風が触れる 昔は、日本の夏は蒸し暑いばかりと思っていた。
まだ陽が高いにも関わらず、開け放った障子から吹き込む風は涼しい。コンクリートで囲まれた都会で浴びる重い熱風とは比べ物にならない、軽く爽やかな風だ。
長身のアイリッシュは鴨居に手をかけ、覗き込むようにして中庭を眺めている。
軽やかな風が、緩く着崩した浴衣の隙間に入り込み、鍛え抜かれた体を優しくなぞって抜けていく。
日本の建築や庭の様式にさして詳しいわけでもないアイリッシュだが、それでも、わざとらしさを感じさせない程度に整えられた庭木や、自然のままと思しき形の岩、砂利の上に配置された飛び石の形や間隔まで、見ていて何とも言えず、しっくりと気分が落ち着く。
山間部にひっそりと構えられた旅館の、離れの一室である。
ピスコが――いや、枡山憲三が付き合いのある取引先の重役が、俳句だか短歌だかに凝っているということで、わざわざ有志を集めて避暑地で句会だか歌会だかを開くのが恒例となっていた。
表の仕事も裏の稼業も多忙であるピスコは、毎年何かしら理由をつけて断っていたが、今回は業務上の利益関係もあり、出席を免れなかった。
泊りがけになるため、アイリッシュも離れるわけにはいかず――それは仕事上の都合でもあり、アイリッシュ個人の感情でもある――ともかく同行しているわけだが、表向きの身分を持たぬまま“枡山会長”についていくことは許されなかった。
結果的に、アイリッシュはほとんどこの部屋にこもることになる。
ここに到着したのが昨日の宵のこと。
翌日の会が午前なので、夕食も入浴も早々に済ませた。
慌ただしい夜だった。
そして今朝方、“枡山憲三”はアイリッシュを置いて出かけて行った。
何をするでもなく中庭を眺めながら、何度目かわからない溜息をつく。落ち着く景色も、ずっと見ていれば退屈になってしまう。
ノートPCで済ませられる業務があるうちはまだよかったが、戦闘や潜入などが多いアイリッシュの手元にその手の仕事はさほど回ってきておらず、すっかり時間を持て余している。
政財界の人間も利用するというこの旅館は、従業員たちに探りを入れられるようなことも無いので、本館と行き来することくらいはできる。が、食事以外に用はない。
居心地のいい、しかし刺激の少ない部屋にこもっていると、とりとめのない思考は、一番新しい“刺激的な記憶”を呼び起こしてしまう。
そう――昨夜は、実に慌ただしかった。
離れに備わった専用の露天風呂から上がって、袖を通して間もない浴衣を、早々に脱がされた。
湯に温められてからまだ冷めていなかったアイリッシュの体は、また別の熱を性急に煽られて、ひどく汗をかいたように思う。
なんせピスコは翌日、朝が早い。しかも、出席する会に相応しく身なりを整えて行かなければならない。彼は睡眠時間が短くとも問題のないたちで、身支度の手際も大変よかったが、問題は体調面だ。
夜が長引けばそれだけ体力を使う。当然、ピスコの消耗を少しでも軽くするよう、日頃からアイリッシュが積極的に動くようにしているが、昨夜はそれがいっそう顕著だった。
時間的に余裕のない状況で、それでも求められたことに、アイリッシュの喜びは羞恥に勝っていた。
夜に忘れていた羞恥が、記憶をなぞることで今更になってこみ上げて、アイリッシュは顔をしかめ舌打ちをする。意味もなく、ブロンドの髪をかき乱す。
風がいっそう涼しく感じた。
室内を振り返る。布団はとっくに片付けられている。することもないし、いっそ昼寝でもして時間を潰すためそのままにしようかとも思ったが、やめておいた。あからさまな痕跡がないとしても、確実に自分のものだけでない気配が残る寝具にひとり身を横たえるのは、色々と不都合があった。
結局、午後まで起きたままほとんど無為に過ごしたアイリッシュは、開け放った障子をそのままに室内へ引き返し、畳に身を横たえた。
フローリングほど硬くはない。い草の香りがする。
自身の腕を枕に、しばらくぼんやりとしていたが、宥めるように体を撫でていく風に、いつしか瞼が重くなっていった。
――心地のいい風が吹いている。
しかし、風に含まれる匂いに変化があった。
微かに甘いような、嗅いでいると、鼻の奥が温かくなるような。
アイリッシュはこの匂いを知っている――
重い瞼をゆっくりと開ける。
中庭と畳が茜色に照らされていて、時間の経過を知った。
相変わらず、涼しく軽やかな風が吹いている。
……しかし、その風が項を撫でている――つまり開け放ったままの障子とは逆方向から吹いていることに気づいて、アイリッシュはハッと目を見張った。
「まだ寝ていて構わんよ」
耳に馴染んだ、落ち着いた声が降ってきて、その方向を見上げる。
夏着物、といって、浴衣とは違うらしい。
淡い空色の和装にきっちりと身を包んだ枡山憲三――いや、ピスコが覗き込んできていた。
眦に皺を寄せた穏やかな眼差しで、アイリッシュを見下ろしている。
「オヤジ、もう」
帰ってきたのか、と言おうとして、寝起き特有の掠れた声が喉に引っかかる。
「水でも飲むかね?」
問われて、アイリッシュは首を横に振った。
そこにいてほしくて。
頭の下に柔らかなものが敷かれているのに気づく。座布団を畳んだものだろう。
手間を掛けさせてしまったとわかり、申し訳なさを覚える。同時に、仮にも闇の組織の人間が他者の接近はおろか、触れられても目覚めなかったことは不覚の極みだ。
それだけピスコが上手ということか、アイリッシュが気を許しすぎているのか。
様々な反省はあるものの、まだ眠気を引きずった気だるさから抜け出せずに、寝返りを打って仰向けになる。
横目を流すと、畳に正座した膝と、扇子を揺らす優雅な手つきが見えた。その手元から、心地のいいそよ風が吹いてくる。
風に乗って、ピスコが用いる香の匂いがする。
アイリッシュは腕を上げ、手の甲と手首で頬から口元にかけてを覆う。
そんなことをしても、緩んだ表情は隠せないだろうが。
「すまねぇ、出迎えもしなくて」
くぐもった声で謝ると、整った口髭の下で唇がふっと綻んだ。
「構わんさ。むしろ、今朝はろくに見られなかった寝顔をじっくりと見物できた」
「っ……いい趣味してるぜ、まったく」
「お前が言えたことか」
からかわれて、もう言い返せなくなる。顔を見上げていられなくなり、目を閉じる。
沈黙が下りても、居心地の悪さは感じなかった。
黙っている間も、ピスコは扇を揺らす手を止めなかった。
外から吹き込むより、さらに柔らかな風が、アイリッシュの首筋をくすぐる。
心地いい。
ピスコから与えられる心地いいものの数々を、アイリッシュはいつも渇望している。
彼より若いとはいえ、そこまで青いつもりはないのに、彼を前にすれば、自制心とかプライドとか羞恥とか、そういったものがどこかへいってしまう。
甘えて、求めて、与えられるまま受け入れてしまう。
そして、彼と離れたひとときに戻ってきた自制心やプライドや羞恥心に、身を焦がされる。
悩ましい。だが同時に安堵もしている。もしそれらをずっと取り戻すことができなければ、渇望し続けるこの身のなんと恥知らずで無様なことか――今でも、相当なものだろうに。
「あと二日」
不意に沈黙を破るピスコの声に、アイリッシュは目を開ける。
「この部屋を、あと二日とっている」
「なんだ、他にも予定があるのか?」
「いいや?」
どこか悪戯っぽいものを含んだ、たった一言の否定で、アイリッシュは彼の意図を悟った。
手の甲で、ぐっと口元を抑える。にやけてしまうのを無理に押さえつけようと。
そんな様子に気づいているのかいないのか、ピスコは何気ない調子で続ける。
「せっかくだ、どこか出かけようか」
「……いいのかよ?」
「なに、表立つような場所でなければ問題ないだろう」
こともなげに言われて、参ってしまう。
ピスコはいつも、アイリッシュが望むものを与えてくる。無論、何もかも叶えるほどに甘くはないが、ここぞという時は必ずと言っていいほどに。
喜ばしくも、少し恐ろしい。
「まあ出かけるとしても――明日は午後からにしよう」
呟くような言葉にアイリッシュが何か答える前に、浴衣の隙間から、筋張った手が滑り込んできた。
びく、と体が強張る。じわじわと体温が上がっていく。
「こんな姿で誘われてはな……」
低い囁きに、身震いしてしまう。
寝乱れた浴衣姿のことか、無防備に寝転がっていることか。
アイリッシュには定かではないが、ともかく――
まだ夕暮れだ。
今夜は相当、長くなりそうだった。