3月3日のバラ仕事帰りにオフィス街の角にある行きつけの花屋に寄ると、黒いエプロンのフローリストは「葉山様、いつもありがとうございます」と笑顔と共に、注文した通りのブーケを用意してくれた。毎月三日に欠かさず妻への花を買い求める客に対し、フローリストは余計な世間話や冷やかしはせずに、納得いくアレンジで花をまとめて応えてくれる。料理に限らずプロの仕事に触れると、葉山は満足感や心強さと共に、身が引き締まる思いがする。葉山自身が遠月リゾートの経営として、またスパイスの世界的権威の伴侶の研究者として、仕事の成果も身の振る舞いも高いレベルを求められているからだ。
大輪の深い赤のバラのみでまとめられた花束を、贈る相手そのもののように大切に抱き抱え受け取る。ふっくらとした花弁は肉厚で、ベルベットの質感を有している。鼻で捉えたバラの香気成分が、構造式の形で視界に浮かぶ。汐見もきっと同じだろう。
ゼミには匂いの強い花を飾る事は無かったが、自宅には香りの濃度も様々な木々や花が庭にあり、室内にも汐見や葉山が講演や授賞式で貰った花束を生けている。家路へと葉山が歩く度に、ブーケの透明フィルムとラッピングペーパーがすれて軽い音を立てる。
誕生日には年の数のバラが欲しいというのは、汐見自身からのリクエストだった。日頃手を替え品を替え凝った贈り物を探してくる夫も、真紅のバラなら毎年贈るのに相応しいと納得するだろう、という妻の考えが葉山には透けて見える。
汐見は葉山に「もっとアキラくん自身の為に時間もお金も使ったら」と言ってくるが、汐見の為に盛大に誕生日を祝うのも、何を贈るか悩む時間も葉山にとっては楽しみのうちの一つで、完全に趣味だ。
三十輪を超えるバラから、汐見と出会ってからの年数を逆算する。子供の頃は明日も生きていられるか分からず、日本に来て生活が安定してからは、早く大人になりたいと思う一方、自分が自立したら誰かに汐見を取られるのではないかと焦燥感に駆られた。
子供でいれば庇護の対象でいられるが、男としては愛して貰えない。今でも保護者面をされる事はあるが、結婚してからはその点は気にならなくなってきた。
ーー余裕が出てきたんだな。
数年前の自分に今の姿を見せてやりたい。
来年も再来年も、同じように真紅のバラの花束を汐見に贈るのだ。年を重ねるごとにバラの本数は増え、汐見の小さな腕では抱えられなくなるだろう。
そんな妻の愛らしい姿を想像して、葉山の歩は自然に早まった。