食事「いい加減にしろッ」
「……ッ!」
食堂に船長の怒号が響き回る。その船長の正面では、ハートの海賊団のツナギを着せられた、船長によく似た男が床に伏したまま身を震わせていた。
「これを“食う”、ただそれだけの事がなぜ出来ねェ!?」
台に置かれた粥を指して船長は声を上げ続ける。それでも男の反応は変わらない。床から遥か頭上にある船長を恐る恐る見上げながら、はくはくと口を開閉させている。
「……まぁまぁ、キャプテン。そんなに興奮しなくても」
「そうっすよ。そんな焦っても仕方ないって」
ついに心配そうに様子を窺っていたクルーが船長を宥め始めた。他の幾人かはしゃがみ込んで、床に伏す男の背を撫でながら慰めている。
しかし、クルー達も船長の気持ちがよく理解出来ていた。この天竜人の奴隷だった男を拾って既に数週間。船長を初めとするハートの海賊団の面々がいくら心を砕いても、この男の状態が好転する兆しは見えない。……既にここにいる全員が疲れ切っていた。
どれだけ酷い目にあってきたのか、悲しい事に奴隷根性が染み付いてしまっているこの男は、人間らしい振る舞いをしようとしない。下半身が全く動かない彼は弱々しく地を這い、他の人間を見上げるのを良しとする。それを憐れんで椅子に座らせれば、彼自身が耐え切れず自ら床に飛び出してしまう程だ。他にもハートのクルーを悩ます事は数知れず。今、船長が声が荒げているのもその内の一つが原因だった。
人間が生きる為に必要不可欠な“食事”。目の前に用意された料理を食べる。ただそれだけの事が彼にはとても難しい事だった。全く食べられないわけではない。しかし、彼が食物を口に入れるのは船長が手ずから彼に食事を差し出した時だけだった。それもおずおずと食事を差し出す船長の顔色を何度も窺って、顔を青褪めさせながらそれを口に含むのが常だった。不自由な体である事を考慮しても、決して自ら食事に手を出そうとしなかった。
初めの頃はそれでも仕方ないと船長を含むハートの海賊団は温かく彼を見守っていた。それでも、一向に改善を見せない彼の様子にだんだんとハートの海賊団も疲れを見せ始める。特に船長のそれは顕著で、疲れに加え焦燥も募っていた。
そして今日も彼の前に粥を差し出して自ら食事をさせる訓練をさせていたのだ。どうしても彼を椅子に座らせると落ち着かない様子なので、床に座らせて低い台に粥を乗せて、匙を置く。もちろん、誰も未だ握力すら満足に回復していない彼が最後まで一人で食事が出来るなんて思っていない。……ただ、自ら匙を取る、或いは取ろうとして自ら食事をしようとする姿勢さえ見せてくれれば良かったのだ。たったそれだけの、少しずつ彼の人間性を取り戻すの為の訓練のはずだった。
だったのだが。
男は壁に凭れかかって、おろおろと周りを見渡すばかりで一向に匙を取ろうとしない。見兼ねたクルーが匙を持って彼に持たせようとしても、首をふるふると振るばかりだ。それならいつも食事をさせている船長なら、とクルーが船長に匙を渡して船長が彼にそれを握らせようとしても結果は変わらず、それどころか男が船長の手を振り払うものなので、手から零れ落ちた匙がカラカラと音を立てて床を転がっていく。男はそれに顔を真っ青にして、ハッとしたように船長を見上げた。顔を顰める船長を認めて、焦ったように床に伏して震えながらパクパクと口の開閉を繰り返している。決してそれが音になる事は無いが、ここにいる全員が許しを乞うているのだと確信出来た。……その姿が余計に船長を苛立たせて、冒頭に戻る。
船長とて彼が如何に酷い扱いを受けてきたのか、回復には果てしない時間が掛かる事は痛い程に理解している。それでも。自分と同じ顔をした男がこうも情けない姿を晒すと苛立ちが隠せられなかった。
床に転がる匙を拾って、再び男に差し出す。それでも男は何度も何度も頭を下げて震えるばかりでそれを手に取ろうとしない。仕方なく無理矢理手を取って匙を握らせると遂に男は嗚咽を上げ始めた。匙は握ったまま震えながら固まってしまっている。
「そうだ、一口だけでいい。そのまま食ってみろ」
「キャプテン」
苛立ちを募らせる船長の隣でペンギンが諌めてくるが、船長はそれを無視して男を促す。その言葉に従って男は泣きじゃくりながら粥に手を伸ばすが、もう少しのところでその手はピタリと止まる。暫く見守るが、結局その手はそのまま進まず再び匙はカタンと音を立てて床に落ちた。男はもう顔を上げる事もせずにただ床に伏して震えている。匙を握った手も脱力してしまって、もうすっかり床から上げるのも難しそうだ。
「何やってんだ……ッ!掬って食うだけだろうが!!」
「……、」
「キャプテン!!」
ついにペンギンが声を上げた。クルー達が心配そうに船長とペンギンを見ている。
「焦りすぎです。一番苦しいのは彼だって、あんたが一番分かっているでしょう?」
ペンギンの言葉に船長は唇を噛み締めた。それでも床で震えている男を見て、また声を上げそうになるのを必死に堪える。そして、一度息を吐いてしゃがみ込んで彼を抱き上げ、ついでに粥も手に取って立ち上がった。
「……悪い。部屋でこいつに食事をさせてくる」
担ぎ上げられた男は一度びくりと体を震わせたが、抵抗の一つも見せずされるがままだ。二人は他のクルーが見守る中、静かに食堂を後にした。
***
「……頭を冷やしてくる。少し待ってろ」
船長室の床にローを下ろすと主人の代わりの男は部屋を出て行った。ローは慌てて手を伸ばすが、無情にも扉は閉まる。部屋にはロー一人が残される。
(失敗した失敗した失敗した)
男の命令が聞けなかった事が大きな負担となってローにのしかかる。
いつもはこの船長室で彼に食事を与えられている。しかし、時折食堂に連れて行かれて食事をさせられる事がある。今日がその日だった。何をされているかなんてローにも分かっている。まともな人間になる為の訓練をさせられているのだ。
初めは主人以外から与えられる上の口からの食事なんて出来なかった。それでも、主人の代わりの男に強く食事を強いられれば拒む事も出来なかった。……主人から死ぬ事を許されていない事もある。仕方なしに吐き気を堪えながら必死に飲み込んでいると、なんとか乗船当初から与えられている粥だけは自分の餌として認識出来るようになった。主人の代わりの男からの手ずから与えられてやっとそれを飲み込む事が出来るようになった。そんな現状なのだ。そんなローが何とか普通に食事を摂れるように、男以外の手で、又は自分一人の手で食べられるようにと、こうやって訓練をさせられているのだ。
分かっている。分かっているのだ。……それでも。
人間らしく振る舞う。どうしてもローにはそれが出来なかった。
「……ぅ、……ッ」
震える体からは再び涙が溢れてくる。
重い下半身を引き摺って、ローは床を這う。そして、ローの食事用に誂えられた低い台の上に置かれた粥に向き直る。男が戻って来る前になんとか、なんとか一口でも自分自身の手でそれを口にしようと匙に手を伸ばす。出来なければ、また叱られる。男の手を借りずに生きられるようにならなければ。
……そう思うものの、やはり伸ばした手は匙の前でピタリと止まり、どれだけローがそれを掴もうとしてもまるで自分の体でないかのように動かない。
「……、………ッ、」
動け、動けとどれだけ言い聞かせても、血が滲む程に唇を噛み締めても。……手は動かない。
(クソクソクソ……ッ!!)
原因なんて分かってる。ずっと前から気が付いている。自分は、……自分は。
―――自分が人間であるだなんて、認められないのだ。
それをまた自覚して、ローは無理矢理着せられたツナギの前を胸を掻きむしるように開いた。そのまま暴れるように上半身を曝け出す。残念ながら不自由な下半身は脱ぐ事は叶わなかったが、それだけで幾分かは安心出来た。
そうだ。自分が衣服を纏っている事はおかしい。だって自分は主人の所有物でしかないのだから。主人の為に、主人が望むままにその身体を差し出す道具でしかないのだから。そんな自分がまるで人間のように衣服を纏って、道具を使って自ら食事をするなんて到底許される事ではない。
「……っ」
そんな思考に耽って安堵している自分に気が付いて、ローは弱々しく床を叩く。
なんて、情けないのだろう。惨めなのだろう。主人の目が届かない今なら人間になる事も出来るはずなのに。こんな惨めな自分を晒す必要もないのに。
それでも、
今ここで自分が人間である事を証明してしまえば、……人間だったと認めてしまえば、主人から受けたあの仕打ちを人間でありながら受けた事になる。
それだけはどうしても受け入れる事が出来なかった。主人のものだったから、道具だったから、自分はあんな日々を送っていたのだ。主人の為の、主人の快楽の為の淫具。
そうでなければならない。そうやって生きてきた自分がまさか人間だったなんて受け入れられるはずがなかった。人間でありながら、あんな生を強いられていたなんて、それほどまでに惨めな事があって良いはずがない。
道具、道具。主人の所有物。幾度も心の中でそう言い聞かせると、幾分気分は落ち着いてくる。自分という存在が何かを思い出して、ローは床に横になり薄っすらと笑みを浮かべる。
しばらくそうして虚空を眺めていたが、はたと、これではまた同じ事を繰り返すだけだと気が付く。なんとか主人の代わりの男が満足するように餌を口に出来るようにならなければ、また叱られてしまう。主人と違って、声を上げてローを叱り付ける男にローはどうしても萎縮してしまうのだ。
「……」
再び粥に向き直って考える。……そしてしばしの後、ローは良い事を思い付いた。そうだ、これなら彼らの望む結果を出す事が出来る。
腕でなんとか上半身を浮かし、粥を覗き込む。―――そして、
***
海を眺めながら息を吐く。幾度かそれを繰り返し、気分を落ち着けようと努力する。
「……はぁ」
あの自分によく似た男に無理を強いている自覚はある。余程酷い目に遭ってきたと思われる男の快復には途方も無い時間が掛かると理解もしている。
それでも、ローは焦燥を抑える事が出来なかった。
(こんな事をしてる場合じゃねェんだ……)
ローには大好きな恩人の本懐の為に果たさねばならない事がある。その為にこの十一年間、恩人に貰った人生を捧げてきたのだ。既にローの目的の人物も目の前まで迫っている。ヤツを倒す為に、やるべき準備が山のようにあるのだ。どれだけ策を巡らせてもドフラミンゴ相手では足りない。海賊としての地位の向上も必要だ。当然、もっと力を付けなければ今のままでは無駄死にする事は目に見えている。余計な事に時間を食っている場合ではないのだ。それなのに、それなのに。
「……ちッ」
出会ってしまった以上、自分が彼を無視できたとは思わない。それでも、彼を拾った事を後悔しているかと問われれば否定出来ない。彼のお陰でロー自身もハートの海賊団も大きく疲弊している。ドフラミンゴに備えるどころか彼一人を生かす為に右往左往している始末だ。ローの手ずからでしか食事さえ出来ない。これでは彼がいるだけでローは身動きが取れない。このままでは、恩人の本懐など到底果たせないだろう。
きっと彼が自分と同じ顔でさえ無ければここまで神経を逆撫でされる事も無かった。もっと落ち着いて彼と接して、上手く治療へ繋げられたはずだ。それでも、彼のあの顔がどうしても自分を苛立たせる。違うとは分かっていても、時折彼が自分自身のように思えてならない時があった。
愛する故郷の人たちを踏み越えて命からがら国を脱した。国を滅ぼされた絶望を憎しみに変えて、ひたすらに生にしがみ付いてドフラミンゴのところまで辿り着いた。そして、大好きなあの人に連れ出されて、命と心を貰ったのが自分だ。トラファルガー・ローだ。……だが、もし故郷を滅ぼされた絶望を憎しみに昇華出来ていなかったら?ドフラミンゴのところに辿り着けなかったら?人買いに見つかって売られていたとしたら?
自分が辿らなかった人生の道程が次々と頭に過ぎる。そんな運命は訪れなかったのに。自分はこうして海賊として生きているのに。
その事実は揺るがない。……しかし、彼を見ていると自分という存在が揺らぐ気がしてならない。まるで彼が自分のあり得たはずの未来と言っているようだった。シャボンティ諸島で目にした天竜人の奴隷に堕ちた自分が目の前にいるなんて、酷い悪夢だ。そんな地獄から引き上げようとしても当の本人がそれを拒絶する。惨めで情けない人間以下の自分。
「くそ……ッ」
違う、彼は自分じゃない。あれは天竜人に自分の代わりにさせられた哀れな男だ。別人だ、自分ではない。
海を眺めながら必死にそう言い聞かせる。
『あいつは自由だ!!!』
耳にこびり付いて離れない恩人の言葉を何度も思い起こして、ようやく冷静さが蘇ってくる。……そうだ、おれは自由。誰かに飼い慣らされてなんていない。
深く深呼吸をする。恩人のお陰で冷えた頭で考えると、あの男には随分と酷い真似をしてしまったと反省する。彼の境遇を鑑みれば根気良く付き合っていくしかない。迎え入れると決めたのだ。放り出すなんて以ての外だ。まだ彼を拾ってそう日も経っていない。暫くは彼が安心できる環境を整える事を優先しよう。自分の目的と彼の事は分けて考えなければ。
「……ふぅ」
もう一度息を吐いて、ローは顔を上げた。
彼に怒鳴りつけた事を謝罪して、もう一度食事を摂らせよう。先程はさっきまで頭が回っていなかったが、粥も温かいものと取り替えてやろう。きっと冷えてしまっているだろうから。
そう決心して、ローは部屋を飛び出した時とは打って変わって前向きな気持ちで男と向き合う事に決めたのだった。
***
そのはずだったのに。
「ぅ……、ぁ……」
自室の扉を開けてローは悍ましいものを見た。
思わず部屋に踏み入られないまま立ち尽くすローの正面では、天翔ける竜の蹄の紋章が蠢いている。―――いや、それを背中に焼き付けられた人物がローに背を向けて上半身を懸命に揺らして、何かを貪っている。
「……おい」
重々しい口を何とか開くと、ローの存在に気が付いたのだろう。彼がゆっくりとローへと振り返る。その顔面を見て、ローはやっと彼が何をしていたのかを察した。
彼の顔面にはところどころに粥の汁や米粒が付いている。どうやら、食事をしていたようだ。まるで獣のように、床に這いつくばって顔をそのまま粥に突っ込んで。食堂の時と同じように匙は虚しく床に転がっている。
彼は粥で汚した顔でローを見上げると、歪に口角を吊り上げた。それはまるで褒めてくれと言わんばかりだった。
「―――――!!」
その時、ローは自分が何を叫んだのか分からなかった。悲鳴か、怒声か。その両方か。頭の片隅の冷静な部分ではこれが悪手だとは理解出来ている。それでも、彼のわざわざ服を脱いで奴隷の証を露わにして、自らを貶める彼の行動にどうしようも無い嫌悪と忌避の方が勝ってしまった。目の前の彼はそんなローに怯えを見せて慌てて気色の悪い笑みを崩すと床に這いつくばったまま許しを請うてくるのでそれが余計にローの癇に障る。もう自分では止められなくて、口からは次々に罵倒の言葉が飛び出してくる。目の前の彼は呆然と体を震わせながらそれを聞き入っている。床に向かって小さく動かす口からは僅かに音にならない声が漏れてる。ローには終ぞ届かなかったが、彼の必死に紡ぐ謝罪の言葉だった。
やがてやっとローが冷静になってきた頃、男の様子がおかしくなった。急に口を押さえたと思うと、喉から音を立てて苦しみ出した。そして、
「……ぉ、ぇ」
大きくえずいたかと思うと、その口からはどろりとした何かが流れ出てくる。まだ口にしてからそう時間の経っていないそれは、米粒の形をはっきりと残していて先程食したばかりの粥だと分かる。
流石にそんな男にもう怒声を浴びせる事も出来なくて、呆然とするローとは違って慌て出したのは嘔吐した当の本人だ。目に見えて顔を青くして、先程自分が吐き出したものを集めようとする。顔も腕も、彼の嘔吐物でどろどろだ。黙って彼を見下ろし続けるローの視界に入らないように嘔吐物を集めようとした彼だが、やがてそんな行為が何の意味を為さないと気が付いたのか、恐る恐るローを見上げた後、あろう事か口を開くとその嘔吐物に向かって舌を伸ばし始めた。何をしようとしているかなんて明白だった。
「……やめ、ろ」
ローはまた叫びそうになるのを必死に抑えて、何とかそれだけを搾り出した。
「……いい。もう……っ、何もするな」
震える口からまともな言葉が絞り出せたのか、ロー自身でも分からなかった。それでも、男が震えながらも行動を止めたのでどうやら何とか男には伝わったようだった。
「……誰か呼んでくる、から、……もう、お前は、じっとしていろ」
なんとかそれだけを告げるとローは逃げるように部屋を後にする。
残された男はローに向かって何か伝えようと口を開閉していたが、やがてそれが無駄だと思い出したのか、のろのろと定位置となっているベッドと壁の狭い隙間に這って行った。
***
「おえ……ッ」
何とか甲板に辿り着いて、ローは胃の中のものを海へと吐き出した。
「くそ……、」
先程の光景が忘れられない。男の顔に腕にへばり付いた嘔吐物。―――肌を染める白、体に纏わりつく屍体から漏れ出た液体。遠い昔に自らを苦しめた悪夢を思い起こさせて、余計にあの男が自分に重なった。
(違う……ッ、あいつはおれなんかじゃねェ)
幾度自分に言い聞かせても、必死に振り払ったはずの恐ろしい想像が蘇ってくる。
亡骸の中を這い進む自分。白い肌にこびり付く腐った肉や汁。ドフラミンゴのところへ辿り着けず、人買いに―――、
そこまで考えて慌てて首を振った。
(違う違う違う!!それはおれじゃないッ!!)
彼の存在一つが自分という存在を揺るがしてくる。
(コラさんコラさんコラさん……ッ)
自分を自分足らしめた恩人に縋りつく。そうしなければ、今にでも彼に飲み込まれてしまいそうだった。
***
「ぅ……、ぁ……」
いつかの時と同じように無情に閉まる扉を見つめる。当然、主人の代わりの男が戻ってくる事はない。
ローは部屋の片隅へ戻ると混乱する頭で考える。
何がいけなかったのだろうか。良い考えだと思った。あの方法なら自分は餌を食べられて、彼らの望む結果になったはずだ。きっと満足してもらえると思ったのだ。それなのに、ローと目が合った瞬間、主人は顔を青褪めた。そしてローを叱り付けた。そのあまりの迫力に上手く言葉は聞き取れなかったが、ローはただまた自分が間違えた事を悟った。それを認識すると同時に腹がむかむかして、どうしようもなく気持ち悪くなって、腹に入れたものを全て戻してしまった。良くない事だと直ぐに察して、なんとかそれを掻き集めて主人の目に触れないようにしようとした。しかし、戻した瞬間を見られてしまったのでそんな事なんの意味を為さなくて。仮の主人の冷え冷えするような瞳と目が合って、慌てて腹の中に戻そうと口を開いた。そうするしかローには床を綺麗にする方法なんて思い付かなかったから。結局その行為すらも彼の気分を害すものにしかならなくて、ついにローは何をするのも許されなくなった。
「……んぁ、……ぁっ」
せめて謝罪を伝えようと幾度口を開いても、言葉を禁じられているローの口からはまともな音なんて出てはくれない。……結局、主人の代わりの男が言った通りローには何も許されていないと再認識して唇を噛み締めた。
暫く部屋の隅で途方に暮れていると、不意に扉が開く。慌てて顔を上げて、出迎えようとするが先の仮の主人の言葉を思い出して床に伏した。ローには何も許されていない。
部屋に入ってきたのは、この船の船員たちだった。よくローの世話をしてくれる帽子を被った男を筆頭に数人が掃除用具を手に部屋に入ってくると手際良くローの吐き出したものを片付けていく。やがて、ある程度の処理を終えると帽子の男がローに近寄ってくる。
「……ぅ、ぁ」
「ほら、綺麗にするから顔を上げて」
思わず、体を強張らせるローの頭を上げさせると濡れたタオルで嘔吐物と粥に塗れたローの顔を拭いていく。
「ほら、体も。体起こせる?」
ローは男に従うしかなかった。おずおずと腕を差し出すと男がその手を取って、上半身に付着した嘔吐物を拭き取る。自分で片付けようとして、掻き集めた時に付いたものだ。
されるがままのローはやはり“もの”のようだった。声を上げようとしても、ローの拙い呻き声だけでは何の反応も返してくれなくて、男はただ淡々とローの体を清めていく。結局、早々に無駄だと悟ってローは口を開くのを止めて、大人しく男に身を任せた。
「どこか他に気持ち悪いとこある?」
男の問いにふるふると首を振ると男は最後にローに水を差し出して口を雪がせる。そして、ローが脱いだ上半身のツナギをきちんとローに身に付けさせると丁寧に床に横たえ立ち上がった。
「ペンギン、その子のご飯どうするの?これ全部出しちゃってるでしょ」
「キャプテンに任せるしかないだろ。おれたちじゃ、食べてくれないんだから」
そのまま、掃除用具を手に彼らは部屋を出て行った。
また部屋にはロー一人だけが取り残される。
(……アイ)
ローの脳裏に唯一安らぎを覚えられる存在が呼び起こされる。……しかし、どれだけその名を呼んでも、その存在がローの元へ戻ってくる事はない。