信頼は表裏一体U12国内最後の練習試合は、点の動かなさとは裏腹に、各選手の心境に大きな影響を落とすものだった。
格上相手を当然のように抑えたエースピッチャーに対し、ある人は球威の凄さに圧倒され、ある人はそのコントロールの正確さに魅了され、またある人は安定した守備に魅了され。とにかく鮮烈だったのだ。綾瀬川次郎という才能は。
無邪気な笑みを湛えながらアウトを積み重ねていく様は、これまで巴円と雛桃吾が見ていた世界を、すべて過去のものにしてしまった。
一巡目をストレートだけで打ち取り、二順目は解禁した変化球を織り混ぜながら、打者を塁に出さずアウトだけを積み重ねていく。コントロールも精密で、捕る前に桃吾のミットが動くことはなく、打ちにくい低めに球が集められていた。
すべて、今の円にはできないことだ。
綾瀬川との実力差は歴然としている。選考会の時から有望なピッチャーだと認識していたが、円もこれほどの差だとは思っていなかった。
「桃吾」
「おん?」
部屋に戻ってからずっと口を噤み言葉を飲み込み続けている桃吾は、普段の賑やかさが嘘のように何も言わずに自分のベッドの端で膝を抱えてうずくまっていた。
そんな彼の目の前に立って、円から呼びかける。
言い出すかは迷った。けれども、今日言わなければもう一生言い出せない気がしたのだ。そして、これを桃吾に言わなければ、今後綾瀬川に追い付くのは一生無理だろう、とも。
「今日の試合のリードな、あれ、今度わしにもやってくれんか?」
「あっ? あんな無茶なん、円にするわけないや、ろ……」
最初振り向いて反射で否定した桃吾は、言っている途中でその否定が意味することに気がつき、すっと勢いが消えていく。
「綾瀬川が低めに投げるゆうたんや…… 」
「わしが同じこと言うたら、今は桃吾止めるじゃろ。わかっとる」
その円の言葉で、桃吾の動きは完全に停止する。円と綾瀬川の実力差を受け入れがたく思っている桃吾にとって、その言葉はとどめだった。他ならぬ円が言った言葉を否定したくとも、否定の根拠となる実力が今の円にはない。
何も言えなくなった桃吾は唇をぎゅっと噛んでいた。それはよくない、と円は桃吾の唇に人差し指を伸ばす。円は桃吾に痛みを我慢をさせたくて、この話を始めたわけではないのだ。
「なっ、なんなん……」
噛みしめられた唇をそっとなぞれば、驚いた桃吾はそのまま感情が口から零れる。
「噛んだらあかん。痛いやろ」
そう円が言い含めると、逃げ場を失ったような顔をした後、桃吾は視線ごと顔を下に向けてしまった。それでも意識は円に向いていて、言葉を聞き逃さないよう張り詰めている。
「桃吾。……わしらが今まで負かしてきた相手も……」
円も桃吾も、これまでずっと勝ってきた側だ。何人挫折させたのか、円には把握できていない。それこそ、U12に選ばれなかったという間接的な理由で挫折させた人数は、数える手段さえもないのだ。
あんな風になりたい。そんな憧れは上の学年に対し抱くことはあった。
けれど。あんな才能があれば。そんなぐるぐる渦巻くような感情を同学年に抱くことは初めてで。
この慣れない感情を、円は桃吾にだけは伝えておこうと思ったのだ。
「……わしらがおって選ばれんかった人も、こんな、しんどかったんじゃろか」
「そんなことあれへん! 円に負けるんと綾瀬川に負けるんは別や。あんな……」
桃吾はまた顔を上げ、円の方を向いて否定しようとしたが、途中で口を噤んでしまった。部屋に入ってからずっと言葉を飲み込み続けて何も言わない、それと同じ理由の沈黙だと円は感じとる。
「五回表と裏の間、やっぱりなんかあったんじゃな」
「っ……」
推測に対して、桃吾は静かに否定する。それは円からみると何かあったと言っているのと同じで。円が聞き出そうとしても言いたくないのに、隠し事に気づかれてしまった。そんな頑なな心が円には透けて見える。
「言いたくないなら言わんでええ。今回は殴っとらんしの」
「あんなん、殴る価値もない……」
無理に聞き出す気はないことを伝えると、緊張で固まっていた桃吾の体が緩む。
初日よりも綾瀬川に対して辛辣になっているのは気になるが、桃吾があの天才を悪く言うことにどこか安心しているという実感も円にはあった。
「この後が本番や。こんチームで一番強いピッチャーとは、ちゃんとやってかなあかんで」
だが、それで心は軽くなっても、実力差が変わるわけでもないとも円はわかっている。
あの鮮烈すぎる才能は、今の円よりも上のステージにいるのだ。だから、この言葉は、円の本心から零れた憧憬だった。
「強いピッチャーになりたいのぉ。……一人でチーム勝たせられる、綾瀬川みた」
「円!」
それを最後まで言いきる前に、桃吾が被せて円を呼んだ。突然の反応に円が驚く間に、桃吾の目にみるみる涙が溜まっていく。
「あんなん……エース呼ばれる資格あれへん。カスや。ヘボピじゃ」
綾瀬川に憧れて欲しくない。桃吾の目は円にそう訴えている。
「円がいっちゃん強いピッチャーや!」
近くの交番から動き出した、パトカーのサイレンが響く中、桃吾の言葉は止まらない。
「円とおんなじチームで、オレが証明したる」
涙を湛えながら円の相棒が見せたのは、厚くだがとても重たい信頼だった。
とりあえず涙を拭ってあげようと目元に手を伸ばすと、渡された信頼を受けとるか迷っているのを見透かされたかのように、桃吾は円の手を途中で捕まえてしまう。
捕まった右手は桃吾の両手に力なく覆われた。それは、この信頼を受け入れて欲しいと祈っているようで。
「……先に言われてしもたの。こん大会が終わったら、打倒綾瀬川に向けて特訓じゃ」
綾瀬川の才能に追い付けるイメージなど、円にはまったく見えていなかった。それでも、桃吾に一番であって欲しいと本気で望まれているなら、それに向けて頑張れると思ったのだ。また、円自身綾瀬川より強くなり、一番強いと謳われる投手でありたいと今も思っている。
そして何より、あの輝ける才能を桃吾と一緒に目指す日々は、苦しくても辛いだけにはならないと、これまで積み重ねた二人の時間が示していた。
「桃吾、これからもよろしくの」
右手を握る桃吾の両手に、円は左手を添えた。祈りを重ねるように柔らかく握ると、桃吾も同じく柔らかく握り返してくる。
手に伝わる温かさは心地よく、だが伝わる力は円には重圧にも感じられた。
二人で目指しても綾瀬川に届くかはわからない。でも、試さなければ届くことはない。それが二人の前に立ちふさがる、純然たる事実だ。
それでも、それがどれだけ重いものであっても、桃吾の信頼はいつも円を前に進ませてくれる。だから、これからも桃吾と二人で同じ目標を見て進むなら、いつ綾瀬川に届くかわからなくとも、止まることなく前には進んでいける。ならば、今はより強いピッチャーになることをただ目指そう。
巴円はこの日確かにそう思ったのだ。