枚方シニア戦の夜の円桃構えたところでピタリと静止し、そこに吸い込まれるかのように、豪速球が投げ込まれる。ミットにボールが納まる音だけが繰り返されて、U12と枚方ベアーズの試合は終了した。
格上相手を当然のことのように抑えたエースピッチャーに対し、ある人は球威の凄さに圧倒され、ある人は球種の豊富さに目を奪われ、またある人はそのコントロールの正確さに魅了されていた。
とにかく鮮烈だったのだ。綾瀬川次郎という才能は。
だから、綾瀬川の活躍の裏で当然のことのように行われていた異常なことに気づいたのは一握りのよく見ていた人だけで、円が気づいたのも桃吾と常日頃から組んでいて、彼のことをよく知っていたからだ。
枚方ベアーズ戦の桃吾のリードは、これまで円に対して行われたものより、ずっと厳しい要求がなされていた。ストライクギリギリの下半分に集められる投球は、打者にも打ちづらいが投手にだって投げにくい厳しいリードだ。
もちろん試合でピンチになり、それしかない時にはイチかバチか厳しい要求をされることはある。けれども、打者に慣れさせないようにたまに高めを挟む以外は低めを要求し続けるという、こんなピッチャーに厳しい組み立てをする桃吾は円の記憶のどこにもいない。
その違いの理由はたった一つ、純粋な「実力差」なのだと円にはわかっていた。
「桃吾」
「おん?」
風呂上がりで後は寝るだけ。ベッドに入ろうとする桃吾に、円は切り出す。言い出すかは迷った。けれども、今日言わなければもう一生言い出せない気がしたのだ。そして、これを桃吾に言わなければ、綾瀬川に追い付くのは無理だろう、とも。
「今日の試合のリードな、あれ、今度わしにもやってくれんか?」
「あっ? あんな無茶なん、円にするわけないや、ろ……」
最初反射で否定した桃吾は、言っている途中でその否定が意味することに気がつき、すっと勢いが消えていく。
「……綾瀬川が低めに投げるゆうから、どこまでできるか試しとっただけじゃ! だから円にすることやのうて……」
「わしが同じこと言うたら、桃吾止めるじゃろー」
その円の言葉で、桃吾の動きは完全に停止する。円と綾瀬川の実力差を受け入れがたく思っている桃吾にとって、その言葉はとどめだったのだろう。他ならぬ円が言った言葉を否定したくとも、否定の根拠となる実力が今の円にはない。何も言えなくなった桃吾の顔に、熱がどんどん溜まっていく。
枚方シニア戦の組み立てを指摘したら、桃吾がこうなることはわかっていた。綾瀬川に合わせた組み立ては、円に対して行えるものではない。だから、綾瀬川と円の間に大きな実力差があると示してしまう。どんなに桃吾が円の方がええピッチャーだと言っても、桃吾本人の行動がそれを否定してしまうのだ。
桃吾は本心を押し殺しなるべく考えないようにして、今日の試合を乗り切ったはずだ。それなのに、綾瀬川が円より実力が上だと桃吾が判断していることを、円本人から突き付けられた。これが平気なわけはない。桃吾は、円が一番のピッチャーであることを誰よりも望んでいて、また円のプライドをとても大事にしてくれているのだから。
「なんでそれ、ゆうたん……」
かすれて力の抜けた声で言いながら、桃吾はベッドの上に座り込んだ。勝利を優先するために押さえ込んでいた感情が、円の指摘で溢れてきたのだろう。布団を握りしめる手に力が入っているのが痛々しい。
円は桃吾のベッドに寄ると、俯いてしまっていたその頬に手をのばし、そっと上を向かせる。たっぷり涙が溜まっているのに、今は自分に泣く資格はないと、絶対に決壊しないその眼。それを見て、円は話してよかったと思った。
桃吾を苦しめることにはなった。それでも、一緒に目指したかったのだ。今は遠い、あの輝ける才能を。
「言わんと、一緒に目指せへんじゃろ」
固く握りしめられていた桃吾の手を、円はそっと覆った。指の腹で手の甲を撫でていると、徐々に桃吾の手に無駄に入っていた力が抜けていく。
「桃吾、わしのことも試してくれんか。もちろん、U12が終わってからな」
二人で目指しても綾瀬川に届くかはわからない。でも、試さなければ届くことはない。それが二人の前に立ちふさがる、純然たる事実だった。
桃吾の手に入っていた力が完全に抜け、円の手の中でひっくりかえった。そのまま覆っていた円の手が、ほどよい力加減で握り返される。
「……無茶ゆうからな」
桃吾の言葉はトゲがあるようで、その声にこもっているのは円への信頼だ。
「遠慮したら意味ないじゃろー」
繋がっている手のひらから、心地よい暖かさが伝わってくる。この桃吾の信頼は、いつも円を前に進ませてくれていた。
だから、これからも桃吾と二人で同じ目標を見て進むなら、止まることなく前に進んでいける。
巴円はこの日確かにそう思ったのだ。