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君を見つけた時、息が止まるかと思った。
透明なガラスの向こう側。カフェの制服である黒のエプロンを身に着け、どこかのサラリーマンへにこりと笑顔を見せている。
そんな笑顔は知らなかった。いつも眉間に皺を寄せ、睨むように人を見ていたから。
いや、違う。知っている。
気の許した仲間の前で。
深夜の執務室で。静かな私室の部屋で。
ごく稀に。ごく僅かに口角を上げて、不器用に、けれど優しく小さく笑う表情を知っていた。
リヴァイ兵士長。
幼い頃から記憶にある、人類最強で俺の腹心の部下。
「いらっしゃいませ」
自動扉が開き店内に足を踏み入れると、若い店員の声が聞こえてくる。一週間迷い悩んだ末に来てしまった店。ゆっくりと足を動かし、レジに近い位置のテーブルに座った。
背の高い青年が水とメニュー表を持ち爽やかな笑顔を見せて去っていくと、メニュー表を眺めるふりをしながら、そっとレジの方へ視線を移しその小柄な男の姿を確認した。
黒い髪、記憶と同じように後ろを刈り上げた髪型。小さな顔とそのパーツ一つ一つがそのままで思わず顔が緩んでしまう。色白は変わらないが、健康状態がいい為か、全体的に肉付きがいい気がする。頬もつるりと柔らかそうで、若々しさが溢れている。
先程の青年が彼の隣に立つ。大きく差があるその身長も記憶通りらしくて笑みが漏れる。二人は仲が良いのか、何かを話すとハハハッと楽しげに笑い合っている。その自然な笑顔に安心し、どこか寂しくも思った。
あの君は、もうどこにもいないのだと。
「440円になります」
静かな声だった。
財布からゆっくりと千円札を出し動向を見守ったが、レジを開ける彼は淡々としていて、一人で緊張している自分がおかしくなる。
「560円のお返しです」
お釣りを渡された指は色白で細い。戦いなどを知らない幸せな手は想像よりもとても小さく見え、とても綺麗だった。
君の手に、一度だけ触れたことがある。
君は覚えているだろうか。
もしもあの時、君の手を引き寄せていればーー。そんな馬鹿なことを何度も考えた私を知れば、君はどんな顔をするのだろう。
「ありがとうございました」
彼が真っ直ぐに俺の顔を見た。
口の端を少し上げ、にこりと笑顔を向けてくる。
俺はその顔に静かににこりと微笑み返すと、財布をカバンに戻しながら店を出ていった。
記憶がないことにがっかりはしなかった。むしろホッとした。あんな記憶などなくていい。
ただ幸せな青年として普通に暮らしてくれれば、それだけで嬉しい。記憶があってもなくても、俺は君に近付かないと決めていたから。
だが思いがけず出会ってしまい、悩んだ末に会いに来てしまった。
せめて見守るくらいは許してくれるだろうか。カフェに立ち寄るただのサラリーマンとして。
エルヴィンはコーヒー一杯のレシートを幸せそうに眺めながら、丁寧に胸ポケットへしまいこんでいた。
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「リヴァイ!?」
バイト仲間に呼び掛けられようやく気が付いた。
レジに突っ立ったまま今出ていった男の後ろ姿を見つめ、ぼろぼろと涙が出ていたことを。
「お、おい大丈夫かよ?どうした?」
慌てる友へ、頷きながら目を擦りレジから離れる。
「大丈夫だ。花粉症」
「花粉症…?え、お前、そうだっけ?」
「ごめん。ちょっとレジ外れていいか?」
「ああ、いいいい。早く行ってこい」
笑顔を浮かべ、シッシッと追い出す男にありがとうと伝えると、俺は裏の従業員専用の扉を開けた。
男のことは前から知っていた。
初めて見付けた時は息が止まりそうで、持っていた雑誌の束をどさどさと落としてしまった。
エルヴィン・スミス。
兵団の団長であり、有能な指揮官であり、俺の最も信頼する男。
男は記憶の男より細身で柔らかな雰囲気に見えた。金色の髪は七三ではないが、さらりと輝く色も意思の強そうな太い眉も、あの男と同じだった。ぴしりとしたスーツを着て颯爽と歩く男はいかにも仕事ができそうで、変わらねぇんだなと僅かに頬が緩んだ。
それから何度か見かけるようになった。朝の忙しそうな足取りや、ゆっくり帰宅する姿も。店の通り側はガラス壁で、カフェの中からちらちらと覗き見るにはぴったりだった。
見ているだけで良かった。幸せな暮らしをしているんだとしれただけで、それを見ていられるだけでラッキーだと思った。
それが今日突然男が店の前にたち、俺の心は一気に動揺した。
もしも店に来た時の対応は考えているつもりだったんだ。必死に心を落ち着け、いつも通りに笑い、いつも通りの対応ができたはずだ。記憶の無い男は最後ににこりと微笑み店を出てゆき、その後ろ姿を見た瞬間、緊張が解けたのか思わず涙がでてしまったようだ。
もう俺は強くもなく、簡単に泣いてしまう弱っちいガキだ。優しい家族がいて仲の良い友人がいて、大声で笑ったり愛想笑いもできる普通の大学生で。お前と交わるような人生はどこにも持ってなく、ホッとした。
俺は最初からお前を探すつもりはなかった。例えどこかですれ違ったとしても、繋がりを持つことはやめようと、最初から決めていたからーー。
お釣りを渡した時のことを思い出しリヴァイはふっと口角を上げた。
大きな手に変わりはないが、古傷も固くなった皮膚もないお綺麗な手で不思議な感じがした。
あの頃、俺はお前の手に一度だけ触れたことがある。お前は覚えちゃいないだろうが。
あの時のことをずっと覚えていたんだと言えば、お前はどんな顔をするんだろうな。
リヴァイは頬に残った涙をタオルで拭くと、鏡を見て髪を整えた。
思いがけず出会ってしまった。
だから見守るくらいは許してほしい。お前の邪魔は、何もしないから。
リヴァイは目を瞑りパッと見開くと、自分の顔を確認してその場から離れ、仕事場へと戻って行ったのだった。
。。。