ささやかな失恋円が一番大切な人を自覚するとほぼ同時にささやかな失恋をしたのは、桃吾と久々に数日間ずっと一緒にいた中一のゴールデンウィーク最終日、夕焼けの練習の帰り道だった。
「限定フレーバー出とる」
「プリンうまそうじゃのー」
「アカン、フルーツにするつもりやったのにプリンは気になる……」
邪魔にならないようアイスキャンデーを売る店頭のカウンターから少し離れたところで、期間限定フレーバーのプリンにするかもともと食べようと思っていた果肉がたっぷり入ったフルーツにするか、桃吾は真剣に悩んでいた。中学生の懐事情では、一人で二本食べる選択肢はない。去年一昨年の限定フレーバーには見向きもしなかった桃吾が今年は本気で迷っていて、プリン味が気になるということはよくわかった。
「ならわしプリンにするけ、桃吾一口食べたらええ」
どちらがいいか桃吾が決めきれないようなので、円は単に良かれと思ってシェアを提案した。円もプリン味は気になったし、桃吾がどんな味か気になるだけなら一口食べればわかることだ。桃吾はこの提案に二つ返事で乗ってくるだろう。円はそう思っていたのだが、桃吾の反応はその予想から大幅に外れたものだった。
「ひとくち……?」
円の提案を聞いて、まずぽかんと黄色い目をまん丸にした桃吾は、その後みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。夕焼けが世界を赤く染める中でもわかるその色は、長年一緒にいた円も初めて見たものだった。間接的な接触に対する少しの高揚感と、それが実現することに対する気恥ずかしさ。それらが混ざって揺れる瞳に、円は思わず顔に触れてみたくなって手を伸ばそうとして、実際に手が動く前に気がついて慌てて止めた。
「そぉじゃ。半分こでもええで」
直接触れたくなった気持ちと行動をとっさに隠して、代わりに桃吾が意識しているだろう間接キスが増える提案を投げ込んでみる。桃吾はこれ以上赤くなれるのかと円が驚くほど赤くなった後、首を左右に大きく振った。
「……いらん! 俺もプリンにするさけ、円もプリン一本食べたらええねん」
そして、迷子になってしまったような顔になりながら、アイスキャンデーのシェアはいらないときっぱり言って、先にカウンターへ駆け込んで行ってしまう。どうも桃吾は、円に対してこういう種類の感情が芽生えたこと自体へ戸惑っているようだった。
「桃吾、待ってやー」
先に一人で動いてしまった桃吾の後に続きながら、今しがた桃吾が見せた表情を円は思い返す。初めて見た表情であってもそれが示す意味は考えなくともわかる。あの溶けた蜂蜜のように揺れる目と真っ赤に染まった頬は、どう見ても生まれたての恋心からくるものだった。
自分だけに向けられた桃吾の心をそのまま写し取った表情を、円は一生忘れられそうにない。それが、桃吾が見せた円への気持ちの答えだ。
カウンターでプリン味を頼んでいる桃吾の後ろに並んで、順番がきたら円はフルーツ味を頼む。自分から一口を頼んだら桃吾はどんな反応を見せてくれるのか、円は早速知りたくなっていた。
フルーツ味のアイスキャンデーを受け取ったら、少し驚いた顔をしている桃吾を促してカウンター前から道の端に避ける。
「円、結局フルーツにしたん?」
「わしもフルーツとプリンで迷っとったんじゃー。のぉ、桃吾」
言いながら円は手に持ったままアイスキャンデーを桃吾に差し出す。
「一口、くれへん? 」
「へ……?」
それはプリンを一口くれるなら、フルーツを一口食べていいと交換を示す行動で。一回回避したと思っていた桃吾は、あらためて間接キスを突きつけられて思いっきり動揺している。だが、覚悟を決めた時の桃吾の行動は早い。
「……円が食べたいなら、ええ」
桃吾が口元に差し出してきたその目と同じ淡い黄色のアイスキャンデーを、じっと見つめる視線を感じながらそのまま一口かじる。プリン特有の甘味が口の中で溶けて広がって、一口だけでは物足りなくなるほどおいしかった。期間中はプリン味にし続けようと、円は心に決める。
「ありがとうな。桃吾もわしのイチゴ食べてええでー」
「そ、そんないらへん……!」
続けて円がアイスキャンデーを桃吾の口元に持っていく。イチゴの果肉がアイスキャンデーの上部にあったので、それを食べてもいいと言ったら遠慮されてしまった。一瞬だけアイスキャンデーを見つめてから桃吾は口を開き、控えめなサイズの一口を角から削り取っていく。少しだけ覗けた赤い口の中に、真っ白なアイスが溶けている様を想像すると、円も落ち着かない気持ちになる。差し出していたアイスを自分の口元に持っていく、その動作一つをとるだけでも焦りが動きに現れないように気をつけなければならない状況だった。
そのまま桃吾がかじった場所から円が食べ始めるのを、桃吾の目は捉えていた。すぐにかじりつくのではなく、まず桃吾の唇に触れて溶けた部分を掬うように舌先で舐めとると、何を想像したのか桃吾の目は蝶々が飛び回るようにうろちょろして、最終的に自分の手元のプリン味のアイスキャンデーに視線が落ちた。円がかじった一口より大きく一気に口に入れて、円がかじった部分に唇も舌もなるべく触れないように食べてしまう。そこに見える必死さからは、間接キスを自分の側でも行って発生する感情から逃げようとしているのが見てとれた。
自覚したばかりの恋心を素直に受け入れて認めた円と違い、桃吾はまだ円への感情を上手く受け止められていないのだと、その大きな一口は示している。
「プリン、うまいじゃろ?」
「……おん」
味なんてわかっていなさそうな返事に、円は桃吾が逃れようとした間接キスを自分から要求したことが少しだけ申し訳なくなる。円が桃吾に好きだと伝えても、今の桃吾は受け止めきれなさそうだと察して、少し残念なものの円はこの場でそのまま告白するのは止めておくことにした。
桃吾が自分の気持ちを認められる前に円が好きだと伝えたら、そんな関係やないと一度振られて逃げられる可能性もある。最終的に認めてはくれるだろうが、せっかく両想いなのに急いだことが理由で拗れて遠回りになるのは避けたかったのだ。
「明日からまた一緒におる時間減るのー」
でも、桃吾が向き合って受け入れてくれるまで何もしないでいる気にもならず、円は少しだけ遠回りにもっと一緒にいたいと伝えた。
「せやな。 ……円もそう思うん?」
プリン味さえわからなくなっている桃吾が間接キスのように拒否したくならないよう、恋の色を極力隠した結果は功を奏して、桃吾は話に乗ってくる。
「毎日一緒じゃったのに、桃吾がおらんの変な感じじゃー」
雛は巴と一緒なら大人しいからという小学校の先生の声があったのか、二人は六年間同じクラスだった。しかし中学ではそもそも学校が別れて、円の隣に桃吾がいない日が大部分を占めている。それが日常になりかけていたところに、このゴールデンウィークの練習だ。日光そのもののような輝く目を傍らに毎日練習する日々は充実していたのに、それが次にくるのは夏休みというのはかなり遠い。
「放課後、二人で練習せえへん?」
桃吾も同じ気持ちなのか、平日も二人で練習したいと提案が出る。投手と捕手の二人なら、できる練習は一気に増える。もちろんむやみやたらと数を投げるような練習はダメだが、それは監督と相談して最適な量を決めればいい。球種も増やしたかったところで、桃吾が捕ってくれるならこれ以上ない練習環境だった。
桃吾が期待に輝かせる目を円は裏切りたくない。円ならできると向けてくるくもりひとつない信頼は、円が進もうとする先をいつも照らし出してくれる。同じ夢を抱くなら、桃吾の期待以上に前に進ませてくれる力はない。
「わしも桃吾と練習したい。監督にメニュー相談せんとなぁ」
円の同意に桃吾はやったと無邪気に喜ぶ。これで二人で最強になれる、と。
「それでな、綾瀬川倒して円が日本でいっちゃんええピッチャーじゃって証明すんねん」
――その一言は、今円に見えていた世界を反転させた。本来忘れられないはずの事実がどうして抜け落ちてしまっていたのかと問われたら、桃吾の溶けた蜂蜜のような目を見て浮かれていたとしか言いようがない。けれども、それが向けられているのは昔の円であって今の自信を持てなくなっている円にではない。同一人物ではあるため桃吾の視線は今も円に向いているが、桃吾が好きなのは遥か高みにある才能に憧れて自分に自信が持ちきれない円ではないのだ。恋敵が昔の自分というのはおかしな状況だが、そうとしか言い表しようがない。
今すぐ告白していなくてよかったと円は思う。桃吾の好きな人そのものではなくても、同一人物である以上最終的には付き合うことになるだろう。その後、何かが違うと他ならぬ桃吾に思われるのは、円にとって一番避けたいことだった。
それに、付き合いはじめて恋人という特別な立ち位置に桃吾を置いた後、その特別さに甘えて何かしらの弱音を吐いてしまったら。その想像はひんやりしたアイスキャンデー一本ではとうてい生まれないはずの寒気を、円の体にもたらしてくる。桃吾が円をまっすぐ見る目から、期待の光が消えて、今日約束したように二人で一緒に連絡したいと望まれることもなくなるかもしれない。それは円にとってひどく恐ろしい可能性だった。
「ハッハッハ、桃吾!」
それらの悪い感情をすべて吹き飛ばすように、円は敢えて大きく笑う。
「練習頑張らんとな。桃吾も綾瀬川打ち崩したいやろ」
「……当たり前やろ! 点無いと勝てへんやんけ」
桃吾にもあの才能に向かうように促してみると、一瞬の躊躇の後桃吾からやる気と覚悟が溢れ出す。その目はやっぱり太陽のように光輝きながら目標を見据えていて。円は今の自分はこの光に釣り合わないし、かといってこの輝きを陰らせたくないなとも思うのだ。
なら、付き合いはじめるタイミングは今ではない。綾瀬川に確かに勝ったと、そう自信を持てる時まで待つべきだ。まず円はそんなことを心の底で決めて。次に、いずれ桃吾が自分の恋心を受け入れた後に、円も桃吾のことが好きだとバレると桃吾から告白してきそうなので、それを避けるためには円の気持ちはバレてはいけないなと、隠し続けることも決める。
先ほど一つの動作から焦りを消すだけでも大変だった。けれども。
「期待しとるで」
「おん!」
期待をかければ必ず受け止めてくれる煌めきも、好きな人のことを想って溶けて揺れる蜂蜜のような甘さも、両方をそのまま欲しいと思うなら、かけられた期待に円が応えるしかないのだ。
今日は確かに失恋したが、恋敵が昔の自分ならやるべきことは明確だ。たどり着くために必要な練習は、桃吾が一緒に歩んでくれる。取り戻すのにこれ以上の環境が望めるはずもない。
「明日、何時にどこがええ?」
明日の約束はすべてを手に入れるための第一歩だ。場所と時間とそれから監督へのメニューの相談と。それら全部を一緒に考えてくれる桃吾を見たら、すぐに付き合えない状況ではあっても好きになったのが桃吾でよかったと、円は改めて実感する。
それは、これから何度も何度も実感する、大切な人へ向ける気持ちの始まりだった。