天国から花束 図書室に長椅子を持ち込んだのはシャイロックだった。深い臙脂のベルベッドがつかわれた品のいいやつで、猫足は滑らかな曲線をしている。凭れると心地がよく、ワインで酩酊したようなうっとりとした気分を味わうことができた。本を読むにはいささか不向きな気もするが、「だからですよ」とシャイロックは微笑む。
「うつくしい物語の余韻を味わうには、それ相応の寝床がなければ無粋というものでしょう」
それが正しいかどうかはともかく、魔法舎の連中は案外この特等席を好んだ。ムルをはじめとする西の面々は勿論、フィガロやアーサー、時々はミスラまでもがひじ掛けに長い足を投げ出して、猫のようにくつろいでいる。(先日はヒースがうたた寝をして、シノが可愛いとはしゃいでいた。)俺はといえば、居心地が良すぎると却って落ち着かない気持ちになるので、せいぜい遠巻きにみるくらいだ。綺麗すぎる水に魚はすまないと、賢者の世界ではいうそうだけれど、俺も似たようなものかも知れない。あまりに丁寧に心を尽くされたりすると、自分が不当に善意を搾取しているような罪悪感を感じるのだ。「損な性分だな」と笑ったのはファウストで、そうなんだろうなと俺もおもう。最も、そういう彼だってあすこに座っているのをみたことがないのだから、それはお互い様なのだけれど。
だから、酷く驚いてしまった。図書室で眠るファウストをみつけた時には。
「……」
格子窓の隙間から日がさして、室内は芒洋とした明るさに満ちていた。どこから入りこんだものやら、足もとには黒い猫が丸くなって、おだやかな寝息をたてている。辺りに人の気配はない。手にした本を円卓に置き、そっと長椅子に近づく。(子供たちにねだられた、北の流星雨でこしらえる焼き菓子のレシピを探していた)はしばみ色の髪のあわいから、薄い目蓋が透ける。ファウストはやはり気づかない。珍しいこともあるものだ。よっぽど、疲れていたんだろうか。顔色はそれほど悪くないようだけれど。
「眼鏡、邪魔じゃない?先生」
「……」
「なあって。……聞いてないか」
答えはない。少し迷ったすえ、そっと眼鏡を外す。それから、サイドテーブルに置いた。前髪がこぼれ、蝋のような白い額があらわになる。その眉間によった皺をみて、つい笑った。こんな時まで、難しい顔しちゃって、まあ。眠ってるときくらい、もっとましな夢をみたらいいのに。そういう俺だって、素敵な夢のみかたなんて知らないのだけれど。
厄災の傷のことを俺たちにうちあけた後も、ファウストは自室以外では眠ろうとしなかった。こぼれ出したゆめが人目につくことを危惧しているんだろう。無理もない。落雷や降雪のように、自分の一等やわらかな所がなす術もなく溢れ、しかもそれがほとんど永遠に続くのだ。俺だったらきっと耐えられない。けれどファウストは耐えている。正しくは、耐えようとして、そうできるように心を砕いている。それが海辺の砂を浚うようなあてのない行いだとしても、この男はきっと投げ出したりはしない。かなわないな、とおもう。ファウストのそういう所を、少しだけ、怖いな、とも。
長椅子に置いてあった毛布をかけてやり、軽く人払いの呪文を唱える。オズや北の連中相手じゃ気休めにしかならないが、ないよりはましだろう。眼が醒めたら、ついでにお茶でもいれてやるか。また、ファウストにはおせっかいだと笑われるかも知れないけれど。そんなことを考えつつ、窓際の椅子に腰をおろす。
レシピの頁をめくろうとした時、ふと、それに気づいた。
甘い、花の匂いがする。
「……ファウスト?」
顔をあげる。窓から入り込んだのか、すみれ色の花びらが足下に散らばっていた。花びらは床を転々とし、ファウストの眠る長椅子にまで続く。そこに、誰かが立っていた。ちいさな子供のようだった。はしばみ色の柔らかい髪に、きゃしゃな手足。うつむいていて顔はよくみえない。咄嗟に魔道具へ手をかける。敵意は感じなかった。けれど、ここまで気配をまったく読み取れなかったことが気にかかる。
さて、どう距離をつめたものか。と考えあぐねていると、少年がこちらに眼を向けた。
あ、とおもわず声がこぼれる。
その少年は、どこか懐かしい、すみれ色の眸をしていた。
***
そういえば、シャイロックに聞いたおぼえがある。この長椅子で眠ると、時々可笑しなことが起こるのだと。幽霊が足下を横切ったり、獣のすがたになってしまったり、不思議な情景をみたり。
「ムルの時は満月でしたね。恋焦がれた相手のすがたになって有頂天でしたよ。おかげでよい月光浴になりましたが」
と話すシャイロックの膝にはムルが頭を乗せてくつろいでいた。昼下がりの談話室には西の連中が集まっている。どうらやこれからお茶会を開くところだったらしい。シャイロックの長い指が、ムルの顎を撫でる。ムルは喉を鳴らすと、家猫さながらににゃあ、と鳴いた。
「あの時のムルは素晴らしかったね。金色のひかりがいくえにも折り重なって、一際うつくしいヴェールのようだった。クロエの衣装にさぞ映えただろうね」
「本当?でもそっか、昨日こしらえた外套につけたらとっても可愛いかも…!ムル、また月になってみない?」
「どうかな?なってみるかも?みないかも?恋人のご機嫌次第だね。なにせ月はシャイロックより気まぐれだから」
「おや、私を不実なように仰る」
「あのー……、」
豊かな紅茶の香りとともに交わされる会話に、おずおずと口を挟む。西の連中のそれときたら、まるで小鳥の囀りのようだ。あるいはダンスホールに響く靴音。軽やかでとりとめがなくて、どこへ行くか誰にもわからない。音楽がいつはじまって、いつ終わるのかも。楽しげな会話に水を差すのは気が引けたけれど、生憎いまはそれどころじゃない。
「つまり」
と俺はいった。
「今回みたいなケースは、まだ誰もお目にかかったことがない……ってことでいいか?」
ムル以外の三人が、一斉にソファーへ眼を向けた。俺の隣に座った少年は、さっきからシャイロックのいれたミルクを飲んでいる。細い、若木のようなつま先が頼りなく揺れ、絨毯に翳を落とした。癖のある髪は背中をやわらかにこぼれている。陶器めいた頬と、薄いくちびる。睫毛のさきが花びらのように薄く色づいている。
その横顔は、ファウストにとてもよく似ていた。
「シャイロック、どうかな?」
ラスティカが訊ねる。
「そうですね……、私が知る限りではなんとも」
「だよなあ……」
空になったカップを受け取り、ため息を吐く。なにかしらの呪いで子供の姿になったり、過去の情景がゆめとして溢れているのならまだわかるが、どうにも今回は違うように思う。なにしろ、生きているものの気配があまりしないのだ。それなのに、ふとした瞬間にファウストの魔力を感じることもある。確認してみようにも、肝心のファウスト自身はなぜか眼を醒さない。
「厄災の影響かなあ」
クロエが心配そうに首を傾げる。
「どうでしょう、むしろ……」
と、いいかけたシャイロックの膝からおもむろにムルが体を起こした。踊るような身のこなしで俺たちの前に着地する。浅瀬色の眸が爛々と光って少年を覗きこみ、それからいった。
「これ、ドールだね」
「ドール?」
「特殊な植物から精製される人形さ。持ち主の愛情によって変化したり退化したりするらしいよ。俺も実物は初めてみた」
「……その人形が、なんだって先生と同じ顔をしてるんだよ」
ムルはあっけらかんと笑って答えた。
「それはわかんない!」
「ああそう……」
おもわず肩を落としかけたが、まあ何もわからないよりはずっといい。自分のカップに口をつけながら、隣に眼をやる。少年はーーこの場合はドールと呼ぶべきか?ミルクを飲んだきり、身じろぎひとつしなかった。眼前に手のひらをかざしてみる。やはり、反応はなかった。こうしてみると、随分、現実味がない。出会ったころ、ファウストをみて随分存在の希薄な男だな、とおもったことを思い出す。まあ実際、死にかけて間もない頃だったのだから、無理もないのだけれど。感情とたましいの重みだけが、俺たちを生き物にするのかも知れない。では、ここにいるこれは一体なんだろう?ファウストとよく似た面差しをした、死んだように美しいこの人形は。
開け放した窓から蝶が迷いこみ、円卓の間をひらひらと彷徨った。そうして、ドールの耳もとでそっと羽根をやすめた。おや、とシャイロックが眼を眇め、クロエが声をあげる。
「素敵!とってもよく似合うよ、ファウスト」
それから紳士めいた身のこなしでドールの前に膝をつき、にこりと笑っていった。
「とりあえず、俺と庭に行ってみない?」
***
「ファウストの髪、ずっと編んでみたかったんだ」と話すクロエはご機嫌だ。ドールを抱いて歩く彼の巻き毛が、春の日差しをうけて紅茶色をいっそう鮮やかにする。眩しさに細めながら、俺はその後をついて歩いた。
「ファウスト……で、いいのかね、この場合」
「あ、ごめんなさい。勝手に呼んじゃって、俺無神経だったよね……」
慌てたように振り向くクロエに、気にするなと肩を竦めてみせる。
「どちらにしろ名前は必要だしな。仕立て屋くんがそう呼んでくれて良かったよ。俺は多分、迷って決めあぐねただろうから」
「ネロとファウストは仲がいいものね」
俺は答える代わりに軽く笑った。仲がいい、かは、どうだろう。微妙なところだ。というより、そういうのとは、少し違う気がする。ファウストに聞いたところで、きっと似たようなことをいうだろう。気安いわけではないのだ。むしろ、一緒にいればいるほど、お互いに慎重になるし、気をつかうし、躊躇いもする。でも、おなじだけ、親しみを感じてもいる。気の置けない関係に、必ずしも安堵と安らぎがついてくるわけじゃない。そのことを、俺は過去の失敗からよく知っている。そういう意味でいえば、ファウストとの関係は実に奇妙だった。すべてを明け渡せるわけじゃない。なのに、そこにはいつも、眠りのようにおだやかな静けさがある。
魔法舎の中庭はまさに春のさかりだった。白いレースのようなオルレアやビオラ、鈴なりのカンパニュラ。端正に設えた花の茂みを歩くのは、よく晴れた海の波間を漂うようだ。庭先はどこも甘い匂いであふれている。裏木戸には満開のモッコウバラが咲き乱れていた。
「あら」
噴水のそばを横切ると、誰かの声が聞こえた。青葉の翳に腰かけて、ルチルとヒースがこちらに手を振る。なんとも珍しい組み合わせだ。
「私がヒースを誘ったんです。今日はとてもいいお天気でしょう。折角なら、庭で絵を描くのもいいかなとおもって」
ルチルはそういって、膝にのせたスケッチブックをみせてくれる。隣でヒースがはにかんだ笑みを浮かべたが、こちらをみて驚いたように眼を瞠った。
「その子は……」
クロエがああ、と頷いた。それから、これまでのことをかいつまんで説明する。図書室の長椅子のこと。眠ったままのファウストのこと。そんな彼とよく似た面差しのドールのこと。
「先生、大丈夫なのかな」
一通りの話を聞いた後、ヒースは心配そうに眉を下げた。俺はその肩をぽん、と叩く。
「今は羊飼い君がついてる。心配しなさんな。それに、この手の異変は長くて一晩程度だってシャイロックもいってたしな」
「そうだよ。シャイロックがいうんだもん、間違いないよ。ね、ヒース」
「うん……そうだね」
ヒースはまだ不安そうな顔をしていたが、クロエの言葉にくちびるを少し綻ばせてみせた。恋人をエスコートするような手つきで、クロエがドールを木陰におろして座らせる。そのまま背中を流れる髪をそっとすくいあげて、丁寧に櫛けずりはじめた。無邪気にみえて、こういう所は西の色男だな、とつい苦笑する。
「ファウストの髪ってふわふわ!綿菓子みたい」
慣れた手つきで髪を編み込んでゆくクロエの手もとを、ルチルとヒースが両側から覗き込む。
「ね、リボンは何色がいいと思う?眸とあわせてもいいけど、いっそ甘めでチョコレートブラウンとかもいいし……」
「リボンもいいけど、こうして」
と、ルチルが編み込んだ髪に花を優しく飾る。
「花を編んであげるのも素敵なんじゃないかな」
「うんうん」
「あ、それならいっそ花冠とか……」
「ヒース、それ最高!」
楽しげな三人に囲まれている間も、ドールはじっと押し黙ったままだった。長い睫毛を震わせもせず、すみれ色の眸をそっと伏せている。これがファウスト本人だったなら、今頃苦虫を噛み潰したような顔をしていただろう。その顔をおもい浮かべてつい苦笑する。するとクロエがこちらをみてにっこりと笑った。
「はい、ネロも」
そうして、いま摘んだばかりの花をこちらに差し出す。
「いや、俺は……」
どう考えたってそんなの柄じゃない。慌てて断ろうとした俺に、クロエは大きな眸をくるりと瞬かせた。
「あのね、ムルがいってたでしょう。ドールは持ち主の愛情次第で変化するって」
「ああ……」
「だからね、素敵な甘い記憶が、この子の中に少しでも残ればいいなっておもったんだ」
「……花みたいに?」
「そう!花みたいに」
はしばみ色の小さな頭を撫でて、ルチルがいった。
「愛は飲み干しても消えない美酒、だね」
「何、それ?」とヒースが首をかしげる。
「ちいさい頃、フィガロ先生がよく酔って歌ってたんだ。昔中央で流行った歌らしいよ」
確か……、と少し間を置いて、歌を口ずさむ。やわらかなルチルの声によく似合う、甘いラブソングだ。愛は飲み干しても消えない甘い美酒。あなたは果実。あるいはわたしを酔わせる風。酩酊はこの胸を満たして永遠をわたしに告げる。あなたがわたしを失っても、わたしはあなたを失わない。心地よい歌声を聴きながら、俺は膝を折ってドールの顔を覗きこむ。宝石のように透きとおった眸に、歪んだ自分の姿が映った。ひでえ顔。と、我ながら自嘲する。芯がなくて、足場がぐらついていて、どこにも身の置き所がない、どうしようもない男の顔。この人形が酸いも甘いも理解するのだとしたら、なおのことこんな顔をみせる物じゃない。けれどドールはこちらをみてゆっくりと瞬きをした。
それから、
「あ、」
髪を飾る手をとめて、クロエが声をあげる。
「……笑った」
***
中庭でヒース達と別れて、そのままキッチンへ向かうことにした。風にあたりすぎたせいか、ドールの手足が少し冷たくなっていたからだ。ムルの話によると、彼ら(あるいは彼女ら)はミルクか特殊な砂糖菓子しか口にしないらしい。なんとも手のかかるものだ。人形というより、むしろ温室の花に近い。扱いづらく、繊細で、だからこそ人の眼を引く生き物。(生きている、んだよな?)ひょっとすると、そういう客層をあてこんで作られたものかも知れない。そう考えると、なんとなく面白くない気持ちになる。
胸によぎった不快感をかき消すように、俺は抱きあげたドールに笑ってみせた。
「綺麗にしてもらってよかったな、先生」
色とりどりの花に彩られた髪が、甘い匂いをさせて眼の端に揺れる。彼はちらりとこちらをみたが、答えはしなかった。さっきの笑みが嘘みたいに、またさめざめとした無表情に戻ってしまっている。まあいいさ、とひとりごちる。いくら人形だといっても、無理強いをしたい訳じゃないのだし。それに、ファウストと同じ顔で屈託なく微笑まれるのもいささか後ろめたい。彼がみせまいとしている硬質で透明な部分を、無理に暴き立てているみたいで。
応接間の小さなカウチを呪文で引き寄せて、キッチンの隅に彼を座らせる。ひとまず毛布で体を包んでやってから、ミルクを温めることにした。特殊な砂糖菓子というのは、どういうやつなんだろう。双子に訊くか、図書室に行けばレシピの一つくらいあるだろうか。頭の中で色々と算段をつけながら、ミルクパンを取り出す。少し多めに温めて、ついでにカフェオレでも淹れるか。そろそろ八つ時だし、子供たちには甘いホイップを載せたホットチョコレートで。
「……随分楽しそうだね、ネロ」
熟れた果物のような声がした。カウチの背にもたれたオーエンが、皮肉そうな笑みを浮かべてこちらをみている。北の奴らのこういうところが嫌なんだ、と胸の中で悪態を吐いた。気まぐれで、薄氷のように気配がなく、おまけに聡い。
俺はため息混じりに両手をあげて見せた。
「浮かれてるようにみえたんなら悪いけど、生憎甘いモンはねえよ。今日は色々忙しくてな」
「ふうん。それって」
指先で顎をすくって、オーエンが彼の顔を覗きこむ。
「この子供のこと?」
「……子供じゃない。ドールだよ」
オレンジと蜂蜜、まるで違う色をした対の眸が、俺とドールの顔を交互にみ比べた。それから、へえ、とつぶやく。どことなく含みのある声だった。てずから書いた悲劇を、客席で楽しんでいるような。俺はおもわずキッチンから身を乗り出す。
「こいつのこと、何か知ってるのか?」
「何が?知らないよ」
「だけど……」
「煩いな。お前にはそうみえてるんだろ。ならそれでいいんじゃない」
オーエンは鬱陶しそうに手を振って話を遮った。カウチから身を興し、猫のように戸棚を漁る。目当ての菓子がないとわかったのか、小さく舌打ちをした。それからなんと、戸棚の奥の砂糖壺に手を伸ばし始める。おいおい、まさかそのまま舐めるつもりじゃないだろうな。
俺は少し考えて、いった。
「ホットチョコレートでいいなら、これから入れるけど」
「……」
しばらく無言で睨みつけた後、オーエンは不服そうにドールの隣に腰を下ろした。
「ホイップと蜂蜜もつけて。それからマシュマロも」
「はいはい。キャラメルソースはどうします、お客さま」
「いるに決まってるでしょ」
暴力的な甘さに眩暈を覚えつつ、俺は素直にうなづいた。客のオーダーのケチをつけるのは三流のすることだ。それが美食でも悪食でも、客が望むものを望むままに提供するのが料理人の仕事だ。そういう意味では、俺は本物になることは出来ないのかも知れない。自分のエゴより客の満足を優先させられる男だったら、俺はブラッドから逃げ出そうなんて考えもしなかっただろう。
「ねえ」
肘掛けに頬杖をついて、オーエンが口を開いた。ドールの髪からするりと花を抜き取り、戯れに帽子に飾る。子供のような仕草だ。
「お前、本当に気付いてないわけ?」
「気付いてないって、何が」
伏せていた眼を持ち上げて、ドールがこちらをみた。ばら色の唇が、なにかをつぶやく。けれどそれは音にはならない。
代わりに、オーエンがいった。うっとりとした、けれどどこか退屈そうな声で。
「マナ石だよ」
美しく編みこまれた髪から、青い花びらが溢れた。
***
いつか、幽霊の葬列に出くわしたことがある。
西の連中に誘われて、蚤の市を冷やかしに行った時のことだ。冬の一等寒い日にだけ開かれるそれは少し変わっていて、金銭の取引は発生しない。代わりに、花を渡す。どの店になんの花を渡せばいいかは、店先に吊るされたスワッグで確認することができる。どんなに沢山の金貨も、あるいはうつくしい宝石も、ここでは花以上の価値を持たない。だから、この蚤の市に訪れる客は、みんな、花をいっぱいに詰めたバスケットを抱えてやって来るらしい。
俺はその時、店先で綺麗に磨かれた銀食器を眺めていた。細く高い声を聞いたー―、ように、おもう。それでふと眼をあげると、店のワゴンを挟んだ道の向かい側に、黒く長い翳がのびているのがみえた。夜をたっぷりと煮詰めたような、暗い、それでいて不思議に眼を惹く情景だった。うつくしい裳裾のようなそれは次第にひとつ、ふたつと数を増やし、賑わう通りを粛々と歩んでゆく。
「あまりみない方がいい」
隣にいたファウストが、不意に口を開いた。彼の手にも、嵐の谷で摘んだ花が抱えられている。
「あれは……」と俺が訊くと、
「この辺りの土地に埋まっているんだろう」ファウストが答えた。
「自分が死んだことに気付いていないんだろうな。失った肉体を探して彷徨っている。……憐れだな」
くちではそういうけれど、その眼にあったのは、憐憫よりもむしろ悲しみだった。眼鏡越しに、伏せた睫毛のさきが瞬くのがみえる。呪い屋なんてしている癖に、ファウストは死者にやさしい。いっそやさしすぎるほどに。それは彼が死に損なったからなのか、それとも死に近づきすぎてしまったからなのか、俺にはわからない。わかるのは、ファウストは死者を拒まない、ということだ。いつか、枯れることもできず黒ずんだ向日葵を、そっと抱いてやったみたいに。
(自分は路傍の石でいい、なんていう癖にな)
人波の隙間をぬうようにして、ファウストは音もなく葬列に近づいた。持っていた花を、そっと彼らに差し出す。死者へ手向けるために誂えたような、白い百合の花だった。
「ほら」
と、ファウストがいった。
「早く行きなさい。ここに君達の望むものはないよ」
翳は立ち止まった後、彼と、彼の手の中の花をじっとみつめた。ぽっかりと空いた不気味な眼窩が、ファウストに向けられている。長い時間におもえた。やがてそれは枯れ枝のような腕をのばして花をうけとると、裳裾を翻して再び歩きはじめる。さらさらと砂を洗うような音が聞こえ、ゆっくりと遠ざかって行くのがわかった。気配が完全に消えるのを待って、ファウストの傍に駆け寄る。
「タダ働きなんて、呪い屋らしくないんじゃない、先生」
「まさか。面倒な仕事をひとつ減らしただけだよ」
「ふうん」
「何?」
「いーや、なんでも」
ファウストがこちらを睨むので、俺は慌ててへらりと笑ってみせた。揶揄ったわけじゃない。ただ、眩しかったのだ。そんなふうに躊躇いなく、誰かに花を手向けられることが。
北の国では、死はいつもそこら中にあった。それは日々の中で当然に息づく脅威であり、挨拶であり、またある意味では、甘やかな抱擁でもあった。弱者に尊厳はなくて、だからこそ、死の価値ははっきりとしていた。石になって砕け散ることは、限りなく完全に近づく唯一の手段だった。だからこそ、俺はいつだって、ブラッドの石になりたかった。結局俺は石になり損ない、ブラッドを裏切り、北の海に飛びこむことも出来ず、そうしてここにいる。失ったものだけが永遠に美しく、はてなく俺たちを傷つける。それなのに、どうして俺たちは、いつまでもその傷を手離せないままでいるのだろう。ファウストをみていると、そういうあてのないことを、どうしたって考えてしまう。諦めたはずの、孤独のかたちをおもいだしてしまう。
「ファウスト」
名前を呼ぶと、ファウストがゆっくりとふり返った。薄むらさきの眸が、ひかりを吸いこんで淡く滲む。
俺は少し迷い、結局首を振った。
「悪い、なんでもない」
「何だ、煮えきらないな」
「そういう性分なもんで」
嘘ばっかり、とつぶやく彼の横顔はおだやかだった。いっそ憎らしくなってしまうほどに。出会った頃と比べて、ファウストはずっと自由になった。花が水をえるように、蛹が春に羽化するように。あの静かな谷で四百年の時間を過ごしてなお、そんなふうに瑞々しく変わっていける。ファウストの、そういうところが好きだった。好きで、だから、少し、苦しい。
—なあ、ファウスト。いつか、
前を歩く背中をみつめながら、ひとりごちる。
—俺が石になったら、俺にも花をくれる?
いえるわけがない。
***
図書室は甘い花の匂いがした。誰かが花を摘んで来たのだろう。窓辺のテーブルに置かれた花瓶に、瑞々しい野花が飾られている。長椅子の傍に控えるようにして、レノックスが本を読んでいた。彼の羊があしもとで眠っている。
「さっきシノが来ていたよ」
読みさしのページから顔を上げていう。手近な椅子に座らせてやると、ドールは長椅子の方にじっと眼をやった。ミルクを飲ませたおかげか、小さな手足はさっきより随分温かい。ファウストはまだ眠り続けているようだった。閉じられた目蓋に、傾いてゆく日差しの、甘やかな翳りが映る。
「可愛いことするな、あいつ」
「ファウスト様を心配しているんだろう」
「それ、起きたら先生にもいってやりなよ。きっと喜ぶからさ」
俺の言葉に、彼はおだやかに頷いた。眼鏡ごしの眸に、やさしい光が宿っている。春の、なだらかな丘のような男だ。思慮深く、柔らかで、忍耐強い。けれどそれは、命を根こそぎ奪うような嵐や、厳しい冬を知っているものの静けさだった。そういう男だから、ファウストも心を開いたのだろう。
「様子はどう?」
訊ねると、レノックスは首を振った。
「変わりはない。よく眠っていらっしゃる」
「ゆめ……、は、大丈夫みたいだな」
「ああ」
気休め程度にはった結界だったけれど、今のところうまく機能しているようだ。あるいは夢をみないほどの深い眠りなのかも知れない。まあ、碌でもない悪夢をみるくらいなら、いっそ自我さえわからないくらい眠ってしまうほうがいいに決まっている。問題は、それがいつまで続くかわからない、ということだった。オーエンが言っていたことも気にかかる。もし、眠り病か何かだとしたら、何百年も眠り続けて、そのまま石になる可能性だってあるのだ。訊ねてみようにも、あいにく双子とフィガロは今朝から揃って不在にしているようだった。
「ままならないなあ」
「そうでもない」
つぶやいた俺に、けれど、レノックスがゆったりとした声でいった。
「少なくとも、今の俺たちは待つことを許されている」
「待つ……」
「目醒めたとき孤独でないのなら、眠りは傷を癒す一番確かなすべだ。そうだろう」
俺は彼の横顔に眼をやった。熟れた柘榴のような眸が、眠るファウストを一心にみつめている。直向きな眼差しだった。この男の半生を、俺はよくしらない。けれど、レノックスがそうやって、ずっとファウストに心を砕いて来たことはわかった。それがどれだけ途方もなく、徒労のように過酷な祈りであるのかも。隷属でもなく、支配でもなく、ただ一人に心を寄せ続けることがどれほど難しいか。もしかしたら、という期待と、やはり、という失望。波のように寄せては返すそれに打ちのめされた日が、この男にもあったあのかも知れない。それでも、今のレノックスは、ただ静かに微笑んでいる。
「あんた、羊飼いもいいけど、牧師とかの方が向いてるかもな」
「……そうだろうか?聖書に馴染みはないのだが……」
中庭の方から、子供たちの笑い声が聞こえた。足もとで眠っていた羊が、ふいに眼を醒ます。そうして、何かに惹かれるように図書室の奥へ走っていった。
「あ、こら」
捕まえようとしたが、間に合わない。小さな体はあっという間に本棚の隙間に消えていった。珍しいこともあるものだ。いつもは彼の足元にぴったりと寄り添っているのに。
「俺が行こうか」
「いや、いい。すまないが、ファウスト様を頼む」
レノックスはそういって、珍しく足早に羊の後を追いかけていった。まあ無理もない。何せ魔法舎の図書室には中央の貴重な資料も保管されている。おとなしい羊だから問題はないだろうけれど、万が一ということもある。変なところにはいりこんで、怪我でもしたらことだ。何もないといいけれど、と思いながら、椅子に置かれた本を手に取る。開いたままのページに栞を挟み、そのままテーブルに戻した。
レース地のカーテンが風で揺れ、長椅子に凭れるファウストの肩を、水のように滑り落ちる。
「……」
ふと、かすかな物音がした。いつの間にか、ドールが自分のすぐ傍に立っている。クロエの履かせたエナメルの靴が、歩くたびに小さく可愛らしい音を立てた。ドールは長椅子に近づき、ファウストの顔を覗きこもうとした。が、背が足りないせいか、うまく届かない。
「気になる?」
「……」
「しょうがねえなあ」
俺はため息混じりにいうと、その体をそっと抱きあげた。それから、長椅子に顔を寄せてやる。ゆるやかに編んだ髪から、甘いミルクの匂いがした。
「そら、見えるか?よく似てるだろ」
「……」
「ま、先生のがおっかないけどな。授業で居眠りした時とか」
答えはない。けれど、俺は構わず続けた。どうしてだか、ドールが俺の声に耳を傾けているような気がしたのだ。ちいさな体を腕に抱いたまま、俺はずいぶんとりとめのない話をした。ヒースやシノが俺たちに内緒でこっそり菓子を焼いてくれた日のこと。うっかり朝まで飲んでしまって、二人してみっともなく二日酔いになった日の笑い話。今度、街で評判のワインセラーに付き合って貰うつもりでいること。退屈で他愛ないそれらのことを、ドールは静かに聞いていた。寝台で子守歌をきく、聞き分けの良い子供みたいに。
「触っていい?」
耳の上で編んだ髪が、少しほつれていた。訊ねると、ドールはこくりと頷く。指先で絡んだ所をすいてやり、溢れそうな花を髪に挿しなおしてやる。触れたところからミルクの匂いがいっそう濃くなり、肌が淡く色づくのがわかった。温かい。
「うん、まあこんなもんだろ」
ぽんぽん、と軽く頭を叩くと、ドールは顔をあげて俺のほうをみた。薄い目蓋がゆっくりと上下する。深いすみれ色の眸。ファウストのそれと同じ色の。
……本当に、よく似ている。
「ネロ」
細く、すんだ声だった。マナ石の欠片が海で洗われる音に似ている。聞き覚えはない筈なのに、ひどく懐かしい。それは腕のなかのちいさな体から聞こえた。俺は驚いて声を失くす。ファウストだ。どうしたって、そうでしかあり得なかった。
でも、じゃあ、どうして?
「……ファウスト?」
答える代わりに、ドールは自分の髪から花を抜き取った。さっき俺がなおしてやった、薄くて青い花だ。きゃしゃな腕が、それをそっと差し出す。
「……くれんの?」
頷く。
「いや、でも……」
聞きたいことはたくさんあった。どこから来たのか。どうしてドールの姿をしているのか。ファウストはいつ眼を醒ますのか。……どうしてその身体から、マナ石の気配がするのか。けれど、どの言葉も声にはならなかった。案外、混乱しているのかも知れない。情けない話だけれど。花をうけとることも出来ず、ただ差し出された花の色だけが眼に焼き付く。
なにも答えないでいる俺に、ドールがーー……、ファウストが、ふっと笑った。仕方ないな、というように。それが、いつもの彼そのもので、また、何もいえなくなる。
ファウストは身を乗りあげると、差し出した花を俺の髪にさした。花の匂いが、濃い。
「お返し」
かすかに笑う息が、耳にかかる。
「……なんの?」
「さあね」
「……可愛い生徒に意地悪すんの、酷くねえ?先生」
「ふふ、じゃあひとつだけ」
ほそい指が耳朶をなぞり、秘密をうちあけるようにそこへ唇がよせられる。
それから、
「—いつか、僕の花を摘みにおいで」
眼を開けた時、そこにドールの姿はなかった。開け放した窓からやわらかな風がふきこむ。テーブルに飾られた花が、透明な手になでられて花びらを揺らした。艶やかなマホガニーの床に、立ち尽くす俺の翳だけがのびている。ふとみると、ドールを座らせていた椅子に、ちいさな窪みが残っていた。俺はしばらくのあいだ、そのちいさな窪みをじっとみつめていた。熱心に読みこんでいたミステリー小説を、結末だけ奪い取られた気分だ。でもそれは、そんなに厭なものじゃなかった。どちらかといえば、もっと……。
「……ネロ?」
低くかすれた声が、おれを呼んだ。長椅子で眠っていたファウストが、ゆっくりとこちらをみる。まだ眠りをひきずった眸はぼんやりと薄もやを湛え、春霞の空のようだった。その色に、おもわず見惚れる。
「おはよ、先生。身体平気?」
「……平気って、なにが……」
ファウストは何度か瞬きをしたあと、俺の顔をみて眼を丸くした。それから唇をふっと綻ばせる。
「え、なに?俺なんかした?」
「いや……、」
長椅子から身を起して、ファウストがこちらに手を伸ばした。細い指が耳もとに触れる。
「ずいぶん可愛らしいものをつけてるな、とおもってね」
俺はあっ、と声をあげた。
青い花びらが、眼のまえに降る。
***
結局、あれきりファウストのドールがすがたをみせることはなかった。彼がいた痕跡はすっかりと消えてしまって、煙のように跡形もない。眠っていたファウストはといえば、やはりその間の記憶はないらしい。
可笑しなことといえば、図書室で度々おきていた不思議な出来事も、あの日をさかいにぴたりとやんでしまったようだった。長椅子で眠ってもムルは月にはならないし、幽霊をみたり獣のすがたになったりもしない。「悪戯をし尽くして、満足してしまったのでしょう」とシャイロックはいった。「あるいは先日の異変で、すっかり力を使い果たしてしまったのかも知れませんね。彼も随分長く生きながらえていますから」とも。子供たちや西の連中は残念がっていたが、俺は正直ほっとしていた。あんなことが度々あってはかなわない。
そういうわけで、シャイロックのあつらえた長椅子は、今も賢い獣のように身を横たえ、客人を待ちわびている。
「……あれ、またここにいたのか」
図書室を覗くと、ファウストが長椅子に凭れて書き物をしていた。格子窓の向こうで新緑がさざめき、爽やかな五月の風が部屋にはいりこむ。カーテンのレースが木漏れ日のように繊細な模様をつくり、ファウストの横顔に翳を落としていた。
「僕がここにいたら変?」
「そういうんじゃねえよ。あんまりここで見かけたことなかったから」
「……別に、避けていたわけじゃないんだが……」
ファウストは書き物の手をとめて、顎に手をやった。
「ヒースがよくここで課題をしているだろう。生徒の邪魔をするのは悪いかとおもって」
俺はおもわず、「真面目だなあ」とつぶやく。
「それに……」
「それに?」
「一度寝てみたら、案外快適だった」
長椅子のひじ掛けをてのひらでなでて、ファウストが悪戯っぽく笑った。俺もつられて噴き出してしまう。いつも頑ななくらい真面目なのに、たまにそういう所あるよな、ファウストって。
「西の色男みたいなこというじゃん、先生」
「は?どうしてそうなる」
「いやだって……」
その先をいいかけて、けれど口をつぐんだ。代わりに、「隣いい?」と訊ねる。
「なにしてたの?」
「何って……明日の授業の課題だよ」
「げ……、聞かなきゃ良かったな」
「どういう意味?」
他愛ない話をしながら、俺は長椅子の背にゆったりと身を預けた。水底に沈むような心地よさが身体を浸す。一度馴染んでしまったら、手離せなくなる。親しみも心地よさも。それが厭わしくて、億劫で、そういうものから慎重に距離をとっていた。でも、実はもう手遅れなのかも知れない。隣にいるファウストの横顔をみて、ふと、そんなことをおもう。だって、俺はもうとっくの昔から、彼のそばを心地よい、と思いはじめているのだから。
ずっと、考えていることがある。
この長椅子がみせる情景は、あらかじめたったひとつの意味しか持たないのじゃないだろうか。それが幽霊でも、獣でも、月でも。つまり、双子が告げる運命の予言と同じように、それは彼らの顛末を指しているのではないだろうか。予言の椅子だなんて、それこそ呪いじみているけれど。
いつかファウストが石になり、その破片がうつくしい人形になる。
その時、俺はどうするんだろう。
「ネロ?」
黙りこんだ俺を訝しんだのか、ファウストが首を傾げてみせた。俺は慌てて顔をあげる。
「悪い。なに?」
「ヒースから聞いたよ。眠っている間、僕の世話をしてくれていたと。ありがとう」
「あーー……。いや、大したことねえよ」
「今度礼をするよ。なにか考えておいて」
「別にいいのに」
「僕の気が済まないんだ」
真面目だなあ、と、俺はもう一度つぶやいた。あんなの世話を焼いたうちに入らないのに。けれどファウストは笑わなかった。俺の答えを待つように、こちらをじっとみつめる。その誠実さが、なんだか面映ゆく、けれど少し、嬉しい。ファウストといると、時々じぶんがまっさらな花にでもなったような気分になる。綺麗で、清潔で、誰かに大切にされてもいいものだと。そんな筈はないのに。それでも、俺なんかをそんなふうに思わせてくれるその物好きな手を、俺はどうしたって嫌いになれないのだ。
「じゃあさ、花を選んでよ」
ファウストの肩に少しだけ凭れて、俺はいった。
「花?」
「そ、キッチンに飾る花」
いいけど……、とうなづきながら、ファウストが不思議そうな顔をする。
「君がそんなに花が好きだなんて知らなかったな」
俺は笑った。—そうだな。
「俺もそうおもうよ」
***
これはエチュード。
あるいは、遠い過去の日々。
わたしたちが、いつか宝石になるまでの物語。