椿姫トラビアート:汝、道を踏み外さず「ドクターが元気そうでよかったわ。ほら、私たちお互いいい歳でしょう」
風が吹き込むベランダの傍のソファに座った老婦人が、少し離れた棚の上に飾られた老紳士の写真に目をやりながら日本語でカラカラと笑った。このあいだ古希になったばかりの患者はその年齢のわりに言動も恰好も若々しく、主治医は呆れたように「お互いな」と意地悪く笑う。華やかだが上品な、リゾート風の花柄の壁紙のこのリビングルームが(もう今はこの肩書を使うことは無いのだが)闇医者には居心地が悪かったのもある。それを知ってか知らずか、老婦人は主治医を手招きして隣の藤の椅子に座らせた。このアメリカ西海岸の海沿いの街に良く似合う部屋だった。
「これ、ドクターにあげるわ」
そういうと、老婦人は赤いネイルとヒスイの指輪で飾られた手で2枚の紙きれをガラステーブルの上に出した。
紙切れの中央には演目名には和訳すれば「椿姫」とあり、その下にはニューヨークの大ホールの名前が印字してあるのを見つけ、ドクターテツは方眉を上げた。
「特等席を無償で譲るって?」
「だってこの日に恋人が遊びに来てくれるって言うんだもの。オペラはいつでも見られるけど、恋人との逢瀬はそうもいかないわ」
恋多き女は意味ありげに笑って首を横に振る。飾り棚の老紳士の写真の隣にはつい最近撮ったばかりの四十代の男とのツーショット写真が飾ってある。それが患者の新しい恋人らしかった。
「……ま、生活に張りがあるのは良いことか」
「それはドクターもでしょ? ハマーを運転させてるんだっけ?」
お見通しとばかりに年上の女が意味ありげに笑った。
1990年代初頭の日本では暴対法の施行で勢力を削がれてそのまま幹部の高齢化と死などを経て解散となったヤクザは多いが、この女はそんなヤクザの組長の愛人だった。闇医者だったドクターテツこと真田徹郎とこの女はそのころからの知り合いだ。しかし昔から抜け目ない女だったが、まさか老後の生活に困らないだけの金を引っ提げてアメリカに移住しているとは思わなかった。
「……普通は」
ドクターテツが小さく舌打ちする。