「はは、帝王……ね」
“未だ足取り掴めず”の小さな文字に煙が重なって燻む。ズボンに入れっぱなしだった硬貨で買った新聞紙をくしゃりと束ね、仙道は短くなった煙草の隙間から息を吐いた。
隣国の紛争地域への武器の密輸、裁判所前の暴動、伯爵家の子息の誘拐、議員の暗殺まで。最近起こったあらゆるセンセーショナルな事件の裏で、人・金・物の動きの全てを操り、実現に至るよう暗躍した影の立役者がいる。
実名は定かではない、ただ”帝王”とのみ渾名されたその男が、ついに投獄された。そのニュースは一躍世間を沸かせたが、その男の脱獄とあらば、こんな片田舎の新聞にもまだ小さく記事が出ている程である。もう2週間も前の話だというのに。
背を倒して桟橋の上に寝転がり、爽やかな青空と向かい合う。カモメが視界を斜めに横切って一瞬で過ぎ去っていく。思い出したように、入江の波が舟肌を叩く音が聞こえてくる。
こののどかな港町には縁遠い事件ばかりだったからか、通りで世間話ついでにカマをかけてみても、人々に”帝王”に関する緊張感は全く感じられなかった。”帝王”の根城はもっと北の地域だから無理もない。今頃、仙道の元いた市街地辺りでは、軍本部が血眼で彼を探しているに違いない。
あの人はもうとっくに海の一つや二つ越えているだろうに。必死になって追う人達を思い浮かべて滑稽に思うと同時に、ほんの少しだけ、罪悪感に撫でられる。
「オレが責任取ります」などという薄っぺらい言葉で、主任看守の職は簡単に手放せた。本当の理由を知らない上司と同僚には反対された。けれど、仙道は自分の行いに対して真の意味で対価を払おうとしただけだった。”帝王”が脱獄する手助けをしたのは、他でもない仙道だったからだ。
そんな通り名の一言で片付けられるような簡単な男ではなかった。投獄したはいいが、事件に関わった確たる証拠は見つからず、一日檻の中にいても決して腐らず、他の囚人たちとすぐに打ち解け、看守たちにも気さくに話しかけてくる。同僚の数人も、彼は”帝王”の影武者で身代わりにわざと捕まったのではと噂するほどに、その男に絆されていた。それほどに、問われている罪のきな臭さとはかけ離れた、魅力的な男だった。
けれど、仙道は、そんな質だからこそ彼は帝王そのひとなのだろう、と思っていた。同僚たちの態度を冷静に分析し、自分だけは距離を取るつもりでいた。それなのに、結局は彼の手の内だったのだ。脱獄のためのただの駒。
そうやって彼の手練手管のせいにできたらいいのに。この2週間、必死に頭を捻って言い訳を考えた。しかし、あの一瞬の隙にキスが始まり、激しく求め合ったあの夜に、仙道自身の意思がなかったことにはどうしてもできなかった。あのキスまでは、ただの駒でも構わないとさえ思っていたのだ、きっと。
太陽にあたためられた桟橋はじんわりと背中をあたため、誰にも言えない秘密を守ってくれているようだった。海の上に垂らした足を揺らしてみる。サンダルを落とさないように気をつけながら、もう一度目の前に新聞を掲げる。
こんなに似ていない似顔絵の手配書で、あの人が見つかるわけがないんだ。あの人はもっと、ずるい顔で笑って、優しく首を傾けて、もっと深い瞳でオレを見てくるから。
仙道彰はマイペースな男だった。これほど他人に振り回されたのは初めてだった。脱獄の手助けなんて子どもでもわかる大罪を犯し、それなりに勤めてきた仕事をあっさりと辞め、田舎町の桟橋の上で、一夜の熱を思い出すことなど初めてだった。そして、そんな相手はもう二度と現れないだろうことがわかるくらいには、色々な人間と出会ってきたのだ。
合わせた肌から感じた心臓の鼓動。世界中が自分を追っていても、場末の牢屋の片隅でも揺るがない拍動。耳の中にそれが勝手に蘇ってくるくらいには。オレはもう、あんたのこと。
空想から覚めたのは、その耳の中の規則的な音が、実際に聞こえる、誰かの足音だと気づいたからだった。岸の方から桟橋を歩いて、仙道が寝転がっている方向へやってくる。桟橋の先には小さなボートなんかが繋いであったから、その辺りに用があるのだろう。
自分を避けるスペースは十分にあるはずだから、と思い、仙道は新聞を眺めたままの姿勢を変えなかった。けれど、足音は仙道のすぐそばで止まった。
「よう。火ィくれねえか」
「あー、いや、マッチはねえし、あいにくオレのももう終わっちまうから……」
頭上からおもむろに降ってきた依頼に、正直に返事をする。あの人に火をあげたほろ苦い記憶を、今はまだ、他の人で塗り替えたくない。他を当たってくれと言おうとして、顔から新聞紙を外すと、
「そいつでいい」
一瞬の隙に煙草の先が重なって、手配書の似顔絵とは似ても似つかない深い色の瞳が、仙道を覗き込んだ。
思わず身体を起こすと、驚いた口から、残り少ない煙草が零れ落ちる。寝返りを打った拍子に指先を離れた新聞紙はいとも簡単に海風にさらわれ、あっという間に飛んで行ってしまう。
あんた、と言おうとした唇に、唇が重なる。まるで今朝も会ったかのような、2週間前の記憶と同じ、ずるい顔で彼は笑った。
「探したぞ。仙道彰」
火を点け損ねた一本を箱に戻し、その箱を胸ポケットにしまう。囚人服では目立つからと脱獄前夜に仙道があげた黒いシャツのポケットに、だ。煙草にありつけなかったというのに、いたく満足そうな顔をして、男は仙道の隣に腰を下ろした。
「なんで、オレの名前……」
「なんで待ち合わせ場所に来なかったんだ。ムショの仕事は約束通り辞めたんだろう」
核心を突く質問と、さっき触れたばかりの唇に、目が奪われて言葉に詰まってしまう。仙道が落とした煙草を咥えた横顔は、先程とは打って変わって不機嫌そうだ。
なぜと言われたって、そんなこと、仙道の方が訊きたかった。ただ、もう戻れない気がしたのだ。彼のいない仕事場にも、脱獄と逃亡のために体よく利用される自分にも。
「あんたこそ、なんでここがわかったんすか」
「さあな。オレがお前のことで知らないことはないってことだ」
あるだろ。オレがどんな気持ちでこの2週間を過ごしてきたか。どれほどあんたのことを考えたか。考えないようにしてきたか。
また黙りこくった仙道に、少しだけ罰が悪そうに紫煙が揺れる。そういえば、こんなふうに、強面に見えて意外と表情豊かな男だった。
「まあ、色々と順番が違ったことは悪かった。だが、お前はもうオレの恋人なんだ。勝手にオレのそばから離れるな」
その瞳は、あの夜と同じ深さの光を放っていた。仙道しか知らない彼の顔を、世界中の他の誰を探しても、似顔絵なんて描けっこないのだ。
上から重ねられた手をぎゅっと握られる。その手の力はそのままに立ち上がるから、自然と仙道も一緒に立ち上がる形になる。そうなって初めて気がついた。手にも足にも力が入らない。顔がくらくらと熱い。
男は煙草を踏み消した。それから、わずかに残った吸殻の欠片を拾って、片手で器用に胸ポケットの箱の中に入れた。
「ああ、こう見えてオレは海が好きなんだ」
確かに、吸殻を海に捨てないことは意外だった。ずっと男から目を離せなかった理由はそれとは別だったけれど、仙道はついに笑って言った。
「そう見えますよ」
「そうか」
海が好きなことは初めて聞いた。なのに、なぜだかそれは、昔からよく知っていたような気がしたのだ。
「お前は海は好きか? 仙道」
「好きですよ、あんたのことを考えながらぼんやり眺めてるくらいには。……まあ、海っていうか釣りが好きなんですけど」
「そりゃちょうどよかった。行くぞ、船を待たせてある」
「行くってどこに」
「荷物はどうしてるんだ」
先に立って歩き出す男は仙道の話など聞いちゃいない。でも、「あんたのことを考えながら」の後から、手を握る力がさらに強くなった。
「宿屋に、主人に無理言って長居させてもらってて、そこに置いてますけど」
「よし。そっちが先だな」
彼はそう言って、この2週間、仙道が仮住まいとしていた宿屋の方へ道を折れた。なるほど確かに、仙道についてはある程度の調べはついているらしい。
結局は彼の手の内だが、観念する他ない。それも悪くないと思えるところが帝王と言われる所以なのだろう。仙道はその渾名にどこか懐かしさを覚えながら、こっそりと笑った。
「あんた……名前、なんていうんですか。前のは偽名ですよね」
「ああ、牧紳一だ」
「いい名前だ、牧さん」
もう駒には戻れないらしいし、この手はしばらく離してもらえそうにない。それに、オレだって海は好きだ。
仙道は前を歩く恋人の、熱い手のひらをしっかりと握り返した。
『行き先は同じ海』