まどろむ朝 目が開くよりも先に、嗅覚が目覚めた。
ああ、お味噌汁の匂いだな、と凪砂は思った。それからトントンと包丁がまな板を叩く音がする。
もう冬が近い、すでにベッドから出るのが億劫な季節だ。早起きの恋人は凪砂の覚醒を促すために、敢えて寝室の扉を開け放しているに違いない。心地よい微睡みの中で目を閉じたまま香りと音を愉しんでいると、スリッパが床をこする足音がキッチンやダイニングを移動するのが分かる。スウェットを着て少し寝癖をつけた愛しい恋人が、朝から自分のために動き回ってくれている姿が思い浮かんだ。
「ふふっ」
凪砂の口端がゆるりと上がる。それからやっと重たい瞼を持ち上げた。
始めに見えたのはスリッパ。次にスリッパに差し込まれた剥き出しの足首とふくらはぎ。
「えっ……?」
視線を上へ向けていく。窪んだ膝裏、キリリと締まった太腿。そこから上は着ている服の下に隠されている。彼の身体には些か大きめの白いシャツ。あれはきっと凪砂のものだ。袖を折り返した先から腕を伸ばし、こちらへ背を向けて配膳をしている。少し屈むとシャツの裾が、昨夜散々暴いた淫らな場所ギリギリまで持ち上がった。歩く度揺れる、一部だけ跳ねた後ろ髪の稚さとは対照的に、シャツの裾の閃きは扇情的である。
凪砂は再び目を閉じ、煩悩を振り払うように頭を振った。その途端立ち上ったのは茨の匂い。枕にマゼンタの髪を広げて、擦りつけて、『凪砂さんっ……!』と何度も名を呼んでいた光景も蘇った。
「閣下……?」
寝室の入口から声が掛けられる。茨は喉に絡まった声を二、三度咳払いをして元の声に戻そうとしている。それでもいつもより掠れていた。
「閣下、ご飯にしましょう。起きていますよね?」
声色は普段他の人に向ける、凛とした発声よりずっと柔らかい。凪砂はゆっくりと目を開け、なるべく茨のスリッパを見つめた。
「……うん」
「どうされました?」
身を屈めた茨の顔が、突然凪砂の眼前に寄せられた。シャツのボタンは上二つが開いていて、凪砂の角度からだと胸の辺りまで見えてしまう。
「……ちょっと茨、私の視界に入らないで」
パチパチと茨の睫毛が瞬く。
ビジネス上の付き合いの頃のように『これはこれは、朝からお目汚し失礼いたしました!』などと胡散臭い笑顔を浮かべるでもなく、付き合いたての頃のように不安げに瞳を揺らすこともない。
「……して、その心は?」
茨は面白そうに笑って凪砂の手を握った。水に触れていただろう茨の手は冷たい。凪砂は茨の手を両手で包んだ。
「……茨が私のシャツを着ているから」
「失礼、洗濯が溜まっていて着るものが。閣下のシャツが椅子に掛かっていたのでお借りしました。汚していませんし、きちんと洗ってお返ししま……」
「だめ」
「だめ?」
「……今日もそのシャツ着ていくから、洗ってはだめ」
茨は一瞬間考えてからニヤリと笑った。
「ほう、もしや閣下は自分のこの格好がお気に召しましたか?」
「……うん、すごく綺麗で官能的。このままベッドに誘いたいのを我慢しているところ。でも美味しいものは美味しいうちにいただかないと」
食卓で湯気を揺らしている食事は、疲れている茨が手を凍えさせて用意してくれたものだ。
「このシャツ──」
茨はシャツの襟を摘んで、鼻をすりつけた。
「──あなたの匂いがするんですよ。自分もさっきから……その、妙な気分なんですが、如何せん時間が……」
無意識か計算か、茨は自分の臍の下をすりっと撫でた。
「えっ!」
凪砂は茨の腕を引く。声を上げて胸の中に落ちてきた彼を抱き留めた。
「……少しだけ。ほら茨身体が冷えてる」
薄いシャツ一枚の隔たりでは、茨の骨も筋肉も鼓動もありのままに感じられる。ましてや腿から下は生身の茨そのものだ。目に毒かと思えば、触れても毒だった。
「……足、冷たい」
布団を掛けて、剥き出しの太腿の間に足を割り込ませる。絡みつかせて体温を分けた。茨が顔を持ち上げてキスを強請るように目を伏せた。理性を留めておくために深いキスはお互いに避けている。わざとのようにリップ音を鳴らして、唇の表面を触れ合わせるキスを繰り返す。布団の中では熱くなった下肢が、ぎゅうぎゅうと痛いほどに絡み合っていた。
「……いばら、起きよう」
「……ええ、もう食べないと」
一度だけ、とお互い示し合わせたように口を開いた。湯気さえ見えるのではと思うほどの熱い舌が触れ合う。
食卓の上で冷めていく朝食とは反対に、二人の体温はどんどん熱くなっていった。