ありふれた絶望私は毎日、自分の部屋の隅で蹲る。荒い呼吸を整えている余裕もない。部屋の外からは怒号が聞こえてくる。
「あなた!またパチンコで全部使ったでしょ!!」
「うっせえな、てめぇに言われる筋合いはねえよ!!」
何度こんなことを、聞かされ続けたのだろう。やめてなどと言って、止まるような人じゃない。
怖い、怖い、怖い。痣まみれの腕をぎゅっと握る。
ぎぃ……と扉が音を立て、自室に誰かが入ってきた。顔を上げた途端に、頬に煙が出そうなほどの強さで殴られる。
「さっきからその息がうるせえんだよガキ!!」
耳鳴りがなるような怒鳴り声が部屋に響く。泣いてしまいそうになるが、ここで泣くとまた殴られるのを分かっている。必死に涙をこらえた。
短い髪の毛を引っ張り、無理やり顔を向けさせられる。口臭が酷く、顔を逸らしたくてたまらない。でも、どうせここにいる人には助けてなんて貰えない。
「いた、い……やめて……お父さ───」
ようやく解放されたその瞬間に、やせ細ったお腹に膝を入れられる。それも、大人の全力によるもの。あまりの痛さにその場に蹲り、戻してしまった。
「立てよ」
首を小さく横に振る。
怒鳴り声で「立てっつってんだよ!!」と言われ、また髪の毛を引っ張られる。
ようやく、お母さんが止めに入ってくれた。遅すぎると思ったが、このままでは死んでしまっていたかもしれない。助けてもらっただけ、よかったのだ。
お父さんは、私のフケにまみれた黒い髪に唾を吐き捨てて部屋を立ち去っていった。お母さんは、私に何も言わずに、外に出て部屋の戸を閉めた。
こんな生活が、何ヶ月も続いている。
「……明日は、学校……」
行きたくない。嫌だ。
でも行かないと殴られる。泣いたところで、どうせ殴られる。
……昔は、ちょっと叩かれただけで泣いていた。なんで叩かれたのかも分からなかった。前は頬ではなく、顔を本気で殴られて、鼻血をダラダラと垂らしながら意識を失いかけた時もあった。
でも、今となっては分かる。私は、こうしてストレス発散に使われているだけだ。
でも、叩かれる以前は可愛がって貰えてた。その日に戻れるような日を、私はずっとこうして耐え忍んでいる。
今日はもう疲れた。寝よう。私は、汚いベッドの上に寝転がる。
静かに寝付いた時に、また頬に激痛が走る。何事かと目を開くと、お父さんがまた部屋の中に入ってきていた。
「起きろよ、誰が寝ていいっつったよ」
「あ、明日、は……」
「口答えするんじゃねえ!」
怒鳴り声の後、仰向けの状態から無理やり立たされて、正座を強制してきた。
逆らえるわけがなかった。眠い目を擦る。
「こっちがムカついてるのに、てめぇはそうやって呑気に……」
睨みつけてくるその目が怖くて仕方ない。思わず目を逸らしてしまう。
細い腕を強く掴まれて引っ張られ、怒鳴られた。
「何目を逸らしてんだよ!!」
ここに、逃げ場なんてない。静かに眠れやしない。
お父さんは、舌打ちをして私の腕を地面に叩きつけるようにして離し、部屋を出た。掴まれた腕はすごく痛くて、腫れてしまわないか心配になる。
もう、怖くて眠れない。
私はまた、満足に一睡も出来ないまま、学校へ向かうことになるのだろう。
ああ、嫌だ。怖い。
ぼーっとする頭の中、私は暗い部屋でベッドの上に座り続けた。また、起こされないように……また、怒鳴られないようにするために。
長い夜を経て、気づけば朝を告げる鳥の声が聞こえてきた。働かない脳みそを動かして、私はバッグに詰め込んだ荷物を持ち、複雑な気持ちを持ったまま、外へ出て登校する。
学校までの道のりを行く途中、後頭部に痛みが走る。殴られた時の頭痛かと思ったが、目の前に小さな石ころが転がり落ちたと同時に、後ろからくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「おーい!うんち女!」
「うわくっさー!最悪!なんでここにいんの?」
「学校来んなよな!」
いつもこうやって絡んでくる、いじめっ子集団だ。前々からこのように、いじめを仕掛けてくる。昔は教室内ぐらいだったものが、今となってはわざと登校時間を合わせてきてくるようにまでなってきた。正直、お父さんの体罰と比べてしまえばもう慣れたものだ。
無視して歩き続ける。後ろからやんややんや聞こえてくるが、関係ない。
ずっと後ろからなにか聞こえてきた状態で、ようやく学校について階段を登り、四階の教室に入る。
普通なら、二つの机をくっつけているものだが、私の隣の人はあからさまに嫌がって離している。
こちらも分かっていたので、何もせずそれを受け入れていた。
ふと、机の下に何かが入っていることに気がついた。
……湿っている、何かと思い取り出す。
「……っ!な、にこれ……」
カエルの死骸だった。湿っているということは、つい最近のもの。それも、前足や体の一部が引き裂かれているので、わざと殺した上で入れてきたようだ。
色々な意味で、最悪なことをしてきた。今抜け出すと、朝の会に間に合わなくなる。あのいじめっ子集団のかわりに謝り、あとで土の中に埋めてあげることにした。
やはり、笑い声が嫌でも耳に入ってくる。言いたいことがあるなら言えばいいのに。こっちはいくらでも言われ慣れてるのだから。
当然、これらの件を先生に相談しようとしたこともあったし、なんならきちんと相談もしたこともあったが、お父さんからは逆上され、いじめっ子も前よりもエスカレートし、より酷くなった。
……もう、言ったところで改善の兆しなど見られなかった。
朝の会が終わってすぐの一時間目の国語の授業。教科書に書かれているあるお話を読み進めるというものだった。
その中で、とある言葉が読めなかった私は、その文の前で詰まってしまった。私は浮かんだ適当な単語をそこに当てはめた。当然、間違えていたようだったが、いじめっ子の一人が明らかにバカにしたような言い草をしてきた。
「こら、ちゃんと頑張って読んでいるんだから。そういうことは言わないようにしなさい」
先生からごもっともな注意を受けても、だって〜などとふざけた態度をとっている。
誰からも教えて貰えるわけもなく、先生から読み方を教えて貰ったことで、なんとか読み進めることが出来た。
ようやく学校が終わった私は、また絡まれないように手早く支度を終えて学校を出た。
この帰り道が、前までは気の安らぎだった。登校までついてこられるなら、当然、下校中もついてくる。
後ろからまた色々言われてる中、「もうやめなよ」と誰かが後ろから声をかけて静止してきた。何事かと思った私も振り返った。
赤いカチューシャが特徴的なその女の子は、私たちのクラスの学級委員長だった。いじめっ子は何か言いたげな顔をしていたが、相手はクラスの委員長。何も言わずに私を無視して去っていった。
「……ごめんね、もっと早く助けるべきだったよね」
思わぬ出来事に、私は戸惑ってしまった。これは信じていいのかもわからない。
「あまり話したことないから、名前も覚えてないよね。私は『夢月(むつき)』。貴方の名前は、確か……」
「……さ、『小夜(さよ)』……」
「小夜ちゃん!大丈夫だった……って、その痣どうしたの!?」
あ、と小さな声を出して私は腕をまくって誤魔化そうとした。しかし、夢月はどうやら私の頬を見ていたようだった。
「……なんでもない……」
「酷い怪我……先生に───」
夢月がその提案をした瞬間、息を呑んで「やめて!!」と思わず、大声を出してしまった。夢月は口をぽかんと開けていた。私はすぐに口を両手で隠して、謝る。
「ごめんなさい……違うの……」
「……小夜ちゃんなりの悩みがあるんだね。こっちこそごめんね、変な提案なんてしちゃって」
「……大丈夫……」
夢月のそれはきっと、本当の優しさだ。家族からも満足に与えて貰えなかった、感じたことの無い暖かさを感じられる。
帰りたくない。夢月と共にいたい。今、そんな思いまでも込み上げてきてしまう。
「一緒に帰ろっか」
「……うん……」
私にとって、初めて心から信頼を寄せることが出来る人だった。
私の家の前まで、夢月は私の汚い震える手を握って送ってくれた。
去り際に、「また明日!」とこちらに手を振ってくれた。また明日。その言葉がここまで嬉しいことがあるのだろうか。
……明日は頑張れそうだ。
私は家に帰ってすぐに部屋に引きこもった。ただいまと私が言ったところで、「おかえり」など返ってくることはない。
ただ、いつもよりも心が少し軽かった。ずっと暗かった私の表情も和らいだ。
部屋の 扉が大きな音を立てて開いた。微笑みを浮かべた表情が、一瞬にして恐怖で怯える顔へ変わる。
……そうだ、今日もこれに耐えなきゃいけないんだ。
でも、今日は平気だ。壊れたと思ってた心が生きている。
いつものように、私に向けて愚痴や暴言を吐きながら、叩かれて髪の毛を引っ張られて……耳鳴りも酷い、頭痛もする。
でも、私はいつもよりも気持ちが楽だった。希望のない毎日を送っていた私にとって、夢月は救世主のようなものだった。
それからというもの、私に対するいじめも夢月が介入したことで少しずつ減ったことで、学校が私にとっての安らぎの場になった。
休み時間では夢月が積極的に話しかけてくれて、遊びにも誘ってくれる。私にとって休校なんてものは必要なかった。
ただ、家に帰れば、そんな気持ちは一転する。いつものように部屋に閉じこもっていた私に、お父さんが近づいてくる。
「なあ、おい。てめぇよぉ、何いつもヘラヘラしてんだよ」
この時の私は、少しでも抵抗したいと考えた。それか、魔が差したのかもしれない。お父さんの言葉をあからさまに無視した。当然、叩かれた。それでも、私は無視を続ける。
大きく舌打ちをされた後、ジュッと音がしたと同時に私の腕が一瞬だけ、燃えたように熱くなった。思わず腕を引っ込めて、痛む腕を見た後にお父さんの方を見つめる。
手に、タバコを持っていた。
「生意気なことしやがって」
白い腕に、煙を吹き出す火傷跡がついてしまった。お父さんはその腕を強引に掴んで、首元にタバコを近づけてきた。
嫌がっていることをお構い無しに、首にタバコを押し付けてくる。
「やめ、て……っ!!」
大きく暴れて振りほどく。首元が熱い、痛い。
「今日はこれくらいにしてやるよ」
二度とオレのいる前で笑うんじゃねえぞ、と吐き捨てて部屋を立ち去って言った。家は、地獄だ。出ていきたい。でも、出たところで行く宛てもない。もし夢月のところに行ったとしても、夢月に迷惑をかけてしまう。
早く夜が終わって欲しい、早く休みが明けてほしい……
夢月と仲良くなり始めて数日経った学校の日、休み時間に私が夢月に話しかけると、夢月は困った表情を浮かべた。何かあったのか聞くと、「ごめん」と何故か謝られた。
「今日は少し用事があって……」
「用事?」
「うん、委員長の仕事!」
そういえば、夢月は学級委員長だった。そんな忙しい中、私を優先して話しかけてきてくれていたのだ。
「そっか!ごめんね、引き止めちゃって」
「ううん、いいの!こっちこそ何も言わなくてごめんね!」
そう言って、夢月は女の子らしい走り方をして去っていく。仕方ないことだとはわかっていても、少し寂しい気持ちがあった。
その日から、夢月は毎日なにかと用事をつけ始め、私と話したり、遊んだりする機会も少なくなりはじめた。
初めのうちは仕方がないと思っていたが、本を読んでいる最中で思い出したかのように立ち上がってどこかへと行ったり、退屈そうにしているところに近寄ると、慌てて立ち去っていったりと、あからさまに不自然な行動を取り始めていた。
急に避けられるようになった理由が気になり始めた私は、他の生徒から怪しまれないように自然体で、かつ夢月にはバレないように夢月の後をつけることにした。
夢月が階段を登り始める。この学校の職員室は二階。もし職員室に用事があるならば、登る必要は無いはず。ますますその行動原理が不自然に感じ、勘繰ってしまう。
夢月は六階まで登ると急に後ろを振り向こうとし、すぐさま私は壁の後ろに隠れてやり過ごす。
すると、聞き馴染みのない男の声が聞こえてきた。この学校の先輩だろうか?
「おい、まだアイツとつるんでるのか?」
「……」
「確かに俺はお前のことが好きだが、あいつと関わるのだけはやめろ」
あいつ……
……嫌な予感がした。
「……でも、悪い子じゃないんだよ?別に……」
「良くないんだよ、俺は変な噂を立てられたくない。わかるか?」
……夢月の声で、わかったとその男に確かに返事をした。
癒え始めていた自分の心に大きなヒビが入り、壊れた。ボロボロに壊れた。─────ああ、そうか。
そうして私はようやくわかった。
この世界のどこにも、私に救いはないのだ。
私は、静かにこの場を立ち去った。
私の中の、一つの覚悟が決まった。もう、耐えられなかった。
夜中、靴も履かずに家を抜け出した私は川が流れている橋の上に立つ。覗き込めば、高さもちゃんとある。ここから落ちれば、ひとたまりも無い。もし、落ちてしまっても……私には抜け出してくる際にこっそりと持ってきた、お父さんのハンドガンがある。
普段なら、怖くて怖くて堪らなかった。でも、不思議と今の私にそんな感情はなかった。
一歩、二歩と歩みだした時、後ろから「待って!」と声をかけられた。
「ねえ小夜!やめて!!」
振り向くこともなくわかった。その声は夢月だった。名前を呼んで引き止めてきた。
「うるさい!アンタに何がわかるのッ!!」
私は生まれて始めて、人に向けて声を出して歯向かった。小夜と、先程より小さな声で声をかけてくるが、関係なしに私は続ける。
「生まれてくるのが間違いだった!この世界に、幸せなんてどこにもない!!」
夢月が涙声で、私の声に重ねた。
「私はあなたの友人なんだから、もっと頼ってよ!!」
夢月がこちらに近寄ってきた靴音が聞こえた。近寄るなと吐き捨てて振り向いた。
「もうなにも聞きたくない!!お母さんもお父さんも、誰も私を救ってくれなかった!!見捨てた!!アンタも!アンタだって!!どうせそうでしょ!!欲しいものを買い与えて貰えないからって!会話の輪にも入れないからって!!本当は、裏で私をバカにしてるんだ!!」
夢月は掠れた声で大きく「違う」と答えてきた。
何が違う?答えられないくせに。生き地獄なんてもうごめんなんだ。
私はまた、橋の方を向いて夢月に吐き捨てる。
「もういいよ」
「────さよなら」
私は、片手に持ってた銃を自分の頭に突きつけて、引き金を引いた。夢月がこちらに手を伸ばしてきた。
その刹那、私の意識が途絶えた。
────────────────────
……目が覚めた。私はあそこで死んだはず。片目が酷く痛む。ふと私はそばにある川を見た。片目が長く伸びた黒い髪で覆われて見えず、かきあげる。
「────ヒッ!?」
白く大きな目が見えた。私は怯えて声を上げ、急に立ち上がった拍子に尻もちをついたまま、後ろに下がる。
触って確認するが、液体やら何やらが手のひらについている訳でもない。変わり果てた目にばかり意識がいっていたが、服装も全く変わっていた。
「な、なん……なに、これ?装束……?」
自分の背中を見ようとしたり、袖を引っ張ったりした後、服の下から伸びる謎の白い布を触ってみる。
突然、白い布が風に煽られたように自分で動き始めた後、黒い触手のようなものが真っ直ぐに伸びる。
何がなにやら分からず、ぽかんと口を開けた状態でそれを見ていた。
その時に鳴った音が聞こえた部分になにか違和感があった。
普段なら左右から聞こえるはずが、頭から聞こえてきたように感じた。ふと、私は人間の耳があった部分を触ってみる。
────ない。あるべきものがない。
すぐに私は頭を触ると髪の毛とは違うなにかの感触があった。
私はまた川をのぞき込む。
「……え?」
私は思わず、またそれを触った。ピクりと動き、私は驚いて変な声を上げた。瞬きと同時に、それは動く。
「これ、これ私の耳?」
猫や犬みたいな獣のような、しかし真っ黒なため角のような耳が生えている。
しかも、さっきまで気づかなかったが、頬には黒い線のようなものも入っている。触っても痛くないので、傷ではないようだ。
「えっ……なによ、これ……なんで、なにがあった……んだっけ?」
そう、私はあの時に死んで……
死んで……?あれ、私はなんで死んだったっけ?私は……
私は、誰なの?
「……っ!?」
自分の後ろから、ガサガサと森の向こうから草をかきわけて何かが近づいてくる音が聞こえてきた。こんななにがなんだかわからないような、混乱が解けない状態でなにかに襲われたらひとたまりも無い。
私は白い布を必死に動かすが、うんともすんとも言わない。私が一歩後ろに引いた瞬間、人の姿をした黒い影のようなものがこちらに飛びかかり、腕に掴みかかってきた。
「な、なんなのよッ!?」
影はケタケタと笑いながら、押し倒そうと力を入れてきた。私は強くその影に蹴りを入れる。
持ってもいないような力が、発揮した。
「……私、一体……」
自分の手のひらをじっと見つめる。黒い影が起き上がり、またこちらに向かってきた。
一度、状況の整理のためにも奴から距離を離さないといけない。私は森の中へ向かって走り出す。後ろからあいつも追いかけてきている。
……不思議だ、とても体が軽い。このままどこまでもいけてしまいそうだ。
あの黒い影の足音が遠くなる。すぐに追いついてくる可能性も考えた私は、とにかく森の中を駆け抜けた。
しばらくして、開けた場所に出た。
「……ここ、どこかしら……?」
「そこの若いの、こんなところで何をしとる?」
周辺を見回しながら歩き続けていると、後ろから声が聞こえた。
誰もいない。
「どこを見とる?」
「……え?」
左右を見回した後に地面へ視線を落とすと、いつの間にか小さい狸が座っていた。
「……狸!?まさかあんたさっきの!?」
驚いた拍子に手を動かした時に、その手のひらから青い火の粉が飛び散り、それにも驚いてまた声を上げた。
「忙しいヤツじゃの」
「な、なん……なんなのよあんたは!?」
「儂は狸じゃよ?」
「んなことは知ってんのよ!そうじゃなくて……!」
そうとしか答えられないからのうと、表情が読めないがどうしようも無いといった様子で後ろ足で耳をかいた。
「私、どういう状況なのよ?」
「ふむ、少し話が長くなるがよいか?」
「……手短にはできない?」
「なんとまあ、年寄りの狸に難しいことを要求するのう」
真面目にこうして狸と会話しているこの事実がなんだかバカバカしく思えてきた。
うーんと言葉選びにしばらく悩んだ後、狸は答えた。
「お主は死んで、すごい力を得たお化けになったとでもいおうかの」
「はぁ、すごい力……っていうのは……」
あの白い布や、あの影を蹴り飛ばした力と軽やかに森を駆け抜けた身体能力、さっきの青い炎などがそうなのだろうか?
「さて、お主にひとつ提案をしよう。お主……」
人間に戻りたくはないか?狸はこちらにそう訊いてきた。
「……?どういうこと?」
当然の質問をそれに返す。
「言葉の意味じゃよ。お主のそのお化けになった……所謂『怪異』という姿は、いわゆる分岐点のようなものじゃ」
難しい話が始まる気がした。
私が思わず顔を顰めたことに気がついたのか、狸はしばらく顔を逸らした後にこちらを向いて話を続けた。
「人間になるか、このまま怪異となってさまようか……そういったことを自分で選ぶようになるものじゃな」
「……人間になるってどうすんのよ?」
「人間の血を得れば戻れる。それだけじゃあなく、時間はかかるが怪異の血を多量に得ることでも戻れる」
人間に戻る……でも、戻ったとしても何をすればいい?
耳鳴りがしたと同時に、どこかで見覚えのあるような光景が蘇る。顔にモヤがかかった誰かに叩かれて、腕を掴まれて……
動悸と吐き気がした。心臓が大きく音を鳴らし、呼吸も荒くなる。
記憶にないはずなのに、鮮明に……どうして?
「────嫌だ……」
ならば、この……怪異となった、姿でいい……
「……ふむ、ならば怪異になる道を選ぶのか?」
「……できるの?」
「もちろん、自分でそう決めたなら出来なくもない。じゃがの、お主自身が、自分を保ち続けないとならん。自分が自分であることを自覚しないとならん。でないと……」
狸が私の顔に前足を向ける。
「その、頬についた黒い線が、やがてはお主を飲み込んでしまうことになる」
ふと、あの時に追いかけられた影のことを思い出し、狸がこの件について同時に話していたことを当てはめた。
あの影も、怪異なんだ。
あの影は、私に襲いかかった。怪異になった、私の血が欲しいから。
「……もし、人間に戻れたら……どうなるの?」
「生まれ変われる。新たな人生を歩むことになる」
「本当、よね?」
「こう見えて、儂は色々な怪異を見てきたからのう。嘘はつかないぞ?」
黒い瞳をこちらに向ける狸のその立ち振る舞いは、本当に嘘をついているようには見えない。
ならば、これを信用するしかない。生まれ変われるなら、あの光景を忘れられるはずだ。
「……人間に戻りたい」
「うむ、わかった。ならばひとつ、儂から提案をだそう」
「提案?」
「血を求める怪異と、怪異を少なくしようとする人が手を組む『契約』じゃ」
あまりピンと来ない。というよりも、それをするようなメリットが見当たらない。
「人間の血を求める怪異を、人間と手を組むことで簡単に誘い出して、怪異から血を奪えるのじゃよ」
「……えーっと、つまりそいつを囮にするってこと?」
「うむ、そうなるな。昔はほんのちょっと違ったのじゃが……まあその話は置いておくとしよう」
人間を囮にする……そういえば、怪異同士だとかなりの量が必要だと言っていたが、人間は量に関しては何も言っていない。
手っ取り早く済ませるのは人間を襲うこと……
「じゃあ、その人間を襲えばいいんじゃないの?」
「そうはいかないのが関の山というもの。その人間は、怪異を退治することに長けた『巫覡』と呼ばれるものになる。下手にその人間を襲えば……」
「……返り討ちに合う?」
「そういうことになる。今となってはその血を引くものばかりになるが、だからこそ油断ならない。いつそれが牙を剥くか予想がつかないからの」
巫覡と呼ばれるものを見たことないからか、こういう話をされてもどういうものなのかはわからない。が、勝手が分からない以上、こういう話を聞いてから動くしかない。分からないなりの理解を深めるしかない。
今までの話から、巫覡と呼ばれるものが怪異と争ってきたのであれば、もし私が巫覡の血を引くものへ襲いかかったとして、それがその巫覡の血を引くもののトリガーになったとしたら?
そういう可能性を考慮すると、まあ有り得る話でもある。
「で、じゃな。巫覡の血を引く人間についてじゃ」
「いないでしょそんなの」
そんな特殊な条件に当てはまるような人間が、この世にどれだけいるのか。
「この街……双葉街に一人だけいる」
え。と声が漏れる。本気でいないと思い込んでいたばかりに思わぬ返しが飛んできた。
「儂が上手いことそいつをここに連れてくる」
「で、できるの?」
「任せなされ」
狸は私の横を通り過ぎていく。私はぼーっとその狸を目で追いかける。
「……のう、お主」
「え?」
「もし本当に早く人間に戻りたいのならば……」
そやつの僅かな隙をついて、心臓を貫け
狸はこちらを向いて、確かにそう言った。何も変わらないはずの顔が、少し恐ろしく思えた。
「言い忘れておったが、契約には時間制限がある。ムラはあるが、おおよそは七日目を迎える朝じゃ」
言うだけ言い残し、森を下りていく。私は固唾を飲んで、黙ってそれを聞くことしか出来なかった。
「……やるしかない、のよね」
狸の姿がやがて見えなくなると、ふと、静かになった山の中で、何か物音が聞こえてきた。獣のような耳のお陰か、方角もすぐにわかった。
さっきのように手から火の粉が出たことを確認した後、音が聞こえた方向に視線を向けて、構える。
「これが私の体なら、少しでも慣らす。それが私の生き方なら、やってみせる」
きっと、さっきまでしつこく追いかけてきた怪異だろう。草陰に向けて手のひらを向けると、何も無いはずなのに、そこから青い炎がそこから放たれる。
森の奥で何かが動いたのが見えた。姿勢を極限まで低くして、手を地面に着け、その黒い影を目で追いかけた。
動きが止まったその瞬間を見て、目にも止まらない速さで首元に手を伸ばして飛びかかる。
私がここまでやれるとは思っていなかったのだろうか、怪異の反応が遅れたようで、その場から逃げ出す前に怪異の首を掴むことが出来た。
白い布が私の意思で動き出し、首を掴まれて動けなくなっている怪異の体を鋭く貫く。水のようにドロドロになった怪異の体が、私の体へと吸い込まれるように溶けていく。
要領は掴んだ。
あとは、もう慈悲も要らない。どんな感情でも押し殺し、私がやるべきことをやる。それだけ。
「夜宵、どこにいくの?」
何も言わずに外に出ていこうとする夜宵の後を追いかけ、光夢は話しかける。
こちらを振り向くこともなく、その問いかけに答える。
「旧友に会いにいくの」
いるかはわからないけど、といつもより覇気のない声で続ける。心配になった光夢は、何も言わずに夜宵の隣に並んで歩く。
「別に着いてこなくてもいいのよ、あんたにはあまり関係ないと思うし」
「大丈夫、弁えてるから」
「なにをよ」
どこからくるのかも分からない自信に、夜宵が微笑する。
そんな二人を見下ろしていた街灯も家もいつの間にかなくなって、学校にある裏山へ入っていく。光夢ですら、あまり立ち入らないような場所なので、夜宵よりも長く住んでいる自信があるのにも関わらず、周囲を見渡して落ち着かない。
「え、えぇ……?こんな場所になにが……」
そう疑問に思った途端、坂の多い山道から、少し平坦な場所へ出て夜宵が足を止めた。夜宵より遅れて足を止めた光夢は、一歩後ろに下がる。
大きな一本の木の、紐が括り付けられて折れた枝の下。そこには、色とりどりの花束と、色褪せた赤いカチューシャが置かれていた。
「……これは……?」
「言ったでしょ、旧友に会いにいく。って……もう、声も聞こえないし、私の声も顔も、わかんないと思うけど」
「夜宵……」
夜宵の放ったその言葉の声は、いつもと同じように聞こえて、震えていた。
夜宵が顔を向けずに光夢の名を呼ぶ。光夢は何かを察して微笑み、来た道を引き返した。
山道を慎重に降りる途中、振り返る。
「……きっと、今は二人きりにして欲しいんだよね」
あの時の光夢の目には、一人の少女と
────優しく見守っていた、一人の影が見えていた。