消している。人の姿と引き換えに、街灯や酒場の明かりの主張は増してきたが。まだ賑わっているとも言えないような、中途半端な偏移過程だ。その退屈な光景と行き先の分からない散策への不満を、とうとうブラッドリーが零した時。彼の視線よりも高い位置で、レノックスは苦笑いとも取れるような、眉尻を下げた薄い笑みを浮かべていた。
「そう遠くはないんだ。箒で飛べば、ものの数分も掛からないけれど。小腹を空かせるんだったら、十数分くらいは歩いたってかまわないだろう」
聞き取った言葉と、これまでの行動や時間の経過を並べていく。箒を使ってほんの数分で移動できるだろう範囲と、現時点の現在地を頭の中で重ねれば、目的地が思ったよりも近いだろうことが容易に分かった。だからといってその数分を沈黙で過ごしたいかと問われたブラッドリーの答えは、当然のように否となる。
「引きこもりの老人じゃねえんだ。たったの十数分歩くくらい苦じゃないさ。ただ、話が弾む相手が隣にいればの話だけどな」
一人であることは嫌いではないし、苦手でもなかったが。だからといって彼は、沈黙や孤独を極端に愛しているわけでもなかったのだ。
「……面白い話ができるように、精一杯務めさせてもらう」
握りこぶしまで作って、気合は十分。そんな生真面目な男の仕草を、ブラッドリーは早速鼻で笑ってみせた。レノックスというこの大男は南の国の魔法使いらしく、非常にのんびりとした毒気のない性格をしていたが。元はグランヴェル王朝発足以前の中央の国出身の、革命戦士だ。今の仕草はどちらかといえば、所属よりも出自の方が、〝らしさ〟というものがしっくりくる。
「なら、リクエストに応えてくれよ。フィガロの弱みが分かるような話を聞きたい」
「……酒がミチルに見つかって叱られないように、最近は良いやつを俺の部屋に隠している話とか?」
「ガキを恐れるフィガロの話をどう面白がれっていうんだよ。……けど、なるほどな。おまえの部屋を漁れば出てくるのか、フィガロの秘蔵の酒とやらが」
「……すまないが、盗まないでくれ。先生の小言は、妙にねちっこくて嫌なんだ」
そこの性格だけは、北の国のフィガロが使う魔法と同じらしい。安堵と言えるだけの大きな感情の変化はなかったが、僅かな機微に触れた心地をブラッドリーは覚えた。
それにしても盗賊相手に『盗むな』などと、レノックスは可笑しなことを言う。
羊飼いである彼は、羊の世話を放棄しろと言われて、果たして言われた通りに従うことはできるのだろうか。肩を小さく上下させれば「面白かったか」と抑揚の少ない声が尋ねてくる。
「話の中身はともかく、おまえの言動は愉快だったぜ」
「……? そうか、ならよかった」
「ああ、それに免じてフィガロの酒は、狙わないでおいてやるよ」
とぼけたような顔の通り、ブラッドリーの意図は理解できていないのだろう。それでもひとまずは胸を撫で下ろした様子のレノックスが、ふと足の歩みを遅めていく。脳内に描いた行動予想範囲と、現在位置がとうとう重なりはじめたことに、次いでブラッドリーも気が付いた。
「ここか?」
レノックスの視線の先にあったのは、市場の大通りから数本外れた路地にある、小さな看板の店だ。中央の国らしい賑わいはなく、どちらかといえば東の国の隠れ家的な料理屋のような、静かで小ぢんまりとした印象を受ける。
「羊飼い、おまえはよくこの店に来るのか?」
「賢者の魔法使いに選ばれてからは、たまに。その前からこの店のことは知っていたんだが、南の国にいる間は行く機会がなかったんだ。……きっとブラッドリーは気に入ると思う」
「どうかな、俺は舌が肥えているから、味にはうるさいぜ」
「それでも、気に入るさ。……どうも、お邪魔します」
カラン、コロン。扉の開閉と共に、入店を知らせる鐘が鳴る。「いらっしゃいませ」と声をかけてくれたのは、壮年期の終わりに差し掛かっているだろう、白髪の上品な女性だった。彼女は眼差しを細め、瞳に穏やかな弧を描かせた後。はっと、何かに気が付いたかのように目を見開く。
「あら、レノックスさん!」
その瞳に宿っているのは、外見の雰囲気には似付かわしくないような、きらきらとした眩しい輝きだ。懐かしさに浸るだとか、好奇心に後を押されただとか、そういった類よりも。当の昔に封じた思い出が、ひょんなことからすべて湧きあがってきたような。若々しい力に満ちている。
「友人を連れてきたんだが、二人で食事をしても?」
「ええ、もちろん。そのためのお店よ?」
「それもそうだな。あと、これを。土産というのも変なんだが、良ければ受け取ってくれないか」
<フォーセタオ・メユーヴァ>。レノックスの呪文が、彼の低くて穏やかな、心地良い声に乗せられて響いていく。いつの間にかその手には温かな色彩の可憐な花束が握られていて、そのまま彼女の前へと差し出された。
「罪な男だな、おまえも」
「何の話だ?」
先ほどと同じく、とぼけるというよりも本当に分かっていないのだろう。腹芸は、中央の国の人間が得意とはしないことであるのだから。花束を受け取った女性はといえば、愛おしそうに、傷ついた心の寂しさを隠すように、瞼を伏せて、口もとに柔らかい笑みを浮かべているというのに。
ブラッドリーの見立てでは、この店主は魔力を持たない人間だ。それでいて南の国の魔法使いであるレノックスの知り合いならば、出身がそちらの国なのだろう。
幼少期にレノックスに恋をして、叶わない思いを諦める決意をして、何十年ぶりかの予期せぬ再会に思わず浮足立ってしまった。頭の中に、すぐにその筋書きが浮かぶ。
恋愛の話は流石に真偽の確かめようがなかったが、出身や顔見知りの理由に関しては、ブラッドリーの想像と寸分違っていなかったようだ。南の国で生まれ育った彼女は、ひょんなことから中央の国の男と知り合い、この国に嫁いできたのだと。席へ通されている合間に、丁寧にレノックスは彼女のことを紹介した。
「へえ。なら旦那は行商人か、学者か、土木関連ってところか?」
反対に南の国の彼女が外の国まで出稼ぎに行って出会ったパターンは、まずないだろう。金銭を外で稼いだところで、開拓途上の国に戻っても出来ることなどたかが知れている。逆に中央の国から南の国に行く機会の方が、幾通りも想像できたのだ。
しかしブラッドリーの予想に反し二人は首を横に振る。レノックスが言うには、彼女の夫は若い頃から城勤めであったらしい。
「まあ、その話はまた後にしよう。先に飯を食わないか」
「それもそうだな。でけえ口を叩いたくらいだ、俺様の胃を満足させてくれるんだろ?」
「もちろんだ、任せてくれ」
外観の印象と同じで手狭だが、逆にこれくらいの方がこの店――のことは、ブラッドリーはまだあまり知らないが。少なくとも南の国の出身である店主――の醸し出す雰囲気には合っているのだろう。中央の国らしい大人数での宴会じみた賑わいよりも、家族の付き合いじみた少人数での温かさの方が、よく似合う。
レノックスの奢りで、レノックスの勧めた店に来たのだ。折角なので頼む料理と酒も、ブラッドリーは彼に託すことにした。
それならば、と。メニュー表をブラッドリーに見せないようにしながら、レノックスは指先で店主に注文を伝えていく。「これらを、二つずつで。それと彼の分は、野菜を少なくしてくれないだろうか」と付け加えたのはレノックスなりの気遣いであったのだろう。
「そこは入れるなって強く言え」
すかさずブラッドリーは釘を差す。煮込み料理であれば、味のコクにも左右するのでその存在をまだ認められたが。葉野菜などは、もってのほかだ。
「あらあら」と、それを聞いた店主は上機嫌そうに微笑んでいく。食べ物の好き嫌いをする子どもを、生温かく見守る眼差しと同じだ。居心地の悪さと、その柔らかい善意に強く当たれない調子の悪さ。それらに僅かに苛立って、ブラッドリーは舌打ちをする。
彼女は目の前にいる男が、レノックスの知り合いであるとしか知らないのだ。
ブラッドリーが彼女よりもはるかに年上の、北の国の、大盗賊団の首領をしている魔法使いで。今は囚人の身という末恐ろしい存在だと知ったならば、どれだけ腰を抜かしてしまうのだろうか。ブラッドリーはそう想像することで自分自身をあやそうとして、失敗し、いっそう口元を歪めさせた。
驚くには驚いても、それだけで。マイペースに温かな料理を用意し、食べさせようとする彼女の姿。それがブラッドリーの脳裏に浮かんだ映像だ。
ブラッドリーの知っている南の国の人々は、全員がそうではないにしろ、大半がそうであったから。いつだって調子が崩されて、気を立たせているほうが馬鹿馬鹿しくなってしまう。
「……酒は、頼んだんだろうな」
「ああ、南の国のウイスキーを。知り合いが材料を下ろしている酒なんだ、銀河麦と、寒がりコーンを原料にしていて……」
「ガロン瓜は?」
「白だ。俺の好みになるが、香りの良さは保証するよ。……ブラッドリーは、食事の時は水割だったか?」
「正解。よく見ているじゃねえか、流石だ」
ブラッドリーの賞賛を受け、レノックスは小さく微笑んだ。
仏頂面で、何を考えているのか分からない、ぼうっとした毒気の無い男。それは出会った頃にブラッドリーの抱いた印象で、後者は今も変わらないが。思ったよりも表情はよく変わるし、考えていることも案外分かりやすいとそのうち知った。
今も喜んでいるのだと分かったが「オズ様にも、以前似たようなことを言われた」と返されれば、ブラッドリーは反応に困るしかない。
「おまえ、肝が据わってるよな」と呆れるに留め、その状況については深く考えないことにした
「――はい、おまちどおさま」
街の中を歩いている時よりもよほど弾んだ会話の最中、店主の声が割り入ってくる。
テーブルに置かれた深皿には、真っ赤なトマトの赤みに彩られたラプンツェル豆と、ひき肉の姿が見えた。スパイシーな香りはきっとサンダースパイスによるものだろう。
この料理の味と名前を、ブラッドリーは知っている。
「チリコンカンじゃねぇか!」
南の国の郷土料理で、何年か前に出会ったのだ。
「この店のチリコンカンはちょっと酸っぱくて、俺も好きなんだ。南の国から取り寄せている月光樹の実と完熟のグランデトマトが、俺の舌に合うのかもしれない」
「ん、本当だ。こいつは……、うまいな」
「だろう?」
ともすれば憎たらしくも感じたかもしれない、レノックスの得意気な表情が気にならない程度には。素直に、ブラッドリーは舌鼓を打っていた。
メスのオアシスピッグとレインディアーの合い挽き肉こそ、ブラッドリーの好みに反して少なめだったが。その分ラプンツェル豆の仄かな酸味が全体の味に馴染んでいる。
チリコンカンは南の国の郷土料理に関わらず、市場に出回るその材料の多くは中央の国や東の国を産地とするものが多かったはずだ。これまでに食べたものよりも味が馴染み、美味いように感じたのは、発祥となった土地の食材に拘っている影響もあるのかもしれない。
「それから、こちらも」
続いて通された料理に、再びブラッドリーが笑みを浮かべた。
「ロリトデポロか、いいな」
「前に食べたいと言っていただろう」
「……まあ、この味じゃないんだけどな。でも美味いもんは美味いからな、いただくぜ」
スライスされたオスの宇宙鶏に巻かれている食材は、ブラッドリーのリクエスト通り葉物野菜が避けられている。オアシスピッグのベーコンであったり、レッドジュエルビーンズであったり。スペクターフィッシュもその一員だ。それらを串で刺し、焼いて、最後にグランデトマトベースのスープで煮込む。手間はかかるが南の国の家庭の味で、ちょっとしたお祝い料理でも振舞われるものだ。
ナイフとフォークで上品に食べるのではなく、そのひと切れを一口で頬張る。その豪快な食べ方に反して、ブラッドリーの舌は繊細に料理の味を拾っていく。「うまい」という感想が脳から直接口元に流れ、そのまま外に零れていった。それから、チリコンカンの時から薄々感じていて、信じられずに口にするのを憚っていた。「懐かしい味だ」という、有り得ないはずの感想も。
「……おい、羊飼い。まさかここの飯屋って……」
店主も含めて三人しかいない空間だ。声を潜めたって、あまり意味はないと分かっていたし。大きな声で交わすべき話題に配慮をするだなんて生温い人付き合いも、普段であれば心掛けなかったが。相手は北の魔法使いたちではなく、脆弱な人間なのだから。どうしたってブラッドリーは、その微かな良心を捨てられなかった。
ブラッドリーにとっての南の国の郷土料理は、思い出の味だ。昨年石になってしまった南の国の魔女と築き上げた、もう二度と巡り合うことはないだろうと諦めていた、美しい記憶の中の。
「あのばあさんの、娘だったりするのか?」
――そう、予感してしまえば。眼差しであったり、表情や声であったりといった諸々が、かすかに面影を有しているようにも見えてしまう。レノックスはブラッドリーの疑問を否定せず、「流石ブラッドリーだな、気付くのが早い」と肯定した。
ばあさんと言ったって、それでも、ブラッドリーにとっては遥かに年下だと予感はしていた。幼馴染の人間と結婚して先立たれたと聞いていたが、その娘がまだ存命しているような、そんな若さだったのかと。改めて衝撃を覚えてしまう。
ここの店主が中央の国の城の役人と結婚した話も、納得だ。今のブラッドリーたちがクックロビンやドラモンドといった城の重鎮たちと交流を持つように、南の国の魔女が彼らの仲を取り持ったのだろう。
それから、レノックスが贈った花も。あれは店主に宛てた気障ったらしいものではなく、骨の代わりとなるべきマナ石すらも回収できなかった魔女の死を悼み、遺された者の心を安らげるための贈り物であったのだろう。
「気に入ったか?」
自信はあると、元々豪語していたが。それにしたって反則技だ。ブラッドリーは他人を手のひらで躍らせることは好きであっても、自分が躍るのは好まない。だからといって自分の心に嘘を吐きつけて平然としていられるような、そんな魔法使いでもいられなかった。
「機会があれば、また来てやってもいいと思うくらいにはな」
* * * *
「…………はぁ」
互いに腹を満たして、酒も十分に堪能して。すっかり上機嫌で店を後にしたブラッドリーと対称的に、レノックスは心底落ち込んだような。暗い表情を浮かべていた。始終ピンと伸ばされているはずの背中が僅かに丸まり、そのせいで元々見えづらい赤の双眸に、髪が一層厚く掛かっている。
「そう落ち込むなよ羊飼い。シケた面を見ていると、美味かった飯が台無しになる」
「でも、だからって……。こんなに情けないことがあっていいのかと」
一時は静寂に寄った中央の国の大通りだが。今は心地の酔いに任せて、愉快そうな声を上げる人々の賑わいに満ちている。そんな中でレノックスの姿は、図体の大きさだけでなく、周囲との陰陽のギャップもあいまり、とにもかくにも目立っていた。
「……奢るつもりで来たのに、財布がないだなんて」
「あっはっは、気付いた時の羊飼いの顔、傑作だったな!」
バシンと、ブラッドリーの手がレノックスの背中を強く叩いた。普段であれば感想と非難を混ぜたような『痛い』という言葉でも、その唇から漏れたかもしれないが。今のレノックスにはその気力もないようだ。
懐かしい味を二人で堪能し、店主も交えた南の国の魔女たちの、思い出話にも耽って。腹も心も心地よく満たされたので、そろそろお開き――というタイミングで。レノックスは、自身の失態に気付いたのだ。いつも財布を入れているジャケットのポケットに、その膨らみがないということに。
「しかも、奢るつもりで奢られてしまうし……」
「格好悪いったらありゃしないなぁ?」
そう煽りながら、ブラッドリーは自身の肘を、レノックスの落とされた肩へとかけていく。普段であれば格好の付かないだけの身長差があるはずなので、彼の落ち込みようはそれほど深いものなのだろう。
「次、こそはだ。次こそ先送りにしないし、財布も無くさない。だからブラッドリー……、また俺と食事をして、今度こそは奢らせてくれないか?」
「……俺様と〝次〟の予定を作るために、わざと財布を忘れたのか?」
「そういうわけではないんだが……」
「ははは、臍を曲げるなっての。そう疑っちまうくらい、自然な誘われ方をしたと思ってな」
ブラッドリーはそのままレノックスの耳に手を添えて、ぼそぼそと小声でつぶやいた。
「ごちそうさん。次もおまえの奢りなら、俺だって断らねえさ。いつだって誘えよ?」
パッと手が離されて、ブラッドリーがレノックスの数歩先を歩いていく。人混みが徐々に少なくなったところで彼の手には箒が現れて、そのまま宙へと舞い上がった。
「俺は先に帰るぜ、行きと違っておまえと仲良く連れ立つ必要はないしな」
「ああ、気をつけて。俺は……やっぱり、魔法舎を出る時には財布を持っていたと思うから。探せる範囲で、街を見てから帰ろうと思う」
「わかった。じゃあな、羊飼い。約束はしないが、てめえの言ったことはちゃんと守れよ!」
そう言い残し、ブラッドリーが夜空の彼方へと飛んでいく。その姿が星か、あるいは空かに飲まれて見えなくなった頃。レノックスはもう一度、踵を返して大通りを見た。
普段であれば、ここに入れているはずなのに。情けない自分の姿を反芻し、反省するように。ポケットへ布越しに手を添える。そこで強烈な違和感に気が付いた。空白になっていたはずのそこに、何かしらの、質量の存在を感じたのだ。
「え……?」
慌ててポケットに手を差し込めば、そこには手に馴染む革の感触が確かにあった。先ほどまで、あれだけ探しても見つからなかったはずなのに!
取り出してみても、やはりそれはレノックスの失せ物そのもので。こんなに呆気なく、情けない話のオチで良いのかと。再びレノックスは気落ちした、その瞬間であった。
「次も……次、〝も〟?」
次もおまえの奢りなら。ブラッドリーの発言が、脳裏をよぎる。まさかと財布を開けば、肌身離さず持っていたとすれば、有り得ないだけの額の紙幣がしっかり中身から消えている。その被害総額は、おそらく――さきほどの飲食代とよく近似しているはずだろう。
「そういえば、先生の酒〝は〟狙わないとも言っていたな……」
やられた、と。脱力こそしたが。先ほどのような気の落ち込みは、感じない。くすくすと小さな笑みを零しながら、レノックスもまた遠く離れたブラッドリーの姿を追うように、箒に跨り夜を駆けた。
「俺だって、次が楽しみだ」