100日後にくっつくいちじろ58日目
二郎はサッカー部に顔を出した帰り、特売の食パンを買って家路に着いた。エコバッグを忘れたので食パンの首根っこを掴んでそのまま持ち歩いている。
「……ん?」
ふと、数十メートル先の前方で見慣れた姿が横切るのを見た。兄の一郎だ。今日は仕事の筈だが……。一郎は路地へ入ったらしい。小さな居酒屋とパチンコ店の裏口のある細い道。こんなところで何をしているのだろうか。猫探しか何かか。二郎は一郎が入って行ったそこを覗き込んだ。すると──…
「返してやれ」
路地の中腹で、地面に尻もちをついている学生服の男と、それを取り囲むようにしゃがみ込んでいる『いかにも』な風貌のヤンキーが三人。ポケットに手を突っ込み、それを見下ろしている一郎がそこにいた。ああ、とすぐに状況を把握する二郎。二郎から見て一郎は向こうを向いているので背中しか見えず、表情はうかがえないが「返してやれ」という物静かだが圧のある短い言葉が二郎の背筋を凍らせた。
「あれぇ、山田一郎クンじゃん」
「今、お喋りしてるところだから邪魔しないでくんない?」
あろうことかヤンキーは一郎を認識していながらも、嘲笑うようにナメた態度で笑った。しかし一郎はそれを無視するかのように、震えながら縮こまる学生の腕を掴む。
「立てっか?」
「おいおい、勝手に俺達のトモダチ、連れていくなよ」
がし、とヤンキーのひとりが一郎の腕を掴んだ。その瞬間、二郎は飛び出していこうとしたが、しかし一郎は少しの動揺もせずに変わらぬ落ち着いた声色で答える。
「今日は見逃してやるから帰れ」
「は?」
じ、っと一郎と彼等は数十秒、睨み合いを続けた。ピリつく重い空気。しかし、一郎の振舞とブレない強い視線に気圧されたらしいヤンキー達は舌打ちをして悪態をつきながらも路地を反対へ進んで行った。残された学生服の男と一郎。男は三郎よりも小さい、中学一、二年くらいの風貌であった。しかもよく見たら三郎と同じ学校の制服じゃないか。
「すみません、ありがとうございました……」
半分泣きながら頭を何度も下げる彼に一郎は無言で中腰になると、彼の汚れた膝を手で掃ってやった。
「俺の弟もお前と同じ中学だから放っとけなくてさ」
そう言って一郎はその場を立ち去ろうとした。そして二郎は慌てて走り出す。ヤバ、今、兄と顔を合わせると二人で一緒に帰ることになり、会話に困る!まだ整理できていないのだ。ごめん、と思いつつ、二郎は駆け足でその場を後にした。
▼
「ただいま」
「お、おかえりー……」
駆け足で先に帰宅した二郎。五分もせず兄も帰宅してリビングで顔を合わせる。二郎の視線は相変わらず動いていて、いつもより無駄な動作も多く落ち着きがない。
「ああ、パンありがとうな」
「まだ、結構残ってたよ……」
今日の夕食当番は一郎で、二郎は洗濯物担当だ。キッチンに立ち夕食の準備をはじめた一郎と、居間で取り込んだ洗濯物を畳む二郎。くあ、とコタツの近くで猫のハチが大欠伸をする。平和な空間なのだが、やはりどこか気まずい。
「テレビ点けよー……」
いつもはそんなこと言わず勝手に点けるのに。自分でもそう思いながらテレビを点けて少し音量を上げる。しかしどのチャンネルも夕方のニュースばかり。つまんねえ、と文句を垂れながら適当に教育番組の子供向けアニメを流して洗濯物を畳む。
兄はキッチンで野菜を切っていた。山田一郎はこの世でエプロンが似合う男第一位だと二郎は思っていた。恐ろしいほどにエプロンが似合う。そして料理も上手い。大根を切っている姿ですら格好いい。さっきまで不良を威圧して蹴散らしていた男とは思えないほどで、別の格好良さだ。ざく、ざく、と小気味いい音が二郎の耳にまで届いていた。
一郎は真剣そのもので、手元を見下ろしていて、二郎はそんな兄をぼうっと眺めていた。そしてこう思う。こんな格好いいのに、俺のことが好きなんだ、と。不思議なこともあるもんだ。現実味があまりないのかもしれない。どうしてなんだろう、気いたら答えてくれるのかしら。二郎は兄を眺めながらそう思った。
「……二郎、畳めたか?」
「あ、うん」
「じゃあ風呂の準備頼む」
畳んだバスタオルや下着を抱えて脱衣所へ向かった二郎。リビングに残された一郎は、シンクに両手をついて項垂れると小さな声で言葉を漏らした。
「こっちが見てないとすげー見てくるじゃん……」
2024.12.20