100日後にくっつくいちじろ23日目
「ったく、あのクソ野郎……」
走行中の原付バイクに足で追いついた男がいた。山田一郎その人である。
一郎は昼過ぎ、一件目の依頼を終わらせ、昼を食べに一度家に戻る途中であった。その道中、なんと目の前で原付に乗ったフルフェイスヘルメットの男が通行人の鞄を引ったくったではないか。何を白昼堂々、このイケブクロで、しかも山田一郎の前で。被害者は悲鳴を上げたが倒れたりはしていなかった。ので、一郎はそのまま原付を追いかけた。そして程なくして追いつき、ひっ捕えた。地面に押さえつけ警察に電話をしてアッという間に犯人は連行されて行った。警察官が被害者の女に後で近くの交番に来るよう告げ、バタバタと去って行く。残された一郎と彼女。
「あのう、ありがとうございました……」
「いえ、怪我ないですか?」
鞄を持ち主に返す。女は一郎と同い年くらいの黒髪セミロングですらりとした美人だった。何度も一郎にお礼を言って頭を下げて、それからこう言った。
「私、引っ越してきたばかりでこの辺りよく分からないんですけど、良かったら今度お礼にご飯でもご馳走させてください」
いつもなら営業スマイルで「気持ちだけ」と笑って去るところである。しかしこの時の一郎は、最近自分自身が抱いているおかしな感情に振り回されている最中であった。「あー…」と煮え切らない声を一郎が出していると女は鞄からレシートを取り出し、その裏にペンで自身の連絡先を走り書きすると、それを渡してきた。
「連絡待ってます」
そして自分を見上げている女の、垂れた目元にばかり視線を向けている自分に気付き、更に辟易しながら一郎はそれをポケットに忍ばせた。
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最近、自分はおかしくなっている。一郎はそんな自覚をしていた。それは主に、真ん中の弟に対してである。
二郎は昔からハツラツとした子供であった。
兄ちゃん、兄ちゃんと後ろからくっついてきて、走るのが好きで人懐っこくすぐに友達ができる。そんな明るい弟だった。すれ違っていた時期もあるが、二郎はどんな時だって自分の大事な弟だった。過去形になっているが、今この瞬間だってその気持ちは変わらない。しかし、最近、大事な弟という兄弟愛に加えて別の、抱くべきでない気持ちが混ざり合おうとしている気がする。
「……はあ」
夕日が差し込む時間に帰宅し、まだ誰も帰っていないリビングのソファーに倒れ込む。手の甲で目元を覆って絞り出したようなため息を吐いた。
自分の服をこっそり着てる姿を見た時。岩盤浴で汗をかく姿を見た時。友達と楽しそうに話をしている光景を見た時。ラブレターを受け取ったんじゃないかと思った時。夢を見た時。
自分は何という感情を持っていたのだろうか。少なくとも兄弟に抱く感情ではない。形など定義されているわけではないが兄弟愛とは明らかに異なるものであったし、それが分からない程、一郎は子供ではなかった。それにどう足掻いても性的な欲求も含まれていた。まるで恋愛感情を抱いている相手に感じる嫉妬心のようなものまで持ち始めているときている。
「欲求不満なのか、俺は」
スマホで昼間に受け取った連絡先を打ち込んでいく。メッセージアプリで番号を検索して、ヒットしたアイコンをタップする。黒髪に垂れた目。ふわふわしたぬいぐるみを抱き締めている。華奢で可愛らしい。名前も女の子らしい。
『昼間、連絡先をもらった山田です。その後、警察の対応大丈夫でしたか?』
メッセージ送信ボタンを押し、スマホを床に投げた。可愛い女の子。俺に足りないものはこれだ。ここのとろこ仕事だのDRBだのと何年もバタバタしていたせいで知らず知らずのうちにおかしくなっているたのだ。そう結論づけて一郎は自分の頬をピシャリと叩いたのだった。
2024.11.15