Snow White「えっ、嘘……」
バッグに差し込んだ手が目的のものに触れなくて、蘭は一気にヒヤリと背筋が冷えた。人々が行き交うショッピングモールの真ん中で、通行の邪魔になりかねないのはわかっているのに、思わず立ち止まってしまう。
隣を歩いていたコナンも足を止めて、首を傾げた。
「蘭ねーちゃん、どうしたの?」
「ケータイが無いの……どうしよう、落としちゃったのかな!?」
ポーチ、財布、ハンカチ、自宅の鍵……バッグの中身を諦め悪く掻き回していると、もしかしたら、とコナンが落ち着き払った調子で説く。
「さっき、ごはん食べたお店にわすれてきちゃったのかも。ほら、おじさんにメールおくったでしょ?」
「あっ……そうかも!」
提示された糸口に、ぱっと顔を上げる。少年があどけない笑顔で、しかし優しげな眼差しで蘭を見上げていた。
改めて、不思議な子だ。不測の事態にも慌てることなく、むしろ年上の蘭がこうして取り乱しているのを安心させてくれる。小学生のコナンを、蘭はどこかで頼りにしてしまっている節があった。
「もどってみよう? 忘れものは、お店の人があずかっててくれるはずだから」
「うん……!」
まだ見つかると断言はできないが、かなり気が軽くなって、引き返そうと振り返った瞬間――
逞しい体とぶつかり、あっ、と声を上げてふらついた。
傍らで、蘭! と凛々しい声が聞こえた気がした。
「おっと」
乱暴ではない、しかし確かな力で肘から先を掴まれて支えられる。
見上げると、サングラスを掛けた、すっきりとした輪郭の顔が、思いのほか間近にあった。
「ご、ごめんなさいっ!」
咄嗟に身を引くと、すぐに腕を離される。
「いえ、こちらこそ。大丈夫ですか?」
「はい……」
紳士的に気遣われるのがいたたまれず、会釈しながらいそいそとその人の側を通り過ぎようとした――が。
「待って、君を探してたんです。はい、これ」
差し出された、若い女の子向けの機種の携帯電話。見慣れたカラーリングと、馴染みのあるストラップに、蘭は面食らう。
「私のケータイ!?」
「僕もさっき、あのカフェにいたんです。君たちがケータイを置いたまま出て行くのを見かけて、つい追いかけてきちゃいました」
男性はどこか悪戯っぽく打ち明ける。
改めて見ると、サングラスとキャップ帽のよく似合う、爽やかな印象の人物だった。
「わざわざ届けてくれたんですか!? ありがとうございますっ!」
蘭は受け取った携帯電話を胸に抱きしめるように握って、勢いよく頭を下げた。
なんでもないことのように、彼は肩を竦める。
「恋人に言われてるんです、女の子には親切にするようにって」
「へぇ……! その人も優しい人なんですね」
恋人という言葉を聞くだけで、つい惹かれて目を輝かせてしまう。健全な女子高生というのは、多くがそういう年頃だ。
「でも、お兄さんが他の女の子に親切にして、やきもち妬いたりしないんですか?」
だからつい、好奇心に抗えず尋ねてしまった。初対面の相手に踏み込みすぎたと気づいた時には、男性はフフッと柔らかく笑った。
「それはないかなぁ。僕がベタ惚れだって知ってるんで。もう、敵いませんよ、彼女には」
少し困ったように、けれど嬉しそうにはにかみながら、サングラスの下の頬を掻く。そんな彼の様子に、蘭はどきりとした。
「それじゃ、弟さんとのお出かけ、楽しんで」
彼はひらりと手を振ると、踵を返して去っていった。その時に初めて気づいたが、広い背中には黒く長いケースが背負われていた。ギターだろうか? 音楽関係の人かもしれない、と想像を膨らませつつ、蘭は見送った。
「ずいぶん親切なお兄さんだったね」
それまで黙って傍に寄り添っていたコナンが呟くので、蘭は笑顔で頷く。
「ねっ! 素敵な人だったなぁ……」
あの男性にときめいたというわけではない。確かに、穏やかな物腰も、サングラスで半ば見えなくても整っているのがわかる顔立ちも、好感は持てたけれど――
蘭はただ、憧れた。意地を張らず誰かに惚れ込んでいると認められることや、簡単に嫉妬したりしないという彼の恋人……きっと、二人は余裕のある恋愛をしているんだと想像する。
大人の関係を垣間見た、という気がしたのだ。
だから、幼馴染の大人げない顔を思い浮かべて、むすっと口を曲げる。
「あいつも、あの人くらい大人になればいいのに!」
コナンが、ははは、と乾いた声で笑った。そんなところも大人びているなぁ、と思ってしまう。
◆ ◆ ◆
「ただの乳臭いガキじゃないか」
吐き捨てるように呟く。
男は独り、ショッピングモールの最上階に広がる庭園に佇んでいた。
花壇には咲き乱れる薔薇の花が風に揺れており、カップルや親子連れが楽しげに鑑賞しているが、男は見向きもしない。落下防止の柵にもたれかかり、サングラスの影から地上を見下ろしている。
モールを出入りし、行き交う、虫のような群れ。
今、あの小娘が通れば、狙える距離だ。
ぶつかった時、彼は少しばかり意外に思った。大の男と衝突して、多少ふらついたとはいえ、体幹の揺らぎが少なかった。あれは鍛えている身のこなしだ。悪印象を抱かせないために支えたものの、放っておいてもそう大きく体勢を崩すことはなかっただろう。
だが、所詮は趣味やスポーツで行う程度の鍛錬。どこまで研磨しようとも、それは一線を越えるものではない――つまり、それを用いて相手の命を奪うことを、想定していない。
そういう中途半端なところは、緩んだ精神性として現れる。例えば、すれ違いざまに携帯電話を掠め取られても気づかないような、警戒心のなさとして。
男が得意とする射撃を前にすれば、ただの無力な小娘に過ぎない。
どこにでもいるような娘。何も特別などではない。ましてや――
(天使なんて美しいもんじゃない。俺の女王様の方が、ずっとずっと綺麗だ)
サングラスの奥で目を閉じ、男は最愛のひとを瞼の裏に描く。
薔薇よりも美しいひと。
聡明で、気高く、無慈悲。
たとえ死神がその体に触れようとも、心までは奪えない。
(と、男は信じて止まない)
孤高の存在。だからこそ、そのひとは美しい。
なのに。
あの娘は、孤高であるはずの彼女の優しさを、思いやりを、庇護を、享受しているのだ。
しかも、そのことに気づきもしていない。
優しい人なんですね、だって?
嫉妬しないのか、だって?
「アァ……鬱陶しいなぁ……」
苛立ちが低い唸りになって口をつく。噛み合わせた奥歯が、ぎりりと音を立てた。
忌々しくて仕方がない。男にもう少し忍耐が足りていなければ、馬鹿みたいなことばかり口走る小娘をあの場で黙らせていたところだ。とはいえ常の得物であるライフルは不向きなので、おとぎ話のごとくナイフで心臓を抉り出し、箱に詰めて貢ぎ物に持ち帰るのがよかったか。
しかし、男も馬鹿ではない。まだその時ではないことはわかっている。
たかが小娘ひとり。されど、獲物を仕留める時、狩人には油断も慢心も禁物だ。
確実に排除しなければ。
「彼女が美しくあるために」
女王の美しさを損なうものを排除する。
毒林檎は、そのために存在する。
(ああ、この世でいちばん美しい、俺の女王様!)
冷たい美貌をありありと思い浮かべて、カルバドスはうっとりと微笑んだ。