あなたは海になりなさい夜(1)
浅い眠りのあいまに、貝殻をひろうゆめをみた。
あれは、冬の海だろうか。重たげな雲が灰青のなかをいくつもたなびいて、ひどく寂しげだった。日差しが淡く、水面と空はほとんどおなじ色をしている。辺りに人はいない。ただ波のおとだけが、連続する鍵盤の音色のように、ひっそりと水辺に響いている。ふと足もとをみると、白い砂に混じって花びらが落ちていた。……とおもうと、それは貝殻なのだった。手折った枝から散ったばかりの花のような、薄いばら色の貝殻。俺はどうしてこんなものが、と考えながら、けれどなぜか捨ておけず、それで、ひと晩中浅瀬の貝殻を拾い続けた。
そういう訳だったから、眼が醒めたあともしばらく波の音が耳から抜けなかった。
「……」
砂を洗う音を聞きながら、まだ重たい身体を起こす。旧い格子窓の向こうにはちいさな湖があり、そこにも水の気配があった。終わりかけた夏の風が水面を揺らしている。ジャムのような日差しが融けて、なにもかもが、濃い。夜が近づいている。
軽く伸びをして手を洗い、まずは湯を沸かした。それからミルクパンを取り出す。ミルクは人肌に。くちあたりが滑らかなのがいい。ついでに自分の珈琲も淹れる。欠伸を噛み殺しながらキッチンに立ち、窓から覗く湖畔に眼をやった。
もともとは、旧い灯台だったらしい。半年ほど前に借り受けて、階下を店に、上のほうを居室にしている。使われなくなって久しくそのままだったようで、床板や窓はずいぶん旧びていたけれど、住み心地は悪くなかった。(夕立のたびに雨漏りするのには辟易したけれど)きっと、大切につかわれてきたのだろう。そういうのは、なんとなくわかる。物に残る気配は雄弁だ。特に俺たちのような魔法使いにとって、それらは香水の残り香より鮮烈に感じられる。例えば、誰かが読みさしにしたままの小説。よく手入れされた籐の肘掛け椅子。あるいは—……、花や服、厨房に残された銀食器。誰かのものだったマナ石。
そういえば、以前にファウストとこんな話をした。まだ魔法舎にいた頃のことだ。いいキッチンにはいつもおなじひかりが宿っている。旨い食事をこしらえた時の、ぼんやりとした明るさが、いつまでもそこに残り続けるのだと。だから、キッチンをみれば、それがどういう場所だったのかわかる。
「君は、そのひかりをみたことがあるの?」
「まあ、時々は」
「へえ……」
酔っていい調子で話し続けた俺に、ファウストは面白そうに頷いて、
「確かに、わかる気はするよ」
「本当に?」
「ああ」
そうして、ほんの少し眼を眇めてみせた。
「君の部屋は、いつも酷く明るいからね」
深いむらさきの眸に浮かぶやさしい酩酊を、俺はまだ昨日のように思い出すことができる。
「……さて」
そろそろいい頃合いだろう。温めたミルクをよそい、砂糖菓子と一緒にトレイに載せた。すみれの花をかたどった、小さな砂糖菓子だ。空いた手に自分のマグを持ち、キッチンを出る。壁づたいに這う螺旋階段が、つるばらのように上へ伸びていた。灯台のなかは、日が暮れればたちまち暗い。廊下の洋燈に火を入れると、石壁にほそい翳が浮かび上がった。
階段をあがり、屋根裏の扉を開ける。
「—起きてる?」
返事はない。けれどそれで充分だった。手近なテーブルにトレイを置き、寝台のほうへ足を運ぶ。窓を閉じた室内は、濃密な緑の気配がする。寝台の薄い紗幕ごしに、小さな翳が動いた。
紗幕を少し開け、なかを覗きこむ。
それから、ちいさく笑った。
「おはよ。先生」
ある光
その店に行くのなら、必ず夜でなければいけない。
何故なら、そうでなければたどりつけないからだ。夜、月光がつくる翳の中にそっとからだをすべりこませる。できるなら、曇り日の薄らとした、灰色のひかりが望ましい。するといつの間にか湖のほとりにたっていて、旧ぼけた店のあかりをみつけることができるのだ。ものごとには、いつもあらかじめ決められた手順がある。美味しい紅茶をいれるみたいに。だから、それにしたがわない限り、あなたは決してあの店をみつけることは出来ない。
とはいえ、今日のクロエは客人ではなかった。だから、友人をたずねるのに相応しく、ごく普通に箒を飛ばして、ネロの住む灯台をおとずれた。街から少し離れた湖は、夜も美しいけれど、昼の間にみても幻想的だ。水辺に木陰をつくる木々の深い緑や、桟橋に揺れる小舟。薄い日差しが水面に反射して眩しい。おもわず眼を眇めながら、ドアをノックする。中から階段を降りる足音が聞こえた。
「仕立て屋君か」
ややあって、顔を出したネロが片手をあげてみせる。
「悪いな、こんなとこまで来て貰って」
「全然!久しぶりにネロと逢えてうれしいもの」
「はは、そりゃどうも」
応接間に通されながら手土産を渡す。礼をいってうけとったネロが、銘柄をみて「いい茶葉だな」とつぶやいた。
「分かるの?」
「季節によっちゃ、ベネットのワインと同じくらい値がはるやつだろ。さては婿さんの見立てだな」
ラスティカは元気かと訊かれ、頷く。先日も、晩餐会の演奏を任されて、夜会服を仕立て直したところだ。もっとも、ああいう人だから、相変わらず、彼自身が小鳥のようにあちこちふわふわと飛び回っているけれど。
そんなことを話しているあいだに、ネロが手土産の茶葉でミルクティーを淹れてくれる。付け合わせは桃とアールグレイのタルト。宝石のように艶やかなそれに、クロエが眼を輝かせる。
「店で出すやつで悪いけど」
「ううん、嬉しい!これ、この間来たときは売り切れてたから」
「そう?なら良かった」
きゃしゃな飾りのついたフォークを差し入れると、紅茶と果物の瑞々しい香りがぱっと辺りに広がった。一口食べて、おもわず頬を抑える。
「美味しい!」
「良けりゃ、婿さんの分も用意するけど」
「いいの?」
「こんな辺鄙な所まで来てもらった礼だよ」
カウンターのスツールに凭れて、ネロは自分のカップに口をつけた。もともと旧い灯台なので、室内は狭く、居間のすぐ向こうに小さなカウンターキッチンがある。とはいえ、落ち着いた調度品や植物のせいか、もの寂しさはなく、むしろ不思議な居心地の良さがあった。綺麗にスパイスの並んだ戸棚やハーブの鉢植え、窓際に置かれた品のいい安楽椅子。深緑のアンティークのソファに、毛足の短い夏用のラグ。小窓から射しこむ日差しが、ネロの水色の髪をやわらかに照らす。
「前からおもってたけどさ、ここって、なんだか—……」
いいかけて、けれどクロエはふと口を噤んだ。何故だろう。どうしてだか、その先をいってはいけない気がした。慌てて話題を変える。
「そういえば、頼まれてたやつなんだけど」
ああ、とネロが頷く。
「もっとゆっくりでも良かったのに」
「あれこれ考えてたら、つい張り切っちゃって」
照れ笑いをしながら、呪文を唱える。向かいのソファに、仕立てたばかりの衣装が広がった。品のいい黒の布地をつかったツーピース。大きめの襟に銀のカフスボタン。手首のところだけ、わずかながらフリルをあしらっている。
「外着にってことだったから、シンプルで品のいいものを、っておもったんだけど……。どうかな?」
ネロは衣装を手に取ってしげしげと眺めた。金色の眸がゆったりと瞬くのを、クロエは少しはりつめた心地でみつめる。彼に自分の作品をみせるのは、ムルやシャイロックとはまた違った緊張感があった。くちにしたら上手くはぐらかされてしまうだろうけれど、ネロはこれでいて、宝石や美術品をみる眼がゆたかだ。うつくしさがどういうものか、ということを、優劣ではなく価値として教えこまれたものの眼差し。だから、ネロの注文をうけるのはほんの少し怖い。怖くて、だから、胸がときめく。誰かに話したことはないけれど、きっとラスティカだって、同じことをいうのじゃないかしら。
「相変わらず趣味がいいな、仕立て屋くんは」
やがてネロはふっと息を吐いた。それから、顔をあげてこちらをみる。どうやらお眼鏡にかなったらしい。クロエはほっと胸をなでおろした。
「良かった。ネロの好みってちょっとわからなかったから」
「まあ、俺がどうっていうか……。でも、これならきっと気に入るとおもうよ」
「ほんと?」
「ほんと。大体、先生は俺よりよっぽどみる眼があるしさ」
そういった瞬間、居間のドアが開いた。鳥の羽ばたきのような、ちいさな足音。それが、部屋のなかにするりと入ってくる。あっ、と声をあげそうになったのを、クロエは慌てて呑みこんだ。
甘い花の香りが、鼻先に漂う。
「先生」
ネロがいった。
「起きた?今日はちょっと早いな」
答えはない。代わりに、伸ばされた手が、ネロの袖口を掴んだ。ちいさな少年のものだった。白鳥の羽根に似た、きゃしゃな指先。北の双子より、まだ幼いだろうか。ネロがその手をとって、ソファに座らせる。
抜けるような白い肌と、はしばみ色の髪。うつくしいライラックの眸。
濃い睫毛のさきが、ゆっくりと瞬く。
***
ひかりのなかの子供みたいだ。
この湖ではじめて彼をみたとき、クロエはそんなことをおもった。甘い花と、緑の匂いがしたせいかも知れない。
ドールはひかりのなかで眠り、温めたミルクを飲んで、時々は砂糖菓子を食べる。そうして、ネロの店にくる人たちの話を、聞くともなしに聞いていたりする。ムルがいうには、特殊な植物から作られたものだから、プランツ、と呼ぶらしい。花や緑とおなじようにみずやひかりで育ち、持ち主の愛情によってすがたやかたちを変えたりするのだとか。勿論、たやすく市場に出回るようなものではないから、長いことおとぎ話のように扱われていたという。
そういえば、もうずっと前に、おなじプランツにあったことがある。シャイロックが魔法舎に持ちこんだ旧いカウチの魔力で、ファウストが眠り込んでしまったのだ。かわりに、何故だか彼によく似たドールがあらわれて……。そうそう、あの時もネロが最初にみつけて、色々と面倒をみてあげていたっけ。ほんの少しのあいだのことだったけれど、あれは楽しかった。一緒にお茶をしたり、彼の髪にあう花冠をこしらえたり。本当は、時間があれば、彼に似合う素敵な服も作ってあげたかった。だから、ネロに彼の服を頼まれるのは、とても嬉しい。遠い日に失くしてしまった忘れ物を、やっと取りに戻れたみたいに。
****
「久しぶりだね。ファウスト」
声をかけると、彼は黙ったまま首をかしげてみせた。反応がないので、クロエは少し不安になる。
「まだ寝ぼけてるだけだよ。……ほら先生、みてみな」
ネロはそういって、彼の前に膝をたてて座った。それから、クロエが仕立てた服を、よくみえるように掲げてやる。
「仕立て屋くんの新作だぜ。あんた、好きだろ」
ファウストは洋服に眼をやると、薄いくちびるをかすかに綻ばせてみせた。が、それも一瞬のことで、すぐにぷいとそっぽを向いてしまう。
「あー、まだ怒ってんな、こりゃ」
ネロが肩を落とす。
「喧嘩でもしたの?」
「いや、その逆。売れっ子の仕立て屋くんを煩わせんなって叱られたの」
「俺?」
クロエはすみれ色の眸をぱちりと瞬かせる。
「俺はむしろ嬉しいけどな。二人に仕事を任されるの。素敵な大人になれたみたいで」
「だってさ、先生」
揶揄うような声に、ファウストはわざとらしく眼を逸らしたままだ。二人の顔をみくらべて、クロエはおもわず笑った。なんだか子供みたいだ。悪い意味じゃない。ただ、微笑ましかったのだ。大体、ファウストだって本気で怒ってるわけじゃないのだろう。向かいに座る彼の横顔に、こっそり盗み見る。ネロからは上手く隠れているけれど、くちもとが微かに緩んでいた。なんだかいいな、と思う。いじけたりあやしたり、お互いを気まぐれな猫のように親しんで、一緒に暮らしていける、ということは。それが今までと変わらず、この先も続いていく、ということは。
「……?」
いま、なにかが喉のおくに引っ掛かった。指先を刺す、ちいさな棘のような。けれど、それがなんなのかわからない。
「クロエ?」
フォークをおくと、ネロが首を傾げてみせた。逆光で、一瞬、その顔がみえなくなる。けれどそれもほんのわずかのことで、瞬きの間に翳はどこかへ消えていた。小麦色の眸が、心配そうにこちらをみる。何でもない、とクロエは慌てて首をふった。気のせい—……、そう、気のせいだ。きっと。
ふいに胸に立ちこめたそれを振り切るように、クロエは努めて明るい声でいった。
「そうそう、この間シャイロックがね—……」
クロエは知らない。どうしてネロが、こんな静かな湖畔で暮らすようになったのか。あのドールはどこからやって来たのか。どうして、彼が—……ファウストとよく似た面差しをしているのか。
クロエはなにも知らない。きっと、この先も聞くことはないだろう。時々は湖を訪れ、話をし、彼のこしらえた食事を楽しんで別れる。きっとそれ以上のことは起こらない。寂しくないといえば、嘘になる。でも、それでも良かった。秘密をわかちあうだけが友情ではないことを、クロエはちゃんと知っている。なにより、クロエは西の魔法使いだ。寂しさだって十分に楽しむことができる。明るい昼下がりに食べる、この素敵なタルトみたいに。
夜(2)
湖を選んだのに、たいした理由はない。
しいていえば、水がきれいだったからだろうか。菓子作りでも料理でも、水の良し悪しは味を左右する。だから、新しい街で店をはじめるとき、他のなには良くても、水と土だけはきちんと確かめるようにしている。そういう意味でいえば、ここは中々悪くない場所だった。土がやわらかで日当たりもよく、水場がちかいわりには湿度も低い。夜になれば湖水に月が映りこみ、あたり一面が銀色に輝く。その、静かな明るさも、なんだか良かった。まだ冬を越したことはないが、おだやかで暮らしやすい土地だ。魔法使いにとっても、植物にとっても。
植物。
「……先生?」
読んでいた本から顔をあげて、俺は部屋の奥に眼をやった。窓辺の安楽椅子に凭れて、ファウストがいつの間にか、静かに眼を閉じている。彼の寝床は屋根裏にあるのだが、どういうわけか気づくと居間にいることが多い。植物が多いせいだろうか。ここにあるそれらのほとんどは、嵐の谷で株分けして貰った物だ。その時の懐かしい気配が、彼の中に残っているのかも知れない。
小窓からさす日差しがまろい頰を撫で、辺りは甘やかなひかりに満ちていた。植物がそうであるように、プランツにはひかりが必要だという。そのせいか、昼間のあいだ、ファウストは大抵眠ったままでいる。ここで暮らすようになってからは、さらにそういうことが増えた。薄い瞼を伏せた横顔は酷く心地が良さそうだ。子供のような寝顔をみながら、俺は声を立てずに笑った。彼の眠りが穏やかであることに、安心する。可笑しな話だ。ファウストが眠れず苦しんでいた日々は、もうずっと遠い過去の筈なのに、俺はいまだに願ってしまう。どうかこの人の眠りが何者にも妨げられませんように、と。
—それが祈りですよ、ネロ。
ふと、懐かしい声が耳もとに届いた。夜の淵に立つリケの姿が、脳裏に浮かぶ。百合の紋章を額に押し戴いた、線の細い面差し。金色の髪。若草のような眸が、真っ直ぐに俺をみていう。あれは、いつのことだったろうか。魔法舎にいた頃?いや、多分、アーサーの戴冠式で顔をあわせた数年前の……。
—祈りったって。
記憶の中の俺が、ため息混じりに笑う。永遠に続くような晩餐会に疲れ果てて、人のいないバルコニーに逃げ出したところだった。ファウストの姿もみえなかった。きっと、あちらも同じように人気のない場所へ身を隠していたのだろう。はなやかな場所は、どうしたって疲弊する。気後れするわけじゃない。後ろめたいからだ。割れるような喝采が。祝福が。祈りが。例えそれが、自分にむけられたものではないとしても。
だというのに、その時はなぜか祈りの話になった。
—俺はただの飯屋だぜ。聖書なんて一度も読んだことないし。
—そんなことは関係ありません。
軽口を叩いた俺の隣で、リケは毅然と首を振る。魔法舎にいたころより伸びた手足が眩しい。それでも、自分をみる眼差しはあの頃とおなじ儘だ。
—言語や知識の有無は関係ないんです。例え生涯文字を知らずにいる人にだって、祈ることは出来ます。……いえ、できる、ということがそもそも違うのかも。
城内から、うつくしいチェンバロの音色が聞こえた。あれは、婿さんの演奏だろうか。
—違うって、どんなふうに?
—えっと……、つまり、
白い手が、バルコニーの手すりを離した。そうして、胸の前でそっと指を汲む。朝つゆに濡れたつみたての薔薇を、やさしく抱き止めるみたいに。
—夜明けの海の、とびきりきれいな砂を、溢さないでいたいとおもったら、手をあわせるしかないでしょう。それが祈りなんです。
リケのいうそれは、俺にはどちらかといえば、祈りというより、愛に近しいもののようにおもえた。祈りはうつくしいが、愛は簡単に汚泥に変わるからだ。俺がかつて、ブラッドに抱いたものが、まさにそれだった。死んでほしくない、血に汚れてほしくない、傷ひとつない、安らかな日々を幸福だといって欲しい。そんなものを享受するブラッドは、彼ではないというのに。
—もう、ちゃんときいてます?
黙りこんだ俺に、拗ねたようにリケがいった。肩まで伸びた髪を、冷えた夜風がゆらす。健やかに変わっていくその姿に、おもわず眼を細めた。
—聞いてる、聞いてる。けどやっぱり、俺にはそういうのは不相応だよ。
—そうかしら。
リケは大きな眸を瞬かせた。それから、ゆっくりとその眼を城の外へ向けた。
—少なくとも。
—魔法舎でネロが出してくれた料理は、僕にとっては祈りでしたよ。
「……」
随分、立ち尽くしていたらしい。窓からさす日差しが、いつの間にか随分と傾いていた。湖に映る西日がまぶしい。それはまるで燃える火のようだった。ファウストはまだ眠っている。重たげな睫毛の先が翳を作るのを、俺はぼんやりとみつめた。それから、安楽椅子にもたれた体に、毛布をかけてやる。暗くなった室内に火を入れながら、俺はリケの言葉を反芻した。祈り。祈りか。リケのいうそれは、きっと天上の氷菓子みたいな味がするのだろう。きよらで、汚れがなくて、透き通ったものだけでできている。だとしたら、これが祈りである筈がなかった。俺がファウストへ向けるのは、きっと愛でも祈りでもない。
これは、呪いだ。
ふと、唇から、乾いた笑いがこぼれた。
「俺にはやっぱり不似合いだよ、リケ」
讃美歌ひとつ
スノウはよく失くし物をした。
それはどこかの海でひろった真珠であったり、捧げ物のめずらしい果実であったり、はたまた弟子たちの教育のために整えた旧い書物であったりした。失くし物がなんであっても、スノウは大して執着をしなかった。例え千年に一度しか採掘できない鉱石や、うつくしい龍の鱗でこしらえた衣装であっても、半身がかつて齎した喪失に比べれば些事でしかない。彼はほんとうに失えないものを既に一度喪失した後だったため、却ってその他のことには酷く鷹揚になった。鷹揚になりすぎた……、と、いえるかも知れない。
「……で?今度は何を失くしたんだ?」
ドアを開けるなり、ネロがため息混じりにいった。ホワイトは子供のように頬をふくらませてみせる。
「ネロちゃんちょっと冷たくない?まるで我らがしょっちゅう失せ物をしとるみたいなものいいじゃ」
「いや、でも失くしたんだろ?」
図星だ。図星だが、認めるのもなんだか面白くない。
「……ファウストちゃん元気?」
「あ、こら」
ドアの隙間をすり抜けて、そのままなかへ滑りこむ。慌てたネロの声が背中に届いたが、聞こえないふりをした。痩せても枯れても彼らは北の支配者、その足取りを止めるなら、獰猛な獣であっても足りない。ホワイトは鼻歌混じりに店内へ足を踏み入れた。円形の室内は薄暗く、螺旋階段を中心に手前が客席、奥が調理場になっている。ちょうど、扇を開くような感じだ。びろうどのソファや珈琲テーブルはやや旧めかしいが、よく使いこまれた品のいいものだとわかる。
「おや」
「……」
奥の暖炉のそばで、ファウストが本を読んでいた。肩までのびたはしばみ色の髪が、濃紺のリボンでやわらかく結ばれている。薄がりのひかりが、なだらかな頬に睫毛の翳を映して、まるで童話の挿絵のようだ。その横をすり抜け、めあての席に座る。ホワイトのお気に入りは、カウンタに近い窓際のソファ席だ。蝋燭の火が揺れる窓辺から、湖に映る月のひかりをゆったりと味わうことができる。夜が更けたばかりのせいか、他に客はおらず、心地のよい音楽だけが流れていた。
「へえ」
後を追ってきたネロが、関心したようにつぶやいた。
「どうかしたか」
「や、選ぶ席は一緒じゃねえんだな、とおもって」
「……」
またしてもホワイトは黙りこんだ。本日二度目のことだ。流石の彼も、いい加減認めざるを得なかった。調子が悪い。そう、確かにそうだった。この湖に来るまえからずっと、ホワイトは頗る調子が悪い。けれどそれというのも、そもそもは、スノウが—……。
「ご注文は?いつものでいい?」
グラスに水を注ぎながら、ネロがいった。誂えたようなタイミングだった。テーブルのナプキンを取り換えるのや、食後の珈琲を運ぶのとおなじように。相変わらず、厭になるほど気のつく男だ。テーブルクロスの汚れや、銀食器の曇り、カップの縁のひび割れ。日々のささやかな歪み。気づかなければ、ないのと変わらない。けれど、この男は気づいてしまう。月の裏側についた傷さえも、見過ごせず、眼を向けてしまう。もっとも、それがネロにとって幸福なことかどうかはわからなかった。瑕疵を許せない、ということは、たましいについた傷を愛することが出来ない、ということだ。傷を愛せないものに、この世界は息苦しいだろう。
ともかくも、ホワイトは気を取りなおしていった。
「ラム酒をいれた紅茶と、ファウストにホットミルクをひとつ。そうじゃ、砂糖菓子もつけてやろう」
途端にネロが苦い顔をする。
「あんま甘いもんあげ過ぎんのもよくないんだけど……」
「細かいことを気にするでない」
嘘ばっかり。と、ホワイトはこっそりつぶやいた。
やみくもにプランツ達へミルクや砂糖菓子を与えることは、確かに推奨されていない。とはいえ、彼らを溺愛する愛好家のために、ドールに負担のない素材の菓子は出回っているし、ネロがそれを知らないわけがないのだ。それでも気が進まない、という素振りをしてみせるのは、つまるところ独占欲でしかない。ファウストに対する特権的な行為を、誰にも譲りたくないという、ある種の執着めいた。
もっとも、彼自身が気づいているかどうかは、知らないが。
「……なに?」
こちらの視線に気付いたのか、ネロが首を傾げた。ゆるく結んだ髪がこぼれて、耳もとに流れる。
テーブルに頬杖をついて、ホワイトは軽く笑ってみせた。
「なにも。そら、早う支度をせんか。我はファウストに用があるからの」
ネロはものいいたげな顔をしたが、ため息をついてカウンタの奥へはいって行った。なんとまあ、過保護なこと。みているだけで面映くなる。
けれど、おもえば魔法舎にいた頃から、そうだったかも知れない。
シノやヒースにみせるのとはまた違う純真を、この男はいつもファウストに対して持っていた。愛や情とは違う。どちらかといえばそれは、雪解けの水を惜しむのに似ていた。ファウストだって、清濁どちらも味わって生き延びた気難しい呪いやだ。けれど、それでもネロの眼には、彼が濁りのない水のようにみえたのだろう。自己から遠いものに憧れる気持ちは、ホワイトにはわからなかった。ホワイトがなによりも愛したのは、半身であるスノウだからだ。彼は自分で、自分は彼そのものだった。海に沈んだ貝が化石になるほどの時間、二人はそうして過ごしてきた。幸福な時間だった。豊かで、満ち足りていて、そこに足りないものなど、何ひとつない筈だった。筈だった、のだけれど。
「……で?失くし物って?」
カウンタの奥から、ネロの声がした。ポットを温める気配と、豊かな茶葉の香り。ホワイトはファウストのそばに腰を下ろした。ファウストはまだ本に夢中になっている。
ドールは固体によって不思議な力を持つことがある。ファウストの場合は、占いだった。失くしものをみつけたり、先の不幸をいいあてたりする。とはいえ、彼自身がなにかを語るわけではない。占いには、花を使う。彼の眼の前に花を差し出して、そのなかから選ばせるのだ。選んだ花が答えをみせてくれる。これまでも、ホワイトは何度かスノウの失せ物を探させた事がある。(ホワイトの占いのほうが勿論精度は高いが、自分のことを占うのは好ましいことではない。旧い魔法使いの、旧い慣習のようなものだ)
「譜面じゃ」
ややあって、ホワイトが答えた。
「譜面?」
「ああ。何百年も前に我らが書いた」
へえ、と、ネロはなんとも曖昧な声を出した。煮え切らないままのジャムのような声。けれどもその曖昧さが、今のホワイトには心地よかった。共感でも労りでもない。それでも、自分の苛立ちがネロに過たずつたわったことを、理解する。
「それで怒って出てきた、と」
「怒ってはおらん。腹に据えかねたのじゃ」
スノウが失くしたのは、いつか二人で弾いた讃美歌の譜面だった。まだ北で暮らしていた頃の話だ。気まぐれに奪った屋敷に、うつくしい黒塗りのピアノがあった。夜を閉じたようなそれを、二人はかわるがわる弾いた。歌をくちずさみながら。あるいは、軽やかにダンスを踊りながら。外は凍えるような吹雪で、豪奢なびろうどの絨毯には、砕いたばかりの石がひかっていた。二人でこしらえた歌は決して出来のいいものでなく、海のさざ波のような音になった。それでも彼らは満足していた。出鱈目で、甘やかで、美しい夜だった。あの時の幸福な気持ちを、ホワイトは今も覚えている。
「意外だな」
砂糖菓子の瓶を空けながら、ネロがいった。
「あんたらはそういうことも楽しむ性質だとおもってたよ」
ホワイトは笑う。
「以前の我らなら、そうだったかも知れんな」
まだ死がわかつ前の二人であれば、あるいはそうだったかも知れない。軋轢や破綻さえ楽しめたかも知れない。けれど、そうは出来なかった。わかっている。スノウは惜しまない。例えそれが二人の記憶をわかつ真珠であっても、失われたのがホワイト自身でない限り、手離すことを厭わない。わかっている。それでも我慢できなかった。傷つくなら、すべてに傷ついて欲しかった。ホワイトにまつわる喪失のすべてに傷ついて、惜しんで欲しかった。そうでなければ、どうして耐えられるだろう。自分だけが、こんなに跡形もなく、壊れてしまったままで。
「……」
「……ファウスト?」
眼のまえに、花が差し出された。
本を読んでいた筈のファウストが、こちらを覗きこむ。すみれ色の眸が、透けるようなひかりを湛えてホワイトを映した。無垢な子供のような面差し。けれど、そこには紛れもなく、深い知性があった。ホワイトは少しの間躊躇い、けれどもそれを受け取った。みずみずしい花びらが、指先に触れる。夜のただなかにいるような、濃密な花の匂いがした。
眼裏に、ふと、つよく浮かんだものがあった。開け放した窓辺で楽譜を眺めるスノウの姿。頬杖をつく横顔は、欠けた半月のようにホワイトに似ていた。ふと風が吹いて、楽譜がその手から拐われる。スノウの金色の眸が、驚いたようにみひらかれた。咄嗟に指先を伸ばそうとしてー……、けれどそれは、力なく下される。
引き換えに、呪文が唱えられた。
楽譜は白い鳥の姿になり、風にのって窓辺から遠ざかってゆく。
「……ああ」
知らず、ため息がこぼれた。眼の前の景色があっという間に霧散する。ファウストは手を離すと、また本に眼をおとしてしまう。レースの袖口から覗く指が、音もなく頁をめくった。蝶が羽ばたくような、指先の流れ。それが、ついさっきみた、スノウの姿に重なる。
「目当てのものはみられた?」
茶器を載せたトレイを手に、ネロが訊ねた。傾けたポットから、豊かな香りが広がる。百合が開いたようなティカップの中で、蜜色の紅茶がゆらめいた。いや、と静かに首をふる。落胆したのじゃない。憤っているのでも。ただ、わからなかった。あの小さな窓辺に、スノウがなにをみたのか。譜面を鳥に変えてまで、なにを手離したかったのか。それとも、留めておきたかったのか。永遠にわかりようのないことなのかも知れない。ホワイトが幽霊である限り、あるいは、もうー……。
「スノウはなんて?」
カップを差し出して、いう。
「なにも。あやつには黙って出て来たからのう。我が譜面の紛失に気付いたことすら気づくまいよ」
ネロは少し笑った。そうして、酷くやさしい眼をしてこちらをみる。
「聞いてみりゃいいのに。案外、なんでもない理由かも知れないぜ」
ホワイトはいっそ笑い出したくなってしまった。よくもまあ、簡単にいってくれる。大体、秘密があるのはお互い様だろうに。けれど彼はそれをくちにしなかった。ホワイトは残酷な北の支配者だったが、そうしないだけの情も持ちあわせていた。
「まあ……考えておこうかの」
出されたカップにくちをつけながら、火の消えた暖炉に眼をやる。
ネロはファウストの前に膝をつき、菓子ののった皿を手ずから与えてやった。それから、ちいさな声でなにかを話す。ファウストはそれに頷き、少し眉を顰めたり、かとおもえば笑ったりした。ドールは言葉を持たない。だというのに、彼らは互いの言葉に耳を傾け、過たずうけとっているようだった。魔法舎で距離を推し量りながら暮らしていた、あの頃のように。
眩しい。というより、痛ましい、とおもってしまうのは、ただの感傷だろうか。眼を閉じると、まなうらにあの夜の雪が降った。
出鱈目で、甘やかで、美しい夜。海のさざ波のような讃美歌。
おなじ海をみることは出来ないのだ。例え愛のために殺しあったとしても。
そのことを、幽霊になったホワイトは、厭になるほど知っていた。
夜(3)
海を、みたことがある。
***
「良ければこれから、嵐の谷に来ないか」
朝、顔をあわせるなり、ファウストはそういって俺を誘った。挨拶をするよりも早く。珍しいことだ。欠伸で涙の滲んだ眼を擦りながら、「いいけど」と俺は答える。
「なんかあった?急ぎの用事?」
「いや、そういう訳ではないんだが……」
どうにも歯切れが悪い。これもまた、珍しいことだった。人を避けるくせ、なにかと気を回す男なのに、どういう風の吹き回しだろう。少し訝しくはおもったものの、大して気に留めはしなかった。幸い、特に予定があるわけでもない。(カナリアも手伝いに来てくれているし)なにより、彼に声をかけられるのは悪くない気分だった。人慣れしない猫が、気まぐれに頭を撫でさせてくれているような感じ。例え人手欲しさのことだったとしても。
うっとりと深まっていく秋のさなかだった。谷はすっかりと色づき、豊かな季節の訪れを感じさせた。この後長雨の時期が続き、あっという間に厳しい冬が来る。その前に、色々と家のなかを整えて置きたい、というのがファウストのいい分だった。差し当たってハーブの採取と本の虫干し、暖炉用の薪割り……、冬を越すための準備は、いくらしてもし足りるものじゃない。
「勿論、報酬は弾むよ」
と、ファウストが持ち出したのは、北の奥地でしか製造されないアイスワインだった。凍った葡萄を採取して製造するものだが、とにかく葡萄の採れる土地が過酷極まりない場所で、人間はおろか魔法使いでさえ、生半なやつは一瞬で石になるという。そのせいで醸造できる数が少なく、市場にほとんど出回らないと聞く。確か、これ一本で店の売り上げの数年分にはなった筈だ。
「いいの?」
「仕事の報酬で得たものだからね。むしろ横流しになるようで悪いけど」
「や、それはいいけど……。なんか、俺ばっかり得してねえ?」
「ご心配なく。報酬分はきっちり働いてもらうつもりだから」
そんなふうにいった癖に、俺に寄越された仕事は本の虫干しだった。日当たりのいい庭先に本を並べて、することといったら、頁をめくったり、精霊たちが悪さをしないか見張っているくらいのものだ。この家の蔵書はなかなかの量ではあるが、希少なワインが対価になるほどじゃない。どう考えても報酬にみあう仕事じゃない筈だ。
「律儀だな、きみも」
後は好きにしていいよ、といったファウストは、庭の奥でハーブを摘んでいた。すっきりとした清潔な風が、ちいさな庭を撫でていく。ゆるく結んだ髪のせいで、いつもよりファウストの横顔がよくみえた。薄い耳朶や、日に焼けない首筋、翳りのある眦。庭につづく窓は開け放たれている。
「そんなんじゃねぇけど」
膝にじゃれつく精霊たちをあやしながら、俺はふと眼を細めた。明るい庭にいるファウストが、何故がひどく眩しくみえたから。
「職業柄かな。この店の飯じゃ割にあわないって思われるのが厭なんだよ」
ファウストは声をたてて笑った。珍しいことばかりだ、今日は。
「君の店はいい店だな」
「えっ……なに、突然」
「そう思っただけだよ。店主に誇りのある店は、よい店だ」
じわ、と耳もとが熱くなったのは、気のせいじゃないだろう。ふり向いた彼と眼があい、慌てて捲った頁に視線を落とす。魔法舎で暮らすようになって随分たつが、ファウストのこういう所にはいまだに慣れなかった。呪い屋のくせに、まるで野の花かなにかみたいに、手放しで好意を差し出そうとするところ。それになんの衒いもないところ。汲みたての水のような信頼。
厭なわけじゃない。むしろ、逆だった。でも、どうしていいか分からなくなる。
「……なあ、あれは?」
森の奥から、なにか静かな気配がした。庭先からつづく道に、青みがかった暗い翳が落ちている。雨が降り出す前のみずを含んだ空気が、その辺りから染み出すように漂ってくる気がした。日当たりがわるい?それとも、茂みが深いから?いいや、そうじゃない。それよりは、なんていうか、もっと……、
ハーブを摘む手を止めて、ファウストが森のほうをみた。重たげな睫毛のさきが、二、三度瞬く。
「……ああ、」
やがて、ファウストが口を開いた。
「あの辺りは、あまり行かないほうがいい」
「私有地か?」
「いや、そうではなく……。群生地なんだ。人の手が入るのは、あまり望ましくない」
そういって、ある花の名前をくちにする。それは満月にだけ咲くものだった。夜の水辺に花がひらく様子は、月光を白く凝らせたようにうつくしい。一方で、魔法使いの住む庭にしか咲かないため、マナ石に寄生する花だ、といわれたりもしている。果実はもっと希少で、確か、柘榴に似ていたはずだ。
「あんたを信頼してないわけじゃないけどさ……、放っておいて平気なやつ?」
「問題ないよ。毒になるものじゃない。もっとも、育て方にもよるだろうけれど」
ふと日が傾いて、開いた本のうえに濃い翳が落ちた。膝に頭を乗せていた精霊たちが、おもむろに起き上がりどこかへ行ってしまう。黒い猫のすがたをした一匹だけが、窓をとびこえてファウストの足もとにすり寄った。その小さな頭を、細い指が撫でる。
「花は満月に咲くが、実をつけるのは新月だ」
足もとに眼を落としたまま、ファウストがつぶやいた。俯けた首筋に、白いひかりが溜まっている。
「夜気に冷やされた果実が、明け方枝から落ちる。それを次の満月まで寝かしておけば、精巧なプランツが出来あがる」
「プランツ?」
「知らない?植物からできる人形だよ」
なるほど、と頷く。以前、魔法舎に彼とよく似たドールがあらわれたことがある。あの時は、慣れない子守に手を焼いたが、―……、今となっては楽しかった。なにしろ、地に足のついたこの男の面倒を俺がみるだなんて、そうそうあることじゃない。
足もとの黒い猫が、にゃあ、と甘えた声で鳴く。
その身体を抱きあげたファウストが、こちらをみて訝し気に眉を寄せた。
「なんだ、ひとりでにやにやして」
***
虫干しの間に眠ってしまったらしく、気づくとすっかり夜だった。
飛び起きた瞬間、肩にかけられたブランケットが床に落ちる。キッチンを覗けば、ファウストが夕食の支度を終えたところだった。俺は慌てふためいて謝罪したが、ファウストが気にした様子はなかった。どころか、「君のように手の込んだものは出せなけれどね」と軽口を叩いてみせる。
「今夜は泊って行くといい。魔法舎にはさっき連絡をいれてあるから」
「……悪い……」
報酬どころか、店なら返金ものだ。せめて朝食は作るというと、ファウストは眉をさげて笑った。灯りを絞ったキッチンは翳が濃い。テーブルに置いた蝋燭がオレンジの火を灯し、そのせいか、何もかもがやわらかな輪郭をしていた。マーマレードの瓶の底にいるみたいだ。
「疲れてるんだよ。休めるときに休んだ方がいい」
軽い食事とハーブティーをもらった後、ファウストにすすめられて、少し早めに眠った。魔法舎ならシャイロックのバーで誰かしらが飲んでるような時間だ。けれどこの谷の夜は全てを飲み込むように暗い。鯨の腹のなかなら、あるいはこんな風なのかも知れない。肌寒さを覚えながら、清潔なシーツにくるまる。
とりとめのない夢をいくつかみた後、明け方に熱を出した。頭の芯が熱いのに、手足は凍てつくほど冷たい。頭痛と悪寒が波のようにゆり返す。酩酊した意識の中、俺は寝台に潜って獣みたいにじっとしていた。北ではいつもそうだった。吹き荒ぶ嵐も、稲妻も、不幸も、暗い穴ぐらに篭ってただやり過ごして来た。嵐を手懐けるけるほど強くもなかったが、稲妻に打たれるほど弱くもない。だからいつも、中途半端に生き延びてきた。
水を飲んでうとうとしていると、一度だけファウストが顔を出した。足音を立てないように寝台に近づき、俺のほうを覗きこむ。あれから、眠っていなかったのだろうか。何かいおうとしたけれど、喉が掠れて声が出なかった。
ひょっとして、彼は気づいていたんだろうか。俺自身でさえ無自覚だった不調に。
「だからいっただろう、疲れてるんだと」
なにか冷たいものをくちに含まされた。とろりとして濃密な、甘い匂い。風邪よけのシロップだ、と気づく。ファウストは水差しの水をかえ、サイドテーブルにシュガーを置いた。それから、躊躇うようにシーツを引き上げる。俺が彼に、顔を晒さなくていいように。
ふ、とファウストが笑う気配がする。
「なにも心配しなくていい。ゆっくり眠りなさい」
海だ、とおもった。俺が知っているような、暗くて冷たい、北の海じゃない。もっと静かで、綺麗で、明るいところ。そこにはこの世のうつくしいものだけがあって、悲しいことも苦しいことも、きっとすべてが報われる。まなうらに、いくつもの光景が浮かんだ。マナ石を探して夜通し歩いた雪原。凍傷と血まみれの手足で、オズの嵐をやり過ごしたこと。 初めて盗みにはいった夜。過去は覆らない。それなのに、あの惨めさが、あの空しさが、彼の笑みひとつで、なにもかも報われたような気がした。錯覚だ。だけど、俺はファウストに、そういうものをみていた。善いものになんて決してなりえない癖に、彼のそういうところに、勝手に救われていた。そのことに、今、はじめて気づいた。目蓋が熱くて、眼を開けて居られない。熱のせいにして、シーツを被る。そうでなければ、なにかが溢れ出してしまいそうだった。
ファウストの手が、背中にそっと触れる。
「おやすみ、ネロ。よい夢を」
なんであんたは、そんなに優しいの。
どうしても、訊けなかった。
静かな嵐は過ぎ去って
約束の時間を、少し過ぎていた。
診療所の壁時計を横目に、レノックスはつい浮き足立ってしまう。(とはいえ、彼をよく知らない人からみれば、いつもと変わりなくみえただろう)なにしろ、几帳面な彼らが遅れるのは珍しい。なにか、あったのだろうか。普段は鷹揚に構えられることが気にかかり、意識が散漫になった。小さくため息を零しながら、手に持ったカルテを棚に仕舞う。
隣で棚の整理をしていたルチルが、おもわず吹き出した。
「もう、レノさんったら」
「……なにか、可笑しかっただろうか」
「だって、そのカルテ仕舞うの、もう三回目ですよ」
いわれてカルテのラベルを確認する。確かに、さっきもみたような気がするが、覚えがない。よっぽど、手元が疎かになっていたらしい。レノックスが抱えていたカルテをそれとなく受け取って、ルチルがてきぱきと並べていく。普段から授業の合間に手伝っているだけあって、手際がいい。あっという間に綺麗になっていく書棚をみながら、レノックスは深く反省した。彼らが来るまで診療所を手伝って待つつもりだったが、これでは手伝いになってはいないだろう。
「すまない」
振り向いたルチルが笑って首を振る。
「二人とも、お会いするのはお久しぶりですもんね。わたしも今朝からずっと楽しみにしてるんです」
「にしたって、レノは浮かれすぎじゃない?」
二階から降りてきたフィガロが、欠伸混じりにいった。今しがた起きたばかりなのか、右手に珈琲の入ったマグを持っている。「もう昼ですよ」レノックスが呆れていえば、「昼だから起きたんじゃない」と肩をすくめる。診療所をミチルに譲ってから、ずっとこんな調子だ。少し気が緩み過ぎているのでは、とおもうが「余生を楽しんでいるんだよ」といわれてしまえば、なにもいえなくなる。
「フィガロ様だって、そうでしょう」
じろりと睨め付けるが、笑って受け流されてしまう。「なんだか私たちみんな、遠出まえの子供みたいですね」とルチルはどこまでも朗らかだ。ここにいる誰もー…、ミチルでさえ、もう子供といえる年ではないのだが。
魔法でポットを引き寄せて、フィガロがカップに残りの珈琲を注いだ。挽きたての豆の香りが、部屋中に広がる。
「まあ、二人ともお茶にしなよ。今日は診療所も閉めてるし、急ぐこともないだろ」
それからふと首を傾げた。
「というか、ミチルは?」
「二人が近くまで来てないかみてくるっていってましたけどー……」
ルチルが言い終わるより早く、診療所の扉がひらいた。すっかり精悍になった顔に溌剌とした笑みを浮かべて、ミチルが飛び込んでくる。どれほど大人びても、こういう時の顔は幼い頃のままだ。少し眩しくなって眼を細める。
「あ、フィガロ先生も起きたんですね。よかった。お二人ともいらしてますよ」
ミチルはそういって、ドアの外を手招いた。馴染みのある足音がする。ネロの足音は独特だ。耳鳴りがするほど静かな冬の日に、薄氷を踏んで歩くような。つまり、わざと、音を立てている。本当は、薄氷を割らずに歩くことだってできるのに。
手に持ったバスケットをミチルに差し出しながら、ネロはこちらに眼を向けた。
「遅くなって悪いな。ちょっと手間取っちまって」
「全然。長旅お疲れでしょう。こちらへ座ってください」
レノックスは慌てて彼らに駆け寄った。ネロの腕の中で、プランツの小さな体が、分厚い毛布に包まれている。
ファウスト様、といいかけて、レノックスは一瞬ためらった。
「……道中でなにか……?」
ネロは瞬きをした後、ああ、と苦笑した。それから、「悪いんだけど」といい置いて、
「裁縫道具があったら、貸してくれない?」
***
「来る途中、野ばらの茂みにひっかけちまってさ」
節のある指先が、ゆったりとした手つきで針を通していく。南向きの窓から午後の日がさして、その手もとをやわらかに照らした。品のいい黒のツーピース。その、上着の襟元が、確かに少し破けている。
珈琲とフルーツサンド(ネロがこしらえてきたもの)を出しながら、ルチルがいった。
「ファウストさんにお怪我がなくてよかった。でも、残念ですね。せっかくのクロエの仕立てなのに」
なるほど、いわれてみれば、この繊細な仕立てはクロエのものだ。よく見ると袖口にはフリルをあしらっているし、ただの白地だと思っていた襟もとは、日にあたると薄く花の刺繍が透けてみえる。
「また手直しを頼むよ。売れっ子の仕立て屋くんに頼むのは気がひけるけど」
「クロエはきっと喜びますよ。わたしもこの間、母のスカーフを直して貰ったんです」
話す間にも、ネロは丁寧に破れたところを繕ってゆく。
「上手いものだな」
レノックスが感心していうと、なぜか困ったように眉を下げてみせた。
「見様見真似だよ。本当は素人が手を出さないほうがいいかも知れないけど……、破れたままにしとくのもなんだし」
「破れたものを、破れたままにして置かないでいるのは、誰にでもできる事じゃない。ネロの美質だと思う」
「……相変わらずだなあ、羊飼い君は」
ネロはますます困った顔をして、ついと視線を逸らした。金色の眸が、奥の個室に向けられる。こういうことをいうと、彼はそれこそ困るかも知れないがー……、(あるいは、盛大に苦い顔をしてみせるかも知れないが)こういう時のネロは、少しフィガロに似ている。賞賛や行為を、水のように受け流してしまうところ。人恋しい癖に、人の感情を信じていない。それが自分にとって都合のいいものであればあるほど。
レノックスも、つられてそちらをみる。
プランツは植物なので、時には病にかかることもある。市場に流通せず、特別な花から精製される彼らの病理を正しく判断できる医者は稀だ。だから、数ヶ月に一度、ネロは彼を連れてこの診療所へやって来る。最初はフィガロだけが診ていたが、最近はミチルも同席させるようにしていた。「俺だっていつ石になったって可笑しくないわけだし」というフィガロは実に平然としていて、レノックスのほうが苛立ったほどだ。腹立たしいのは、彼の冗談は悪趣味だが、いつだって正しい、ということだった。いっそ冷徹なくらいに。おもえば、あの人にもそういうところがあった。孤独なほどに、正しい。そうしてその正しさを、誰にもわかちあってはくれない。
今日も、破れた上着を着替えさせてから(ミチルのお下がりだ)、フィガロは彼を奥の個室へ連れていった。そこでなにをしているのか、詳しくは知らない。紅茶を蒸らしている間に終わってしまうこともあれば、半日以上かかることもある。その間、ネロは診療所の手伝いをしたり、レノックスの羊たちの面倒をみながら待っている。
診療所のドアベルが鳴って、誰かの声が聞こえた。
「わたし、ちょっと見てきますね」とルチルが玄関のほうへ向かう。軽やかな彼の声がなくなると、後には沈黙だけが残った。
「羊たちは元気?」
少しの沈黙の後、ネロがいった。そうだな、と頷く。それに笑う間も、彼の意識はここにはない。ただじっと奥の部屋に向けられている。気安い表情に隠された、刃物のような緊張。すかした窓から風が入りこみ、天井に下げた薬草の束をそっと揺らした。南の国特有の乾いた空気に、かすかな緑の匂いが混じる。
「いいのか」
気づくと、そう口にしていた。
「なにが?」
「あのかたのことだ」
針をもつ手を止めて、ネロが眼を伏せた。それから肩をすくめる。
「医者の守秘義務は絶対だってさ」
「……」
「それにー……、先生だって、俺みたいなのと四六時中一緒じゃ息が詰まるだろ」
レノックスは、思わずまじまじと彼の顔を眺めた。まるで、そうであってほしくない、といっているように聞こえる。一体、自分が今どんな表情をしているか、この男は気づいているんだろうか。
ネロ、といいかけて、けれどレノックスは口をつぐんだ。かわりに、食べさしのサンドイッチを一口齧る。みずみずしい果肉が口の中で弾けて、眼のまえがぱっと明るくなるような気がした。
もう、随分長い間、羊を追いかけて暮らしてきた。だからだろうか。なにかを口にするより先に、黙りこんでことが多くなった。言葉が壊してしまうものより、沈黙でまもれるもののほうを、望んでしまう。最も、フィガロが聞けば「君は昔からそうだったよ」と笑うかも知れないけれど。
聞きたいことがあった。もう、ずっと前から。
けれどそれが、あの人の幸福を選ぶことになるのか、俺にはどうしても、わからない。
***
破れた襟を繕い終えたころ、プランツの診察が終わった。
「せっかくだから、本当に遠出しに行きましょうよ」
ルチルの言葉で、おもいがけず野遊びすることになった。手土産のサンドイッチに残りもののスープ、南で採れたチーズと甘めに淹れた紅茶……。簡単に用意できるものを籠に入れて、近くの丘へ向かう。夏の終わりの風は冷たく、なだらかな丘にヘリオトロープのむらさきが揺れていた。ミチルは珍しい植物を熱心に採取している。そのあとをバスケットを持ったルチルが続き、ネロとファウストが追いかけた。
「聞いてもいいでしょうか」
少し離れた場所で、フィガロが彼らをみていた。
「なに?」
「どうして、ネロを遠ざけるのです」
フィガロはかすかに首を傾げてみせた。灰と緑の混じった不思議な眸が、ついとこちらへ向けられる。その表情には覚えがあった。諦念と憐れみ。ファウストを探して彷徨っていた四百年間、彼はいくたびもその眼でレノックスをみていた。
「そのほうがいいんだよ」
フィガロがいう。
「近すぎないほうがいい。少なくとも、この国に来た時くらいはね。でなければ、所有していると錯覚してしまう」
「所有って……、ネロがですか」
まさか、という感情が声に出たのだろう。フィガロが少し笑った。
「お前はあの子を、ファウストとは呼ばないね」
「……」
「責めてやしないよ。お前らしいと思ってるだけさ」
丘のうえからふく風が、彼の青みがかった髪をゆらした。もつれた髪をその手が撫でつける。
「俺は」
レノックスがいった。
「俺は、あのかたの人生が、祝福されたものであってほしいだけです」
「それが、ファウストの望まない祝福であっても?」
「……」
「ごめん。意地悪を言ったね」
心にもないことを、とおもいながら、けれどレノックスは首をふった。意地が悪いとはおもわなかった。フィガロはいつだって正しい。本人が、その正しさに膿んでしまうほどには。
眼をあげると、丘をのぼったさきでルチルがバスケットを広げていた。魔法で取り出したテーブルに、紅茶の入ったポットや軽食を並べる。ミチルは採取した草花をファウストにみせていた。テーブルに身を乗り出した小さな体を、ネロが慌てて支える。まるで絵のような光景だった。いっそ幸福と呼んでもいいほどに。
「俺にとってあの子は、生まれたての星のようだったけれど」
ふと、フィガロがつぶやいた。
「ファウストは、一体なにになりたかったんだろうね」
夜(4)
「幽霊がいるね」
突然声が聞こえて、俺ははっと顔をあげた。夜も深い時間、最後の客がついさっき帰ったばかりだった。慌てて辺りに眼をやる。人気のない店内は灯りが暗く、眠りこんだようにしずかだ。燃える暖炉のそばで、ファウストがうとうとと舟を漕いでいた。開いたままの本が膝からいまにも落ちそうだ。起こさないように本を取り上げて、棚に戻す。
眼の前に、白い翳がよぎった。
「ケーキはこれだけ?つまらない」
カウンタの硝子ケースに並べたケーキを、オーエンは優雅な手つきで次々とくちに放りこんでいく。砂糖衣をのせたレモンケーキ、無花果とクリームチーズのタルト、生地のあついロールケーキ…。丹念にこしらえた菓子が瞬きの間に消えてゆく様は、それこそ魔法のようでもある。俺は咄嗟に厨房にある食材の残りを計算した。朝一番に買い出しに行かないと、明日は菓子を提供できないかも知れない。
「まさかあんたが来るとはな」
「僕が来ちゃいけない?客の選り好みをするわけ」
「いや、別に来てもいいけど……。せめて事前に教えといてもらえると……」
食材がさ……、と、いっても詮無いことを、つい口にしてしまう。案の定、オーエンは猫のように眼をひからせて、ふうん、と笑うばかりだ。これは次も絶対に突然押しかけるな。そもそも、北の魔法使いになにかを強いようとすること自体、無意味に違いないのだけれど。
まだ食べ足りないと不服そうな顔をするので、仕方なくパンケーキを焼くことにした。手早くたねをこしらえ、たっぷりとしたバターで焼く。勿論、果物とクリームも忘れず。その間、オーエンは退屈そうに戸棚に並べた本を眺めていた。店内に、バターとクリームの香りが漂う。
「なあ、さっきの」
焼いたパンケーキを皿に移しながら、ふとつぶやく。
「幽霊、って」
「ああ、」
長い手足を投げ出して、長椅子に座りこむ。皿を運べ、ということらしい。黙って給仕に徹する。別に苦ではない。むしろ、得意なほうだ。矜持を捨て、思考を殺し、意識を透明にして誰かに奉仕することは。どちらかといえば、魔法舎でうけたファウストの授業のほうが、よっぽど難しかった。彼のやりかたはいつも思考を深く、豊かにすることを俺たちに求めた。自分がなにを望み、求め、どういう生き方を選びたいとおもっているのか。子供たちの眼が絶えず世界に開かれてゆくように。それがどれほど健やかで愛情深いやりかたか、俺にだってわかる。だからこそ、どうしたって俺は、彼のいい生徒にはなれなかったことも。
「決まってるだろ」
パンケーキを口に運んだフォークを、そのまま暖炉に向ける。
ああ……、と俺は頷いた。
「夜が長くなってるからな。日に当たるのが足りないじゃないかってフィガロがいってたよ」
夏の終わりに南の診療所へ行って以来、ファウストは更に眠ることが多くなった。冬になり、日の時間が短くなれば、ますますその眠りは長くなるだろう。(と、いうのがフィガロ達のみたてだ)昼のあいだに外へつれだしたり、森林浴をさせてみたり、色々試してはいるけれど、効果があるかは難しいところだ。
呆れたようにオーエンがいった。
「あんな男のいい分を信じるなんて、ちょっとお気楽なんじゃない」
「そりゃまあ……。だけど、ファウストのことでいい加減なみたてはしないだろ」
色の濃いくちびるが、酷薄そうに歪められる。
「お前、まだあいつのことそんな風に呼んでるの?」
俺はおもわず押し黙った。気分を害したからじゃない。オーエンがなにをいいたいのか、わかるからだ。色の違う眸が、うっとりとこちらをみる。そういう時ばかり、彼の面差しは酷くやさしげにみえた。
「かわりに僕がいってあげようか。ネロ」
いっそ労りのような、低く心地よい声で、オーエンがいった。
「お前があいつを手離せないのは、所有しているとおもいこみたいからさ。失くしたものの代替品で手をうってるだけ。真綿で包んで優しくしてやれば、それを愛だと錯覚できるから」
「……」
「可哀想に。お前の愛は報われないよ。どんなに甘い砂糖で誤魔化したって、醜いものは隠せない。お前はもう、どこへも行けない」
俺はおもわず眼を瞠った。それから、ふ、と笑う。
侮辱されたとおもったのだろう、オーエンが綺麗な眉を寄せた。
「なに」
いや、と俺は手を振って答えた。別に、馬鹿にしたわけじゃない。ただ、思い出したのだ。いつのかのファウストの授業を。呪いは、本当の意味で自他を区別しない。だから、呪うことは、即ち呪われることでもある。それは高い確率で破滅を伴うものだ。だから、容易く呪いに手を出すことはお勧めしない、と。オーエンがかつてカインにかけた呪いも、いつの間にか、少しずつ彼を侵食しているらしい。だってそうだろう。でなければ、この男が俺にそんな話をするはずがない。愛、だなんて。そんなものを、まるで祝福みたいに。
「あんた、ちょっと騎士さんに似てきたな」
オーエンは一瞬、子供のように眼を丸くして、それから絶句した。
***
そんな話をしたからだろうか。久しぶりに、懐かしいゆめをみた。
「誰かを呪いたいとおもったことはある?」
ゆめのなかで、俺は魔法舎の図書館にいた。昼間なのに部屋の中は暗く、灰が積もったように静かな気配が満ちていた。細い格子窓の向こうで雨が降っている。
俺は本から顔をあげてファウストをみた。
「それは、先生としての質問?」
「質問に質問で返さない」
「はーい」
覚えている。確かにこんなやりとりをした。任務で怪我をして、授業に出るのが難しかった俺のために、ファウストが補修に付きあってくれたのだ。自分だって任務あけで疲れていただろうに。そういって遠慮したら、呆れたように笑われたっけ。「そういうことは、僕の心配がいらない程度に課題をこなしてからいうんだな」なんて。
「呪いねえ」
机にだらしなく頬杖をついて、いった。
「どうだろうな。呪ってやるとおもうほど、熱心に人と付き合ってきたわけじゃねえし」
手が止まってる、と指摘されて、慌てて眼を落とす。この時の課題は、確か古代遺跡の文面を解読することだった。彼らは特殊なやりかたで秘密を共有していた。海べの波に魔法をかけ、その満ち引きで砂浜に文字を残したのだ。そうして、その時に用いた魔力を、貝殻にこめて渡す。そうすれば、例え何百年経ったとしても、いつかの波で砂をあらい、その言葉を蘇らせることができる。ファウストに渡された小瓶には、その貝殻を砕いて砂にかえたものが入っていた。この砂を操るのがまた難しく、繊細な作業を要求される。魔力を扱うのが下手な俺には不得手な作業だ。
資料を片手に四苦八苦する俺をみて、ファウストが口の端を緩めた。
「君、料理はあんなに上手なのに、こういう作業は相変わらずだな」
「向いてないんだよな、こういうの……俺大雑把だし」
「そう?むしろ僕からすると、君は慎重になりすぎてるんだと思うけれど……」
そうだろうか?テーブルをぎこちなく行き交う砂を、てのひらで掬いあげてみる。ひんやりと冷たいそれは、相変わらず俺の魔力を無視してさらさらと指のすきまをこぼれていった。ファウストは俺を善いもののようにいってくれるけれど、俺はいつだって自信がない。いつだって、罷り間違って生まれてきたような気がしてしまう。きっと、だからだろう。俺が俺自身を手懐けられないでいるのに、心でつかう魔法がうまくいく筈がない。六百年、上澄みだけを取り繕って来たツケが、まさかこんなところで回ってくるとはおもわなかった。
「触れてもいい?」
と彼が訊くので、頷く。彼の手がてのひらに重なり、そこから魔力がながれこんでくるのが分かった。夜の海を照らす灯台の灯りみたいに、ファウストは俺を岸辺に誘った。促されて、もう一度呪文を唱える。あれほど儘ならなかった波の動きが、ゆるやかなものに変わった。テーブルの木目に、細く流れるような文字が浮かび上がる。
ファウストの細い指が、白白とひかる砂をそっとなぞった。
「君の」
穏やかな声が、いった。
「君のつかう魔法には、いつも少し躊躇いがある」
「……」
「わるいことじゃない。むしろ得難いものだよ。少なくとも、君のそういうところに、僕は何度も助けられてきた」
傍目には、耳障りのよい慰めに聞こえるだろう。けれど、ファウストがそんなもので生徒を甘やかす男ではないことを、俺はもう知っていた。だから、これは掛け値のない彼の本心なのだ。俺は隣に座る彼をじっとみつめた。彼のなだらかな横顔や、神経質そうな眼もと、耳のしたに浮き出たちいさな骨のかたちを。胸のおくがざわついて、息が苦しい。苦しいのに、ずっと味わっていたくなる。
俺はファウストが怖い。彼の誠実さや、ひたむきさや、傷を漂白せずずっと苦しみ続けているところ。そういうなにもかもが俺からは遠くて、いつだって怖くなる。それなのに、好きでいることをやめられない。だから、つい欲をだしてしまう。失望されたくない。期待して欲しい。やさしくしたい。傷をみせてほしい。矛盾する気持ちが波のように行き交って消えない。その狭間にあるものの名前を、俺は多分、知っていた。
「ファウスト」
俺が呼ぶと、ファウストはこちらに眼を向けた。
「あんたは、あるの?」
なにを、とは訊かない。けれどそれで充分だった。深い色の眸が、ふっと和らぐ。雨の音が、いっそう近くなった。硝子戸を滑る雨粒が、あかりを反射してかすかにひかる。
「あるよ」
ファウストがいった。悲しみを孕んだような声で。
それから、
「だから僕は、いつか報いを受けなければならない」
Noctambulant
夜摘みは長いあいだ、ムルとシャイロックだけの遊びだった。
別に、ことさら秘密にしていたわけではない。なにしろ小さな果樹園だったので、うっかり口にして彼の熱烈なファンに押しかけられても困る、という程度のことだった。(そういう分別のない人間を、彼は自分の城に招き入れたりはしないのだが。ムルを除いて)西の辺境にあるそれはシャイロックの所有するものだ。彼の一家が離散した時、手放さず残しておいた土地らしい。シャイロックはそこでわずかばかりのワインを醸造し、気まぐれに客に振る舞ったりしていた。そのワインは彼の眸のように赤く、口に含めば蜜が滴るほどに甘やかだった。客は皆その甘さに感嘆し、酔いしれ、口々にこの美酒の秘訣を訊ねた。最も、彼はあの美しい唇で微笑むばかりだったが。
ナイトハーベストは、深夜や早朝に葡萄を収穫することをいう。まだ気温が低いうちに収穫、醸造することで、糖度を安定させ、香りの複雑さを高めることができる。彼は葡萄園を所有した時から、その手法を取り入れていた。最初のうちは人をつかったりしていたそうだが、ムルがそこに招かれた時から、毎年収穫は二人だけで行うようになった。遊びのルールはたった一つ。収穫に魔法は使わない。愚直に、肉体だけを使って行う。どちらがいい出したことだったか、ムルはもう覚えていないが、少なくともこのルールが破られたことはない。筈だ。なにしろ月にたましいを砕かれた数年間の記憶がないので、その間のことはなんともいえないが。まあ概ね、間違ってはいないだろう。シャイロックは自分に科したルールに背くことを嫌う。自分が敗北を楽しむのはいいが、敗北を強いられるのは厭なのだ。そういうところが面倒で、いじらしいようで、面白い、とおもう。もちろん、口には出さないが。
***
月が空の高い場所にのぼりはじめたころ、カインが箒を駆って姿をみせた。
「お招きありがとう、シャイロック、ムル」
彼は身軽な所作で箒から飛び降りると、優雅な仕草で手を差し出した。パイプをひとくち飲んで、シャイロックがその手を取る。
「遠いところをようこそ。お疲れではないですか?」
「全然!昨日から楽しみにしてたんだ」
少年のように快活な笑みでいう。王室付きの騎士になっても、そういう時の表情は魔法舎にいた頃と変わらないままだ。
「他の奴らは?」
「南の方々はそろそろ。シノとヒースもじきに来るでしょう。あとは……」
指折り数える間に、次々と人が集まり出した。箒から降りる彼らに、カインが次々と手を合わせて行く。ルチルは久々に会えたヒースに嬉しそうに駆け寄っていった。ミチルとヒースはカインから中央の話(主にリケや、アーサーのこと。時々訪れるオズの話も)を聞いて盛り上がっている。クロエはラスティカの演奏会が終わってから合流するらしい。この葡萄園に、これほどの魔法使いが集まるのははじめてのことじゃないだろうか。ムルは空中をくるりと回って見せた。なんだか愉快だったのだ。
「きみは相変わらず、若い子の我儘を聞くのが好きだね」
フィガロがシャイロックに近づき、そっと耳打ちする。
「いけませんか?」
「いいや。君らしいとおもってさ。俺がいくら強請っても招待してくれなかったのに」
ことの発端は、アーサーの戴冠式だった。彼のために特別なものを贈りたいと、カインがいいだしたのだ。それで、シャイロックの葡萄園で収穫した葡萄から、特別なワインを作ることにした。どうせなら収穫から一緒にしたいといわれ、今夜こうして彼らを招くことになった。これが北の双子からの頼みなら、彼は決して頷かなかっただろう。そういう意味では、フィガロのいうことは正しいといえる。彼は基本的に、自分の膝で甘やかせる若くてみずみずしい生き物が好きなのだ。
シャイロックはゆったりと首を傾げる。
「夜摘みは過酷ですから。フィガロ様のお身体に障るかと思いまして」
「それ、俺が歳だっていってる?」
「歳でしょう、あなたも私も」
だから、と甘やかな流し目を若い彼らに送る。
「彼らを招いたんですよ。甘えていただけるうちは、存分に甘やかして差し上げなくては」
シャイロックの肩に頭を傾けて、ムルがいう。
「ねえねえ、じゃあ俺は?」
「あなたはもう十分に甘やかして差し上げているでしょう」
「俺はまだ足りなーい!」
「全く……」
猫のように喉を鳴らすと、彼の指があやすようにそこを撫でた。一連のやりとりを見たフィガロが、うんざりしたようにため息を吐く。実際、ムルを甘やかすことにシャイロックが甘えていることも多々あるのだが、今夜のムルは賢明にもそれを口に出さなかった。いえば夜摘みどころでなくなるのは眼にみえている。倫理と情動を月に差し出してしまった男にだって、年若い王への贈り物を台無しにしてはならない、という配慮くらいはあった。
「そういえば、ファウスト達はまだか?」
ふと顔をあげたシノが、こちらに向かって訊ねた。
「君たち、一緒じゃなかったの?」とフィガロがいう。
「俺たちはお迎えに行きたかったんですけど……」
ヒースの言葉じりをさらって、シノがふん、と鼻を鳴らす。
「領主のお忍びの邪魔になるだろうから先にいけ、だとさ。水臭いよな」
彼はそういったが、不満に感じているわけではないようだった。今やブランシェットの領主と付き人であるヒースとシノがここまで来るだけでも大変な苦労なのだから、ファウスト達が遠慮するのも無理はない。彼らもわかってはいるのだろう。それでも水臭い、とこぼしてしまうのは、きっと寂しいからだ。
月はもう中天に差し掛かっていた。夜が深くなるほどに気温は低くなり、吐く息が白く濁る。シャイロックは取り出した懐中時計に眼をやった。それから、顔をあげて辺りをみわたす。
「先に始めましょうか。彼らも私たちに待たれていると居心地が悪いでしょうから」
黒塗り門には重たげな錠前がかかっていた。シャイロックの白い手が、古びた鍵をそっと開ける。
ぎい、と錆びた音がして、中から蒸せ返るような果実の匂いが漂った。
シャイロックがこちらを振り返し、優美な手つきで差し招く。
「ようこそ。ナイトハーベストへ」
***
夜の果樹園は眠るように静かだった。森のほうから、時々狼の鳴く声がする。産業化が進み、自然な土地の減った西の国では、珍しい光景だった。シャイロックから少し手順を教わり、あとは思い思いの場所で果実を収穫する。ムルは鼻歌を歌いながら、園の奥へ駆けて行った。小さな葡萄園の最奥は石垣の一部が少し崩れていて、そこから森の木々や、隣に並ぶ薔薇園の薔薇がよくみえた。まだたましいが砕ける前から、ムルは必ずそこで夜摘みをすると決めている。月がいっとう美しく、眩しくみえる場所だから。
開けた場所に籠を置き、両の手を広げて息を吐いた。それから眼を閉じる。ここでみる月を、ムルは殊更気に入っていた。空気が青く、冴え冴えとしていて、夜気と自分のさかいが少しずつなくなっていくような気がする。夜気と融けあった手足なら、月にも届くようにおもえるのだ。
「ムル?」
ふと、知った声が聞こえた。眼をあけると、融けた筈の手足が戻ってくる。それにまじまじと眼を落としていたら、背後の茂みががさり、と音をたてた。崩れた石垣の間から、ネロが顔を出す。
「お前さん、こんな所で何してるんだ?」
「それはこっちの科白じゃない?」
ムルは猫のように眼を細めた。ネロは辺りをみわたし、あー、と声をあげる。
「悪い。やっぱこっち入り口じゃなかったよな」
「ここが廃墟だったら、その可能性もあったけどね」
「だよなあ……」
泥棒みたいな真似しちまった、とネロが肩を落とす。ムルはおもわず笑った。だってそうだろう。実際泥棒だった癖に、今更そんなことを気にするなんて、可笑しい。とはいえ、彼のそういう矛盾と屈折したところを、ムルは案外気に入っていた。
ネロの背中に周りこみ、しゃがみ込んで眼をあわせる。
「久しぶりだね。ファウスト」
月をみあげていたファウストが、ムルの方に眼をやった。体が冷え切っているのか、肩にネロの上着をかけられている。すみれ色の眸に情動らしいものはない。けれどムルはまるで気にしなかった。情動などなくても愛も言葉も交わせる。自分がそうしたい、と思うのなら。
「シャイロックって、どの辺にいるかわかるか」
ネロが訊いた。挨拶にでも行くつもりなのだろう。
「わかんない!今夜はお客様が多いから、醸造所のほうにいるかも」
「そうか……」
月光を浴びながら、ムルは葡萄棚の下を歩いた。熟れた葡萄を選わけ、鋏で摘みとる。枝を離れた瞬間、果実がより一層濃く、鮮やかに香った気がした。ファウストがその後を不思議そうについてくる。葡萄の収穫が、珍しいのかもしれない。子供のような頼りない足取りを、ムルは興味深くみつめた。
この子供は、一体なんだろう。
「ねえ」
崩れた石垣の前に、ネロが立ち尽くしていた。声をかけると、訝しげにこちらをみる。夜気で濡れた髪が、普段よりいっそう青く、透けるようでさえあった。金色の眸が、酷く暗い。
「後ろめたい?」
「……」
「俺にはそうみえるけど」
ネロの顔が強張り、その後吐き捨てるように笑った。
「人の内面をあけすけに語るなよ。学者ってのはそんなに偉いのか?」
「権威の有無は関係ないよ。ただ俺が知りたいだけ」
摘みとった果実をファウストに差し出すと、遮るようにネロが手を伸ばした。丁寧な手つきで籠に入れる。こんな時でも、食材を疎かにしない彼が可笑しいような、痛ましいような、不思議な気分になる。
「じゃああんたはどうなんだ」と、ネロがいう。
「あんたは自分がムルだっていえるのか」
ムルは眼をみはった。驚いた、といってもいい。波風がたつのを厭うこの男から、こんな刺々しい言葉を聞くとは思っていなかったのだ。なんだか愉快になって、おもわず口笛を吹く。
可哀想なネロ。俺の問題と、ファウストの問題は、一緒にはなりえないのに。
「俺はムル・ハートだよ」
摘みとった果実を口に含んで、ムルはいった。
「シャイロックが、そう望んで俺を作りあげた。だから、俺こそがムル・ハートだ。例えつぎはぎだらけのゴーストだとしてもね」
ネロは今度こそ言葉をなくした。ムルの足もとにいたファウストが、彼の方へ駆け寄っていく。ネロの手が、その身体をそっと抱きあげた。縋り付くような手つきだった。それはほとんど、祈りのようでさえあった。
「ねえ、ネロ」
ムルは酷く優しい顔で微笑んだ。翡翠のような眸が、月光を受けてきらめく。
「さっきの君の問いかけに、ファウストはなんて答えるだろうね」
***
ムルは知っている。
紅茶のカップを覗くように、浅瀬の海を眺めるように、あらかじめなにもかも分かっている。
「マナ石に寄生したプランツが、石の記憶を保持することはあるか?」
珍しい来客だ、とムルは眼を眇めた。ファウストはこちらをみようともせず、壁を取り囲む書棚を眺めている。断崖にたつ天文台に灯りはなく、星の輝きだけが辺りを照らしていた。
「面白いことを聞くね。プランツを育てる予定が?」
「僕が育てるわけじゃない」
暗がりのなかで、ファウストの横顔はいっそう青く翳るようだった。へえ、と頷く。いくつもの可能性が、脳裏を星のように駆けめぐった。謎をかけられれば、解かずにはいられない性分だ。
「あんまりおすすめはしないね」
学術書の積み上げられた書斎机に腰かけて、ムルはいった。
「記憶を保持することは、たましいの証明にはならない。そもそもあれは人形だよ。君に耐えられる?自分以外の誰かにたましいを所有されることを」
ファウストは初めてこちらをみた。眼鏡のおくの眸が、暗がりで瞬く。それから、小さく苦笑した。
「ネロは僕を所有したりしないよ」
「所有されたい?」
そういっているように聞こえた。だが、ファウストは首を振る。
「僕は誰も所有しないし、誰にも所有させたりしない」
「だったら……」
いいかけた言葉は、夜のなかに途切れた。開かれた窓から、月のひかりが射しこむ。白銀の輝きが、埃の積もった床をやさしく撫でて行った。
「欲しいものが、あるんだ」
「イかれてるね」
ムルは笑った。
「でも、そういうの嫌いじゃないよ」
今夜は、うつくしい満月だ。
夜(5)
冷たい夜の庭に、ファウストが立っていた。
冬の、一等深い季節のころだった。嵐の谷のそこかしこに雪が降り積もり、あらゆる生き物は眠りについていた。あまりに眠りが静かなので、吐き出した息のおとさえ聞こえないほどだ。庭のマロニエにも雪が積もっていた。細い枝にまといつく白は、まるで咲き初めの花のようだ。その枝のしたに、ファウストが佇んでいた。冬のさなかだというのにカソックだけの薄着で、袖口から覗く手足がやけに白い。月光がつくる翳りが、彼の横顔に落ちる。そのせいだろうか。庭にいるファウストの姿は、細くたなびく煙のようにみえた。あるいは掴みそこなった灰や、うち捨てられた花の残骸。暗い部屋のなかから、俺はその姿をじっとみつめた。
「もしも」
ファウストがいった。
「もし僕が石になった時は、この谷に埋めてほしい」
「……」
「もちろん、そうならない様に努力はするつもりだけれど」
「縁起でもない話だな」
俺はわざと軽口めいた調子でいった。石になるつもりなのか、とは訊けなかった。訊いて、彼が頷いてしまったら、俺にはなす術がない。都合のいい逃げでしかないとわかっていた。やがて来る嵐から眼を背けて、水際で遊んでいるようなものだ。わかっていて、どうすることも出来なかった。……いや、違う。俺はなにもしなかった。ファウストの傷に触れることも、秘密をうち明けてくれと迫ることも、何も。俺はなにもしようとせず、何も変わらないまま、それでも事態が好転することを望んでいた。そんなこと、叶う筈がないのに。
「ファウスト」
月明かりに眼を灼かれながら、俺はいった。
「あんたは今、何を考えてる?」
ファウストは振り向いて微かに笑った。笑って、そうして、
「……」
その時彼がいったことを、俺はどうしても思い出せない。
***
秋がすぎ、冬が近づくと、ファウストはいよいよ眠るばかりの日々が多くなった。
日中は二階の窓辺で安楽椅子に保たれ、光を吸いこむように眠っている。そうして夜が深まった頃、ようやく起き出して、わずかばかりのミルクと砂糖菓子を食べ、また眠る。シーツにくるまって日がな一日眼を閉じている様は、まるで本当に人形のようだった。とはいえ、起きている時のファウストはこれまでと変わらない。相変わらず言葉は話さないが、意志の疎通ができないわけではないし、意識もはっきりとしているようだった。
俺は彼が眼を覚ましている間、ファウストをできるだけあちこちへ連れ出した。うまくいえないけれど、このまま二人だけで過ごしていたら、ファウストの存在がどんどん希薄になっていくような気がした。
人気の少ない植物園や蚤の市、最近西にできたというトーキー、シャイロックの酒場。ラスティカが劇伴をてがけた舞台の地下劇場……。俺たちは色んな場所へ行った。時々は帰り損ねてその辺の安宿に泊まり、気ままな旅になることもあった。ブランシェットの方へは足をのばさなかった。夜摘みの時も結局顔を合わせないままだったし……、ファウストのことを、どう話せばいいのかわからなかった。結局、俺はまた逃げている。水が低い方へ流れるように。そこにある問題に眼を伏せて、日々をやり過ごし続けている。
俺の手紙を受け取ったからか、ある日フィガロがふいに店を訪れた。ちょうど昼の時間を終えて、クローズの看板を出しにいくところだった。とりあえず二階の客間に通す。食事をしてもいいかと訊くと「俺にも出してよ」というので、ありあわせのもので遅い昼食をとることになった。
「そこまで深刻にならなくてもいいとはおもうけど」
安楽椅子で眠るファウストを軽く診察して、フィガロがいう。
「前もいったけど、彼らは植物だからね。季節に左右されるのはある程度仕方のないことだよ。何か深刻な病気というわけじゃない」
「……」
「俺が信用できない?」
パスタをフォークに巻き付けながら、フィガロが首を傾げた。(チーズと黒胡椒が多めのボロネーゼだ)俺はおもわず肩をすくめてみせる。
「できない…っていわせる気ないだろ、あんた」
「そうでもないよ。今じゃもう、俺は本当にか弱い南のお医者様だし」
なんでもないことのようにいうので、俺のほうが言葉に詰まってしまった。フィガロのいうことは正しい。今の彼に、世界を滅ぼすような力はもう残されてはいないのだろう。それでも彼を恐れるのは、拭いきれない本能のようなものだ。ハンカチについた染みのように、取り除くことの出来ない獣のような本能。北で生きた頃の名残。
「強いていえば」
ふと、おもいだしたように、フィガロが口を開いた。
「プランツの健康状態は、持ち主の精神に左右されるって話は文献で読んだことがある」
「……」
「持ち主の定義は色々あるけれど……、大抵は、最初に花を摘んだものを主人と認めるらしい。つまり、今のファウストからすれば、君のことだね」
俺は黙ってフォークを口に運んだ。使い慣れたはずのカトラリーが、鉛のように重たく感じる。普段通りの手順で作ったはずだが、まるで味が感じられなかった。冷えたソースが泥のように重たい。
長い足を組み替えて、フィガロがこちらをみた。
「聞いてもいいかな」
厭だ、といわせるつもりはない癖に、上辺だけは穏やかにいう。
「君はあの子をどうするつもり?」
眼だけをのろのろとあげて、答える。
「どう、って?」
「決まってるだろう」
フィガロが笑う。
「飼い殺しの猫みたいな真似をしてまで、君はあの子から何を欲しがってるのかってこと」
灰と緑の眸が微かにひかる。フィガロは微笑んだままだ。それでも、その視線からは腹のうちを探るような冷えた気配が感じられた。
唇から、乾いた笑いがこぼれる。
「何も」
俺はいった。
「これ以上欲しいものなんか、俺には何もないよ」
***
予感が、あったのかもしれない。
ファウストの石をみつけた時、俺はぼんやりとそんなことを思った。まだ雪解けの残る春の最中だった。谷のあちこちにまだ雪が残っていて、まだらになった土からかすかに緑の気配が感じられた。その、緑のあわいに、彼のマナ石は静かに散らばっていた。いつか彼が話してくれた、プランツの花の群生地だった。俺は何度も躊躇い、手間取り、酷く長い時間をかけて、それをひとつずつ拾い上げていった。頭が真っ白で、うまく考えることができない。それなのに、神経はいやに冴え冴えとしていた。
ああ、嵐が来てしまった。俺が水際で逃げ続けていた嵐が。
「……」
石は冷たく、滑らかで、ひかりを透かして時々ばら色に染まる。海辺であらわれて角の擦り減った、小さな貝殻みたいだった。石を拾いながら、俺はいつかの夜のことを考えていた。埋めてほしい、と告げた、ファウストの、静謐な眼差しや、声の確かさを。生への自棄や憎しみは感じられなかった。そこにあるのは、どこまでも彼らしい、清潔な意志だけだった。
光の溜まった石の表面を、乾いた指でそっと撫でる。
俺はその石を、ひときわ柔らかい土の下に埋めた。
「埋めていいのか?」
どこからか、慣れ親しんだ声がする。ベルベットのような低く豊かな声。その声でネロ、と呼ばれるのが好きだった。なにも聞こえないふりをして、土を掘り進めていく。
耳もとで、ブラッドが笑う気配がした。
「その石は、お前の孤独を永遠にしてくれるかも知れないのにな」
***
眼を開けると、暗い天井がみえた。
心臓が痛いほどに脈うち、息が荒い。獣のような声が、部屋に響くのがわかった。呼吸を落ち着かせようと深く息を吸う。手足が重い。海からあがるようになんとか身を起こす。そうしてしばらくじっとしているうちに、ようやく辺りをみわたせるようになった。灯りの消えた室内はまだ冷たい夜気に満ちている。握り込んだシーツの白さ。そこに、小さな翳が映りこむ。
「……先生?」
寝台のすぐそばに、ファウストが佇んでいた。窓からさす月光を背に、こちらを見つめている。寝床からそのまま出て来たのか、肩に流した髪が解けかけていた。いつからそこにいたのだろう。俺は慌てて起き上がり、椅子に引っ掛けたままの上着を彼の体にかけた。
「起きてくるなんて珍しいな。何かあった?」
「……」
「もしかして、俺のこと心配してくれた?なんて……」
半ば冗談のつもりだったが、彼は素直にうなづいた。俺はおもわず言葉を失う。それから、つい、笑ってしまった。そうだ、ファウストはこういう男だった。こちらが気後れするくらい真面目で、いつだって衒いがない。労りを示すことも、愛情をさし出すことも。
夜風に窓が軋んで音を立てた。少し開いたそこから、湖がみえる。夜を映し取ったような黒と青の混ざる水面に、明るい月がかかっていた。
「……なあ、ファウスト」
ほつれた髪をなおしてやりながら、俺はいった。
「ちょっとだけ、俺と夜更かししてくれる?」
櫂を漕ぐと、水面にさざ波ができた。夜会服のドレスで踊るように、それはどこまでもゆったりと広がっていく。湖畔にあるボートは俺たちが暮らしはじめた頃からあるものだが、朽ちたところもなく綺麗なものだ。以前灯台で暮らしていた誰かが、丁寧に手をいれて使っていたのかも知れない。滑るように船着場を離れ、湖の真ん中へ漕ぎ出してゆく。
灯台で暮らすようになってしばらく経つが、湖畔にでたことはなかった。いつでも行かれるとおもうと、却って億劫になるものだし、なんとなく今のファウストを水辺に近づけていいものかわからなかった。水に、呼ばれるんじゃないかという気がして。
「寒くない?」
水に遊ばせていた手を引きあげて、ファウストが首を振った。日に焼けない頬が、冷気でばら色に染まっている。真夜中で気温が低いせいか、森の方からかすかな霧がたちこめはじめていた。持ってきたバスケットからポットを取り出して、ホットミルクを差し出してやる。
「揺れるから気をつけろよ」
カップを受け取りながら、ファウストは少し眉を顰めてみせた。子供のように扱うな、といいたいらしい。そうはいってもなりだけみれば子供なのだから仕方がない。俺はちょっと笑って、自分のカップに珈琲を注いだ。それから、ブランデーを少し。もし以前の彼なら、悪い生徒だな、と揶揄かったことだろう。それから、自分も、とカップを差し出したのに違いない。けれど今夜のファウストはなにもいわなかった。ただ黙って、遠くの水面を眺めている。
どうしてだろう。そんな些細なことが、今夜はやけに胸に迫った。
「ファウスト」
すみれ色の眸が、こちらをみて瞬いた。
「俺はー……」
吐き出す息が白く、震える。
甘やかで濁りのないものだけを、愛だと呼べたら良かった。
そうしたら、俺はもっとましな花向けをあんたにしてやれただろう。あの明るい庭に石を埋めて、別れを告げて、美しいものだけをあんたに残せたかも知れない。そうしてやることこそが、きっと愛だった。あんたのたましいを尊重して、そのみちゆきを祝福してやることが。だけど、俺はそうしなかった。俺がしたのは花を摘むことと、あんたをこんな寂しい場所へ連れてきたことだけだった。真綿で包むように所有して、奉仕して、やさしくした気になっているだけ。いつか、オーエンがいった通りだ。こんなのは呪いよりもっと悪い。わかっている。わかっていて、それでも選んだ。……いや、違うな。きっと逆だ。ファウストのいない日々を、俺は選べなかった。例えどこへも行けない船のようにしかなれなくてもいい。彼の人生のそばに、少しでも長く、俺を置いて欲しかった。そうしてそれを、永遠だといって欲しかった。
好きだった。
好きだった、いっそどうしようもなく。愛や情にはできないほど。
あんたを天国から遠ざけたのは、きっと、俺だ。
夜にたちこめた霧が、水面を滑り、ボートのなかにまで忍び入った。神様の手にかくされて、一瞬、眼前に座るファウストの姿さえみえなくなる。乳白色のぼんやりとした翳りの中で、月のあかりだけがぼんやりと明るい。
ふと、懐かしい気配がした。甘い花のなかに混じる、薬草と煙の匂い。
「……ファウスト?」
答えはない。代わりに、手が、伸ばされた。冷たい手だった。夜明けの空気にさらされた水みたいに。その手は俺の耳もとをなぞり、それから、頬のうえをそっと滑っていった。それが誰のものか、手袋をしていなくても、わかる。
「どうして……」
訊きたいことはたくさんあった。話したいことも。けれどそれらはなにひとつ形にならず、湖畔に吸い込まれていく。霧はますます濃くなり、その指先さえ輪郭をなくしてしまいそうだった。俺は咄嗟にその手を掴もうとした。けれど伸ばした手はなにも掴めないまま、空を掠める。
不意に波が高くなり、船縁をぬらした。
月が、眼に痛いほど、眩しい。
「馬鹿だな」
霧の向こうで、誰かの笑う声がした。
「君は僕を、憎んだって構わなかったのに」
***
冷たい夜の庭に、ファウストが立っていた。
冬の、一等深い季節のころだった。嵐の谷のそこかしこに雪が降り積もり、あらゆる生き物は眠りについていた。あまりに眠りが静かなので、吐き出した息のおとさえ聞こえないほどだ。庭のマロニエにも雪が積もっていた。細い枝にまといつく白は、まるで咲き初めの花のようだ。その枝のしたに、ファウストが佇んでいた。冬のさなかだというのにカソックだけの薄着で、袖口から覗く手足がやけに白い。月光がつくる翳りが、彼の横顔に落ちる。そのせいだろうか。庭にいるファウストの姿は、細くたなびく煙のようにみえた。あるいは掴みそこなった灰や、うち捨てられた花の残骸。暗い部屋のなかから、俺はその姿をじっとみつめた。ファウストはこちらに背を向けたまま、暗がりに眼をやっている。森に続く道の向こうは、いつか二人で話した花の群生地だ。マナ石に寄生する花。そうして生まれたプランツは、ごく稀に、石の記憶を引き継ぐことがあるらしい。
ふと、ある可能性が頭をもたげた。
「なあ」
俺の声に、ファウストが振り返る。
「なに考えてる?」
「君こそ」
「質問に質問で返すのやめろっていったの、先生じゃんか」
ファウストは珍しく声をたててわらった。夜の庭に、柔らかな声が満ちる。そのままいつまで経っても答えないので、俺は焦れてその腕を掴んだ。
青い月光が、彼の横顔を映しだす。
「ネロ」
ファウストが俺を呼んだ。
「笑ってくれ」
「……」
「僕が石になったら、どうか笑ってくれ。君になら、僕の四百年の孤独を笑い飛ばされたって構わない」
「……難問だな」
「そう?優しすぎるくらいだとおもうけど」
吐き出した声は、かすかに震えていた。空いた方の手が、髪にふれる。薄いてのひら。この手が熱を持つ瞬間を、俺は知ってる。失ってしまえば、いつか、それも忘れてしまうんだろうか。彼の低い笑い声も、柔らかな眼差しも。俺を叱りつける時の表情も、すべて。波にさらわれる砂みたいに。なす術もなく。
「俺、あんたのこと恨むかもよ」
「僕は呪い屋だよ。憎まれるのなんか慣れてる」
「そうじゃなくてさ……」
髪から腕へと移動して、彼の手が、最後に俺の背をそっと引き寄せた。抱擁とさえ呼べないような、遠慮がちな手つき。それがどうにも彼らしくて、何故だか胸が痛む。笑ってもいい、だなんて、よくいう。もし俺が本当にそうしたら、あんた、きっと睨む癖にさ。でも、それでもよかった。睨んで、嗜めて、呆れてもいい。頭ごなしに叱りつけたって構わない。だから、あんたのいない場所で笑えなんていうなよ。なあ、ファウスト。
「わかってる」
「……」
「わかってるよ、ネロ」
触れあったところから、穏やかな声が、胸の内側にひびいた。ファウストがかすかに身じろぐ。俺の肩に額を押し付けて、彼が眼を閉じた。睫毛の先が月光に透けて眩しい。
涙が出そうだ、とおもったのは、きっとその眩しさのせいだ。
「それでも、」
僕の花を摘むのは、いつだって君だけであってほしい。
告白
あなたは海になりなさい。
初めて人を呪った時、僕は祖母の言葉をおもいだした。
僕の生まれた村は緑の豊かな山あいだったけれど、彼女は海辺の街で生まれたらしい。潮騒を聞いて眠った話をいつも聞かされて育った。海は祖母にとってちちははであり、神であり、祈りであり、罰であったりした。
夜更けにかすかな灯りで手仕事をしながら、彼女は僕にいつも同じ話をしてみせた。
あなたは海になりなさい。ファウスト。いたずらに誰かを呪うのではなく、いつも正しい怒りを抱ける人間でありなさい。
その時の祖母の、いやにしんとした横顔を覚えている。灰がかった眸の静謐さも。けれど、幼い僕には彼女の真意はよくわからなかった。隣人を愛せという意味だったのか、憎しみを捨てろという意味だったのか。多分、今でも分からない。ただ、ひとつはっきりしていることは、僕は彼女のいいつけ背いたということだった。それも、永遠に。
呪いは火に似ている。ひとつ火をつければ、次々に燃え移り、もう後戻りはできなくなる。
僕が最初に火をつけた時、アレクはすでに死んでいた。死者を呪うことに果たして意味はあるのか、といわれれば、難しいところだ。なにしろ、地獄は眼にみえないので。けれど、僕はそうせずにはいられなかった。そうでなければ、耐えられなかったからだ。彼の死に間に合わなかったのだ、ということに。彼が生を謳歌し老いてゆくまでのあいだ、なにも出来なかった自分に。
はっきりいって、碌な出来ではなかった。あの頃の僕は雨が降るたびに痛む手足を持て余していたし、およそ理性的な思考ができる状態じゃなかった。いまにも散り散りになりそうな花を、なんとかひとつのブーケにおしこめているようなものだった。破綻していたし、壊れていた。そんな状態でかけた呪いが、どこまで正しく機能するかは半信半疑だった。けれど、呪いは静かに受け継がれていった。アレクの子供からその子供へと、まるで祝福の魔法のように。僕はそれを、嵐の谷でただ眺めていた。呪いが機能しようと、しまいと、どちらでもいいことだった。なにも期待してはいなかったし、なにも欲しくはなかった。今更、彼の子供たちが不幸になったからといって、どうだというのだろう。それで僕の傷が贖われるわけじゃない。わかっていたのに、呪いを浄化することも出来なかった。まだ僕は、あの男を憎めるのだ。そうおもうことで、なんとか自分を保っていられた。僕は海にはなれない。彼女のいう正しい怒りは抱けない。僕に残ったのは果てのない憎しみと虚しさ、それだけだった。
あの頃、僕は燃え殻の灰だった。
***
「随分、早いんだな」
まだ暗い庭を眺めていると、後ろから声をかけられた。2階から降りてきたネロが、少し眠そうな眼をしてこちらをみる。夜明け前の一番暗い時間だ。居間のソファでは精霊が猫の姿のまま、背中を丸めて眠っている。庭からみえる東の空には、まだ薄い月が残っていた。
「眠れなかった?」
「そういうわけじゃないよ」
裸足で歩く音がして、彼が僕の隣に近づいてくる。寝起きできちんと整えられていないせいか、のびた前髪が少し跳ねていて可愛い。僕がそれに笑うと、ネロはちょっと罰の悪そうな顔で髪をいじった。彼のそういう、思春期の少年みたいな仕草をみるのが好きだ。微笑ましくて、いじらしくて、ついなんでもしてやりたくなってしまう。
「君こそもう平気?」
「すっかり。迷惑かけちまって、ごめん」
夜から明け方にかけて、ネロは少し熱を出していた。昨日辺りからなんとなく調子が悪そうだったので気になっていたのだけれど、今の顔色はそれほど悪くない。明け方に飲ませたシロップが効いたのかも知れない。気にしなくいいと答えると、ネロは何故だか少し気まずそうな顔をした。
「どうかした?」
「あー、いや……。先生さ、水差しのみず変えにきてくれた?」
「ああ……」
明け方、一度だけ顔を出した。様子が気になっていたから。ついでに冷えた水に取り替えて、風邪よけのシロップを飲ませた。熱が出ていたし、半ば眠っているようにみえたから、まさか覚えているとはおもわなかった。
「起こしてしまったなら、すまない」
ネロは慌てたように手を振った。
「違う、違う。そうじゃなくて、なんか……」
「?」
「すごくよく眠れたからさ」
笑うネロの横顔が、夜明けのひかりに晒されて、金色に滲んだ。小麦色の瞳が、不思議な明るさを湛えて僕を映す。明るいのに、寂しい。その寂しさは、多分、彼のたましいそのものだった。傷ついていて、歪んでいて、すべてを諦めている癖に、誰かに触れてほしいと願っている。その眼が、今、僕だけをみていた。胸を浚ったのは、ほとんど衝動だった。心をあけ渡して欲しいのじゃない。秘密をうちあけなくてもいい。ただ、この、やさしくて臆病な男の眠れる場所が、僕だけであったらいいのに。そう、おもってしまった。おもってしまったら、もう、駄目だった。雷に打たれたように立ち尽くす僕の顔を、ネロは不思議そうに覗きこむ。ばら色に白んでゆく空が、彼の背中ごしにみえた。
もし僕が、ほんのわずかでもきみを安らかにすることができるのなら。
僕の望みは、たったひとつだけだ。
「眠っていいよ」
僕はいった。
「どうか僕の隣で眠って、ネロ」
***
群れをなす花が、足元でうつくしく咲き誇っている。谷の奥まった場所にあるそこは甘い匂いがたちこめ、緑の木々の合間から青白い月光が差していた。いつも猫の姿で後をついてくる精霊たちも、この場所にはあまり寄り付かない。一等鮮やかに咲く花の根もとに膝をつき、手をあわせる。精霊でも花でも、礼尽くす時は同じだ。供物を捧げ、頭を低くして、土地を借り受けることを告げる。
呪いを解くことができるのかは、正直わからなかった。なにしろ、四百年以上まえにかけた呪いだ。手順もなにもかも曖昧だし、あまりに長い時間、僕自身がそれに心を寄せすぎていた。もし上手くいったとしても、たましいが耐えきれずばらばらに砕ける可能性もある。それでも手離そう、とおもったのは、彼と過ごしたあの夜明けのせいかも知れない。白々とあけていく空とばら色のひかり、その中で笑うネロの横顔。朝露に濡れた花の香り。そういう光景をみていたら、もう、いいのかも知れない、とおもったのだ。もう、火を絶やしてもいいのかも知れない。壊れてしまっても、呪わなくても。そういう生き方をしなくても、あの男を許したことにはならないし、幼い自分を裏切ることにはならないのだ。そのことに、今になってやっと、気づいた。
それに……。
あの朝、隣で眠ってほしいといった僕に、ネロは「凄い殺し文句」とわらった。それから、少し気恥ずかしそうな顔をして、
「あのさ、笑わないでよ」
そういわれると笑いたくなってしまう。馬鹿にしてるわけじゃない。ただ、わざわざそんなふうに前置きするネロが可愛くて。それでつい唇の端を緩めたら、ネロは「もう笑ってんじゃん」と拗ねたように唇を尖らせた。そうして、海の話をしてくれた。静かで、綺麗で、明るい海。熱を出している間、夢うつつにその波打ち際を歩いたこと。それが酷く幸福だったこと。
「でも、あそこにはあんたがいなかった」
肩口に手をやって、ネロがいった。金色の眸が、はにかむように滲む。
「俺は多分、あんたがいなくても生きていけるけど…。それでも、ここにあんたがいてくれたらいいのにって思った。我儘かな」
僕はおもわず笑った。我儘なんて、そんなこと。
「僕だって、そうだよ」
森の奥から、鳥の声がした。頭上で揺れる緑の葉が花のうえにかすかな翳を落とす。花を踏まないように慎重に立ち上がり、僕は呪文を唱えた。贈り物のリボンを解くように、ひとつずつ手順を踏んで呪いを解いていく。いつか灰になった僕がかけた呪いを。呪いを解いても、憎しみはなかったことにはならない。あの時灰になった僕は、もう二度とおなじ形を取り戻すことはできないだろう。僕は海にはなれない。正しい怒りなんて、きっと今でも抱けない。それでも、いいとおもった。許せなくても、憎んでいても、呪いを手放すことはできる。例え報いを受けるとしても。
そうして、呪いを手離した手で、今度こそ、
君に触れたい。
もう一度。
「ネロ」
春にしてきみを想う
二人が湖を訪ねたのは、春のさかりだった。
水辺には甘いひかりがいっぱいに立ちこめ、風はみずみずしい花の匂いを孕んでいた。旧ぼけた桟橋で水鳥が羽を休めている。灯台の向こうではミモザがいっぱいに花をつけ、細い枝が今にも水面に触れてしまいそうだった。「あの花をみると、ネロのサラダが食べたくなるよな」なんて、シノは子供の頃みたいなことをいう。だけどそれはヒースも同じで、要するに郷愁なのだろう。彼らといると、ヒースはいつだって魔法舎で過ごした十代の頃に引き戻されてしまう。こころがいつだって波うって、傷つきやすく、だけど色々なものから守られていたとわかる。あの、健やかで優しい日々のこと。
箒を降りると、ネロ達が灯台の入り口で待っていた。真昼の暖かい風に、彼の薄みず色の髪が揺れる。なんと声をかけていいものか、少し、迷う。
「久しぶり」
結局、当たり障りのない言葉になった。ヒースの言葉に、ネロは人好きのする顔でくしゃりと笑う。
「しばらく見ないうちに大人っぽくなったなあ。また背が伸びたんじゃないか、二人とも」
「流石にもう背は伸びないよ」
ふん、とシノが鼻を鳴らしていう。
「逆に縮んだやつもいるみたいだけどな」
ネロの隣にいた子供が、顔をあげて二人をみた。肩までのびたはしばみ色の髪と、折れそうな細い手足。少し憂鬱をはらんだような面差し。姿も形も変わってしまっても、その眸の色だけは、みなれたファウストのものだ。
重たいドアをあけて、ネロが二人を手招いた。
「まあ、入りな。長旅で疲れたろ」
一等大きな窓辺の席からは、湖畔の様子がよくみえた。水面を反射する煌めきが、硝子越しでも眩しい。桟橋に揺れる舟を眺めていると、ネロが紅茶とレモンケーキを出してくれた。砂糖衣のたっぷりついたレモンケーキは、魔法舎でネロがよくこしらえてくれたものだ。ヒースとシノが喧嘩をした時……特に、ヒースが後ろめたさを感じている時、彼は必ずこのケーキを出してくれた。母の作ったものとは違う。それでも、このケーキは今や二人にとって懐かしい思い出の味になっている。
「今夜は泊まって行けるんだろ?舌の肥えたお前さんたちには物足りないだろうけど、良ければ好きなもの作るよ」
フォークで刺したケーキを口に放りこみながら、やった、とシノがつぶやく。
「ならミモザサラダを作ってくれ。後は肉」
「シノはブレないねえ。酒は?」
「勿論飲む」
「はいはい」
テーブルに頬杖をつきながら、ネロが答える。こうして二人のやり取りを聞いていると、本当に魔法舎にいた頃に戻ったようだった。四人であちこちの任務に行ったり(賢者や時々は他の国の面々を加えて)、休みの日には嵐の谷に押しかけたりして。ファウストはその度に難しい顔をしたけれど、ヒースやシノが強請れば結局いつも折れてくれた。「お前さんたちが大事だから、照れくさいんだよ」とこっそり耳打ちしてくれたのはネロだったのだっけ。
そういえば、この灯台の空気は、嵐の谷に少し、似ている。
湖畔では、時々鹿をみかけるらしい。普段は森の奥で暮らしているけれど、春先にはよく湖の水を飲みにくるのだとか。濁りのない、豊かな新緑をばかりを食んで育っているから、肉に混じり気がなくて美味しいとネロはいう。それを聞いたシノはお茶もそこそこに狩りへ行くといい出した。「大物を期待してろよ」と片目を瞑ってみせ、慌ただしく店を出ていく。「相変わらず元気だねえ」とネロは苦笑した。シノがいなくなってしまうと、店内はたちまち静けさに包まれる。しんとした部屋に旧いレコードの音楽だけが流れた。
「ブランシェットの暮らしはどう?」
食器を片付けながら、ネロがいった。
「相変わらずだよ。俺はまだまだ未熟だから、色んな人に助けてもらってなんとかやってる」
「自分の未熟さがわかるのは、お前さんが成熟してる証拠だよ。ブランシェットの奴らは幸運だな」
「そうかな……?」
「そうそう。な、先生」
ネロの声に、ヒースの前に座っていたファウストが顔をあげた。すみれ色の眸と視線があう。なんとなくどきりとしていると、その眼がふいに緩んでかすかに微笑んだ。そうして、のばされた手がヒースの髪を撫でる。ひんやりとした指先は、記憶にあるものとまるで違う。それでも、いつか髪をなでられた子供の頃を、ヒースはおもいだした。それが永遠に失われてしまったことも。
「……連絡が遅れて悪かったな」
まるで雨垂れのような声で、ふとネロがいった。はっとして顔をあげる。こちらに向けられた背に、湖からのひかりがあたっていた。糊のきいたシャツの白さが眩しい。どうしてだろう。その眩しさに、何故か胸が痛んだ。
「いいんだ」と、首を振る。
「きっと、色々と大変だったんだろうなってわかるから。いつか、話せる時に話してくれたらいいよ」
「……大人になっちまったなあ、ヒースも」
そう、ヒースは大人になった。もう眠れない夜に怯えることはないし、シノとくだらないことで言い争ったりもしない。すべてを打ち明けられなくても信頼と友情は続くものだと理解している。そういえるほどには、大人としての時間を過ごしてきたつもりだ。もうヒースは子供ではない。魔法舎で大勢の魔法使いと暮らしながら、大人たちに守られていた少年ではない。
だけど、それでも、
寂しい。
寂しいよ、ネロ。……変わっていくことは、寂しい。
俺たちは魔法使いなのに、どうしてなにもかもを留めて置けないのだろう。どうして、寄せて返す波はいつも同じものじゃなくて、俺たちはそれを諦めなきゃいけないんだろう。二度と会えないものだけが、いつまでも胸の内に残り続けるのだろう。無力な子供のままでいたかったわけじゃない。大人になって手に入れることのできたものも確かにある。それでも、もう手が届かない日々の名残が、時々どうしようもなくこの胸をつかんで離さないことがある。嵐の谷の豊かな春。魔法舎の夜にネロが内緒で入れてくれたココア。授業の度に聞いた先生のしずかな声。二度と戻らない。
「ヒース?」
そういうことを、けれどヒースは口にしなかった。代わりに顔をあげて、にこりと微笑む。
「ねえネロ、シノが帰ってくるまで俺にケーキの焼き方を教えてくれないかな」
ネロが振り返って眼を丸くした。
「いいけど……突然だな」
「今年の誕生日、シノを驚かせてやりたくて」
「いいな、あいつきっと喜ぶよ」
鳥のような口笛を吹いて、キッチンの奥へ入っていく。その背中に、さっきの胸の痛みはもう感じなかった。後について行こうとヒースも席をたつ。不意に、細い手に腕をひかれた。驚いて振り向くと、ファウストがしずかにこちらをみあげていた。濃い睫毛の下で、すみれ色の眸がゆったりと瞬く。ヒースが何もいえないでいると、彼は黙ったままヒースの体を引き寄せた。小さな手のひらが、背中に触れる。甘い花の香りに混じって、かすかに薬草の匂いがした。懐かしい、嵐の谷の。
眼の奥が熱くなり、頬を涙がこぼれた。それに気づかれたくなくて、慌てて俯く。でもきっと、ファウストにはわかっていたんだろう。背中を撫でる手が、いっそう優しくなる。自分より小さなその体を、ヒースはそっと抱きしめた。
ここにいる彼らの日々が不幸だなんて思わない。だけど願ってしまった。もう一度、先生に名前を呼んでほしい。彼のシュガーが食べたい。揺るぎないあの声で叱ってほしい。一度だけでいいから。
ああ、俺はもうとっくに大人になってしまったのに、この人の前ではいつだって容易く子供になってしまう。
「ヒース」
キッチンの方から、ネロの呼ぶ声がした。洋燈の小さな灯りに照らされて、彼が笑う。
「どうかした?」
きっと彼は気づいているんだろう。気づいていて、何もいわない。それがネロの優しさだとわかっていた。だからヒースは、なんでもないよ、と答えた。ファウストから体を離し、それから小さく微笑む。
「なんでもないよ。ただ少しー……、眩しかっただけ」
水辺は真昼のひかりを反射して輝き、湖畔はうつくしい春に満ちている。