仗露道場2024/10/25「本」(2022/12/3お題) セックスの後は心地よい疲れに沈み込むように眠れる時と、昂揚が醒めやらず妙に目が冴えてしまう時がある。今日はどうやら後者のようだ。ぼくはひとつ息をつくと、ぐっすり寝入ってなおぼくを離そうとしない太い腕をほどいて寝返りを打った。
夜も深い時間だというのに、窓の外は思いのほか明るかった。数日前、珍しくしんしんと降り積もった名残の雪に、白々とした月明かりが映えている。
そういえば、あの日もこんな夜だったな。
仕事部屋で、窓から飛び込んできた矢に右手を射抜かれた。気も狂わんばかりの痛みと絶望。悪夢のようなそれが覚めた時、ぼくは思いがけない能力を手に入れていた。
ヘブンズ・ドアー。
人間の身体には今まで生きてきたすべてが、無意識のレベルまで記録されている。それを読み、また逆に記憶に書き込むために、ヘブンズ・ドアーは人を「本」に変える。「本」の記述は嘘偽りのない人生の体験であり、一〇〇パーセントの真実だ。誰であってもヘブンズ・ドアーに隠しごとはできないし、書き込まれた命令に逆らうこともできない。絶対に。
空条承太郎のスタープラチナが「最強」なら、ぼくのヘブンズ・ドアーは「最凶」と呼ばれることがあった。失敬きわまりないが、他人がそう言いたくなる気持ちもわかる。自分を丸裸にされ、何もかも暴かれてしまうのだと思えば、恐れたくもなるのだろう。彼らはぼくではないから、この岸辺露伴が何のためにこんなスタンドを生み出したかが理解できないのだ。
ぼくは自分の能力を、よりよい漫画を描くためにしか使わないと決めている。スタンドで身を守ることもあるが、それも取材の過程で危険に見舞われた時だけだ。たとえば——あくまで仮定の話として、ぼくがつまらないイカサマなんかを働き、他人の恨みを買ったとする。そいつの記憶を改竄して仕返しを避けるようなことを、ぼくはしようとは思わない。自分の行動の責任は自分で取る、それがまっとうなおとなというものだ。
ヘブンズ・ドアーは使われる側だけでなく、使う側にとっても「最凶」だ。そんなことを言われたこともある。言ったのは、他ならぬ「最強」空条承太郎だ。
杜王町にいる限りはただのスカタンでも、仗助はジョースター家の直系で、不動産王の隠し子だ。そういうヤツと深い仲になるとはどういうことか、ぼくだって考えなかったわけじゃあない。
案の定、ああ見えておせっかいな甥がさっそく飛んできた。ま、ぼくは身元も確かだし、財産めあてってわけでもない。あっさり合格のお墨付きをもらったが(それはそれで「この岸辺露伴をなめるなよッ!」とムカついた)、承太郎はいつものポーカーフェイスで藪から棒に「あんたはそれでいいのかい?」と言ったのだ。
——あんたのその能力だ。惚れた腫れたに、これほど不向きな能力はないだろう。
——……。
——仗助のヤツがあんたを追っかけ回していた間、あんたは誰ともつき合おうとしなかった。高校生に操立てしたってならいっぱしの純愛だが、おれは仗助ほどウブじゃあねェんでな。あんた、何かを恐れていたってことはないのかい?
——恐れる、ねえ。
——あんたは相手の心を覗き見できる。底の浅ェヤツとわざわざつき合う気にはなれんだろうし、本気になったらなったで、そいつを読みたくてたまらなくなる。違うか?
あの頃、ぼくの能力は仗助にはろくに通じなかった。それもあっておっかない甥の牽制を鼻で笑い飛ばせたが、もしかしたらこの先、ぼくはぼく自身の能力を恐れることになるのかもしれないと、その場を立ち去りながら考えていた。
実際、仗助に右手を向ける気になれない時期もあった。ハイウェイ・スターの時は掌ほどの大きさしか「本」にできなかったが、今なら普通の人間、いやそれ以上に仗助を暴ける。ぼくの能力が、仗助に通じる——つき合って数年経ってその実感を得た頃、ちょうどぼくは破産した。たまたま会った噴上裕也に痛いところを突かれ、「ぼくはあいつを読んだりしない」と言い返した。まるっきり、子どもの負け惜しみみたいに。
……考えたらハイウェイ・スターだって、つまりは噴上じゃあないか。あのスケコマシに関わると、まったくろくなことがないな。
ヘブンズ・ドアーが「最凶」だというのはある意味正しい。それでいて真の厄災になっていないのは、半分はぼくの精神力の賜物だが、もう半分はそうではない。
ぼくが自分を恐れずにいられるのは、相手が仗助だったからだ。
ぼくの家に単身乗り込んできたあの日から、仗助の愛はこれっぽっちも揺らいでいない。いつだってまっすぐ、全力でぼくを求める。裏も表もないその愛情表現は、ぼくに不安になる余地を与えない。能力なんか使わなくたって、ぼくはいつだって仗助に愛されている自分を思い知ることができるのだ。
ぼくはきっと、仗助を愛し、仗助に愛されたことで救われた。
もう一度寝返りを打ち、仗助へと身体を寄せる。自分から腕を伸ばし、大きな背中を抱き寄せる。肌に鼻先を近づけると、仗助の匂いがした。ぼくのこころとからだをふわりとほどく、甘い匂い。
安らいで、ぼくはゆっくり瞼を閉じた。