【ミスレノ】指先に込めるは「信じられません」
碧色の、気だるい瞳。それらがじとりと湿度を持って、自分を咎めるように見つめている。
瞳同士の距離が近く、睫毛の一本さえもが視界に映ることもそうだし。信用を失ったと、非難がましく訴えてくるような仕草もそうだ。長身で、誰からも誠実で信頼がおける男であると評価されるレノックスにとって、ミスラの行動はどうにも新鮮に映っていく。
「俺は言いましたよね、この日、この時間に、あなたの爪を借りるって。なんで何も準備をしていないんですか」
「確かに言われはしたが……」
ミスラは気まぐれだから、と。喉元まで出てきた言葉をそのままレノックスは飲み込んだ。だからの先に続く言葉は、ミスラの立てた予定を尊重せずに無下にした己を、正当化するためのものであったからだ。
「なんですか、その間」
「……言われはしたが、何をどう準備すればいいのか、分からなかった」
それにこちらの言葉も単なる方便ではなくて、本当のことであったのだ。
爪を借りると言われたが、それは何かの儀式の媒介にでも使うつもりなのだろうか、と。はじめにレノックスは考えた。ミスラという名前は、膨大な魔力を有する北の国の大魔法使いとして広く知られているわけであるが。同時に彼は、魔法だけでなく呪術の造詣にも深かったからだ。
それならば爪は、整えない方が良いだろうとも思った。下手に短くして、仕方がないから爪の根元まで剥ぎ取るだなんて言われてしまっては堪らないからである。
次に、装飾の類を候補に入れた。
魔法使いはある程度の歳を重ねると成長が止まるものではあったけれども、だからといって新陳代謝が機能していないわけでもない。深い傷口も、いつかは新しい組織が満たして塞がっていくものであったし。折れた骨も同様だ。そうでなければ魔法使いたちは、きっと長寿ではいられなかっただろう。髪や髭が少しずつ伸び続けて煩わしさを覚えることと同じように、爪だって、自然と伸びていく。だけれどもミスラの爪先は、その先端から根本まで、艶やかな宵闇の色に飾られていた。いつだって、飾られ続けていた。
気まぐれで、面倒臭がりで、だけれどもどこか世話好きな男だ。レノックスにそれを施すと言い始めても、そういう気分の時もあるのかもしれないと、レノックスは納得できただろう。ただそれを施されるにあたって、どうした準備が必要なのか、レノックスは何も知らなかった。同じ階で生活を共にするクロエに聞けば、とてつもない熱量で彼の疑問に応えてくれたかもしれなかったが。それをするのは惜しい気がしたのだ。この感情の理由を、レノックスは上手く説明することが出来なかったので。誰かが、知ることはないのだろう。
「――だから、ミスラが教えてくれないか?」
物心がついた頃には鎚やツルハシの類を持って、坑道の掘削を続けていた手だ。青春とも呼べる夢を追った日々の中では、メイスを握り続けた手だ。そして今は、南の国の羊飼いとして、多くの自然や動物たちと触れ合い、開拓の手伝いを続ける手でもある。大地に愛された手や爪は、ミスラのそれと比べると節くれだって、豆だらけで、泥汚れが残ることもあり、美しい形をしているとは言えなくて。手を取られてじっと指先を見つめられると、無性に恥ずかしいような落ち着かない心地を抱いてしまう。
はぁと、ミスラがため息を吐いた。仕方がないですねと、長い指先で首筋を掻き、レノックスに向き直る。
「気分がいいので特別ですよ。今回は俺が一から、教えてやります」
「ああ、助かる」
「本当に、特別ですからね。あなたは魔法使いなんですから、他人に爪を処理されることにちょっとくらい危機感を持ってください」
特にルチルやミチルを守る気なら、尚更、と。ミスラはそうとも付け加えた。
そういえば魔法使いの爪や髪の毛は呪術だけでなく、魔法の媒介にもなるのだったと。ぼんやりとレノックスは思い出す。炭鉱夫としての人生を送っている間に知ることのなかった知識のひとつは、自分事のはずなのに、どこか他人事だ。それはレノックスが決して強い魔法使いではない、というのも理由の一つかもしれない。強力で長寿な魔法使いであればあるほど、易々と他人に媒介を手渡そうなどとは考えずに、自分の身嗜みへと気を使うものではあったが。レノックスほどの魔力であれば、媒介としての価値も随分と低いはずだろう。
それをどうでも良いものとして扱わないミスラの言動は、レノックスを気分良くさせた。ミスラはきっと、ミスラ自身の常識と物差しに基づいて行動しているだけに過ぎなかったけれども。丁重に扱われていると感じてしまうには十分だったのだ。
「それじゃあ、手を」
そうと心地良さを感じている間に、ミスラの手がレノックスをエスコートするように差し出される。導かれるように手を重ねれば、もう片方の指先が、レノックスの爪の縁を撫でた。不揃いだった爪の先端が丸みを帯びて、その生え際のささくれは姿を消していく。
この時点でようやく、レノックスはミスラの目的が呪術ではなく、装飾の方だと確信した。
魔法で整えられた爪や皮は果たしてどこに行ったのだろう。そうとのんびり考えている間に、片手の下処理は早々に終わったようだ。もう片手も同じように催促されて、準備を済ませる。その後に「アルシム」とミスラが小さく唱えれば、空間の扉が現れた。腕だけを伸ばし、小瓶をいくつか握りしめて、戻ってくる。
ネイル瓶は、開けた蓋の先に刷毛が付いていて、これで爪を塗るのだと初めて知った。粘性を持った透明の液体は、冷たさを連想させたが。爪に温度を感じる器官や細胞は存在していないので、当然レノックスがその印象通りの感想を抱くこともない。
「……そこは魔法を使わないのか」
「使ってもいいですし、普段なら使いますけど……今日は目的が違いますからね」
「目的?」
「あなたは、こっちの方が好きでしょう。ちまちまと、手作業で、一つずつってやつが」
それに、と。なおもミスラは呟いた。
饒舌な渡し守の姿に、レノックスは助け舟を出されたような心地になりながら。逸る心の内に蓋をするように、「それに?」と、言葉の続きを促していく。
「あなたは魔力は少ないし、使い方も下手で、どうしようもないほど弱い魔法使いだから。弱いなりにせめて指先に魔力を掻き集めるだとか、もう少し賢い戦い方が出来るようになってもらわないと困るんです。あなたが弱いと、巡り巡って俺が魔法を使えなくなるかもしれないとか、考えたくないですけど……こうすれば嫌でも意識が行きますし、念も込めやすいでしょう」
透明の液をすべての爪の一面に塗った後、ミスラが手をかざしていった。手作業とは言うものの、全工程をそうするのはミスラも骨が折れるのだろう。「乾くまで待つなんて無理ですよ」という呟きがレノックスの耳にも届いていった。
爪を可愛らしく飾る少女の姿は、南の国でも見たことがあったが。彼女たちは魔法を使えなかったので、きっとこれ以上の時間と手間をかけているのだろう。自慢というよりも、賞賛を求めるようにして愛らしい色味を見せてきた彼女たちに、もう少し気の利いた言葉をかけるべきだったのかもしれない。
そうとレノックスが悔やむ間に、ミスラは二本目の瓶の蓋を開けていった。刷毛に乗せられた色味を見て、レノックスは意外そうに瞳を丸める。
鮮やかな、碧色。
目を見張り、美しくはあるけれども。その色がミスラの指先を飾っている様を、レノックスは見たことがなかったのだ。
「黒以外も、塗ることがあるのか?」
「よほどでなければ使いませんよ。これはあの兄弟に渡されたんですけど。ただ置いておくのも邪魔ですし、あなたにでも使おうかなと思って持ってきたんです」
「二人のプレゼントを俺に使うのは、なんだか申し訳ない気がするな……。しかし、本当に綺麗な色だ」
まるで、と。そんな言葉が自然と喉元まで込み上げる。その先に続けようとしたのは、レノックスの爪先を相変わらず気だるげに、しかし少しだけ真剣そうに見つめる、瞳の色であったから。
「ふふん、綺麗で強そうに決まっているでしょう」
「強そうとは言っていないんだが……」
でもそうかもしれないなと、レノックスは静かに肯定した。
目を奪われる色彩が体の先端を飾る様は、慣れるまでは落ち着かなくもあるけれども。ミスラの言い分通りに、指先へと魔法の意識を向けるという点においては、大きな役割を果たしてくれそうだ。これを見る度に塗った男の眼差しを、彼の持つ膨大な魔力の存在を、きっと思い出すはずであったし。勝手に見守られているような心地にもなれて、普段以上の力が湧くだろうとも想像が付いたから。
それはともかくとして、罷り間違っても、爪が割れづらくなって良かったなどと報告しないように気を付けなければ。
レノックスは密かに、頑なな誓いを立てていく。
ミスラはそんなレノックスの決意に気付く由もなく。仕上げだとして三本目の瓶へと腕を伸ばしていくのだった。