巣立ちのときを待って『答辞、卒業生代表――』
玲明学園の大講堂に響き渡るマイクの音声。名を呼ばれた生徒がやや緊張気味に登壇した。
『冷たい風の中でも桜の蕾が膨らみはじめ──』
日和はその様子を来賓席から眺めていた。昨年は日和があの場所に立っていた。日和自身が書いた原稿をその場でアレンジした答辞は、定型を踏みながらも時折笑いを、最後には涙を誘った。なかなかよいものになったと自負している。
ありきたりのつまらない答辞をとうとうと述べる卒業生代表から、最前列に座るジュンへ視線を移した。ジュンは腿の上で軽く拳を握り、背筋をピンと伸ばしている。真剣に答辞を聞いているように見えるが、彼の心中はどのような思いだろう。
非特待生として過ごした辛い日々や、日和と出会ってからの目まぐるしい日々。それらを思い起こして、学び舎から巣立っていくことへの感慨に耽っていたりするのだろうか。
まぁジュンならば、いいことも悪いこともひっくるめて『いい経験でしたよぉ』で済ませてしまいそうな気もする。
この答辞だって順当にいけばジュンが読むはずだった。
『いや、オレは勉強はからっきしダメですし。何せ元非特待生ですからね』
謙虚なジュンはそう言った。アイドルの学校なのだから、アイドルとしての功績からいけばジュンはトップであるのに。きっと生徒会長を務め上げた、壇上にいる生徒に花を持たせたのだろう。そこが彼の甘さであり、また愛おしい部分でもある。
式は粛々と進んでいき、来賓の特別講師へ花束を贈呈する段になった。今日の日和は時折講師を務める氷鷹誠矢の名代として来ている。元より多忙な氷鷹ではあるが、今日は同日に行われている息子の卒業式に参列したいのだと言う。そこで日和に代わりをと直々に連絡がきた。嫌な顔をする北斗の顔が思い浮かんだが、日和は一二もなく引き受けた。元々こっそり参列するつもではあったが、来賓席からならばジュンの顔がよく見えて好都合だった。
日和を含め特別講師陣たち十人ほどがその場に立ち上がった。そこへ花束を抱えた生徒たちがやってくる。ジュンもそのうちの一人だった。ジュンは日和の隣の講師に渡すようだったが、日和の前に立つ生徒に耳打ちをすると場所を代わった。
『ありがとうございました!』
卒業生の唱和に合わせて講師陣に花束が手渡された。でもジュンは動かなかった。ただ日和を真っ直ぐに見つめている。渡した生徒たちは着席をして、立っているのは司会の教師とジュンと日和だけになった。講堂中の視線がジュンと日和に集中するが、花束はいつまで経っても日和の手にこない。
「ちょっと、ジュンくん?」
日和はたまらず小声でジュンに呼びかけた。
「ありがとう、ございました」
ジュンの静かで透き通った声が、シンとした大講堂にさざなみのように広がっていく。
「ありがとうございました!」
今度は大きな声で言って頭を下げた。ジュンは勢いよく身体を起こすと、日和に花束を押し付けて席へ戻っていった。
「ジュンくん……」
日和の視界がゆらりと波打った。だけど頬を桜色に染めながら、どこか満足気に前を向くジュンを覚えていたいから。これ以上涙が込み上げてこないように震える唇を結ぶ。日和は瞬きをひとつ、溜まった涙を一筋だけ頬に落としてジュンの横顔を見つめた。
***
日和は花束を事務室に預け、フラリと敷地内を巡っていた。式を終え、卒業生たちは教室で最後のホームルームを行っているところだ。このあとは凪砂と茨と合流して、年下組の卒業を祝う食事会をすることになっている。
やっと蕾が綻びはじめた桜の木の下から、日和は空を見上げた。朝は門出を祝うように眩い光を投げかけていた太陽は、今は雲の下に隠されている。
ジュンと出会った頃、日和の内側はこの空のように雲に覆われていた。だけど日和はここ玲明学園で光を見つけた。誰にも見出されていなくとも、酷い環境にあっても、善良さを失わないジュン。日和にとってジュンは綺麗な光、そのものだった。
『ありがとうございました!』
そんなの日和が言いたいくらいだった。彼の真っ直ぐさは、いつも日和の心を照らしてくれたから。
「おひいさん!」
背後からジュンの声がかかる。日和は勿体ぶって、ひと呼吸置いてから振り返った。そして目を剥いた。
「──なっ! 何て格好してるのかね、きみは!? 破廉恥極まりないねっ!」
ジュンのブレザーやシャツのボタンは全部もがれて、だらしなく開いたシャツから素肌が覗いていたのだ。
「いや、思い出にボタンくださいって取られちまって……へへっ」
ジュンは照れたように頭を搔く。
「去年おひいさんは綺麗なまんまでしたよね? 案外人気ないんすねぇ?」
どこか得意気なジュンの言葉に、日和は大袈裟にため息をついた。
「きみは本当にお気楽でいいね。きっと今頃きみの制服のボタンだ〜って、本物やら偽物がネットオークションで賑わっていると思うね」
「ええっ!? ……そういうことっすか!? 何だよ案外人気者じゃん、って嬉しくなってたのに」
ESビッグ3であるEdenの漣ジュンだというのに、今更何を言うのだろう。日和はジュンのみっともない姿を見て、またため息をついた。
「でもぼくも、欲しかったかな……」
「えっ?」
「きみがもうこの制服を着なくなってしまうのは案外寂しいなって、思うんだよね」
思わず出た本音。今日ジュンも卒業したとなれば、二人が出会い過ごした高校時代が完全に幕引きとなってしまう。……らしくないか、と日和はすぐに話題を変える。自分のコートを脱いでジュンの肩に掛けた。
「もおっ! こんな格好じゃ入店拒否されてしまうね。どこかで──」
「これ、」
ジュンはブレザーのポケットからネクタイを取り出すと、日和の前に突き出した。
「貰ってください。……この特待生のネクタイすることができたのは、あんたのお陰だから」
「……」
黙ったまま日和が受け取らずにいると、ジュンは訝しげに日和の顔を覗き込んだ。
「……おひいさん?」
「……いらない」
「はぁ!? 人が折角これだけは守って……」
「それ、ぼくのだから」
「……へっ??」
「それぼくのなんだね。去年卒業したあと取り替えたの」
「……なんで、そんなこと?」
「さぁね……? どうしてだったかな」
一年前、日和の中にはすでにジュンへの恋心が芽吹き、小さな蕾が膨らみ始めていた。けれどジュンが自分をそんな対象として見ていないことも知っていた。日和がもし想いを告白したら、ジュンは戸惑っただろう。日和への尊敬や感謝の思いを、なんとか恋愛感情に変換させようと試みるかもしれない。ジュンの優しさや実直さにつけ込むような真似はしたくなかった。
そう思う一方で、日に日に綻ぶ恋情を持て余してもいた。これは何の因果関係もない、ほんの思いつき。ジュンとの繋がりがひとつ終わった自分の卒業式、ジュンのネクタイを自分のものと交換した。ジュンが気づくことはまずないと分かっている。だからこれは綻びを止めるための枷だった。
もしジュンくんがネクタイに気づいたら告白する
そうして新年度を迎えた。始めはジュンのネクタイを見るたび「気づいて」と「気づかないで」の狭間で揺れていた気持ちは、いつしか諦めになり季節は巡る。そうしてジュンが気づかないままリミットの今日を迎えた。
けれどその一年はただ無意味に過ぎたわけではなかった。いつの間にかジュンが日和に向ける視線に態度に、以前とは違う熱が伴うようになったのを感じていた。
「……もう少しきみとここで過ごしたかったっていうのもあるのかな」
「ふぅん?」
ジュンはよく分からないというように首を傾げ、行き場を無くしたネクタイを二三度握ってからポケットにしまった。それからしょんぼりとした声で言った。
「……じゃあ、なんもあげられるもんないっすねぇ……」
「あははっ!」
ジュンは本当に分かっていない。日和はすでに目には見えない沢山のものを貰っているのに。
「あんたには貰ってばかりで何も返せてねぇなぁ……」
ジュンは校舎のほうへ目を向ける。
「……あんたに拾われなかったら、こんな晴れ晴れとした気持ちで卒業できてなかっただろうと思います」
「……ふふっ、では卒業後の意気込みをどうぞ」
「卒業して高校生って肩書きが外れて、自由になる代わりに責任も伴ってくる。だからオレは自分の進む道をより真剣に選びとっていかなきゃならないと思ってます。……どの道を選んだ先の未来にも、ど真ん中で居座ってんのがあんたなんで。まぁ、……これからもよろしくお願いしますよぉ」
ジュンがニッコリと笑う。その途端に嘘のように雲間から日光が差し込んできた。
「うん……ジュンくん、卒業おめでとう」
ジュンはもう日和の庇護なんかなくたって、ちょっとやそっとの雲なんか蹴散らして輝ける。──それでも成長した今となっても、ジュンの描く未来には当たり前に日和が存在している。日和の未来にジュンが欠かせないのと同じように。
突風が吹いた。二人は咄嗟に目を閉じた。
「うわっぷ……」
強い風がゴウゴウと唸りながら、身体ごと押し流すように吹き付けてくる。風音の唸りは変わらないのに、押し付ける力がふと弱まった。日和は不思議に思って薄く目を開けた。
日和を守るようにジュンが風上に立っていた。髪の毛なんかはぐちゃぐちゃに乱れて、目も口までもギュッと閉じたアイドルらしからぬ顔が間近にある。
日和はジュンの唇にそっと口づけていた。
「──!?」
ジュンの目が見開かれる。同時に風の勢いもおさまった。
「あんた、今……」
「何もくれるものないって言うから」
「ファーストキス、だったんすけど」
「ぼくに貰ってもらえて光栄だね!」
日和の軽口にジュンは乗らない。自分の乱れた髪を直して、それからより丁寧に日和の髪を整えながら、何か言い淀んでいる。
「……このキスには……特別な意味なんて、何もないんすか?」
「どうだろうね?」
「真面目に訊いてるんすよ」
「……ぼくにだって分からないことがあるね。ジュンくんが分かるなら教えてよ」
「唇へのキスは好きな人にするもんだと思います。恋愛的に」
「……うん」
「順序としては告白して、それからだと思いますけど」
「……うん、そうかもね。……でも告白ってどう言ったらいいかな? お手本見せてくれない? センセ?」
ジュンは口から息を吸い込む。肩と胸が大きく膨らんで止まった。
「好きです、おひいさん」
あまりに真っ直ぐな視線に、日和は胸を突かれた。その衝撃に心臓がバクバクと音をたてる。ジュンはいつの間にこんなに男っぽい顔をするようになったのだろう。
「……うん」
「そっちは、言ってくれないんすか?」
この曇り空の下に、ジュンはあまりにも眩しくて、日和の目の奥を焼いて、涙なんかが込み上げてきてしまう。日和は目を逸らして俯いた。悔しいなと思う。翻弄するのはいつだって日和のほうだったのに。
「……あれ? 何かオレ知らないうちに告白させられてた……? 詐欺だ……」
「あはははっ……ジュンくんってば!!」
精悍さと幼さの狭間にある今だけのジュンは、あと一、二年もすれば失われてしまうかもしれない。感傷に浸って足踏みするのは好きではないが、もう少しこのままのジュンで日和のそばに居てほしいという気持ちにもなる。日和は目の縁に溜まった涙をそっと拭った。
「ちょっとぉ、そんな涙零すほど笑います? いいんすよぉ、卒業式の日に言おうって、ずっとこの日を待ってたんすから」
ジュンがふてくされながら言ったとき、ピコン、日和のスマホの通知音が鳴った。
「あ、凪砂くんからだね! 学校出てタクシーに乗ったって」
「茨、嫌がってたけどナギ先輩卒業式に参列できたんすね?」
「うん。写真も送られてきたね! ほら……! え゙……」
ジュンにスマホ画面を見せた途端に、連続して通知音が鳴り始めた。次々と写真や動画が送られてくる。
「何これ、茨の写真がすごい枚数……凪砂くん怖いね」
「ホントだ……ふはっ、茨のやつ嫌そうな顔してんなぁ」
なかなか止まない通知を切り、日和は言った。
「……ぼくたちも記念に二人で写真撮ろうか」
「いいっすね」
校舎が背景におさまるように日和は自撮りモードのスマホをかざした。ジュンは緩く口角をあげて、カメラへ視線を向ける。少しオトナな表情を演出しているようだ。
「ジュンくん」
「はい?」
「好きだよ」
「は、えっ?」
パシャリ、シャッター音が鳴る。
「上手く撮れたね!」
「待て、オレすげぇマヌケヅラじゃないっすか!」
「ぼくが可愛く写っているから問題ないね」
「……あんたねぇ」
「今の告白はどうでしたか、先生?」
「んー、まぁ、あんたにしては良くできたんじゃないすかね? でももう一回、今度は目を見て言って欲しいですね」
「えっダメ、だってそんなの……恥ずかしいよね?」
「……なんすか、それ」
緩む表情を隠すようにジュンは髪をかきあげた。
「……別にいいですけどねぇ。あんたが恥ずかしがりのお姫様でいるんなら、オレがグイグイいかせてもらうんで」
ジュンは日和の手を掴むと、日の当たらない校舎と校舎の間に引き込む。
「えっ? ……ちょっと! んっ……!」
咄嗟に身体を固くした日和に構わず、手を掴んだままジュンは伸び上がって口づけた。ただ押しつけるだけのぎこちないキスはすぐに離れた。
「へへっ、『おひいさんと学校でキス』高校生の間にしたかったこと、ギリギリで叶いました」
「ジュンくん!? ……ってさっきぼくからキスしたよね?」
「あんなのキスには入りませんよ。もう一回ちゃんと先生が教えてあげます」
そう言ってジュンは日和の腰に腕を回した。躊躇いながら日和もジュンの背中に手を回すと、くしゃりとまだあどけない笑顔が返ってくる。きゅうっと胸の奥が苦しくなった。
「うぅ、ジュンくん……きみは悪いオトナになりそうだから、ずっとずっとぼくが見ていてあげようね!」
制服を脱ぎ高校時代に別れを告げて、大人の仲間入りを果たすジュン。彼は彼の意思で未来を選べるし、首元にはもう日和の想いを塞き止めるネクタイはない。もう隠さなくていい。いくらだって何度だって想いを伝えられる。
日和はずっと近くで見ていた相方を、溢れ出る愛しい気持ちそのままに見つめた。
「ジュンくん、大好きだね!」
「……ははっ、良くできましたねぇ」
ジュンの笑顔がもっと近づいてくる。ずっと見ていたかったけれど、キスを受け入れるために日和はゆっくり目を閉じた。