やつがれと居場所の話つん、と鼻につくような消毒液の匂いで満たされた部屋で、私はガサゴソと包帯を探していた。近くの椅子に不服そうな顔をしながら座っている彼は、私より幾らか身長が低くて、本気で握れば折れてしまうのではないかと思うほど細い身体をしている。あったあった、なんて言葉を零せば、手当てしやすいようにと外套を捲って傷口を見せてくれた。こういうところは素直で可愛げがあるんだけどね。
『アフィアと云っても殺しが全てじゃない。君は早死にしたいの?』
「僕は太宰さんの為なら身をも焼く覚悟です」
『そういう事じゃないんだよなぁ』
消毒液が染みたのか、やつがれは少しだけ眉根を寄せて答えた。私がやつがれと愛称で呼ぶ男___芥川龍之介。一人称が特徴的なのでそこから取った。かなり強力な異能を持っているポートマフィア構成員で、私の後輩でもある。
手当てをし乍ら、よくこんな状態で任務に赴くもんだと思ったが、彼の性格上休む訳がないなと考え直した。何時ものことと云ってしまえばそうなのだが、この子はかなり無茶をする方で、今回も異能を駆使して敵を貪り食って来たらしい。
マフィアで生きていくなら、もっと上手く立ち回らないと。
『作戦立案、書類仕事、拷問、他の組織との取引と交渉術…それら全てを網羅するんだよ。此処には殺しが出来る奴なんて山程いるんだから、それだけが出来たところで治も認めやしない』
ピクリと眉が動いた。やつがれは治に認めてもらおうと必死だからこうやって無茶をする。判ってはいるけどさ、心配はするよ。
治が拾ってくるなんて珍しい。やつがれの中にある何かを感じたんだろうけど、それが何なのか私には判らない。でも治が可能性を感じるような何かを持ってるから連れて来られた。それが花開くまで、ちゃんと指導してあげなければならない。
『やつがれが此処に身を置く理由が治なのは重々承知してる。だから尚更、焦らない方が君の為だよ』
出来たよと声をかけて、消毒液やら包帯やらを片付ける。彼は小さな声で感謝の言葉を口にする。わしゃわしゃと頭を撫でると、此方を一瞥してから静かに目を伏せた。
「伊織さんは、何故ポートマフィアに身を置いているのですか」
『…唐突だね。それを訊いて何かいい事でもあるの?』
彼の頭から手を離して、補充リストに消毒液と書き加える。嗚呼、治の捕らえた捕虜から情報を聞き出さないと。だとしたらガーゼも足りなくなるかも。
ぴらりと紙を捲って在庫を確認するが、目の前に座っているやつがれの視線が気になってしまう。
『治療は終わったんだから、疾いとこ戻った方がいい。治に怒られるよ』
「何か云えない理由でもあるのですか。マフィアに身を置き乍らも殺しから一線を引く貴女は、その経歴も相まってこの界隈では異端者と…」
パンッと乾いた音が響く。私が手を叩いて話を遮った。
異端者、ね。この界隈…主にポートマフィアでは、その言葉は私や織田作を指す。マフィアという肩書きを持つ癖に殺しをしない半端者だからだ。
『珍しく饒舌だね、普段からそれくらい話せばいいのに』
記入し終わった書類を纏めて、やつがれの問いに天を仰いで考える。何故マフィアに居るのか、ねぇ…何時の間にか所属していて、其の儘今に至ったような気もする。だとしたら何で今まで組織を抜けようとしなかったんだろう。
取り替えられたばかりの蛍光灯を眺める。そこにあるべくして存在する訳でも無く、選択を躊躇っていた私の気持ちの問題なのかもしれない。
じっと天井を見ていても其処に答えは無かったし、私の頭の中にも答えは見つからなかった。
『…判らない。何処に居て、何をすればいいのか…私にも判らない』
居場所が無くなってしまったあの日から、ずっと。
辺り一面が真っ赤に染めあげられて、全身が沸騰するかのような憤怒を憶えたあの日に……私は今も、囚われている。
私の返答に、やつがれは何の反応も示さなかった。
『期待に添える答えじゃなくて御免ね。はいこれ、飴あげる』
風邪をひかないようにと手渡すと、ぺこりとお辞儀だけして衣嚢に飴を突っ込んだ。そして先刻の私の催促に従うように、そそくさと医務室を出ようとする。
『身体は大切にしなよ。じゃないと、たった一人の家族すら守れなくなる』
やつがれの背中にそう投げかけた。やつがれは振り返らなかった。言葉が届いていることを願って閉まる扉を見つめていた。
それから数週間後、私はやつがれと顔を合わせること無くポートマフィアを離反した。
✳✳✳
『久しぶりだね、やつがれ』
「挨拶をしに来た訳ではありませぬ」
『つれないなぁ』
あれから四年。やつがれは短期間でかなりの功績を上げたようで、今では町中に指名手配書が貼られている有名人だ。かくいう私も街の人達からの認知度は負けていないけどね!
『なんだか顔色いいね。あ、銀は元気?』
「相手が僕では物足りませんか」
私の問いに、やつがれは余裕そうだと解釈したのだろう。ひりついた空気が流れる。今は冗談を云っていられる状況じゃないね。
敦の初仕事、谷崎とナオミちゃんが着いて行ったが…依頼人の樋口さんは裏社会の人間だ。火薬の匂いがした。治も突然出ていったし、これは不味いなぁと思って私も追いかけてみればこの有様。真逆やつがれの部下だったなんてね。
「伊織さん、貴女は何故武装探偵社に身を置いているのですか」
顔を合わせてたった数秒。四年という長い時を越えて、あの頃と同じ質問をされて目を見開いた。
『ふはっ、唐突だね。それを聞いて何か良い事でもあるのかな?』
「かつてのやり取りを覚えているのなら尚更、貴女がポートマフィアを抜けた理由が知りたい」
やつがれの目はあの頃とはまるで違った。治がポートマフィアを抜け、それでも認めて欲しいという気持ちは変わらず、見て欲しい人に見て貰えぬという状況でもがいてきたんだろう。その目は冷酷で強く、それでいて何かを求める子供っぽさも残っている。
『居場所だからだよ。私を私として受け入れてくれる、私の力を必要としてくれている』
判らないなんて云わないよ。私はこの四年間、此処に居ていいのだと云えるよう、恥じぬよう生きてきた。やつがれが一人でちゃんと進んでいるのに、私も止まった儘ではいられない。
「…判らぬ。それが理由と云うのなら、ポートマフィアも何ら変わりないでしょう」
『暴力は暴力しか生まない。力を使うという点において何方も変わりないと云うのなら……人を救う仕事の方が、私は胸を張って生きていける』
懐から試験管を取り出して、直ぐ動けるようにと体制を整える。やつがれも樋口も各々戦闘態勢を取った。
二対一、普通に考えて逃げるべきだろう。でも、やつがれという私や治の後ろを追いかけてくる後輩に…否、もう既に隣に並んでいるかもしれない存在に、弱いところは見せられない。
『今はただ、正義の為に』
「正義…。貴女が其れを語るか」
『ふふ、可愛い後輩には格好付けたいからね』
「僕は貴女を越える。太宰さんに認めてもらう為にも!」
やつがれの羅生門が襲い来る。試験管を羅生門に向けて投げつけ自分は右側に飛ぶ。壁に足を着き、勢いを殺して着地。その流れに乗って樋口の首筋に背後から畳刀を当てた。
「っ!?」
「樋口!」
『危ない危ない。あ、動いちゃ駄目だよ』
先刻投げた試験管の中身___私の血液が鞭を形作ってやつがれの体に絡みつき、先端は針のように尖って首に突き立てられている。私の采配次第でこの子もやつがれも死ぬ。やつがれの異能を以てすれば私を殺す事は容易いだろうけれど、人質がいる上に私の異能は私の意思でしか解けない。私が意識を失うか異能を解除するか…他に壊す術はない。
其れを知っているやつがれは、此方に睨みを効かせて大人しく異能を解除した。
『君も先輩かぁ、感慨深いなぁ。後輩の教育には飴と鞭が基本だからね』
呉々も治の教育方針は真似しないように、という意味も込めてそう云えば判りやすく眉を寄せた。首筋から刀を離せば、樋口は直ぐに身を翻して距離を取る。
『君が私を越える瞬間、心待ちにしてるよ』
またね、と手を振って治達が居る路地の奥の方へと向かった。
少し歩いて後ろを振り返る。随分と、治から貰った外套を着こなすようになったね。以前より伸びた背丈も、変化した立ち位置も、なんだか嬉しく感じる。
だからこそ、まだ君には負けられない。
「一寸伊織〜!運ぶのを手伝ってくれ給え〜」
気の抜けた治の声に、私は今度こそやつがれに背を向けた。
✻✻✻
「先輩!お怪我はありませんか!?すみません、私……」
「構わん。早急に去るぞ」
「はい!!」
近づくサイレンの音から遠ざかるように、路地裏に入って本拠地へと向かう二人。現場からかなり離れた処で速度を落とした。
「…あの女性は血を操る異能力者ですか?」
「然り。伊織さんは太宰さんの友人、やつがれも世話になった」
息を整え乍ら尋ねる樋口に、芥川は少々咳込み乍らも答えた。
自分の知らない先輩を知っている。芥川を慕っている樋口にとって、異能や強さの面では勿論、ポートマフィアに在籍していたという点においても伊織のことが気になっていた。
「憶えておけ。あの人に背後を取られれば、その先にあるのは死のみ」
芥川はそう告げた。背筋が凍るような心地さえするほどの、冷たく静かな瞳だった。樋口はそれ以上、彼女について問うことをやめた。自分で調べようと、そして先輩の扶けになろうと意を固めた。
「しかし、彼女の背中もまた遠い……」
樋口にも聞こえぬような声で呟かれたその言葉は、先程のような冷たさはなく、どこか懐かしむような悲哀も含まれているようだった。
憧れを抱く存在である太宰。そしてその隣に並ぶ伊織。殺しをしない点を除けば、彼女は準幹部、望めば幹部になれるほどの実力と実績を持っていた。太宰が不在の時は手合わせを買って出てくれたし、それ以外の時でもかなり面倒を見てくれていた。故に彼女は太宰よりも数歩芥川の近くに居た。彼女の背中は手を伸ばせば届くほど近かった。けれど何年経とうが遠くもあった。
「必ず伊織さんの背中を追い越す」
その言葉は伊織の背中を押し、同時に彼自身をも前へと進ませる。
太宰さんに認めてもらう為に。彼は再度その言葉を繰り返し、己がマフィアに身を置く理由を確かめるのだった。