【ブラレノ】盤上の彼らと僕ら 陽が沈み、忌々しい月の光に支配された世界の中で。その男は月を背に、中庭に立ち尽くすようにして何処かを見上げていた。
太い縁の眼鏡と重たい前髪に遮られた、赤い瞳に乗る感情。それは安堵のようでもあり、驚愕のようでもあり、嫉妬や羨望のようでもあったが。ただ寂寞を秘めているだけにも見えた。きっとどれも間違いではなかったし、どれか一つが真というわけでもないのだろう。人間の感情は、何か一つで支配されるほど単純なものでもなかったから。
どれ、と。彼の視線の先を追っていく。見上げた先の一面の藍色の中には、曇り空の色をした靄と、花火にも似た光とがまばらに散っていたが。彼の目当ては空ではなかったのだとすぐに知った。正しくは、初めから分かっていたが改めて理解した。
男が――レノックスが眺めていたのは、魔法舎の屋根の上で晩酌をする二人組の青年の姿だった。どちらも東の国の精霊に気に入られた魔法使いで、普段は口数も多くなく、羽目を外すこともない。そんな彼らが楽しそうに笑う声が微かに聞こえる度に、レノックスの赤い瞳は細まり、普段はあまり動かない口元も柔らかく弧を描く。
『幸せそうだ』と誰かがその姿を評すれば、周りは皆が賛同したことだろう。しかしブラッドリーの目にはそうと映らない。
その眼鏡や前髪と同じだ。ちくちくと棘を刺す感情を押し隠す、薄っぺらいベールのような覆いに守られている。そうでなければ、彼の感情に寂寞が含まれている意味を説明できなかった。
「羊飼い」
呼べば、いつだってこちらを一瞥した視線も。二人の姿に釘付けになったようにして動かない。「おい」と語気を強くすれば「聞こえている」と返事がした。それでも、彼はブラッドリーを見ようとしないままだったが。
何を見ているんだ、と。答えの分かり切った問いを投げかける気は毛頭なかった。代わりにブラッドリーが尋ねたのは「楽しいか」というものだ。自分が在りたかった場所に、他人が収まっている様を見るのが。自分が見たかった表情を、他人が引き出した様を見るのが。そうだとすれば随分と自虐的な趣味だと、鼻で笑ってやるつもりだった。
「どうだろう、でも、嬉しくはあるよ。だって、俺はずっと、あの人の心の安らぎを願っていたから」
それだけを、願い続けていたから。
そうともレノックスは続けていく。青白い光をレンズが吸い込むせいだろうか。燃え滾る情念の色をした瞳が、少しだけ不健康そうにも見える。
「嘘つきだな」
「何がだ?」
「てめえの願いは、それだけじゃねぇ。だったら何百年も、たった一人のことを探しはしないからな。今のは建前で、本音はもっと意地の汚い、自分本位の、相手の都合から目を逸らした願いを抱えているんだろう?」
指摘にレノックスは目を丸くして、しかし「それもそうだな」とすぐに受け止めた。
自分の美化した感情を、決してそうではないと図星を指されれば腹のひとつでも立てそうなものなのに。この男はいつだって、ブラッドリーが意地悪く放った言葉をなんてことのない表情で受け流す。
それはブラッドリーにとって面白いことではなかったが、懲りずに繰り返してしまうことには理由がある。それこそ指摘されれば、ブラッドリーは容易には認めず、へそを曲げたに違いないだろう。
「……ファウスト様は、俺が会いたくて仕方がないと、勝手に想いを募らせていた相手だったんだ」
「そういや何十年も前に聞いたことがあるぜ。図体のでかい魔法使いが、魔法舎にまでやってきて、人探しをしていたことがあったって。あれはお前か?」
「そう……かもしれない。確かに何度か寄ったことがあったから」
だとすれば随分な執念だ。この魔法舎は双子の結界によって守られていて、普段は人々の視界から姿を眩ませているはずであったから。その結界を掻い潜ったのか、それとも結界の主たちから気に入られていたのか。可能性は複数過るが、どちらも、レノックスであれば有り得そうな話でもあった。
「会えてよかったな」
「そう、だろうか。俺はあの方が生きていることを信じて、一目だけでもと、再会を祈り続けていたけれども。あの方も願っていたかは分からないし、そもそも……」
「向こうは会いたくなかったかもしれない、ってか?」
深く、レノックスは頷いた。傷ついたような感情を、今度は隠しもせずに。
「もしそうだって言われたら、流石にちっとは凹むよなぁ」
「……」
「なんだよ、その目」
「いや……ブラッドリーに、共感してもらえるとは思わなくて」
失礼なやつ。
そうブラッドリーが悪態吐けば、レノックスは僅かに表情を緩ませる。会話がはじまってから、やっと、視線がファウストの姿から離れて。ブラッドリーへと向き直った。苦しみを少しだけ吐露できた。そんなほっとしたような、肩の力が抜けた案外幼い表情を浮かべている。
「思うんだ。顔を合わせれば、昔のように話してくださる。あの頃と変わらずの距離に、俺を置いてくださる。でも俺は、あの方にとって消し去りたいほどの辛い記憶の、時代の、存在なんだ。あの方の幸せを願う俺自身が、あの方の苦しみの根源になっている気がしてならない」
「だけど、隣にいたいんだろ? ならそれでいいじゃねえか」
「……相手から、距離を置きたがっているような気配すら感じても?」
「それでもだ。俺ならそうする。だってさ、嫌だろ。昔みたいな空気で接するのはてめぇなのに、それすら耐えがたかっただなんざ、好き勝手なことを言われるのは。なら、こっちだって自分勝手な感情で振舞ったって構わないはずさ、それはお相子様なんだから」
どうだ、と。ブラッドリーはレノックスに意見を促した。
もう一度、彼の口元が弧を描く。今度は先ほど見た表情よりもずっと穏やかで明るいものに見えたことが、きっと気のせいで無ければよい。
「不思議だな、今日のブラッドリーは共感が上手だ。」
「まあ、人生経験ならおまえよりずっと上だからな。そういう引きだしくらい、沢山あるさ」
「たった二百年なのに……」
「十分だろ?! てめえ、基準がフィガロに寄ってんのか?!」
レノックスが誤魔化すように、笑ってその場を流していく。それに不服さを抱きながらも、レノックスがそのまま屋根を見上げたので、ブラッドリーもそれに倣った。
レノックスが焦がれた相手の隣には、ブラッドリーの昔馴染みがいて。上機嫌そうに、肩を揺らして笑っている。眩しいなというのが、第一の感想だった。青い月の下で、彼らは、本当に楽しそうに、二人の時間を共有している。昔ならば、あの隣にいたのは自分であるのに。そんな思いが立ち上っては消えていく。これは悔しさでもあるし、寂しさでもあるし。今の彼にそうした相手がいることへの、安堵や羨ましさとも言える感情だ。
「体、冷えるぞ。俺たちはあいつらと違って、酒も飲んでいないんだから」
「……ああ、そうだな。なら、俺たちも飲もうか」
彼らに対して抱き続けるほろ苦い喜びを分かち合える相手は、間違いなく隣の相手しかいないだろうから。ブラッドリーに、その誘いを断る理由は一つとしてなかった。