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    itara_zu

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    itara_zu

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    面白いか不安になってきたので読んで教えてください(ツガン2ヤを目指すレイチュリの話)
    前半部です

    君の故郷の話が聞きたいINTRODUCTION:君の故郷の話が聞きたい

     チャプ、と耳元で波打つ音がした。それから、海鳴りのようなごうごうとした音も幽かに。
     ——そんなところで寝入ってしまったっけ。
     アベンチュリンはゆっくりと目を開いた。世界が白んで、頭がくらくらする。
     身体全体が体温と同じ温度の水に浸かっていた。ドリームプールだ。まるで羊水のように身体を包み込んでいる。無重力状態のような気分になる。上も下も忘れてしまったように曖昧だ。
     重怠い身体で身じろぎすると、狭いプールの壁面に当たって、チャプ、と水が跳ねる。少し手を持ち上げるだけで精一杯だった。
     プールの外で、ガタ、と何かが倒れる音がした。忙しない靴音。
    「っ、アベンチュリン!」
     まだぼうっとして視線を彷徨わせるアベンチュリンの頭上に影がかかった。じわじわと焦点が合い、やっと物が像を結ぶ。
     焦ったように声をかけたのはアベンチュリンの同行者——レイシオだった。
    「……教授? そんなに慌てて、どうしたの」
    声は掠れていた。けほ、と咳をひとつ。
    レイシオは眉を寄せ、憮然として言う。
    「……君が“死んで”からもう五日も経った。なかなか目を覚まさないから、何か問題があるのでは、と」
    「わー、それはごめん……」
     反射で謝ると、「君が謝る必要はない」とレイシオは言った。絶対「今すぐ謝罪しろ」って顔してただろ。
    「……ちょっとだけ時間をくれないかな。何があったか、まだよく思い出せなくて」
     重い腕を持ち上げ眉間をおさえる。水が腕に絡みつくような気がする。随分体力も筋力も落ちているらしい。たった五日目覚めなかっただけなのに。
    「混乱しているんだろう。……僕のことは分かるな?」
    「うん、もちろん。ベリタス・レイシオ。僕の素敵な友人」
    「記憶障害あり……と」
    「ね~~~~~~!!!! 冗談だって!! 僕の素敵なビジネスパートナー!! 心配かけてごめんね!?」
     溜息をついたレイシオがプールに手を差し入れる。それに掴まってプールからあがる。
     足元がふらついた。地面がぐにゃりと歪んだ感覚がする。ここは現実だからそれは全て気のせいだ。レイシオに縋って地に立つ。彼はそれを振り払わなかった。
     ——僕は生きて現実に帰ってこられたのか。
     ドッと冷や汗が出る。
     賭けに勝つつもりだった。それはもちろん本当だった。だが、確証なんて常にないわけで。
     部屋に目をやる。机が倒れている。さっきレイシオが蹴とばしたのだろう。本当にアベンチュリンが起きてびっくりしたらしい。
    「そこに座っていろ」
     レイシオが赤のビロード張りのソファを指す。
    「まるで君が部屋の主だね。僕の部屋だぜ? ……僕の部屋だよな?」
    「そうだ。仮死のような人間をそう簡単に移動させることはできない。この数日は僕も使わせてもらったが」
    「ああ、僕がいつ死ぬか分からなかったから?」
    「君がいつ起きるか分からなかったからだ」
     レイシオの手を借り、ソファに身体を沈めた。それだけで随分疲れた。いまだに気を抜いたら夢に引きずり込まれそうな気がする。半分起きていて半分寝ているような。どちらが現実か曖昧な微睡みの中にいるような。
     椅子をひっぱてきたレイシオが正面に座る。額を突かれる。
    「寝るな」
    「ごめんて」
    レイシオは真剣な顔をして言う。
    「君が寝こけていた間に起きたことを伝えよう。……君は、夢境を派手に破壊した。その全責任は君が負うことになった。君はカンパニーの十の石心の一員ではあるが……その身分のまま、カンパニーに捕縛されることになる」
    「あー、うん。当然だよね」
     生返事をする。大して驚くことでもない。起きた瞬間首を刎ねられなかった、あるいは寝ている間にもう二度と醒めぬ眠りにぶち込まれなかっただけで『勝ち』寄りの結果だ。今後そうなる可能性は高いとは言え。カンパニーが、捕らえた自分をどうするかは賭けるまでもない。人間の終着地点は一通りだ。
    「ただ、君には情状酌量の余地がある。サンデーに仕向けられた……いや、仕向けさせた、か? まあどちらにせよ、君の意思ではない、と判断される点もある。加えて、ピノコニーの功労者の星穹列車の面々と、僅かばかりの僕の口添えによって、捕縛までの猶予期間が設けられた」
    「おっと、それは予想してなかったな。ちなみにどのくらい?」
    「君が目覚めてから一週間」
     はっ、と鼻で笑う。身辺整理しかできない。整理するものなんてないけれど。
    「君は今後、おそらく一切の自由が失われる。首に縄をかけられる前に、最後の“自由”を、というわけだ。……というわけで、君は一週間、何をするも、どこへ行くも自由だ」
     アベンチュリンは口端に軽薄な笑みを浮かべる。
    「ありがたいね。僕ずっと、本当の意味で自由だったことなんてないから」
     今だって手枷が付いているようなものだ。縄をかけられても、あまり今と変わらない。今更一つ縛るものが増えたところでどうってことない。
    「待て、まだ条件がある。話は最後まで聞くんだな。『全て、ベリタス・レイシオ(僕)同伴ならば』、だ」
     天使が通ったような沈黙。
     空調の音、水面がご機嫌に波打つ微かな音。アベンチュリンが息を吸いこむ音。そして。
    「……それって自由かなあ!?」
     レイシオは呆れたようにゆっくりと首を振る。
    「これでも最大限譲歩を引き出したんだ。自分が何をしたか胸に手を当てて考えてみろ」
     手を当てる。生きてるなと思った。それだけだった。
     だけど、とアベンチュリンは口を開く。
    「レイシオ。多分すごく頑張って僕の自由に関する交渉をしてくれただろうとこ悪いけど」
    「別に大したことはない」
    「ええ? なんなんだ君……どういう情緒? まあいいや。僕、“自由”を手に入れたところでやりたいことなんてないよ。そういうのはもうすっかり考えられなくなってしまったから」
     肩をすくめてみせる。
     レイシオは舌打ちをした。
    「そうか。では、この僕に、一週間、君と二人で、この狭くてつまらない部屋で過ごせ、と」
     文節で区切って、殊更ゆっくりレイシオが言った。
    「……そうなる? 別に僕がどこにも行かない、何もしないってのなら今すぐ捕らえたっていいんじゃないかな? もしくは僕のこと部屋に閉じ込めて君は好きにしたらいいんじゃないの? 大学に戻るとかさ」
    「そうもいかない。契約を結んでいるんだ。僕はこの一週間を君と共に過ごす必要がある。例外はない」
     アベンチュリンは怪訝に眉を顰めた。
    「なんだそれ、バカの組んだプログラミング? あんまりに融通が効かな……あ!! 君、あの奇物で契約書にサインしたのか!?」
    「察しがいいな」
     レイシオが左の手首を見せる。青い血管の透ける手首に、刺青のように金字が浮かんでいる。
     アベンチュリンはそれに覚えがあった。噂に聞いたことがある。
     それは、ペンの形をした奇物だ。それを用いて契約書にサインをすると、強制力が働き、けして契約に反することができなくなる、という噂だ。
     ただ、その強制力はカンパニーにとって有用ではあるものの、その奇物を使うということは、相手を信頼していないと白状するようなものだ。イーブンな関係が重要な商談などではとても使えない。
     ——それにも関わらず、カンパニーがレイシオに奇物でサインさせたということは。
     彼がそれを断れないようなとんでもない弱みを握っているか、あるいは、この合理性が服を着て歩いているような男を人間としてちっとも信頼していない、ということだ。
    「うわぁ〜〜……、騙されてないか? 僕確認していい? 写しある?」
      レイシオがペラリと写しを渡した。
      アベンチュリンが目を滑らす。長ったらしい文のポイントを、砂金を探すように拾い上げていく。
     アベンチュリンを一週間監視すること、半径15メートル以上離れないこと、死なせないこと。
    「なんだ死なせないことって」
    「君に苛ついて思わず手に掛けてしまうことを想定してるんじゃないか」
    「だとしたら君、倫理観についても相当信用がないってことだけどいいの」
     アベンチュリンはこの奇物でサインされた契約について、話に聞いたことはあれ実際に見るのは初めてだった。その効果のほどについて試したくなる。
     悪戯っぽく目を輝かせたアベンチュリンが言う。
    「レイシオ、部屋出てくれないかな? 隣の隣の部屋の前くらいだと15メートルは超えるだろうから。それか、拳銃かなんかで僕の頭を吹っ飛ばそうとして」
     レイシオが黙って立ち上がり、部屋の外に出る。
     しばらく後、身体がガチッと固まる。力を入れても反対側に身を倒すこともできないほど。
    「なるほどね」
     すぐに拘束からは解放された。反動でソファに倒れこむ。起き上がる気力もなくそのままでいると、戻ったレイシオが呆れたようにアベンチュリンの身体を縦にした。
    「想像以上の効果だね」
    「便利な迷子紐だな」
    「紐?」
    「君と僕との間に不可視の紐があると思えばいい。それが伸びきってしまえば、それ以上はどちらも動けない」
     アベンチュリンは契約書の写しを返す。
    「仕方ないな。一週間、君はどうしたって僕から離れられないらしい。なら、逆にしよう。君のしたいこと、行きたい場所に僕が付き合う。それなら問題ないんだろう? で、どこに行きたいんだ? 図書館? 博物館? どこでもいいよ」
    「言ったな?」
     レイシオの瞳が鋭く光る。
    「では遠慮なく僕の希望を通そう。ツガンニヤに行く」
    「ふーん、ツガンニヤね。……ツガンニヤ!?」
     レイシオは、どうかしたか、とでも言いたげに鷹揚に頷いた。
    「……教授ってもしかして地理苦手? ツガンニヤは所属銀河団から違う。一週間じゃ到底着かないけど?」
    「それでも構わない。行けるところまで行くだけだ。付き合うんだろう? 詳細を確認せずにハンコを押したバカは君だ。カンパニーの研修で契約書はよく読めと習わなかったのか?」
    「ハンコ押してないよ……」
    ついでに言うと、奴隷あがりに新人研修はなかった。
     頭が痛い。もう一回倒れてしまいたい。レイシオは許してくれなさそうだが。ソファの背に身体を預けて黙った。
     ツガンニヤに帰る。そのこと自体は、きっと、別に嫌ではない。あまりに唐突なだけで。
     もしかすると、行く、というほうが正しいのかもしれない。それほどまでに、自分と故郷との距離は開いてしまっている。そのことは、少し、嫌になる。
     ところで、とレイシオが言う。ちら、と赤い猛禽のような瞳がアベンチュリンの指先を掠める。
    「君はさっきから普通に話しているが、何か身体の不調などはないのか?」
    「うん? 寝起きみたいにまだちょっと頭がくらくらするけれど……」
    「そうではなくて……。気づいていないのか? 君の手」
     言われて自分の掌を見る。太ももが透けて見える。その先のソファも。
    「うわーーっ!!!! 透けてる!?!? 僕やっぱり死んだ!?!?」
     パッと顔を上げて、教授!? と叫ぶ。
    「なんで!?!?」
     レイシオはふいっと目を逸らした。
    「原因は……目下調査中だ」
    「いーーーーーや嘘だね! 僕が寝てる間に分かってんだろ! 絶対知ってる顔だそれ!!!!」
    「元気だな」
    「おかげさまでね!!!」

    ***

     レイシオはちらりとスマホを確認する。
    「その様子だともう立てるな? すぐ出立する」
    「無茶苦茶な血圧の上げ方しやがって……」
     用意してあったのか、二つある荷物の一つを渡される。軽い。旅慣れると荷物が減るからだ。アベンチュリンだって、旅にはカード一枚あればいい、最悪、なくてもどうにかなると思っている。
    「君のサングラスはデスクの上にある。忘れ物がないかよく確かめろ。もう戻らないからな」
    「待ってくれレイシオ。あまりに気が早い。僕は了承してないし」
    「君に断る権利はない」
    「くそ、人権が侵害されることに慣れたくない……。じゃあ、これだけ。君、なんだってツガンニヤに行きたいんだ?」
    レイシオはイラついたようにコツコツと靴を鳴らした。早く立て、と視線がうるさい。
    「口を開くな。君がお喋りなせいで時間がないんだ。いいか、君には一週間しかない。トランジットの時間もあるんだ、一便でも早く乗りたい」
    「僕は別に行きたいとも思っていないんだけどな……。僕が言うのもなんだけど、あそこは、きっと本当に何もないよ」
    「実のところ、そろそろ叩き起こそうと思っていたところだったが……寝ぼけているのなら、今そうすることも吝かではない」
    「叩き……!? 起きてよかったよ」
     ソファの背に手をやり、身体を支えて立ち上がる。ふら、とよろめいて壁に手をつく。血の気が下がって冷や汗が出た。
     レイシオは何も言わず、急かすこともないが、手を貸すこともなく立っている。
     ハハ、と乾いた笑みが漏れる。
    「この薄情者め」
    「この先長いんだ。君一人で立ってもらえないと困る」
     先に出るぞ、とレイシオが部屋を出る。
     ガチッと身体が硬直した。
    「待った、先に行くな。どうせ15メートルしか行けないんだから。分かった、行くから、待ってくれ」

     足音を吸収する絨毯張りのホテルを抜け、発着場の硬質な床を歩くようになって気づく。
     以前隣を歩いた時よりほんの気持ち程度、彼はゆっくり歩いている。前はコンパスの差をちっとも考えないせいでアベンチュリンはたまに駆け足をする必要があったから。
     それでも病み上がりの自分を振り返らずずんずん行くところは薄情だと思うけれど。
      荷物を抱えながら後ろを着いて行き、宇宙船に乗り込む。
     ピノコニーの部屋より随分狭い客室だった。
    「チケット用意してたんだ」
    「歩きながら買った」
     しばらく後、気づかないほどの振動で宇宙船は離陸した。
     レイシオの話によると、跳躍ができるような便が出るステーションに行くために、まず一度乗り換えをする必要があるらしい。
    「ピノコニーなんて有名な星なんだから、大きなステーションへの直通便だって出ていると思うんだけど?」
    「寝こけていた自分への文句か? これが一番早く着く。三日後に着く星で乗り換える。ちょうどそこの星から臨時便がでるらしい」
     客室の窓からピノコニーを見る。自分が壊したのは夢境だから本物ではないが、疑似的にこの光の粒をめちゃくちゃにしたのだ。感慨深いような、自分とは一切関係ないような妙な気分になる。
     窓に映る自分は、随分窶れた顔をしていた。
    (死んで、五日も寝ていたのだからそうなるか)
     痩せた輪郭をなぞった。
     レイシオが指摘した通り透けてはいるものの、よく見れば若干透けているかもしれないという程度だ。手元はそれなりに透けていてぎょっとするが、全体で見れば違和感はないかもしれない。出星審査で止められなかったし。
    (……いやなんで透けてるんだ?)
     レイシオが言う。
    「名残惜しいか?」
    「いや全然。人口多いなって思ってただけ」
    「定住しているのは十万人だ。ほとんどがホテルの従業員とその家族だ」
    「お~! 多いのか少ないのか全然わかんないけど」
    「少ない。ホテル以外に産業がないから。宿泊客を含めると相当な数にはなるがな。この人数でよくも文化らしきものを保っていると感心する。……ツガンニヤは何人だったか」
    「昔は二十万人。今は知らない。これも多いか少ないかは僕には判断がつかないけど。ああ、でも体感で人口密度は低かったよ。というか、住んでいる地域と住めない地域のバラつきが大きい。銀河フィラメントと超空洞みたいにね」
    「随分と居住地が少ないんだな」
    「そりゃあもう! 陣取り合戦だ。そうしてパンッと泡が弾けたってわけ。さすがにその顛末は知ってるだろ? 教科書にも載ってるはずだ。僕は読んだことないけど。……もう今はどこだって人はほとんど住んでいないはず」
     なーんて、教授ならご存じか、とアベンチュリンはおどけたように言う。
    「いや……僕はツガンニヤについてあまり知らないんだ。君が話してくれ」
    「知らないのに行きたいんだ? 奇特だね」
    「……知らないから(・・)行きたいんだ」
    「ふ~ん? そうは言っても、僕に話せることは少ないよ。学校にも行ってなかったし、早々に離れてしまったし」
    「構わない。君の言葉で、君の故郷の話が聞きたい」
    「急に振られても困るな」
     窓の外に目をやる。濃い紫に広がる宇宙の中、煌々と輝く遠ざかるピノコニーが映る。
     レイシオは、アベンチュリンの、宇宙で彼しか持たなくなった紫の瞳に無数の光が反射するのを見ていた。
    「そうだな……」
     アベンチュリンの僅かに透けている指が分厚いガラス越しに宇宙をなぞる。
    「ツガンニヤは衛星を三つ持っていた。少ないよね。それぞれソムニオラム、スペイ、……と、なんだったかな、思い出せないけど、もう一個。公転周期がめちゃくちゃ早くてさ、一日に二度見えたりする。二つは小さいんだけど、ソムニオラムが一番大きくて、かなりの楕円軌道を描いているんだ。だから、遠いときは大きめの点くらい遠いんだけど、近いときは随分潮位が変わった」
    「潮位? ツガンニヤに海があったのか」
    「……君、実はツガンニヤのこと普通に知ってるだろ? 仰せの通り、海はない。湖だ。あまり魚は取れないんだけど、漁師はいてさ。漁に出るかどうかはソムニオラムの満ち欠けも見て決めるって言っていたかな。……そういやピノコニーって衛星を持たないんだね。珍しい」
    「景観のために爆破処理したらしい」
    「気が強すぎる……」

    CHAPTER1:―天文―
     
     電灯は落とされたが、アベンチュリンは眠れずにいた。隣のベッドからはレイシオのかすかな寝息が聞こえる。
     常夜灯を頼りに身体を起こし、己の手を結んだり開いたりして眺めた。半透明だ。
     宇宙の方々へ出向いているから奇怪なことはいくらだって起きる。両手の指を使ったって数えきれない。
    「けど透明になったのは初めてだよ……」
     感覚はあるからより奇妙だった。治るのだろうか、これ。ただ半透明なだけだから今のところ何も支障はないけれど。
     治らなくてもいいけれど。
    (というか、なんで幽霊みたいになってしまったんだ……?)
     レイシオは何も答えなかったけれど、十中八九、夢境でのイレギュラーが原因だろう。それ以外に心当たりはない。
     アベンチュリンは音をたてないようにベッドから脚をおろした。床が冷えていて、ひとつ身震いをした。
     カーテンを引いた窓辺に近寄る。
     ツガンニヤは遠く離れた銀河にある。普通に宇宙船を乗り継いでいくだけではなく、跳躍も数度挟む必要がある距離だ。到底思い付きで行く場所ではないし、行って何がある場所でもないし、——少なくとも、一週間でツガンニヤに行くのは不可能だ。
     いったい彼は何を考えているんだろう。
     行きたいのなら、僕が捕らえられたあと、一人で行けばいいだろうに。
     窓ガラスにカーテン越しに凭れ掛かった。
     暗い宇宙に、少し透けた自分の姿が反射して映る。そっと左手を添えた。ひんやりとしていて温度はない。虚しくて、酷く寂しかった。縋るように呟く。どうか神が見守ってくれますように、と。
    「神が、三度、瞳を閉じますように」


    ***

    CHAPTER2:―祝祭―

     ひ、と息が引き攣って目が覚めた。背が汗で濡れている。走った後のように呼吸が荒い。心臓が暴れている。爪が手のひらに喰いこんで痛い。
     嫌な夢をみた。何も覚えていないけれど、きっと。
     いつ眠ったのか思い出せない。
     目だけを動かして周囲を確かめる。
     ベッドサイドの椅子で、レイシオが座って本を読んでいた。紙の擦れる音がする。伏せられた睫毛の下で、赤みがかった瞳が左右に動く。
    (読むの速いな)
     起き抜けで重怠い身体を起こす。
     文字列を追っていた瞳がアベンチュリンを捉えた。
    「起きたか。そろそろ乗り継ぎのステーションに着く。一日しか滞在しないが。丁度起こそうと思っていたところだ」
    「うん……。……いや、待ってくれ、ステーション? 三日かかるって話じゃ……」
    「君が三日寝ていたんだ」
    「おい冗談だろ……」
     ベッドから抜け出す。ふらついた。嘘でも冗談でもないらしい。この男は嘘も冗談も滅多に言わないし。
     得られた貴重な一週間のうち三日を覚えていられない夢に使ったのは、少し惜しい。
    「せっかくだ、少し街に出よう。君は長く寝てばかりで健康によくないし、見分を広めるべきだろう」
    「えぇ~? 今後自由が失われる奴が見分を広めて何になるんだよ」
    「頭がよくなる」
    「そりゃそうだけども」
    「寝ぼけた面を晒すつもりではないなら、顔を洗ってくるといい。湯も沸かしてある。立ちくらみが起きないようなら、風呂に入るのもいいだろう」
     レイシオはアベンチュリンが使っていた枕の上下を逆転させながら言った。
    「じゃ、ドクターのアドバイスに従おう」
     ペタペタと裸足でバスルームに向かう。レイシオのお供のアヒルがちょこんと置かれている洗面台で己の顔を見る。顔色は悪いし、よく見ると透けてる。目を凝らすと背後のタイルが見える。冗談みたいだ。頭痛がする。アベンチュリンは乾いた咳をするように笑った。
     ドアの向こうに大声で尋ねる。
    「レイシオ〜! 宇宙にさ、透けてる種族っている?」
    「いる」
    「じゃ、これに関しては僕は『ひとりきり』じゃないんだな!」
    「いいから風呂に入れ」
    「アヒル浮かべていい?」
    「元の位置に戻すのならば」

     着いた星のステーションはピカピカに新しかったが、周囲は未だ発展途上のように見える。
     南の海側はコンビナートが広がり、高い煙突から黒煙が絶えず噴き出ている。対して北の山手は、首都のはずだが、路面が舗装されてすらいない。同じ星——ステーションを挟んだ南北にすぎないというのに、違う星を見ているようだった。
     工業化もまだのところを必死に推し進めているらしい。
     田舎の農村にステーションだけ宇宙から降ってきたようだ。実際、似たようなものだろう。
    (この歪な発展具合、カンパニーが無理に誘致したんだろうな)
     骨を継いで身長を伸ばして無理やり大人にしようとしているようだ。自分の属する組織ではあるが、やることが乱暴でえげつない。アベンチュリンは心内で肩をすくめた。
     大気はやや埃っぽい。
     レイシオは何度か瞬きをしてから、眉をしかめて黒縁の眼鏡を取り出してかけた。本を読む時にたまに使っているものだ。
     レンズ越しにアベンチュリンを見下ろして言う。
    「君は平気なのか?」
    「え、何が? 砂? 慣れてるから気にしてなかったけど」
    「……これは砂塵ではない。君もサングラスをかけた方がいい」
    「あんまり身体に良くないやつ?」
     レイシオは黙ってコンビナートの黒い煙を指差した。
    「了解、教授」
     アベンチュリンもサングラスをかける。視界に薄紫のフィルターがかかった。
     あまりサングラスをこういう意図で使ったことはなかった。エヴィキン人に遮光も防塵も必要ない。もっと過酷な環境で生きてきたから。それより、目立つ瞳やふいに惑う視線を隠すのが主目的だった。
     北の市街地を歩く。都市計画など知ったことかとばかりに無秩序に建設された建物と細い道に人がひしめいている。真っ直ぐに歩くのも大変なはずだが、レイシオの無言の圧のせいか、勝手に人が道を開け、難なく進めた。
     メインストリート——といっても整備はされていない——さえも直線ではない。一度横道に曲がったら二度と大通りに戻れない気がする。
     だというのに、レイシオは当然のような顔をしてすいすい進んでいく。
    「君、目的地があるの?」
    「まさか。ただ歩いているだけだ」
     街中はヒョイヒョイ、と変わった音がする。
     アベンチュリンが周囲を見回す。どこから聞こえてくるのかもわからない。
    「あれは?」
    「家畜を追う伝統的な笛の音だ。普通の楽器としても使われる」
     道の幅が統一されていないからか、車も通っていない。そもそもこの星には車という文化がないのかもしれない。
    「教授、なんでここはもっと発展しなかったんだろう」
     牛が山車を引いているのを見たアベンチュリンがレイシオを見上げて尋ねる。レイシオは眉を寄せる。
    「……君は、僕が君と同タイミングでここに来た、ということを忘れていないか」
    「だって君、そもそもの知識量が違うじゃないか。視野も広いし」
     はあ、と溜息をついてレイシオが言う。
    「まず……けしてこの星の発展が遅れているわけではない。独自の文化、独自の発展を遂げているんだ」
     嫌そうな顔をしてるくせに答えてくれるんだ、とアベンチュリンは少し面白くなる。
    「そもそも“発展”などは、一律の基準があるわけではない。判断基準が価値観に依拠しているものだから、軽々しく測るべきではない」
    「失言だった?」
    「若干」
     だが、とレイシオが続ける。
    「君の思い描く“発展”との乖離があるのは事実だ。いい着眼点ではある。理由を上げるとすれば、地理的要因と歴史的要因の二つだ。地理的には、あまりにピノコニーに近いからだ」
     レイシオが空を指す。
    「夜であれば、ピノコニーの光が目視できるほどに近い」
    「それって、いいことなんじゃないの? 言い方は悪いけど、おこぼれに与るとかさ」
     レイシオが首を振る。
    「大きな星で列車に乗ったことはあるだろう? 大都市の手前の駅が嘘のように閑散としている様に覚えはないか。人口、資源、なにもかもが大都市に吸われてしまうからだ。それが宇宙規模になったのがピノコニーとこの星の関係だ。大都市の手前駅であれば、本来は宿泊需要があるだろうが……ピノコニーはホテルだからな。それすらも吸われてしまっている」
     知らないようなそぶりをしておきながら全然詳しいじゃないか!
     ふうん、とアベンチュリンは息を洩らす。
     少し笑みが滲んでしまったらしい。レイシオが憮然として「なんだ」と言う。
    「いや、さすが説明が端的で分かりやすいなって。それじゃ、歴史のほうは?」
    「百年ほど前までこの星は閉じられていた。外星の干渉がほとんどなかったんだ」
     宇宙には無数の星があり、無数の生き方がある。もちろん他の星との交流を絶っている閉じられた星もあるにはあるが、随分珍しい。それがたった百年前なんて最近まで継続されていたというのも。
     アベンチュリンの興味に応えるようにレイシオが続ける。
    「地理的要因はこちらにも関わってくる。ピノコニーが監獄だった時代は、閉じていたほうが無難だろう。監獄ではなにがあるか分からないから。ホテルになった後も、ピノコニーは観光産業しかなく、何かを産出することはない。他の星への利益が出にくい産業構造だ。何かを輸入できるわけでも、この星に何かを輸出できる余裕があるわけでもなかった。開くメリットが短期的にはなかったんだ」
    「でも今はカンパニーが干渉しているみたいだけど」
    「メリットがなかったのはこの星の視点だ。ただの石ころが他から見たら金剛石だった、ということもあるだろう」
     遠くで太鼓の音がしてアベンチュリンはそちらに視線を向けた。先ほどの笛の音だけでなく、太鼓まで。
     道幅が広くなるにつれ、街中祭りのような雰囲気になってきた。
     道沿いに屋台も出ている。香辛料をまぶした肉の焼ける香ばしい匂いがする。
     レイシオを見上げる。
    「なんかのお祭りかな?」
    「歴史などの表面的なことは知ってはいるが、文化などは僕も知らない。今日が何の日か、まではさすがに僕も分からない」
    「ま、そうだよね。むしろよく歴史まで知ってるなって思った」
     肩をすくめたアベンチュリンが「すみませーん!」と道端で果物を売っていた女性に声をかけた。
     レイシオはぎょっとして、「何を……」と言う。
     アベンチュリンは声を落としてレイシオに囁く。
    「君に言っても釈迦に説法かもだけど、気になったら即聞いた方がいい。無知は罪だからね。うっかり死んでしまわないために情報は多いに越したことはない。僕のライフハックだよ」
    「無知は正されるべきだが罪ではない……」
     眉間を押さえて塩を噛んだような顔をするレイシオを無視して、柔和な笑みを浮かべたアベンチュリンは女性に近づいた。
     亜麻色の髪をバブーシュカからのぞかせた女性が顔を上げる。綿のタブリエで手を拭い、アベンチュリンの姿を上から下まで眺めて、首を傾げた。
    「どなた?」
    「僕ら、いろんな星の文化を研究しているんだ。こちらの気難しそうなのが教授。僕は彼の研究室に所属してるんだけど。それで、今日って何か特別な日だったりするのかな? それともこの星はいつもこんな感じ?」
     流れるように口から出まかせを言うアベンチュリンに、レイシオはますます眉間の皺を深くした。
     人が好さげに微笑んだ彼女はネリと名乗った。屋台の庇の中に入るように、と二人を手招きする。
    「研究なんて珍しいわね。こんな小さな星、誰も興味なんてないかと思っていたけれど。今日は神様からの贈り物をお返しする日よ」
     アベンチュリンが尋ねる。
    「贈り物って?」
    「七本脚の仔牛よ」
     怪訝そうに眉をひそめたレイシオが呟く。
    「……七本脚?」
     ネリが「ええ、七本脚」と頷く。
    「……?」
    「……?」
      聞き返したレイシオが首を傾げ、ネリも首を傾げた。
     あー、とアベンチュリンが唸る。頭こそいいが、レイシオは言葉足らずだ。相手が自分と同じ思考スピードで思考回路だと思っている節がある。彼に任せたら話が進まなさそうだ。
    「その、七本脚、というのがこの星では縁起が良い、のかな? たしかに、随分珍しい特徴だと思うけど」
    「……もしかして外ではそうではないの? ごめんなさいね、私たち、この星の外のことを全然知らないのよ。ほら、外に行くのって審査が厳しいでしょ?」
     少し考えたネリは、初めて説明するかのように、ゆっくりと言葉を選びながら言う。
    「七本脚、というより、何かが多い、というところに意味を見出しているの。神様がお印として付け加えてくれたのだから。多ければ多いほどいいの。神聖なのよ」
     ネリは、「仮に六本脚だったとしても神様にお返ししていたわよ」と付け加えた。
    「贈られたものをまた戻すんだね」
    「たしかにそう言われると不思議ね。でも贈られたものを全てお返しするわけじゃないわ。返すべき牛が生まれた時だけ」
    「この星では多足だったり多指だったりの特徴を持って生まれるものが多いのだろうか」
     レイシオが尋ねると、ネリは口元に手を添え、曖昧に微笑んだ。
    「そうね……? 他の星を知らないから分からない。ああ、でも、人間だと分からないけれど……最近はよくお祭りがあるから、牛だとだんだん増えているみたいね。昔はこうも頻繁にはなかったもの」
     ネリは嬉しそうに言う。
    「神様に目を掛けてもらえているみたいで、とても素敵なことよ」
    「……」
     レイシオは考え込むように黙った。
    「ネリ、もうすぐ私たちのくじの時間よ」
     ネリに声を掛けたのは、全身赤の装束に身を包んだ女性だった。顔も赤のヴェールがかかっているが、よく見ると目元がネリによく似ている。
    「この人たちは?」
    「天外から来た人。文化を研究しているんだって」
     赤い服の女性はミモリと名乗った。ネリの双子の妹だという。
     ネリが言う。
    「私たちも、私の息子たちも双子なの。この星で双子は珍しいことではないから」
     ミモリ道の向こうを指す。
    「あの金物屋も双子」
     もしかすると、とネリが呟く。
    「人間では多足や多指が多いかは分からないって言ったけれど……双子も“もう一人分多い”ってことなのかも」
    「なんの話?」
    「神様からの贈り物の話」
    「ああ、もしそうだとしたら、私が贈り物ね。ネリより優秀だから」
    「何言ってるの、もう」
     二人はそっくりな顔を見合わせてクスクス笑った。ミモリのヴェールが吐息で揺れる。
    「ミモリさんの服も祭りと関係あるのかな?」
     アベンチュリンが尋ねた。
    「これはお祭りとは関係ないの。ミモリの夫がね、先日工業地帯での事故で亡くなってしまって。これは喪服よ。青が生者、赤が死者の印なの。妹が夫と一緒に神様に連れて行かれないように、彼女はもう死んでいますって偽っているのよ」
     死者に扮するのは、この星独自の葬式に伴う文化らしい。
    (ツガンニヤでは、どうしていたっけ)
     母はアベンチュリンが生まれてすぐに死んでしまったから分からない。同胞が死んだこともあったはずだが、よく思い出せない。そもそも知らないのかもしれないな、と思った。 
     時間になってしまうから行かなきゃ、とミモリが言った。
     最後にレイシオが尋ねる。
    「不躾なことを聞くが。君たちは先ほどからしばしば“神”を話題に出しているが、星神のことではなさそうだ。君たちの言う神とはいったい何なのだろうか」
     顔を見合わせた二人は軽く笑う。ネリが言う。
    「ごめんなさいね。“神”のことは私たちもよく分からないの。そういう文化が残っている、というだけで」
    「残っている? 昔のものなのか」
    「多分ね? そうよね、ミモリ」
    「いつから“神”がいたかは知らない。ただそうするように言われているからそうしているだけ」
    「そう。私たち、信仰心はないのよ。この星に信仰している人なんているかも分からない。このお祭りだって習慣みたいなものよ。やらないとしっくりこないからやる、それだけ。あなたたちもあまり気にせず楽しんだらいいわ」
     ミモリも頷く。道の先を指差す。
    「私たち、くじの時間だと言ったでしょう? あっちの広場でくじを引くの。それも神様に纏わる儀式の一つだけど、星の外の人も引いて問題ないと思うわ。誰も文句は言わないし。ぜひ引いてみて」
     手を振って二人が広場に向かう。
     残されたアベンチュリンがレイシオに言う。
    「民に贈り物をする神と生者を連れて行くような神って、二面性ありすぎない? ごちゃついてるね」
    「二面性……神は二柱いると考えられているのかもしれないな」
    「二柱……?」
    「この星は双生児が多い。外の星に疎いネリでさえ自覚的なほどに。信仰で作られた神ならば、信者の特徴が反映されるのは自然だ。……だがすでにその境が現地民でさえ曖昧になっているのだから、その概念は既に結合しているのだろう」
    「神からの贈り物、なんて、まるで僕みたいだね?」
    「……」
    「黙らないでよ」
    「返す、という意味を分かって言っているのか? おそらく、今日はその牛を潰すんだ」
    「……」
    「黙る前に、何か言うべきことがあるんじゃないか」
    「言いづらいことを教えてくれてありがとう!!!」


     広場に着くと、神に返される牛を見るための列とくじを引くための列にわかれていた。ネリたちの話から察するに、くじは家族単位で引く時間が割り当てられているようだが、それでも混雑していた。
     待ち時間が長いためか、列の横のスペースで闘牛の見世物がされている。闘牛士が赤い旗を振る。
    「本当にこの星は牛が多いね!」
     大通りに出ていた屋台も、大抵牛肉料理だった。この星の主産業が畜産なためだ、とレイシオが説明する。
     アベンチュリンが闘牛士の持つ赤の旗を指す。
    「あれが赤いのもなんか理由がある?」
    「ない。牛は赤を認識できない、と言われている。本来あれは何色でもいいんだ。ただ動くものに反応しているだけだから」 

     神に返される牛は木製の檻に入れられて、広場の中心に作られた神輿の上に乗っている。数段高い位置にあるため、わざわざ列に並ばずとも見物できた。レイシオは難なく見えているようだが、アベンチュリンは少し背伸びをしなければいけなかった。
     牛の首には青いリボンが結ばれている。つやつやとした布地で、見物人の着ている麻や綿とは違う。神の贈り物とだけあって、随分特別扱いをされているらしい。
     アベンチュリンははたと気がついた。 脚が多いだけじゃなくて尾も二本ある。違うリズムで左右に揺れている。神性は脚の本数で決まるらしいから誰も気にしていないようだが。
    「ちなみに……どういう原理で七本脚になるんだろう」
    「……分かると思うのか?」
    「教授はなんでも知っているから」
    「僕は知っていることしか知らない」
     レイシオはため息をつき、首を振る。深い藍色の柔らかな癖毛が揺れる。
    「そして……この世の神秘……とされているものを無遠慮に暴くような真似はしたくない」
    「真実を知りたがる学徒がいるっていうのに!」
    「誰が学徒だ」
    「で、ホントは分かってるんだろ、教授」
     アベンチュリンが追撃すると、レイシオは渋々といった風に口を開く。
    「……おそらく、この牛は脚が多いわけではないだろう」
    「はあ? 少ないってことかい? でも七本もあるよ」
    「いいや。四本と三本だ」
     「ああ、なるほど」とアベンチュリンは呟いた。
     二つのしっぽを揺らす牛に同情の目を向ける。
    「双子なんだ……いや、双子だった、かな?」
     レイシオは頷く。
    「察しがいいな。この星のヒトは双生児が多い。それは、おそらくヒトに限らず、動物も。そうしてなんらかの理由で……片方が脚の少ない双生の牛が結合したまま誕生した、ということだろう。いや、この具合だと、上手く分裂できなかった、という方が正しいかもしれないがな」
     アベンチュリンが聞き返す。
    「なんらかの理由って何?」
    「いくつだって可能性は挙げられる、が、そうだな」
     レイシオは一瞬言葉を濁し、しかし続ける。
    「……僕は、カンパニーが本気でこの星を急成長させるつもりなら……公害の知識を早急に広めるべきだと思う。以上だ」
    「『最近増えている』ってそういうことか……」
     アベンチュリンは苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
    「脚が三本増えるよりは現実的だ。が、相当な確率であることは間違いない。神秘、かもしれないな」
    「は、思ってもないことを」
     黒煙を噴出する煙突、ただの砂塵ではない微細な粒子、そしてこの牛。天外からの来訪者がこの星に見過ごせない影響を与えているらしい。
    「カンパニーってさ、ヤバい外来種みたいだね」
    「自己紹介が上手で安心したよ。正しく自己認識できているようだ」


    「星ごとに奇祭はあるが、ツガンニヤには何かあったか?」
    「どうだろう……。記憶にないな。ツガンニヤはひどく貧しい星だったから。いつも星ごと息を切らしてるような状態だったし、こういう賑やかなことをする体力はなかったんじゃないかなあ」
     遠く向こうに去ってしまった記憶を探るように、目を伏せる。
    「たしか細々やるものはあったけど、大人が主体で……。ああ、でも一つ覚えてる。僕の背がヤーディヴィ四つ分を超えたからって、みんなの前で舞ったんだ。祭りっていうより儀式かな」
    「ヤーディヴィ?」
    「低木だよ。だいたい25センチくらいかな。食べられないよ。めちゃくちゃ酸っぱい」
     アベンチュリンは苦笑する。どうにもならないほど飢えていたとき根を齧ったことがある。舌が痺れるほど酸味が強かった。姉は無毒だと言っていたけれど。今でも思い出すと反射で唾液が出る。
     四つ分だからこのくらいかな、と自分の腹のあたりを指す。
    「ちいさ~! よく頑張ったな僕! 本当は五つ分のときも舞うんだけどさ、その日はこなかった」
    「なぜそのヤーディヴィが基準になるんだ? 食べられないものならば、ツガンニヤにおいて価値はほとんどないと思うんだが」
    「なんで、か。考えたことなかったけど、たしかにそうだね……」
    「大切にされているものには大抵、大切にするに至る物語や意味があるんだ。ヤーディヴィもきっとなにかあったのだろう」
    「ツガンニヤに興味津々だね、教授。もしかしたら理由はあったのかもだけど、僕は聞いていない。ツガンニヤの文化はこうやって継承もされずに途絶えてしまうんだよね……。僕は生きてはいるけど、ある意味エヴィキン人は数年前に死に絶えたんだ」
    「僕に話せば、考察程度はできる」
     アベンチュリンはけらけらと笑った。
    「話せることなんてないってば。それに、今更本当の理由を知ったって、僕が寂しいだけだ」

     くじの順番が近づく。くじ袋の前で、名簿にチェックがつけられている。アベンチュリンはそれをちらりと覗いた。四、五人苗字が共通する人が並び、違う苗字に切り替わる。家族単位でくじの時間が決まっているらしい。アベンチュリンは周囲を見回す。ネリは双子が多い星、と言っていたが、実のところそうではないのかもしれない。くじに並んでいる人々で、すぐさま双生児だと分かる同じ顔を持った人は見当たらなかった。
     列はするすると進み、名簿の前に二人で並ぶ。アベンチュリンが言う。
    「僕たち、天外からの旅行者なんだけど、引いてもいいかな?」
     白いゆったりとした服に身を包んだ、司祭らしき男に尋ねる。目元を隠し口元だけしか見えないが、刻まれた皺から壮年であることが窺えた。彼の後ろに控える警備兵は銃を持ち、顔の全てを黒布で覆っている。
     司祭が言う。
    「おや、珍しい。もちろん問題ないとも。……しかし、何も起きないけれどね」
    「そうなんだ? おみくじみたいなものだと思っていたけれど、違うのかい?」
    「ああ。これは、当たったら『牛飼い』になるけれど、外れたら何もない。どうせ皆外れるしね」
     また牛の話だ、とアベンチュリンは思う。
    「……『牛飼い?』」
     レイシオが問い返す。
    「そうだよ。あの牛を神様にお返しする……て話は知っているだろうか」
    「ああ」
    「あのこを神の御許に連れて行く人が必要だろう」
    「……うん?」
     少し引っ掛かり、アベンチュリンは唸り声を漏らす。神の御許。牛は死ぬことで神に返されるとされる。すなわち、この星では神は死の側にいるのではないか。その御許、とは。
     司祭は少しも気にした様子はなく言う。この星に住む人は全員、祭りの数日前から順番を割り当てられ、必ずくじを引くのだという。そして、牛を神の御許に連れて行く。
    「それが役目だよ」
     アベンチュリンは口端を引き攣らせながら問う。
    「じゃあ、その『牛飼い』も神にお返し(・・・)されるってこと?」
    「いいや、返されはしない。神から何も頂いていないっていうのに、何を返すんだい?」
     司祭の笑い皺の刻まれた口もとが、その皺を深くする。
    「ただ神の御許に連れて行くんだよ」
    「……?」
     困惑するアベンチュリンにレイシオが囁く。
    「各々の宗教観があるんだ。君が理解できないものを無理に理解する必要はない。ただそういうものだと受けとめるだけでいいだろう」
    「……教授は何を言ってるかわかった?」
    「いや全く」
     とりあえず、とアベンチュリンが言う。
    「僕らはこのくじを引いてもいいってことで間違いないね?」
    「ああ、どうぞ。……ただ、」
     いたずらっぽく彼は言う。
    「もし、万が一、当たりくじを引いたら、自己申告してくださいね。とても名誉あることですから!」

     ネリはよくもまあ、低確率とはいえ牛とともに殺される可能性のあるくじを薦めたものだ、とアベンチュリンは少しおかしくなる。きっと、本当に低確率で、彼女たちにとってはスリルを楽しむ娯楽のうちにも入らないのだろうが。
     レイシオを見る。こういう前時代的なものは、潔癖だから嫌がりそうだけど。
    「なんだ……。僕だって口を出す範疇は弁えている。これを『前時代的』と思うのは僕の価値観にすぎない。この星の民からしたら僕の行為の何かが『前時代的』だろう」
    「すげ〜文化人類学だ」
     アベンチュリンがレイシオに尋ねる。
    「星に住む全員がくじを引くことって可能なのかな」
    「直接ここに来て、というのは困難だろう。生業が生業だ。商人が多い星であれば移動が促され困る人も少ないだろうが、土地に根差す人が多いこの星では、いくら小さな星であるとはいえ、全員がこの抽籤場に来ることはできない」
     遠目で見た時は気づかなかったが、くじ袋は随分と小さかった。到底何十万枚もくじが入るとは思えない。アベンチュリンの十人ほど前でそのくじ袋が空になったらしい。新しいくじ袋に交換された。
    「どういうこと……」
    「全て外れくじの袋がいくつもと、当たりくじが入った袋が一つあるのだろうな」
     おそらく、とレイシオが言う。
    「主要都市にくじ袋をその都市の人口分配り、各々が近場の抽籤場に引きに行く、というシステムだろうな」
    「……それって確率は平等なわけ?」
    「感覚的には不平等に思えるだろうな。当たりくじが入っていないくじ袋では当たりくじを引く確率は0だが、当たりくじが入っているくじ袋では、引く確率が跳ねあがる。が、当たりくじの入った袋が割り当てられる確率も考慮すると、数学的には大袋から引く場合と変わらない。しかしこの抽籤システムは致命的に……」
    「ストップ、教授。それ以上は多分聞いても分からないからいいよ」
     順番が回ってきた。えい、とくじ袋に手を突っ込む。指先を繊維の荒い紙が擽る。製紙業があまり発達していないのだろう。
     一番指先に引っ掛かったものを取り出す。
     レイシオもくじ袋に手を入れる。アベンチュリンは二つ折りのくじを指先でくるくると弄びながら待った。
    「僕、こういうのも強いんだよな」
    「……それは、何十万分の一を引く、という意味でか?」
    「いやいや、そっち引いたら死ぬだろ。地母神の祝福はそういうタイプじゃないよ」
     苦笑しながらアベンチュリンが二つ折りのくじを開く。
    『当たり』
     共感覚ビーコンの不具合かな。
     一度くじを閉じる。
     もう一度開く。
     紛うことなき『当たり』だ。
     くらくらする。ずっと続いている耳鳴りが少しひどい。
     レイシオの服の裾を引き、小声で言う。
    「レイシオ! まずい!」
     挙動不審なアベンチュリンに、レイシオが表情を引き攣らせる。
    「……まさか」
     当たり籤を見せる。
    「君……」
      白い目でレイシオが見る。
    「わざとじゃないよ!?」
     アベンチュリンが辺りを見回す。
     幸い、誰も注目していない。このまま何も知らないフリをして去ってしまうことだってできる。
    「駄目ですよ」
    「っ!?」
     司祭の後ろに控えていた兵が背後に立っていた。背中に銃口が突き付けられている。顔を隠した兵は淡々と言う。
    「神の御前で不正は。バチがあたります」
     いっそ怖ろしいまでに感情のこもっていない声だ。アベンチュリンはゆっくりと両手を挙げた。
    「僕、どうなるのかな?」
    「『牛飼い』になります」
    「この星の者じゃないんだけど」
    「でもくじに当たりましたから」
     何を言っても無駄らしい。アベンチュリンは助けを求めてレイシオを見上げる。悠然と立っている。他人事だと思いやがって。
    「レイシオ~! 君の弁舌でどうにかしてくれないかな」
    「弁護は専門外だ。今から司法試験を受けないとな」
    「薄情だね!!!」
    「“どうにか”するにはあまりに情報が不足している。君は大人しく捕まっているといい。……その間に僕が“どうにか”しよう」
     レイシオが踵を返しスタスタと歩いていく。アベンチュリンはその後ろ姿を恨みがましく見つめた。
    「君ともあろう人が忘れたの」
     距離は15メートル。きっと半笑いのアベンチュリンの声は聞こえないだろうが。
    「気をつけな」
    「っ!」
     レイシオがつんのめる。
     二人を繋ぐ不可視の紐がピンと張りつめている。
     レイシオは憮然とした表情で戻ってきた。
    「なんて顔してんのさ教授! 君がかけた呪いだよ!」
     深い溜息をついたレイシオが銃を構える兵士に申告する。
    「僕は彼の……付き添いだ」
     めっちゃ嫌そうな顔で言うじゃん。
     
     
     二人でまとめて半地下のじめじめとした牢に入れられる。夜に“神”に会いに行くのだ、と告げ、兵は立ち去った。
     アベンチュリンはずるずると冷たい石の床に座り込む。
    「教授、牢に入れられたことある?」
    「ない」
    「僕はある。先輩って呼んでよ」
    「先輩、せっかく多少なりとも透けているのなら鉄格子をすり抜けてくれないか」
    「むちゃ言うな」
     アベンチュリンはレイシオの腕の金の刻印を指す。
    「それ、僕を死なせない契約ならさ、僕が死んでしまったらどうなるんだろう。……契約期間中は不死になるとかだと助かるんだけど」
    「そこまでの絶対的な力はあの奇物にはない。もし仮にそれほどの力があれば乱用されることはないはずだ」
    「乱用されてるんだ……」
     知らなかった、と言うと、レイシオは「普通はこの奇物を使われていることは隠すからな」と言った。自分の立場の低さを喧伝するようなものだから。
    「それで、もし君が死んだらだが、反故という判定になるだろうな。契約違反者の末路は、僕より君の方が詳しいんじゃないか?」
     アベンチュリンは曖昧に微笑んだ。
    「じゃ、僕ら運命共同体ってやつ? 一蓮托生だね、教授。死にたくなければこの状況をどうにかするしかないみたいだ」
    「たとえ君と命が繋がっていなくとも尽力するつもりだったがな」
     レイシオもアベンチュリンの向かいに腰を下ろした。片膝をたて、すっと背筋を伸ばし、まるでここが牢の中ではないように思える。「さて」と温度のない声で言う。
    「……君は神とはなんだと思う?」
     突拍子のない問いに、アベンチュリンは「はあ?」と声をあげた。
    「この話、本気でここでするつもり?」
    「ああ、必要な話だ」
     アベンチュリンは溜息をつく。
    「僕、君が星神の存在を扱き下ろす論文を書いたの知ってるよ、読んでないけど」
    「そうか、光栄だ」
    「読んでないってば。……僕(有神論者)と君(無神論者)が論じたところで平行線で不毛だと思うけど?」
    「神がいるかどうかの話ではないし、僕の信条も君の信条も今は関係ない。君の信条を否定するつもりもない」
     レイシオが言う。
    「この星の者がいる、としているのだから神はいるのだろう。それが信仰によって編まれた神でも、生物でも、現象でも、物体でも、何であれ問題ではない。ただ、それが何なのかは重要だ。対策も練れないからな」
     前提からして違うんだよな、とアベンチュリンは思う。人間が神に先立つのではなく、神が人間に先立つのだ。信仰があるから神があるのではなく、神があるから信仰がある。
    (……って議論をこの危機的状況でするのはよくないか)
     アベンチュリンは牢の無機質な天井を見上げ、息を吸い、ゆっくりと吐きながら視線をレイシオに戻した。
    「オーケー、僕と君の一生分かり合えない部分はとりあえず置いておこう。建設的な話し合いをするためにね。しかし君、逃げるとかじゃなくて、神をどうこうしようと考えてるのか」
     アベンチュリンは溜息をつく。あまりに不遜だ。自分には神に勝つとか出し抜くなどといった考え方はない。そんな風に考えられたことはない。
    「……とは言え」レイシオが言う。「僕たちには情報がほとんどない。ネリたちの話から考察していかなければ」
    「そんなに情報あったかな……」
    「ほとんどないな。これは考察……推理……いや、空想かもしれない。だが、学会で発表するわけじゃないんだ。過程が間違っていようと、結論さえ合っていれば問題ない」
    「教授からそんな暴論が出てくるなんてね」
     アベンチュリンが揶揄うと、レイシオは皮肉っぽく笑った。
    「人は間違いながら発展していくんだ。……さて、僕らが助かるためにはまずは現状の整理と把握が必要だろう」
     この星の人々はとある神を信仰——しているかはさておき、『存在している』ということになっている。その神に、奇形の牛を返す儀式が行われている。
     それでは。
     レイシオが人差し指を立てる。
    「……第一に、なぜ身体のパーツが多いと神聖とみなされるのか」
    「神の印だから?」
    「それは伝承だ。言い方を変えよう。なぜ“神の印”など理由付けをして神性を見出す必要があるんだ? 特に牛に」
     この星ではありとあらゆる場面で牛由来のものを見かけた。レイシオも、畜産がここの主産業だと言っていた。
    「……生活に近いから、とか?」
    「ああ。僕もそう考えた。では、なぜ人間は“返されない”のか。牛よりもずっと生活に近いだろうに」
     ぎょっとするアベンチュリン。
    「人間を返すのは駄目だろ!? だって、返すって殺すことだよな」
    「倫理的にはそうだ。——もっとも、この倫理観も僕らの尺度でしかないがな。加えて、『牛飼い』役がいるため人間も最低一人殺されるが、彼らにとってそれは“返す”の定義に当てはまらないらしいから、それはさておき。僕が一番問いたいのはこれだ。『なぜ人間には神性が見出されないのか』」
    「人間と牛の違い……? 言葉を話すか、考えるか、夢を見るか……」
     アベンチュリンの取り留めのない羅列にレイシオは頷き、言う。
    「僕は、『食べられるか』だと思った」
     アベンチュリンは表情を強張らせた。
    「……人を食うヒトもいるだろう」
     レイシオは虫を追い払うように軽く首を振り、否定する。
    「この星に食人文化はない」
     分かっていた。だが、この議論の先にあるものが怖くて、目を逸らしたかっただけだ。だが、いくら目を逸らそうと結論は揺らがず存在している。この問答は、ただ結論の姿を煙らせて曖昧にしている靄を晴らすためのものであり、結論の形を変えられるものではないのだ。
     溜息をついたアベンチュリンは言う。
    「君の問い……いや、考察はそれで終わり? それなら次は僕から聞いても? と言っても、君みたいに事前に答えがあるわけじゃない。教授の考えを聞きたいだけだけど……。『牛飼い』役は、なんだ? 神の御許に連れて行く『牛飼い』はなぜ必要なんだろうか」
     レイシオが秀麗な眉を寄せて考え込む。
     アベンチュリンが続けて問う。
    「なぜ、死ぬ必要が?」
    「——例えば、この神が現象や超人類的な、意思のない何か(・・・・・・・)であれば……牛が同中逃げ出さないための存在であり、死ぬのは、結果的にそうなる、というだけだ。だが、神に意思があり、意思をもって『牛飼い』を殺すのだとすれば、」
    「口封じ?」
    「物騒だな。しかし、そうだとすれば、ここの神は……見られたくない姿かたちをしているのかもしれない」
     レイシオは再び口を噤み考え込む。
     アベンチュリンは高い位置の小さな通気口から差し込む仄青い月光を眺めていた。
     唐突にレイシオが立ち上がった。
    「繋がった……!」
     凛とした赤の瞳が理知の光を宿している。
    「何か分かった? エウレカって叫んで走り回ってもいいよ」
    「それは自室でしかしない」
    「自室ではするんだ……」
     さて、とレイシオが言う。
    「ここからは僕の物語だ。話半分で聞くといい」
     レイシオのよく手入れされたサンダルが石の床を打つ。
    「人は食用ではないから返さなくていい。牛は食用だから、返す——食べる以外の方法で、殺処分する必要がある」
    「君の物語においては、多足の牛は食べちゃいけないってこと?」
    「僕の物語においては、昼にも言ったが、多足の原因は公害だと見ている。さらに、この星の食文化では、牛が主な動物性タンパクだ。さて、アベンチュリン。君は『生物濃縮』を知っているだろうか」
    「……一応」
     それは、汚染物質が生物の体内に蓄積し、捕食を通じ、栄養段階の上位にいる生物に汚染物質が蓄積していく状態。
     ——しかし、それならば。
     アベンチュリンが言う。
    「多足という形で発現した牛一頭を潰しても意味がないんじゃないの。汚染されているのは牛、そしてそれを食べる人間だ。焼石に水もいいとこだと思うけど」
    「ああ。だが、公害の概念を獲得していないだろうこの星では、全ての牛を殺処分することはとてもできない。なにせ生活の糧だ。だから、せめて発現した分だけでも除く。それが成牛になり繁殖する前に。……アベンチュリン、君が、もし、この星の人間であれば」
    「?」
     唐突に話を振られたアベンチュリンが瞬きをする。
    「こう考えないだろうか。『神の贈り物同士をかけ合わせたらどうなるだろう』と」
    「……考える可能性は十分あるね」
    「試せばすぐに分かるだろうな。『神の贈り物』を親とする牛は、同様に『神の贈り物』になる可能性が高い、と。そのような知識が獲得されると困る(・・)。そのリスクをなくすために用意された(・・・・・)のが『贈り物を返す』という儀式だ」
    「加えて、『神の贈り物』という属性を付与し、決して人が食べないようにする。そういう解釈を僕はした」
     アベンチュリンがじっとりとした目でレイシオを見る。
    「しかし……君の話を聞くと、まるで公害の知識がある者が“神”を作った(………………)みたいだね? この星に公害の概念は今のところないというのに」
    「分かっているんだろう、アベンチュリン」
     レイシオが言う。
    「僕の結論は……“神”についてのこの伝承は、昔からあるものではない。星が開かれたあとに作られた物語だ。教育に先立ち情報を伝達するには、物語が最適だから。“神”を理由にすれば、もし奇形の牛が生まれた時それを隠すものはいないだろう? あの牛は、神の贈りものだから殺すんじゃない。殺すために、『神の贈り物』だという理由付けをしたんだ。僕たちを捕まえた兵……銃を使っていたな」
     アベンチュリンは背に突き付けられた銃の感触を思い出す。そうだ、確かに奇妙だ。車もないこの星になぜ銃があるのか。銃を扱うものが、儀式に深く関わっているのか。
     アベンチュリンは苦虫を噛みつぶした顔で言う。
    「……ここの“神”が天外から持ち込まれたものだから、か」
    「ご明察。この神に纏わることには、天外の者が関わっているとみて間違いないだろう。……“神”に会いに行った先で僕らが会うのは、屠殺に長けた天外の人間だろうな」
     アベンチュリンは肩をすくめる。
    「対人だったらいくらでもやりようがあるから助かるけど」


     時間になったらしい。牢から引っ張り出される。
     銃を突きつける顔を隠した男にアベンチュリンが言う。
    「戦略投資部のアベンチュリンって知ってる? 僕なんだけど」
     男は何も反応を見せず、赤のリボンをアベンチュリンとレイシオの手首に結びつけた。
     カンテラの覚束ない光で足元を照らしながら一列になって広場の裏手の山道を歩かされる。
     七本脚の仔牛は、立つことはできても歩行は困難らしい。車輪つきの檻に入れられ、また別の警備兵が最後尾で運搬している。牛は自分の運命も知らず、暢気に尾を振っている。
     山の生ぬるい風と、聞いたこともない鳥の鳴き声が不気味さを助長させている。
     暗くて判然としないが、中腹まで歩いただろうか。先導する男が立ち止まった。後ろの男が檻から仔牛を出して抱え上げた。山道を外れ、鬱蒼とした高木林を進む。
    (ここに埋められたりはしないよな……?)
     少し進んだところで、ぽっかりと木のない空間に出た。足元はふかふかの芝生が覆ってる。
    「森林ギャップだ」
     とレイシオが言った。
    「こちらからの視界は悪く、森林内と上空からはよく見える」
     何か事を起こすには絶好の場所だ、相手にとって。アベンチュリンは舌打ちをする。
     男たちは地面に二本杭を打ち、片方に仔牛、もう片方にアベンチュリンを繋いだ。レイシオは、手首こそ拘束されているものの身体の自由は奪われなかった。
     男たちは何も言わないまま、その場を離れた。
    「ねえ、レイシオ」
     アベンチュリンが言う。
    「この期に及んで拘束されているのはなんでかな」
    「さあ。僕は僕以外の者が考えることなど完全にはわからない」
    「そりゃそうだろうけど」
     月明りのみの暗闇に沈黙が満ちる。
     これはもう縄抜けでもして動いていいんだろうか。一応確認をとろうと口を開く。
    「レイシ……」

    銃声。

     隣の杭に繋がれていた仔牛が倒れる。
    「っ!?」
     足音もなくやってきた、カンパニーの制服を着た男が言う。
    「お手数をおかけしてすみません」
     丁重に頭を下げた彼は、アベンチュリンとレイシオの拘束を解いた。少し痛む手をぐんと伸ばす。
     彼は赤いマントをレイシオに渡した。
    「なんだ……?」
     有無を言わせない笑みで彼は言う。
    「貴方は髪が青いですから、念の為被っていてください」
     アベンチュリンに向き直った男は、再度丁寧に礼をした。
    「大変失礼いたしました。まさかあなた方が引いてしまうとは思わなくて」
     アベンチュリンは眉を寄せて言う。
    「……君たちが黒幕なら、もっと早く助けてくれてよかったんじゃないの? わざわざ僕らを牢に入れたりなんてしないで」
    「ええ、そうしたい気持ちは山々でしたが、我々にも世間体がありますので。儀式は恙なくやらなければ」
    「はぁ……。まったく、やっぱり『〔水たまり〕を堰く』ことができたら他はどうでもいいと思ってるんだな」
    「……なんて?」
     レイシオが怪訝な顔をする。
    「え、だから、本当にカンパニーって手段を選ばないんだなって。僕が言えた話でもないけど」
     レイシオが男に言う。
    「少し、聞いていいだろうか」
     男は勿論、と鷹揚に頷いた。
    「この星の神は、スターピースカンパニー(君たち)が造った。それは、公害被害と遺伝子の異常の拡散を食い止めるため。合っているだろうか」
    「ええ、おおむね。たった一日の滞在でそこまで分かってしまうものなのですね」
     レイシオが咎めるように言う。
    「君たちはこのやり方が正しいと思っているのか」
    「思っています」
     職員は凛として答えた。先ほどまでの物腰の柔らかさから一転、その声音は力強かった。
    「正しいと信じています。……信じずにやる方が失礼でしょう。信じれば、そこに正義があります」
     それに、と唇に薄っすらと笑みを浮かべて続ける。
    「かつて信仰によって編まれ、しかし時とともに信仰する者が少なくなったせいでしょうか。我々がこの星に着いた時には、すでにこの星の神は混沌と化していました。……無秩序に秩序(ルール)を持ち込み、儀式に落とし込んで支配したのが我々です」
    「……待て。この星の神……?」
     レイシオの眦がピクリと動く。
    「ここの神は君たちが造ったんだろう?」
    「いいえ」職員が首を横に振る。
    「星が開かれてからゼロから生み出して信仰させたとにしてはあまりに馴染みすぎている、と思いませんか。百年足らずで、ここまで生活に溶け込むことができるでしょうか」
     レイシオが言う。
    「既存の“神”とされていた混沌(もの)に概念を付け加え、まとめ、編集した、ということか」
     職員が言う。
    「どこまでが我々が作った“物語”だったでしょうか。どこまでが古代から100年前まで開かれていなかった星で肥え太った混沌だったでしょうか」
     もちろん、と職員が言う。
    「Mr.レイシオの仰る通り、これは公害の拡散防止についての物語です。知識の普及——それも確かに我々の目的でした。しかしそれだけではありません。お二方はもうご存じでしょうか。……死者の家族が、死者に扮する、という文化がこの星にあります」
    「……聞いたよ。一緒に連れていかれないようにって」
    「そう。つまり、『神に連れていかれた』という前例があるため、『連れていかれないための対策』が必要なのですよ」
    「……!」
     アベンチュリンは息を飲んだ。
    「この星ではかつて、神に生者まで黄泉に連れていかれるということが頻繁にあり、神の前で矮小な人間になす術はありませんでした」
     ですが、と職員は言う。
    「文化的な星であるためには、生と死の境さえ曖昧な混沌のままなのはいけませんね」
    「……それは価値観の押し付けだろ」
     苦々しく顔を歪めたアベンチュリンを見て、男は話が通じないとでも言いたげに肩をすくめた。
    「儀式の話に戻りましょうか。カンパニーは、奇形の牛が神聖な神からの贈り物であると意味づけし、それを返却する儀式は神への敬意の表出と見做しました。そして、儀式で死ぬ牛(・・・)には青い紐を、死なない牛飼い(・・・・・・・)には赤い紐を巻きました。それが次第に意味を持つように」
     彼は語る。
     死ぬ者とは、生者である(・・・・・・・・・・・)。生とは死への行進にすぎないから。だから、青は生者の象徴に。
     決して死なない者とは、死者である(・・・・・・・・・・・・・・・・)。二度目の死は訪れないから。だから赤は死者の象徴に。
     そして、それは転じ。
     赤を身に纏う生者は、死んでいると見なされ。無為に神に連れていかれることもなくなった。
     それは、とても。
    「善いことです」
     職員は機械じみた笑みを浮かべた。
     放置された子牛の死体――死してなお、首の青いリボンが目立つそれが、背後でぐちゅりと潰れた。
     ひ、と息を鋭く吸いこんだ喉が鳴る。
    「振り返るな」赤いマントを頭からかぶったレイシオが低い声で唸る。「獣だ。銃を恐れてこちらには近づかないから、振り返るな」
    「……神は、」アベンチュリンは赤いリボンの巻かれた手をぐっと握り締め、“獣”によく見えるように後ろ手に回した。
    「いるんだろ、まだ。首に縄をかけて支配したとしても」
     震える唇で言う。
     この星の神の正体。
     ——例えばそれは、元を辿れば「遺伝性の病」への畏れ。死者に親い者……例えば直系卑属が、同様の原因で死ぬことへの畏れが転じたのではないか。この星は閉じられていたから。遺伝形質が発現しやすいから。
     職員はゆっくりと、曖昧に首を振った。
    「既に考える必要はありません。我々は無秩序に首輪をつけました。飼い殺します。もはや、それはいないも同然ですので。千年後にはこの星は、全て忘れていますよ」


    「えらいめにあった……」
     職員に連れられ人目を避けてステーションまで来たものの、暁もまだな時間だ。発車まで時間がある。アベンチュリンは出星審査だけは済ませ、大きな窓のあるガラス張りの待合室で、だんだんと明るくなっていく南の工業地帯の港湾と北の市街地を眺めていた。
     俄かに出星審査のゲートが騒がしくなった。何か揉めているらしい。アベンチュリンが待合室から顔を覗かせると、双子の少女たちが警備兵に止められていた。何を叫んでいるのかまでは分からないが、問題があって出星が認められないらしい。
    「そういえば、ネリも審査が厳しくて星の外に出るのは大変って言っていたっけ」
     レイシオに言葉を投げると、彼は待合室から出ないまま「ああ」と曖昧に言った。
     その目はぼんやりと薄明の中の市街地を映している。
    「どしたの? まだ気になることでもある?」
    「……『僕たちが引いてしまうとは思わなかった』」
     ああ、とアベンチュリンは頷いた。たしかに職員はそんなことを言っていた。大したことでもないと思って気にもかけていなかったけれど。
    「だって、何十万分の一とかだよ? それに、彼らはカンパニーの職員だ。僕の幸運のことだって聞き及んでたんだろ」
     アベンチュリンは少し笑って、自分の手を握りこむ。
     そうだ、幸運。自分には、地母神からの祝福が、定められた幸運がある。それなのに——結果的に死ななかったとはいえ、くじに外れるなんてことがあるとは。
     レイシオは眼下の街を見て、次いでアベンチュリンをじっと見て、言う。
    「『牛飼い』が死なないのならば、今までの『牛飼い』は儀式が終わった後どうなっていたのだろうか」
     アベンチュリンは少しの間黙った。
     手首を見る。解き忘れた赤のリボンが巻きついている。
     巻き込まれたこの祭り、あるいは儀式は、汚染された牛の伝播を防ぐためのほか、生と死の境界を明確に引く、という目的があった。神によって混沌となった境界を正す。既成事実でもって神を縛るために、ある種、神を騙すような手を使って。
    「……これは僕の根拠もなにもない、物語ですらない譫言だけど」アベンチュリンが言う。「『牛飼い』があの儀式において死んではならない存在ならば、死なないことに意味があり、そのために設定された役割ならば」
     アベンチュリンは紫の瞳を覆い隠すようにゆっくりと瞬きをした。
     ——いつまで神を騙し続ける必要があるのだろうか。
    「絶対に死んではいけない」
     乾いた唇を舐め、続ける。
    「少なくとも、この星の神の目が届く限りは」
     いつまで……どこまで神の視線は届くのか。
     その問いは、アベンチュリンにも跳ね返ってくる。
     十年経てば神も諦めるだろうか。それとも百年。数琥珀世紀?
     星を離れたら神でも視認できなくなるだろうか。百光年離れないといけない? それとも、銀河一つ超えたら? 
     ——一度死んで生き返った僕を、ひどく遠くまで行ってしまった僕を、地母神は見失ったりしていないだろうか。
     このことを考えるといけない。耳鳴りが、目覚めた時から続いている潮騒にも似た耳鳴りが酷くなる。
    (駄目だ。今はこの星の神の話だ)
     アベンチュリンは頭を軽くふって続ける。
    「幸い、この星の神はひどく弱っているようだ。無限に目が届くなんてこともないだろう。星を離れて遠くに行けばいいんじゃないかな。……そうじゃないとヤバいから、そうであってくれっていう希望にすぎないけどね。で、この儀式はカンパニーが裏で手を引いていた。星からの脱出なんて訳ないさ」
    「お誂え向きに、」
     アベンチュリンはチケットを取り出してみせる。ピノコニーから大きなステーションのある星に行くためには、本来はこの星に寄らないルートだってあった。しかし、この迂回ルートが一番早いのだ、とレイシオは言っていた。なぜなら。
    「儀式の翌日に臨時便が出る。不思議だね(・・・・・)」
     まだある、とレイシオが呟いた。
    「この祭りの奇妙なところを挙げるとキリがない。粗探しをしようと思えばいくらだってできる。が、祭りの目的やタネが分かった上で一番目に付くのは。……君はくじの引き方について覚えているか」
    「ああ、全部をおんなじ袋に入れるんじゃなくて、小分けの袋の中から引くっていうやつ」
    「あの時もいったが、あれには致命的な問題がある」
    「問題?」
     レイシオは苦り切った顔で溜息をついた。
    「あのくじは、無作為ではないはずだ」
    「……誰を『牛飼い』にするか決まっていたってこと?」
    「逆だ。おそらく、誰を『牛飼い』にしないか、だ」
     レイシオが言う。
     なぜネリとミモリはくじの時間が同じだった? 家族で時間が定められている? しかし二人とも既婚で、創設家族を持っている。住んでいる地域も職業も違う。それなのに出生家族としてまとめられていた。
    「彼女たちは双子だ。遺伝子的に共通している。それは容姿等の特徴も……遺伝的な問題と考えられる点も全て」
     レイシオは続ける。
    「もともとこの星の人は天外への興味が薄いらしい。それは教育の賜物かもしれないが、星の外に出ようという意思はほぼない。そして、よしんば星の外に出ようとしても、厳しい審査が待っている」
     レイシオは未だに出星審査官と揉めている双子の少女たちに目を遣った。出星審査官の腰にはホルスターがぶら下がっている。カンパニーの管轄である証拠だ。
    「星を出ることを許可されるのは、この星の特徴的な遺伝的形質を持たないごく僅かな人々のみだろう」
    「特徴的な遺伝的形質……」おうむ返ししたアベンチュリンが続ける。「僕らの前後の人たち、双子がいなかった」
     ネリはふざけるように言っていた。双子も神の贈り物の一種かもしれない、と。
     それが、本当ならば。
     レイシオは少し顎を引くように頷いた。
    「そして、僕たちがくじを引いた袋は直前で交換されていた。僕らの含まれた群は、カンパニーが星の外に出ても問題ないと判断した人々の家族単位で構成されていたのではないだろか。そして、『牛飼い』に選ばれたら、儀式後に星を脱出させる」
     レイシオは秀麗な眉を寄せ吐き捨てる。
    「僕は、そんな選民のような行動を平然とする者がいるとは思いたくない。人が人を選別するなんて、本当に“神”のようだ」
     アベンチュリンは疲れ切って力の抜けた笑みを漏らす。僕だってそうだ。けれど。
    「人は、人の想像以上にいくらだって悪辣になれる」
     白い朝日に照らされた街を見下ろす。眩しくて、紫の瞳を少し細めた。

    ***

     ひ、と息が引き攣って目が覚めた。背が汗で濡れている。走った後のように呼吸が荒い。
     いつ眠ったのか思い出せなかった。
     背中に僅かな振動を感じ、既に宇宙船で航行中なのだと察した。
     なにもかもがおかしい。『牛飼い』に当たるなんていう、幸運が失われていることも。死んだように眠りに落ちていることも。
     頭がちりちりと痺れるように痛い。耳鳴りがする。横になったまま、手を目の前に翳す。ぎょっとするほど透けていたのが、呼吸のたびにじわじわと、思い出すように実体を得ていく。
     ベッドサイドで静かに本を捲るレイシオに言う。
    「レイシオ、僕おかしいよ」
    「以前から十分」
    「あ?」
    「透けているんだから少しくらいおかしくても我慢しろ」
    「やっぱ幽霊みたくなってるせいなのかコレ!」
     レイシオが、アベンチュリンが使っていた枕の上下をひっくり返した。
    「その他に何か異常はあるか」
    「……耳鳴りのせいで、ちょっと頭が痛いかも? でも透明になりかけていることに比べたら翳むよね。……ところで君、寝たままの僕をどうやって宇宙船に搭乗させたんだ? 絵面、人さらいみたいになってただろ」
    「手荷物として」
    「ウソだろ!?!?」

     カードをきるアベンチュリンを見て、レイシオは呆れたように眉間を押さえた。
    「なんのつもりだ、賭博狂い(ギャンブラー)」
    「僕の幸運の所在についてちゃんと確認しなきゃ。ちゃんと僕はまだ幸運なのか、それともそうでなくなったのか。不安でよく眠れない」
    「丸二日寝てたが?」
     レイシオの皮肉は聞こえないふりをする。
    「教授、ポーカーのルールは知ってるよね」
     52枚のトランプを渡す。
    「僕はイカサマなんてしないけど、念ため君が配って」
    「医者として、無為に刺激を与えたくない」
    「答えもう言ってるよ、それ」
     あからさまに顔をしかめたレイシオがカードを配る。
    「何か賭ける?」
    「何も」
     伏せられたカードを確認したアベンチュリンは息をのんで机に突っ伏す。
    「そんなに悪いカードだったのか? そんなに態度に出る君は本当に賭け事に強いのか甚だ疑問だな」
    「僕は(・・)強くないよ。……レイシオはほんっと~に顔に出ないね?」
     アベンチュリンは全てのカードを交換し、レイシオはやや考え二枚を交換した。
     苦々しい表情のアベンチュリンと、無感情なレイシオが同時にショーダウン。
     手札は、アベンチュリンがストレート。レイシオが役なし(ハイカード)。
    「君が勝ったじゃないか」
    「いや、君が弱いんだよ。なんだそのクソカード」
    「初心者だからな」
     平然と言い放つレイシオに、アベンチュリンは溜息をついた。カードを回収しながら言う。
    「僕、悪くたって初手でフルハウスが出る。それなのに今回は、最初は役なし(ハイカード)だった!」
     頭を抱え、ソファに身体を預ける。
     やはり自分の幸運は失われているようだ。
    「どうしよ~~~レイシオ! 全部幽霊みたくなったせい?」
    「どうもしなければいいだろう。ギャンブルをやめろ」
    「そうもいかないよ」
     アベンチュリンは眉を下げて無理やり笑った。

    CHAPTER3:―信仰―

     アベンチュリンの幸運は、地母神の祝福の証だ。それがなくなったというのは、自分が地母神に目をかけてもらえなくなったということ。
     アベンチュリンはソファにぐったりと倒れた。瞼で覆った紫色を、さらに手で蓋をして暗闇に閉じこもる。
     どうしよう、地母神に祝福された子が、僕なのに。そうでないならば僕はなんだ? 薄汚い恥知らず! 
     ……幻聴だ。言われたことあるけど。
     心臓が耳元にあるかのように鼓動がうるさい。
     どうしよう、一度死んでしまったからかな。死んでないんだけど。死んだ判定入ったかな。
     神から僕は見えなくなってしまった?
     ……見捨てられてしまった?
      それなら僕が生きている意味ってなんだ?
     ざ、と血の気が引いた気がして目を開ける。手を透かして明かりが眼を射す。失血しているかのように色を失い、見ている間にいっそう透けていく。。
     ひ、と喉が引き攣る。
    「レイシオ!」
     レイシオは焦った様子もなく、至極冷静に言う。
    「……落ち着け。そのことについて考えるのをやめろ。冷静になるのは得意だろう」
    「……!」
     意識してゆっくり吸って吐く。
     鼓動を全て支配するように。そうだ、感情を制御することには慣れている。大丈夫だ、なにもかも。
     ……それは地母神の祝福の御許にあったからであって。今はいったい何が大丈夫なんだ? 違う、考えてはいけない。ただ吸って吐くだけだ。
    「落ち着いたのならば立て。もうじき着く」
     レイシオの低い声が清水のように脳を冷やしていく。
     そういえば、と言う。全て忘れたように、ことさら明るく。
    「今日は何日目?」
    「七日目だ」
    「そうか。僕、ほとんど寝ていたけれど、それでも君と一緒にいれて楽しかったよ」
    「今日中がリミットだ。まだ感謝を述べるには早い」
     時計を見たアベンチュリンが鼻で笑う。
    「もう終わるだろ」

     船から降りる。
     大きなステーションだ。ツガンニヤ‐Ⅳのある銀河に向かうためには、ここにある跳躍装置で何光年も飛び越える必要がある。
     ステーションのあるシティ全体がドームで覆われたコロニーだ。外は近くの恒星から押し寄せる熱波のせいで到底暮らせる環境ではないらしい。かつてはコロニー外でも人が暮らせる星だったが、恒星が膨張を続けるせいで環境は悪化した。この星はいずれ恒星に飲み込まれて消える運命にある。
     コロニーの何百メートルも上にある天井には青空が投影されている。日によって投影される天気は変わり、雨の日は人工雨が降るという。
     アベンチュリンから見るとなんとも嘘くさい空だが、これが本物だと人生の初めから終わりまで信じている人もこの星には多い。
    「……知りたい、とか思わないのかな?」
     アベンチュリンが呟く。
     レイシオは不思議そうに首を傾げ、言う。
    「君はガラクトブレコを食べたいと思ったことはあるか?」
    「はぁ? なんだい、それ。早口言葉?」
    「僕の故郷の菓子だ。……完全に知らないものを望むことは不可能だ。この星における“本物の空”は投影されたものだ」
    「じゃあ、本当に“本物の空”を知ったら暴動が起きるのかな? 壁を崩して空を見よう、って。焼け死んでも構わないって。 だって、僕はガラクトブレコを食べたくなってしまったからね」

     コロニーの中心部は市街地になっている。周縁部に宇宙につながるステーションやこの星のシティ同士を繋ぐ地下鉄の発着場が設置されている。乗り換えの船が出るステーションまでは、それなりの距離を歩いていく必要がある。
     大きすぎるステーションはこれだから。アベンチュリンは内心肩をすくめた。
     この星も、あまり星の外に出ようとする人は少ないのかもしれない。ステーションに向かうまでの道は人通りが少なかった。
     首をぐんと上に向けようと空が小さくしか見えないのは、せり出すように建築されたアパートメントのせいだ。歩くと地面に敷かれた錆びかけの鉄板がカンカンとうるさい。喘息患者が咳き込むようなヒウヒウとした音がそこかしこで聞こえる。
    「ごちゃついてるね」
    「増築を繰り返すとこうなる。あまり通風パイプの状態がよくないようだ。構造が複雑になりすぎてメンテナンスができないらしいな。このコロニーはあまり長くはもたないだろう。恒星の膨張を待つまでもない」
    「……今日明日にでもどうこうなったりする感じ?」
    「いいや。だが、“その日”は無数の今日明日の連続の先にある」
     見通しの悪い角から飛び出してきた少年がレイシオにぶつかる。
     レイシオはよろけさえしなかったが、貧相な少年は尻もちをついた。被っていたキャスケットが落ちた。そばかすの浮いた幼い顔がレイシオとアベンチュリンを見て怯えるように引き攣った。
    「失礼、怪我はないか」
    「……っ!」
     キャスケットを拾い上げたレイシオが言う。
     少年は目を合わそうともせず、ひったくるように防止を奪い走り去った。
    「……?」
     怪訝そうにレイシオ瞬きをした。
     これだから善良な奴は! 少しばかり呆れながらアベンチュリンが言う。
    「……レイシオ~、スられてない?」
     懐に手を入れたレイシオが鋭く舌打ちをする。
    「ま、旅にトラブルはつきものだ。どうせそこまで現金は持ち歩いてないんだろ? カードはあとで止めればいい。時間がないなら、寄付したと思って忘れてしまうといいよ」
    「いいや、駄目だ。追うぞ」
     レイシオが踵を返す。
    「ええ~~……」
     十五メートル離れたところで早足で戻ってくる。不機嫌そうに言う。
    「君が動かないと行けないんだが」
    「あの子には追いつけないと思うよ?」
    「やってみないと分からない。君が面倒だと言うのなら……仕方ない、君を担いで走るか」
     レイシオの目は本気だった。人前で平然と石膏頭を被る奴だし、成人男性のアベンチュリンを担ぎあげて闊歩することなど恥ではないのだろう。
     アベンチュリンは早々に白旗をあげた。
    「オーケー、分かった、任せな。追いかけっこは得意な方だよ」
    (追いかけられて逃げるほうだけど)
     これはブラックジョークだな、言わないでおこう。

     少年を追って走る。トンネルのように包み込む構造の建物のせいで足音が反響するうえ視界が悪い。土地勘がないのもあり、どこを走っているか全く分からない。
     靴音を幾重にも反響させながらアベンチュリンが尋ねる。
    「盗まれたの、ただの財布だろう? それとも何か大事なものでも入ってた? 医師免許とか?」
    「医師免許は持ち歩けるサイズではない。……が、そうだな。知人の形見が」
    「うわ、それはマズい」
     入り組んだ道だ。しかし少年のことは見失わない。
     二人の視界に少年が入った瞬間、彼が角を曲がる。数度であれば偶然で片づけられるが、毎回であれば。
     「おかしい。地の利があるなら、とっくに撒かれているはずだ」レイシオが呟く。「まるで道案内だな」
     息をきらしたアベンチュリンがやけのように言う。
    「それか、めちゃくちゃおちょくられているか、ね!」

    ***

     複数の道が接続している広場に着く。中心に浅い噴水があり、取り囲むように商店が円形に配置されている。気づかないうちに市街地のほうに誘導されていたらしい。
     観光地のようで、人が多い。
     ——嫌だな。
     アベンチュリンは目立つ目の色を隠すようにサングラスをかけた。
     人ごみに紛れ、少年を見失ってしまった。
    「レイシオ、僕は右を探すから君は左を」
    「……」
     レイシオが黙って金の刻印のある手を掲げる。
    「……くそっ、面倒だな」
     周囲を見回しながら歩を進める。
     少年はわざわざ道案内のような真似をしたのだ。ここに来て二人を置いていく、ということもないだろう。何か目的があったはずだ。
     唐突に背を押されよろめいた。
    「っ!?」
     脚がもつれ、噴水に尻もちを着く。
    「薄汚いエヴィキン人め!」
     声変わりしたての少年の大声。
     視線が集まるのを感じる。少年の行為を咎める声、それから、エヴィキン人を嘲笑う声。
     嫌な感じに心臓が跳ねた。エヴィキン人ならいいか、じゃない。なんだそれ。いいわけないだろ、人間だぞ。
    「……」
     アベンチュリンは俯き、唇を噛む。頭上からビシャビシャ降ってくる水のせいで、すぐに全身びしょ濡れになった。
     水のベールの向こうに、キャスケットの少年が見える。レイシオが少年の腕を後ろ手に纏めて何か言い、少年が言い返している。
    「はは、参ったな、一張羅なのに」
     水滴が付いたサングラスを外し、立ち上がる。縁を跨いで噴水を出た。
     濡れた前髪をかきあげ、エヴィキン人の紫の目を衆目に晒す。
     本物だ、と聞こえる。
    (見世物みたいだな)
     アベンチュリンは爪が食い込むほど手を握りしめる。同じ人間だと思っていないからこんなに冷淡なんだろう。
     水を滴らせながら少年に近づく。身を強張らせる彼に、にこ、と友好的に微笑む。
    「君、僕はエヴィキン人ではあるけど、僕の名は“エヴィキン人”ではないよ。よく覚えておくことだね。僕はカンパニー所属、戦略投資部のアベンチュリン。……まあ、知っているか」
     少年自体に覚えはなかった。しかし、少年の表情には覚えがある。何かをひどく恨んでいて、しかし恨み続けることに疲れ切っている。毎朝鏡でよく見る。
     きっと、アベンチュリンか、あるいはカンパニーのどこかの部署が、彼から何かを奪ったのだろう。
    「僕が憎いんなら一番最初に刺すか撃つかすればいいのに。惜しいことをしたね。この広い宇宙で僕に出会えたのは相当ラッキーだったと思うけど、チャンスを逃すやつはいつだって上手いこといかない」
    「うるさい! お前のせいで!」
    「家族がめちゃくちゃになった? 借金を負った? 君の人生が台無しになった? もしかして全部かな」
     少年は憎悪の籠った目でアベンチュリンを睨んだ。
     レイシオはつまらなそうにしている。
     アベンチュリンはゆっくりと息を吐き、少年の凡庸な茶色の瞳を見つめ、頭を下げた。 
    「……悪かったね。本当にそう思うよ。僕だって大きなものに人生をぐちゃぐちゃにされた側だから。君の気持はよく分かる」
     まさか謝罪されるとは思わなかったのか、少年は目を見開いた。
    「でも、僕も仕事だったんだ。……そんなの、言い訳にもならないだろうけどね」
     周囲の野次馬の視線が集まっているのを感じる。好奇の目はもう慣れたけれど、気分のいいものではない。エヴィキン人を誹る騒めき。自分のせいで同胞が悪名を背負ってしまう。
    「本当に、君の気持ちはよく分かる。僕が憎いんだろう。殺したくてたまらないんだろう。……そうだ、少年、賭けをしよう。君が勝ったら、僕のことを一発刺していい。腹でも、心臓でも、好きなところを。……殺したっていいよ」
     何を言っている、とレイシオが低く唸る。
     アベンチュリンは唇の前に人差し指を立てた。黙ってて。全部うまくいくから。
    「僕が勝ったら、もう二度と僕には関わらないで。君は君の人生を歩むんだ。悪くないだろう? どっちだって君に利がある」
     少年はゆっくり頷く。顔が引き攣っている。
    「交渉成……(Dea…)」
    「待てギャンブラー」
    「もがもが」
     少年の手を放したレイシオがアベンチュリンの口を塞ぐ。
    「君、何のつもりだ……。この子供は正常な思考ではない。正しい判断はできない」
     アベンチュリンがレイシオの腕をペシペシ叩く。レイシオが口を覆っていた手を放す。ぷはっと息をつく。
     少年はその隙に脱兎のごとく逃げ出していた。もう背中も見えない。
     アベンチュリンはレイシオを睨みつける。
    「君こそ何のつもり? 彼の千載一遇のチャンスを奪うなよ」
    「チャンス? 彼が君を刺殺することがチャンスだと?」
    「まさか! 僕が勝つ。そして彼はそれが運命だと受け入れて、僕への復讐を忘れて生きることができる」
     猛禽の瞳でアベンチュリンの紫色を射貫いたレイシオが詰める。
    「本当に君はこの勝負に勝算があると? 君が幸運なのはたしかにそうだったろうが、君はそれ以上に用意周到だった。99パーセント負けない土壌を作って、1パーセント賭けているにすぎなかった。だから勝ち続けられたんだ」
    「……だから何?」
    「君はあの少年を殺人者にするつもりか」
     息をのむ。目を伏せ、頭を振って、小さな声でアベンチュリンは何かに縋るように言う。
    「……でも僕は負けない。負けないのが僕だろ」
     レイシオがアベンチュリンの濡れて冷えた腕を掴んだ。アベンチュリンは反射で振りほどこうとしたが離してくれない。
     諭すように静かにレイシオが言う。
    「こんなに震えているのに? カードも持てないような手で、どう賭けてどう勝つんだ」
    「……」
    「この勝負は、絶対に君が後悔する結果になる。君のやり方では、あの少年の気持ちはどうにもならない」
    「……」
    「何を生き急いでいる。君は自殺志願者じゃないだろう」
    「僕は……ッ!」
     誰かから石を投げつけられる。額に直撃し、アベンチュリンは呻いた。
    「いった……」
     額から血が流れる。
    (おかしいだろ、今回のことに関しては僕に非は一切ないと思うんだけどな)
     傷を押さえて視線を巡らすと、呆然としている男と目が合った。アベンチュリンの虹彩を見て小さな悲鳴をあげる。
     避けるとでも思っていたんだろうか。それとも。
    「エヴィキン人の血は金色だとでも思ってた? 残念、君たちと同じ赤だよ。同じ人間だからね」
     はっ、とアベンチュリンが息を吐き出すように嗤う。
    「見ただろ、レイシオ。僕ら(エヴィキン人)がどういう扱いをされていたか。僕がどう生きてきたか。こんなんじゃない。屈辱をなんども耐えてきた。君は善良だから、僕を同じ人間みたいに扱ってくれるけれど、世の中そうじゃない。僕がこの先カンパニーで首輪をつけられるか殺されるか分かんないけど……それよりは今死んでしまいたいって思うのだって仕方ないだろ!」
     レイシオが掴んでたアベンチュリンの手がするりと抜ける。
    「透け……!?」
    「っ……!」
      レイシオが、がしりともう一度手を掴む。今度は透けなかった。
     言い聞かせるようにレイシオが言う。
    「……大丈夫だ」
    「何がだよ……」

     喧噪の広場から逃げるように去り路地裏に蹲る。レイシオはハンカチでアベンチュリンの傷を押さえた。白い清潔な布がじわじわと赤に染まる。
    「別にいいよ? 君のハンカチが薄汚いエヴィキン人の血で汚れるから」
    「僕は今の君を放っておくのをよしとしたくない。加えて、誰の血であろうとそこに差異はない。君自身が思ってもないことを言うな。それは自傷行為と変わらない」
     ところで、とレイシオが言う。
    「一応言っておくが、同じ人間でも、血が赤くない種族は少なくない。血液の代わりに水銀が流れているが“人間”に分類される種族もいる」
    「あ〜……不適切だったね。自分が人間扱いされないのは嫌なくせに、そうやって不意に誰かを人間の枠から外しちゃうんだよな……。僕の無知が悪かった。レイシオ、教えてくれてありがとう」
    「誰も彼もが君みたいに素直だったらよかったんだが」
    「君、僕を褒めることあるんだね」

     発着場に着く。シティの端にある。銀色の、巨大なプラネタリウムのような半球状の建物だ。上部はシティ全体を覆うドームから飛び出て外にある。
    「座標がちょっとバグったゲームみたいだね?」
    「跳躍しない宇宙船は上から、跳躍する宇宙船は地下から発着するんだ。コロニーの面積の制限がある中、なかなか考えた設計だろう」
     ドーム内の人は皆急ぎ足で歩いていた。透けている上に濡れっぱなしで額に傷のあるアベンチュリンに奇妙なものを見る目を向ける人はいたが、瞬きの間に自らの行く先に視線を戻す。その無関心さは楽だった。
     地上の待合スペースの柱に背を預ける。レイシオはどこにも寄りかからず凛と立っていた。
     濡れたままだから少し寒い。
    「ここで君と別れなければ」
     レイシオが言った。
    「次に跳躍ができる便は一週間後だから、それを逃すわけにはいかない。間もなくカンパニーの者が君を回収しに来るだろう。彼らに君を引き渡す」
    「了解。ツガンニヤに着いたら僕に手紙をくれると嬉しいな。……いや、僕、手紙を受け取る権利とかあるのかな。というか、暫定幸運を失ってるぽい、しかも幽霊みたいな僕ってカンパニーに利用価値あると思う?」
    「ない」
    「言うねえ!」
     だが、とレイシオが言う。
    「僕にとっては価値がある」
    「……はあ?」
     怪訝な顔をするアベンチュリンを、レイシオは冷たい赤い瞳でじっと見た。
    「君、ツガンニヤに行きたくないか?」
    「ええ……?」
     それは、ピノコニーに出るときも言われたことだ。そして、アベンチュリンの答えは変わらない。自分に選択の自由など、そんな権利などないから。
    「何度も言うけど、別に。まあ、君に故郷の話をして、少し懐かしくなってしまったけれど」
    「行きたいのか? 行きたくないのか?」
     なおもレイシオは尋ねる。
     アベンチュリンは唇に薄っすらとした笑みを浮かべた。
    「行けないよ。だって僕にはもう時間がない」
     カンパニーに戻ったらどうなるのだろうか。殺されるのかも。
     死なずとも、死んだも同然になるんだろうな。アベンチュリンは自嘲する。もともと人権はないけれど。くそ、ちゃんと怖い。情けないことに。幼さなどとうに脱ぎ捨てたというのに、自分はいつまでも子供のように怯えている。
     硬い靴音がした。顔をあげると、顔を隠したカンパニーの職員が二人いた。
     彼らはレイシオに頭を下げ、少し迷ったそぶりを見せてから、アベンチュリンにも頭を下げた。囚人か上司か、どちらとして扱えばいいのか分からないのだろう。アベンチュリン自身も自分の立ち位置が分からない。
     彼らはレイシオに書類を手渡し、「こちらにサインを」と言った。
    「何それ」
    「君から離れられない一週間の契約を、これにて終了とする、というものだ」
    「ふーん」
     レイシオがサラサラとペンを走らせ、最後にトン、とピリオドを打つ。
     瞬間、パキ、と硬いものが割れるような冷ややかな音がした。
     レイシオの腕の刻印が光に解ける。
     もう互いに一緒に過ごす必要はないのだ。
     あ、と声が出る。耳鳴りがまた酷くなる。何か、怖い。血の気が引くような。
     呼ばれている? 
     引っ張られている。
     ……何に?
    「大丈夫だ」
     レイシオがゆっくりと言う。
    「君は、大丈夫だ」
     呼び声がやむ。全て、何もかも気のせいだけれど。
     レイシオの声は聞き心地がいい。たまに鋭いけれど。淡々としていて。目が覚めてから、常にこの声が傍にあった。
     深呼吸を一つ。
     そして、アベンチュリンは微笑んだ。よく慣れた、作り笑いなんて思われない完璧な微笑みを。自分だってこれが作り笑いなんて忘れてしまいそうな笑みを。
    「そうだ、僕は一人でも大丈夫。ありがとう、レイシオ。君の言葉を後の頼みにすごそう。これがあれば僕は宇宙に独りきりでも呼吸ができそうだ」
    「……そういう意味ではない」
     職員が「アベンチュリンさん」と呼んだ。
    「ごめんね、待たせて」
     アベンチュリンが両手を揃えて差し出す。
     手に枷がかかる。
     冷たく、懐かしく、嫌な感触のそれに唇を噛んだ。
     鍵が差し込まれる。
     アベンチュリンの、自分の尊厳全てが、今、失われる。ぎゅ、と目を瞑る。
    「待て」
     鈍い音。
    「え!?」
     目を開けると、職員が崩れ落ちていた。
     振りぬいた石板を片手に、レイシオが仁王立ちしている。
    「まだ話の途中だ」
     アベンチュリンは茫然としてレイシオを見上げた。
    「な、なんのつもり……!?」
     レイシオは銃を抜こうとするもう一人の職員の脳天にも石板をくらわせた。
     アベンチュリンの手錠を外しながらレイシオが言う。
    「本当に一週間で戻るつもりだったのか? 死ぬかもしれないと思いながら? 奴隷根性が染みついているな、アベンチュリン。君はそうあるべきではない。行けるか行けないかではない。行きたいか、行きたくないのか、僕が聞いているのはそれだけだ。さあ、君の意見を述べろ」
     手が震える。震えを抑え込むように胸の前でぎゅっと握り締める。何も声が出ない。全部の言葉が、心臓の真下で凍りついてしまったようだ。鉛のように重い。息が苦しい。
      レイシオは真剣な目で、炎を宿したような赤い目でアベンチュリンを睨むように真っ直ぐ見る。
    「僕は、君を死なせたくはない」
     ——どうして君がそんなことを言うんだ。
     どうして僕がツガンニヤに帰ることが生きることになるのか、とか。カンパニーに戻ったら死ぬのかとか。聞きたいことはたくさんあるのに、何も言葉にならなかった。レイシオの熱で胸のつかえが取れたようで、僅かに息ができるようになった。
     砂埃が、慈雨が、オーロラが。
     レイシオが。
     僕を呼んでいる。
     望んでもいいのか。
     細く息を吸い、絞り出すように叫ぶ。
    「行きたい……!」
    「ああ。ならば行こう」
     震える手をレイシオが掴んだ。握り締められ、震えが止まる。
     地下に向かう、と言い放ったレイシオが走り出す。
     アベンチュリンが振り返ると、起き上がった職員が銃を構えている。
    「レイシオ!」
    「振り返るな。問題ない。レーザー銃は30メートルまでは精度が高いが、それ以上となるとエネルギーが拡散し命中困難となる。そして、実弾以上に移動しながらの精密射撃が困難だ。初動で距離を取れば問題ない」
    「なんで君はこの状況で冷静に性能解説できるんだ!?」
     歩幅が違うのに手を引かれているせいで前のめりになって転びそうになりながら走る。
     階段を一段飛ばしで降り、地下の跳躍ホームへ。
     壁のデジタル時計が示すシステム時間を確かめたレイシオは鋭く舌打ちをした。
    「時間がない。君、虹彩認証はできるな?」
    「とーぜん! 登録してる!」
    「よし」
     搭乗ゲートを瞬き一つだけして走り抜ける。
     乗り込むべき宇宙船の車体がほの青く光っている。跳躍開始まで間がない。発車警告ブザーが鳴っている。
     レイシオの耳のすぐ横をレーザーが掠めた。
    「レイシオ!?」
    「止まるな。問題ない、まぐれだ」
     跳躍直前の船に駆けこむ。
     すぐ後ろでドアが閉まる音。どこかに掴まる間もなく跳躍。アベンチュリンはよろけてへたりこんだ。
     跳躍酔いで頭がくらくらする。レイシオは少し息があがっているものの平然としていた。
     乗客は皆客車のほうで跳躍に備えていたのだろう。乗り込んだ一号車には添乗員の他に誰もいなかった。
    「お客様、駆け込み乗車は……」
    「ああ、すまない。緊急事態だったんだ」
     まだふらつくアベンチュリンに「もう立てるだろう」と容赦なく言って、レイシオは客車に向かう。
     虹彩認証で入った部屋は広めのツインだった。
    「……いつの間に取ったんだ。今回も走りながら?」
    「いいや、随分と前に」
    「いい部屋だね」
    「ここしか空いていなかった」
    「あの銀河に行く観光客は少ないから。ほとんどが里帰りだろうし、皆経済力がないからスイートなんか取れない」
     アベンチュリンは窓に近いベッドに倒れこんだ。
    「濡れたまま横になるな。風呂に入れ。服を着替えろ」
    「待って、ホントにまだくらくらするんだって。ちょっと休ませて」
     アベンチュリンはぐったりとベッドに横になって疲れ切った声で言う。
    「本当にバカだろ、君……行き当たりばったりで」
    「いいや。計画的だ。次の跳躍は一週間後だから、カンパニーもそう簡単に追ってはこれない。ツガンニヤに向かおう」
    「僕が行きたいって言わなかったらどうするつもりだったんだ」
    「それでも君は言った」
    「賭けは僕の専売特許だぞ……」
     アベンチュリンは目を伏せ、今はちょっと調子が悪いみたいだけど、と呟いた。
     大きな窓から外を見る。ツガンニヤの属する銀河だ。宇宙の端の銀河の端にあるツガンニヤを目指すのならばまだいくつか星に寄らなければいけないが。
    「君、どうするんだ、ホントに。カンパニーは君を許さない。大学にも博識学会にも、君はもう戻れないかもしれない」
    「問題ない。無理強いされたとして、君を訴えて勝つ」
    「拐したの君だよなあ!?」
     身体を起こしたアベンチュリンは、片膝を立てて頬杖をついた。
    「ようやく分かったよ。君がツガンニヤに行きたいんじゃなくて、僕を連れていきたかったんだな? 君が行くんじゃいけない。僕がいないと駄目だった。でも、どうして……?」
     視線を逸らしたレイシオは少し考え、顔を上げた。
    「……僕は今から大変失礼なことを言うが……」
    「君が失礼なのは今に始まった話ではないよ。……おい、チョークを構えるな」
    「では言うが。君たちの地母神に憤っているんだ。彼女に、君の人生の責任をとってもらわないといけない」
    「は……?」
     アベンチュリンは呆気にとられて数度瞬きをした。
     レイシオが平然と続ける。
    「君は、君の人生をこのようにした女神のことを知りたいとは思わないのか」
    「ええ、いや、別に……? 地母神が僕を“こう”したんじゃない。人間の業の凝集が今の僕だし」
    「だが、君の人生を狂わせた豪運は、地母神の賜物……だと言われている」
     殊更丁寧に、断定を避けて濁しに濁した気を遣った言い方に、アベンチュリンは少し笑った。
    「まわりくどく言わなくていいよ。君は地母神を信仰していないんだから。その存在を否定したって僕はどうとも思わない」
     レイシオは涼やかに言う。
    「信仰する者への礼儀(マナー)だ」
    「……とかく、君は地母神が“何”なのか知りたいってこと? 存在を信じていないのに? 矛盾してないかい?」
    「正確に言うならば、暴く、だ」
    「……君、超人類的な存在への恨みが強めだよね」
     アベンチュリンは、そのあまりに不遜な物言いに溜息をつこうとしたが、どうにも上手くいかず。咳の成り損ないのような情けない音が喉でなった。
    「……その、僕はあまりこういうことは分からないのだけど、神って実体としているもの? 僕ら、地母神という実体? 物質? を信仰していた覚えはないんだけど」
    「いい着眼点だな。星神ほどになると実体は……あるいは思念体だが、それがそれとして存在している。だが君たちの地母神は……どうだろうな。しかし、伝承があるのならばその基になった何かがあるはずだ。それが有機体であれ現象であれ、それが君たちの言うところの“神”の本質だ」
     アベンチュリンが目を光らせ、唾を飲み込む。
    「僕らの伝承、と、言うと……」
    『神が三度瞳を閉じますように』
     声が重なった。
    「……なんで君が知ってるの」
    「君が言っていた。死んでいる間の寝言でも、ピノコニーを出た夜にも」
     起きてたんなら言ってよ、という苦情は華麗に聞き流された。
     レイシオが尋ねる。
    「“三度”目を閉じるのはなぜだ?」
     アベンチュリンが答える。
    「瞳が三つあるから」
     レイシオが尋ねる。
    「ではなぜ瞳が三つある?」
     アベンチュリンが答える。
    「現在、過去、未来を見通せるように……って聞いてるけど」
     レイシオは首を振った。
    「……それは瞳が三つあることによる効果だ。理由ではない」
    「じゃあ分からない」
    「僕の予想にすぎないが……ツガンニヤにおいて三つある何かを目に例えているんだ。ではその『三つある何か』、とは何か」
     アベンチュリンは黙り込む。今まで考えたこともない。
    「分かんない。教授はなんかアイディアがあるわけ?」
     レイシオは、伏し目で言葉を紡ぐ。
    「……僕は君の言葉でしかツガンニヤを知らないから、予想に予想を重ねるしかできない。あくまで仮説だが、今まで聞いた中だと、『衛星』じゃないかと思っている。星、というのも、神の目に例えるには誂え向きだ」
    「へえ、じゃあ三度“閉じる”ってどういうことだろう」
    「……それは僕が君に聞きたいんだがな」
    「分かんないよ。ただの祈りのフレーズかと。だって、三つの瞳が何かすら、今の今まで考えたことがなかったし」
     どうせ教授は何か予想はついてるんだろ? と目を言うと、レイシオは気まずそうに「あるにはあるが」と目を逸らした。
    「確証がない? それでもいいよ」
    「これは予想に予想を重ねて……もはやナラティブだが。『衛星蝕』。周期が早い、と言っていたな。それから、二つは小さい、と。その三つが同時が同時にツガンニヤの影に入ることは……あり得ない話ではない」
    「仮にそれが正解だったとして。瞳を閉じたら何があるの?」
    「さあ。それは全く分からない。……だから行くんだ。君の信じる神が何ものなのか知りに。君の信じる祈りが何を指すのかを知りに」
     レイシオの赤の虹彩が窓の外の無限に広がる昏い宇宙を映した。
    「正体を暴いて、知って、それでどうするの」
     小声でアベンチュリンが問う。
    「どうする、か」
     レイシオは少し笑った。それが無機物であれ有機物であれ現象であれ、と前置きして言う。
    「言ってやりたいことがあるんだ」

    ***

    CHAPTER-1:―■■―

     悲鳴、喘鳴、涙声で繰り返される懺悔。
     一向に目覚めず、アベンチュリンは悪夢に溺れていた。その指先は、実体を失ったように透けていた。
     レイシオはそれを見ていることしかできなかった。いつ目覚めるのかも分からず。
     アベンチュリンの賭けを見届けた星穹列車の面々は、アベンチュリンは夢境で死んだ、と言った。それは本物の死ではない、とも。
    「彼は……起きたくはないのかもしれない」
     彼を夢境で“殺した”女―黄泉は言った。痛ましそうに、透ける指を見る。
    「だが、起きなければならない、とも思っているのではないだろうか。ゆえに、生と死の狭間で彷徨っている」
    「……責任の一端は僕にあるようだ」
    黄泉はフッと笑った。
    「生を願うのは生者の特権だ。悪いことではない。……願い続けてほしい。彼は起きるだろうけれど、その半身は夢(死)に置いてきてしまうだろう。彼が再度、夢(死)に落ちてしまわないように。……あなたに責任があるのならば」
    どこか疲れた声の彼女は言う。
    「きっと彼だって、生きていたいはずだ。……願い方を忘れてしまっただけて」

     たすけて、と小さな声がした。藻掻くように手が宙を引っ掻いた。
     レイシオはその手を掴む。
     かえりたい、と青ざめた唇が言葉を紡ぐ。
     それは、現実にか、彼の失われた故郷にかは分からなかったが。
    「帰ってきてくれ。君を故郷にも帰らせてやるから」
     アベンチュリンの手は、細かに震えていた。
     彼の名を呼ぼうとして、言葉に詰まる。
     本当の名を知らない。
     レイシオは彼のことを何も知らない。

     ——ただ、それでも。

     彼が救いを求め、レイシオがその手を取ったことだけは真実だ。
    「君を、助けよう」
     震えを抑えるように、祈るように両の手で包む。
    「君の幸福を願っている」


     半身を彼は置いてきてしまった。
     違う、半身だけ戻ってきたのだ。生を願われたから。
     残酷な世界に、されど彼が生きることを願った者として、彼を完全に“生き返らせ”なければいけない。
     彼の願いを叶えよう。例え彼が覚えていなくとも。
     夢遊するように死に後ろ髪を引かれている彼が、それでも生きたいと思えるように。

     僕は君のことを何も知らない
     本当の名も、人生も、何もかも。
     君が焦がれる故郷のことをもっと知りたい。君のことをもっと知りたい。
     君が冥府で立ち止まってしまわないように、振り返ってしまわないように。
     ——いつか、君の名を呼べるように。
     

    「君の故郷の話が聞きたい」
     

     これは、君をこの世に繋ぎとめるための旅だ。
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