次はかならず傍にいて主な登場人物
審神者
十七歳女性
「明石と意固地な審神者」シリーズの審神者です。
紆余曲折を経て明石国行とお付き合い中。
初期刀は歌仙兼定で初鍛刀は前田藤四郎。
基本的に真面目で少々頑固。
行方不明の姉が一人いる。
明石国行
審神者の本丸に所属。まだ極にはなっていません。
今回は後半まで出てきません。
三日月宗近
政府所属。途中で結構しゃべります。
審神者は覚えていないけど、実は彼女が幼い頃に少しだけ顔を合わせていたりします。
誤解を招きそうなので予め明言しておきますが、審神者に対して恋愛感情の類は特にありません。
本作はあくまで明さにです。
・
この本丸の審神者は、やや出不精のきらいがある。
幼い頃に引き取られた家での教育方針が主な原因ではあるにせよ、
同年代の少女たちと比べてみても、引きこもりといって差し支えのない気質をしている。
彼女にとっての「外出」とは、ちょっとした気晴らしに畑仕事を手伝いに行くことや、
あるいは招集に応じて政府の施設へ出かけるといったことを指す。
そもそもとして、幼い頃から本丸で刀たちと過ごす時間の長かった審神者である。
彼らが造られた時代の高貴な女性とは、城や屋敷の中で大人しく守られているの一般的だった。
無論、この本丸の主にそれを強いる刀剣男士は存在しない。
しかし一方で、外の世界に無頓着な審神者の在り方を咎める者がいるはずもなく。
結果、齢十七にして一人で外出したことがほぼないという状況に、彼女は陥っていた。
・
「これなら、きっと大丈夫…」
誰もいない自室で、彼女は呟いた。
本丸の皆には、今日一日は、彼女の住むはなれに近づかないよう申し伝えてある。
歌仙を含め、多少訝しむ刀も居ないではなかったが、
たまには一人になってみたいと言い募った所、どうにか納得してもらえた。
こういう時に一番厄介な明石国行は、遠征で留守にしている。
そうなるよう、予定を調整したのは彼女なのだが。
今朝の彼は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべて「ほなまた」と言い残して出立していった。
「……」
彼といると、いつだって全てを見透かされているような、頼りないような気持ちになるのは何故なのか。
— そんなに私は分かりやすいですか?
何度か問いかけてみたけれど、明石は「どうやろうなあ」と躱してばかりだ。
そこはかとない不安を覚えた審神者は軽く頭を振ると、用意していた札と、普段着ている巫女装束を自室に畳んでおく。
彼女自身は、いつもと異なる深藍色の袴と、紅色の小袖を身につけていた。
そして、この日のために少し前から準備していた兎の面をじっと見つめる。
— 大丈夫、術はきちんとかかっている。
本丸の正門は、当然ながら常に見張り番がついている。
彼女が一人で外へ出ようものなら、たちまち歌仙や前田に伝わってしまうだろう。
そのため今回は、はなれにある緊急用の裏口をこっそり使用させてもらう予定だった。
「……」
別に悪いことをしようとしているわけではない。
ただ、彼女は一人で買い物へ出かけようとしているだけだ。
たったそれだけのこと。
審神者の一人歩きは、あまり推奨されないものの、
万屋のある空間、結界の内側であれば特に禁止されていない。
流石に現世に赴くのであれば護衛が必要だが、彼女の行動はあくまで規則の範囲内のことである。
— でも、皆に知られたら、きっと反対される…
可能なら、不在が発覚する前に帰って来たいとは思う。
後で歌仙や前田には叱られるかも知れないが、それは覚悟の上だ。
よし、と頬を軽く張って気合を入れると、彼女は無言ではなれの裏口へと向かっていった。
・
万屋の存在する空間の、その入り口に審神者は降り立った。
小さく息をついて周辺を確認する。
本丸や政府とは異なる雑多な騒がしさに、彼女は面の下の目を見開いた。
「わ…」
目の前に広がる大通りと、そこを行き交う群衆に、思わず声が出てしまう。
彼女にとっては映像で見るばかりの光景だったそれが、今、目の前に広がっているのだ。
大通りの両脇には大小様々な店舗や、用途のわからない建物が整然と並んでいる。
路を行き交うのは刀剣たちと、その主だろうか。
時折、何かを警戒するように目を光らせているのは、政府に所属する刀のようだ。
恐らくは、彼らがこの場所の警護と治安維持を担っているのだろう。
「すごい…」
「何がです?」
予想外の応答に、審神者は体を強張らせる。
慌てて足元を見ると、管狐が彼女を見上げて首を傾げていた。
「こんのすけ…、どうして?」
管狐は皆、似通った顔をしているので若干分かりづらいが、それは確かに彼女の本丸に所属する管狐だった。
「どうしても何も」
狐はどこかむっとした様子で彼女に答える。
「歌仙兼定に頼まれたのですよ、今日一日、主さまを見張るようにと」
「…….」
迂闊だった。
刀剣たちはきちんと遠ざけたのに、この管狐のことまでは気が回っていなかった。
そもそも最近はあまり審神者の元に現れず、マイペースな生活を送っている管狐である。
なぜこんな時だけ、歌仙の言うことを素直に聞いているのか。
「こんのすけ…」
「はい」
「皆にはもう、知られているのですか?」
私が、一人で本丸を抜け出したことを。
「知りませんよ」
こんのすけは、どうしてそんなことを訊くのか、と言いたそうな顔をした。
「え、でも…」
「こんのすけは、主さまを見張ってくれと言われましたが。何をしているのか、どこにいるのかを逐一報告しろと頼まれてはいませんので」
「……」
その一言に、審神者は胸を撫で下ろした。
少なくとも、彼女の居場所が完全に露見したという訳ではないらしい。
「おあげ、買いに行きましょうか?」
彼女がそう言って目配せをすると、こんのすけは、「安物は駄目ですからね」と尻尾を振った。
・
「で、主さまはどこへ行きたいのです?」
案内された専門店で高級油揚げを大量に買い込んだ後、管狐は満足げな顔で審神者に尋ねた。
「沢山あるけど…、ここから近いのは、ええと…ホームセンター、でしょうか」
「…ほーむせんたー…?」
狐は、まるで知らない言語で話しかけられたような、呆けた表情を浮かべた。
「はい、桑名さんや、長船の皆さんに、それぞれ贈りたいものがあるので」
「はあ、そうですか、で、その次は?」
「…その次、ですか?お菓子屋さんと、おもちゃ屋さんでしょうか、他にも沢山行きたいお店はあるので…急がないといけません」
こんのすけは口止めしたものの、いつ本丸から迎えが来るかわからない。
彼女は若干の焦燥感を覚えつつも、同時にどこか高揚するような感覚が湧き起こっていた。
「主さま、まさかとは思いますが…」
「はい?」
「本丸の刀全員に、何かを贈ろうとなさってます?」
「そうですよ?」
「今日、たった一日で?」
「…何かおかしいでしょうか?」
珍しいことに、管狐は焦ったような口ぶりで審神者に言い募る。
「何振りいると思っているのですか。間に合いませんよ、絶対に」
しかし、彼女は引かなかった。
「大丈夫です、買いたいものは事前に予約してあります。本丸に送ってもらう手筈も整えてありますので、あとは店舗で実物を見るだけですよ」
「はあ…」
困っているのか、呆れたのか、こんのすけは若干慄いた様子で審神者を見上げた。
「わざわざ本丸の外に出る必要、ありましたか…」
・
結論から言えば、審神者の買い物はおおむね順調に進んでいた。
店の位置も回る順序も、ある程度先に決めておいたので、特に問題が起きる訳でもなく。
思いの外、審神者は初めての「お買い物」を難なくこなしていった。
審神者が迷子になりかけると、管狐が即座に正しい道を教えていたのも、一つの大きな要因ではあったのだが。
しかし一方で、気がかりなことも無い訳ではなかった。
「こんのすけ」
「はい」
「私は…ひょっとして目立っていますか?」
何を今更、と管狐は後ろ足で耳の裏を掻いた。
「刀を連れない審神者が、目立たないと思いますか?」
「私以外にも、それなりにいると思うのですが…」
「場慣れしていない者は、見るものが見ればわかります。そして、そのような審神者は、大体刀を連れているものです」
「はあ…」
これまで巡ってきた店舗で、周囲の刀たちがどこか気遣わしげに彼女を見ていたのはそういうことなのだろうか。
先ほどの店では、警護役らしき源氏の刀が、心配そうに彼女に声をかけてきたので正直驚いてしまった。
「幼子一人でおつかいをする様子を皆で眺めるようなものですよ。普通の反応です」
「おさなごって…、もう十七ですよ」
「彼らの感覚は、ヒトのそれとは異なりますので」
こんのすけの言葉が終わらないうちに、彼らのすぐそばを見知らぬ刀剣たちが横切っていった。
彼らのうちの一振りは、主人と思しき妙齢の女性をしっかりと抱きかかえた状態で歩いている。
「……」
「ほらね」
何よりも驚いたのは、周囲の刀も人も、特に彼らを気にしていないことである。
つまりは、そう珍しい光景でもないということなのか。
「両腕がふさがってしまったら、護衛ができないのではないですか?」
「あれだけ沢山刀剣を連れていたら、まず問題ないでしょう」
あの状態でも、彼らは人よりもはるかに速く走ることができますので。
こんのすけの言葉に彼女は、一人で来て正解だったとため息をついた。
・
一通り買い物を済ませた後、審神者は大通り沿いの喫茶店、そのテラス席で休憩をとることにした。
途中に寄った眼鏡の専門店や装飾品店で思いがけず時間を消費してしまったが、当初の目的は一応果たしたので、満足といって良い結果ではないだろうか。
本丸へ帰ろうかとも思ったのだが、管狐が「お腹が空きました」と言いはじめたこともあり、彼女自身、「喫茶店へ行く」という経験をしてみたかったので、こんのすけを連れて適当な店に入る。
これはいわゆるオープンカフェというものだろうか。
緋毛氈を敷いた席に緑茶が出されたのを見る限り、カフェというよりも茶店という方が正確な気もするが。
ふう、と息を吐いて、彼女は着用していた兎の面を外す。
万が一本丸の刀剣たちと遭遇しても、ある程度は正体を隠してくれる効果のある面だったのだが、当初の目的は果たしたのでもう良いか、と審神者は思ったのだ。
ひとまずは緑茶と、こんのすけのためにお揚げを頼むことにする。
慣れない彼女に注文の仕方を教えてから、管狐は満足そうに頬を緩めていた。
「やり遂げました…」
「お疲れ様です」
お茶で軽く喉を湿らせてから、審神者はそっと脚をさすった。
今日のために用意したブーツは、思いの外歩きやすかったが、やはり慣れない靴は疲れるものだ。
運ばれて来たお揚げをぱくりと食べる管狐を眺めていると、突然彼女の背後から声がかかったので軽く驚いた。
「相席を頼みたいのだが、良いだろうか?」
穏やかな口調で彼女に話しかけてくるのは、見も知らぬ三日月宗近だった。
周囲を見渡すと、にわかに混雑し始めている店の状況が視界に入ってくる。
管狐はといえば、「ご自由に」と言いたげに彼女を一瞥すると、すぐにまたお揚げを咀嚼し始める。
「…どうぞ…」
彼女が促すと、三日月宗近は「すまんな」と静かに笑んで、向かいの席に腰掛けた。
「用向きがあって出かけて来たのだが、すっかり疲れてしまった」
「そうですか…」
「助かった。礼を言う」
三日月さんはどこの三日月さんもマイペースなのだろうか、そんなことを彼女は思う。
出されたお茶を啜りながら、目の前の三日月宗近は、どこか楽しそうに彼女を眺めた。
妙に居心地が悪い気がするのは、なぜだか咄嗟に明石のことを思い出してしまったからだろうか。
・
それにしても、と審神者は目の前の三日月宗近を眺めながら考えを巡らせる。
この三日月宗近は、非常に練度が高そうだ。
雰囲気から察するに、極の修行を終えてから、さらに長く戦ってきたのだろう。
しかし一方で、明確な主がいる刀剣、という印象は受けない。
おそらくは、政府に所属している刀剣ではないかと推測していた彼女だったが、
眼前に何かが差し出されたので思考が一瞬中断されてしまった。
「クリーム白玉あんみつになります」
「え…」
慌てて正面に視線を戻す。
なぜか三日月宗近の前にも同じものが用意されており、そして彼は匙を握って嬉しそうにしていた。
「あの…」
「相席の礼だ。美味いぞ?」
彼女はすっかり面食らって隣のこんのすけに視線を投げるが、管狐は「溶けますよ」とつれない様子だ。
「……いただきます…」
気を遣ってくれなくても良いのに、とは思うけれど、食べ物を粗末にしたくはない。
彼女は仕方なく、目の前のあんみつに口をつけることにした。
ちりちり、と、首筋がひどく痛むような気がする。
なんとなしに周囲を見渡したけれど、そこに彼女の求める相手が居るはずもなかった。
・
クリーム白玉あんみつは、正直なところ美味しかった。
誤算だったのは、茶店を出てからも、なぜか三日月宗近が彼女に付いてきていることだろうか。
「あの…」
「子どもがあまり一人歩きをするものではない。帰るのであれば送って行くが」
…どうしよう。
再び着用した面の下で、彼女はひっそりと眉をひそめた。
刀剣を連れている審神者に対し、許しもなく直接話しかけるのは、一般的には無作法とされている。
一方で、一人で本丸の外にいる審神者は積極的に護衛するべきと考える刀もいるらしい。
要するに、迷子のようなものだと思われているのだ。
「…結構です。私には私の刀たちがいますので」
「おや、そうなのか。では迎えが来るまでの間、おぬしを護衛すれば良いということだな」
全く良くないです。
どうにもこの「三日月宗近」は、彼女の本丸の三日月宗近よりも押しが強いようだ。
困り果ててこんのすけを見やるが、管狐はめんどくさそうに黙るだけだった。
薄情な狐の尻尾を踏みつけたいような気がしたが、それよりも眼前の三日月宗近である。
「…帰りますので、もう放っておいてくださって結構です。…政府の方のお手を煩わせるようなことではありません」
「なんだ、気づいていたか」
特に隠してもいなかったくせに、よく言うものだと審神者は思う。
こうなったら彼の言うとおり、早く本丸に帰ってしまおう。
そう考えながら結界の出入り口へ向かおうとして、ふと、彼がひどく楽しそうな笑みを浮かべていることに気づく。
「…どうかされましたか?」
「いや、すまん。…少し懐かしくなってしまってなあ」
「はい…?」
懐かしいって、どういうことですか。
あなたとは、さっき初めて会ったばかりでは?
それと同時に、先ほどからずっと覚えている違和感に、やっと彼女は気がついた。
そもそも私は、どうして律儀にこの刀の言うことを聞いているのだろう。
いくら刀剣が相手でも相席なんて、普段の自分であれば避けていた。
ましてや知らない相手から与えられた食べ物なんて、いつもなら口をつけたりしないはずなのに。
見知らぬ相手に対して、明らかに気を許しすぎていたと彼女は青ざめる。
そんな彼女を一瞥すると、目の前の三日月宗近は静かに言葉をつないだ。
「以前にも、俺に同じようなことを言った娘がいたものでな。…あまりに似ていて、つい楽しくなってしまった」
「あなたは、…、私はあなたと、…」
どこかで会ったことがあるのですか?
その言葉を、彼女が告げることは叶わなかった。
・
——。
頭の奥に何かが響いている。
これは、声だ。
はっきりと、彼女の名前を呼んでいる。
誰よりも愛しい、あの刀の声。
その瞬間、心臓を無理やり掴まれたような息苦しさを彼女は感じた。
視界の端を、桜の花びらがゆっくり舞っていく。
そして突然、眼前に見慣れた黒の戦装束の背中が現れた。
「…少し離れてる間にまあ、ようやってくれはるわ」
明石国行が、彼女に背を向けて立っていた。
・
「あかし…」
少し離れた場所から、「こらっ!国行!」と叫ぶ声が響いたのを彼女は聞いた。
振り向くと、どこか呆れたような表情の愛染国俊と蛍丸が走ってくるのが見えてくる。
彼女の本丸の刀たちだ。
私の明石が、目の前に立っている。
顔を見なくても、彼がひどく怒っているのが分かる。
なのにどうして、私はこんなにも安心しているのだろう。
今日一日、ずっと気を張っていたのだと、彼女はようやく自覚した。
一人で本丸の外に出たことなんてなかったから。
「迎えが来たか」
明らかに警戒されているにも関わらず、三日月宗近はのんびりした様子で彼女に言葉をかけてきた。
「どうも。うちの主はんが世話になったようで」
「なに、迷子の世話をしたようなものだ。気にするな」
「おおきに。ほな」
短く礼を述べると、明石は無言で審神者を抱き上げてくる。
いきなり高くなる視界に驚きながら、彼女は咄嗟に彼の体にしがみついた。
「大事にされているようだな」
去っていく間際、すれ違いざまに三日月宗近が放った言葉は、果たしてどちらに対してのものだったのか。
明石の体温に安堵する反面、これからのことを考えて、審神者は身のすくむような感覚を味わっていた。
・
数時間前に、刀剣に持ち運ばれるどこかの審神者を目撃した時には、まさか自身が同じ経験をするとは思っていなかった。
彼女を抱きかかえたまま、明石は無言で大通りをすたすたと歩いていく。
お面を着けていて本当に良かった。
万が一にでも、顔を見られたら羞恥心で死んでしまう気がする。
「主さん、ごめんね」
何も言わない明石を取りなすように、蛍丸が彼女に声をかけてくる。
来派の刀たちは、ずっと離れた場所から彼女を護衛してくれていたらしい。
「遠征先にさ、鳩が飛んできたんだ。それで呼び戻されて、その…」
「長谷部には、絶対に主に見つからないようにしてくれって言われてたんだけどさ…」
こんのすけを連れた審神者が本丸を出て行ってからおよそ一時間程度で、歌仙たちは彼女の不在に気づいたそうだ。
ここ数日、どこか落ち着かない審神者の様子を不審に思っていたので、
今朝の彼女の申し出からずっと、本丸の刀剣たちはいつにも増して彼女の気配に敏感になっていたそうで。
最初に違和感を覚えたのは、前田藤四郎だったと愛染は言う。
彼らは裏口に残されていた痕跡を頼りに、彼女の居場所を見つけ出して、密かに護衛することにしたらしい。
「主さんが一人で外に出てみたいんだって、すぐに分かったんだけどさ…、オレたちも、放っておくってわけにはいかなくて、だからさ…ごめん」
彼らが謝る必要なんてないのに。
黙って一人で外に出たのは、私の方なのに。
彼女が謝罪をと述べようとすると、ずっと黙っていた明石が突然口を開いた。
「主はん」
「は、はい?...」
「悪さをしたいんやったら、もう少し上手くやってくれまへん?」
「へ…」
「下手くそすぎて笑いが出そうやったわ」
いつもとさほど変わらない表情で、明石は彼女の顔を見上げてくる。
この状況で、普段通りの態度で接してこられると余計に怖いのだと彼女は学んだのだった。
「嘘つけ、ものすごく苛ついてたくせに」
愛染国俊の一言は、喧騒に紛れて審神者には届かなかった。
・
本丸へ帰還すると、彼女の刀剣たちはあからさまに安堵した表情を浮かべていた。
そんなに心配しなくても、と言いたい気持ちにはなったが、
今日一日で彼らのヒトに対する過保護ぶりは実感したので、結局何も言えなかった。
歌仙は何を思うのか、明石に抱えられた状態の審神者を見ても、深くため息をつくだけだった。
前田も「心配しましたよ」とは言うものの、特に叱ってくることはなく、彼女はむしろ拍子抜けしてしまう。
しかし、それはそれとして、彼女の前には大きな問題が立ちはだかっていた。
帰って来てからずっと、明石が彼女を離そうとしないのである。
彼は黙ってはなれへと彼女を連れてくると、そのまま縁側に腰掛けた。
すぐに明石の膝から降りようとした審神者だったが、その途端、彼に強く抱き寄せられたので諦めた。
「明石…」
「んー…?」
しばらく間をおいてから、審神者は明石に声をかけてみる。
「靴を脱ぎたいのですが…」
彼女の言葉に明石は、仕方ない、とでも言いたげな様子で腕の力を緩めてくれる。
両脚から靴を脱いだ途端、また明石が腕の力を強めてきたので、彼女は「う」と小さく声をあげた。
・
「ごめんなさい…」
「何に対して謝ってはるんやろなあ」
猫に睨まれた鼠は、きっとこんな気持ちになるのだろう。
「ご迷惑と、ご心配を、その…」
「ああ、それやったら別にいらんわ。気にせんでええ」
「…え?」
ひらひらと手を振りながら、明石は彼女の謝罪をこともなげに切り捨てた。
「審神者が外に出るのを止める権利なんぞ、自分らにはあらしまへん。
まあ、普通に言うてくれたらええのにとは思いましたけど。
どこで何をしようが、それが主はんの意志なら誰も逆らう気はないで」
「……」
以前、審神者を引退して外の男性に嫁ごうとした時には、本丸総出で阻止されたような気がするのだが。
一瞬浮かんだ思考を、彼女は慌ててかき消した。
「だったら、その…」
「まあ、それはそれとして」
「はい…」
やっと明石は彼女と会話する気になってくれたらしい。
場の空気が少しだけ緩んだのを審神者は感じ取った。
「他の男と楽しそうに茶をしばいてはったのは何なんやろなあ?自分、今にも泣きそうやで」
どう見ても、いい笑顔にしか見えないのは私だけでしょうか。
「あれが楽しそうに見えたのですか…」
「知らんわ。今日の主はんはほんまにいけずやで。少しばかり拗ねてもええんと違います?」
察するに、彼を遠征に出した上で、一人で外出したこと、そして他の男性と(結果的に)お茶をしたことに対して明石は怒っているらしい。
逆の立場で考えてみると、確かに嫌だと思うので、彼の怒りは尤もではある。
「それは…、ごめんなさい」
最後については審神者の本意ではなかったとはいえ、彼女に非がないと言い切ることはできないのである。
「はー…」
審神者の後頭部に顎を乗せると、明石は「ほんまに、疲れたわ」とぼやいて空を見上げた。
・
「どうして一人で外に出てったんか、聞いてもええですか?」
少しの間をおいてから、明石は静かに尋ねてきた。
「それは…、できたら内緒にしたくて」
「一人やないと、あかんかったんですか?」
明石の言い方は穏やかだったが、彼の本音はおそらく違うのだという気がする。
その時の彼の声は、どこか寂しそうに響いていた。
ここはきちんと、本心を伝えなければ不誠実というものだろう。
普段の分かりづらさを思えば、今の彼は、遥かに内面を見せてくれているように感じるから。
...正直に話すのは、彼女にとってはとても恥ずかしい事柄ではあるのだが。
「…私は、物心ついた時から、一人で本丸の外を歩いたことがなかったので、…その、」
それの何が問題なのか、と言いたそうな様子で明石は首を傾げている。
しかし、彼は彼女の言葉の続きを無言で促した。
「もう十七になったのに、いまだに一人で外にも出られないのは…恥ずかしかったと言いますか」
「はあ、そういうもんですか」
そして彼女はしばらく視線をさまよわせると、意を決したように言葉を続けた。
「最初なので、誰かに案内役を頼むことも考えました。…でも、私は、誰かとお出かけするなら、まずは貴方を誘いたかったんです…」
「え、…ちょお待ってください。それがどうしてああなるんか、自分、さっぱり理解できんのやけど」
だからですね、と彼女は必死で言い募った。
「貴方とお出かけはしたかったのです。けど、私はその、恥ずかしながら外のことをよく知らないし、…貴方の前で失敗したり、格好悪いところを見せるのは嫌だったから、…一度練習をしておこうと…」
徐々に審神者の言葉が尻すぼみになっていくのを聞きながら、明石は無意識に自身の前髪をいじっていた。
「あー…、つまりあれですか。自分をお出かけに誘う前に練習したかった、てことでよろしい?」
耳まで真っ赤になった審神者が、勢いよく頷く。
そんな彼女をしばらく見つめたのち、明石は徐に、「なんやねん、もう」と呟いた。
・
「それであんな手の込んだことやらかして、失敗した上に他の男と仲良くお茶してはったんですか?」
「あの、うっかりしていたのは認めますが、あまりそこを責めないほしいのです…」
「それは無理なんで、堪忍したってください」
明石のきっぱりとした拒絶に、審神者はほんの少しだけ泣きそうになる。
「そもそも、あれ、誰やったんです?」
明石の言葉に、審神者は少し考え込んだ。
「政府所属の三日月宗近さんのようでした。審神者が一人歩きしてるのを見かねて、ついて来ていたみたいです」
「ほんまにそれだけなん?やたらと仲良しさんやったけど」
ううん、と審神者は考え込んだ。
別に仲良くしたつもりは全くないが、明石からはそう見えたらしい。
「確かに、気を緩めすぎていたとは思いますが、…政府の方なので、以前どこかで顔を合わせたことがあったのかもしれません」
「…ふうん、そう、へえ…」
あ、これは不貞腐れている。そして納得していない。
「これからは、出かける時はちゃんと刀を連れて行きますので…、できれば、貴方が一緒だと嬉しいのですが」
「……」
明石は目を逸らしたまま、彼女を見ようとしてくれない。
困り果てた審神者は、一呼吸置いてから、思い切って一つの提案をすることにした。
「分かりました。確かに今回は、私の全面的な過失により、貴方に負担をかけてしまったのだと深く反省しております」
「え、何なんいきなり」
突然、謝罪会見のように話し始めた審神者に、明石は軽く面食らった。
「なので、その…、私にできることなら、何でも一つ、貴方の願いを叶えたいと思うのですが、どうでしょうか」
「…は?何でも、って何ですか?」
「私にできることであれば、可能な限り叶えたい、ということです」
彼女が本気なのは、表情を見れば明石にも伝わってくる。
待ってほしいと、明石は珍しく狼狽えていた。
・
「主はん、そないなことを、自分みたいなのに言うたらあかんて」
明石は努めて冷静に、審神者を悟すように言う。
「ちゃんと分かっています。でも、…貴方の願い事なら、私だって叶えたいと思うのですよ」
彼女だってそれだけ明石のことが大好きで、大切なのだと理解して欲しいのである。
「あとで泣く羽目になるかもしれんで?...閨で無体でも働かれたらどないするんやろな?」
あからさまなことを言う明石に、彼女は耳まで赤くしたが、言葉を引っ込めることはしなかった。
「…、明石が私にしてくれることだったら、きっとどんなことでも嬉しいと思うので、…平気です」
あーもう、と明石は頭を抱えたくなる。
なぜこういう時に限って、この娘は強情さを発揮してくるのか。
「...この本丸を出て、自分だけの主はんになってくださいって言うたら、それに応えてくれる気なん?」
その言葉には、審神者も少しだけ項垂れたが、それでも明石の視線を正面から受け止めた。
「多分、皆私に失望すると思います、…でも、貴方が望んでくれるのなら、後悔はしません」
その一言に、明石は今度こそ言葉を失った。
こういう所が一番厄介な娘なのだと、今更ながらに思い出す。
審神者は明石の膝の上で、静かに彼を見つめていた。
・
しばらく沈黙が降りたのち、明石はゆっくりと口を開いた。
「…ほんまにいけずなお人やで。こっちの理性ばっか試すようなことせんといてや。しんどいわ」
「ごめんなさい、そのようなつもりでは」
「はいはい、分かってますよって」
そう言って、明石はまたひらひらと手を振った。
主の言葉が思った以上に衝撃的だったせいか、気づいたら拗れていた心持ちがいくらかさっぱりしている。
けれどそれと同時に、ちょっとした悪戯心も湧き上がってくるというもので。
「主はん、しばらくじっとしとってください」
「…はい」
訝しげな様子で審神者は首を傾げたが、ひとまずは大人しく明石に身を任せることにした。
そんな彼女に笑みを浮かべつつ、明石はゆっくりと床の上に彼女を押し倒した。
「!…明石、」
「動いたらあかんで」
その瞬間の審神者が感じていたのは、背中にあたる床の冷たさと、明石の体温と、そして首にかかる彼の吐息だった。
「んんっ…」
くぐもったような声が喉から出てしまう。
少し遅れてから、喉元に湿った感触とそして唐突な痛みが襲ってくる。
視界には天井が広がっていて、体は強く押さえ込まれていて、どうすれば良いかわからい。
首を噛まれている、と気がつくまで、彼女はしばらく混乱していた。
「あっ...」
「ん、…もう少しだけ、我慢したって」
情事を思い出させるような艶のある声に、頭の奥が麻痺してくる。
じっくりと彼女の首から鎖骨にかけて口付けた後、明石はゆっくりと身を起こす。
どれくらいの時間が流れたのか、とても長かった気がするけど、実際にはそうでもないのだろう。
「今回はこんなもんで手打ちにさせてもらいますわ。次は無いんでそのつもりで頼んます」
そう言って笑う明石の表情は、いつもよりも幾分か柔らかかったような気がした。
了
あとがき
久しぶりにお話を書きました。
本当は明石サイドの話のプロットもあるのですが、力尽きたので今回はここまでです。
ご要望があれば書くかもしれません。