その日の朝、僕はベッドの中から出ることができなかった。
いや、起きるには起きたのだ。一度。
やけに早く目が覚めてしまって、頭もスッキリ冴えていて、こんなに快適な目覚めはそうそうないだろうというくらい、起きた瞬間から実に良い気分だった。
隣ではまだ悠仁が布団にくるまって眠っている。
そのことがまた、気分を高揚させた。悠仁の方が先に起きていることが多いので、朝の時間帯に彼の寝顔を見れることは珍しいのだ。
ということで、早く目覚めた僕は、悠仁の寝顔をじっくり堪能することにした。少し開いた口からヨダレを垂らし、すかー…と寝息を立てている。警戒心のカケラも無い無防備な寝顔は普段以上に幼く見えて、胸がキュンッとなった。若さ故か、疲労にも負けずにツヤツヤしている頬をつつく。起きない。肌に弾力がある。分かってはいたけれど、一回りも年下なんだよなぁと今さらながらの事実に少しだけダメージを受けたりしつつ、ゆうに二十分近くは眺めていたと思う。
良いことを思いついた。
悠仁のために朝ごはんを作ろう。
二人の休みが合った日の朝は、いつも悠仁が朝ごはんを作って僕が起きるのを待ってくれている。それまでの僕は食事なんか適当に済ませていて、特に朝食は当たり前のように抜いていた。悠仁と暮らすようになってからは毎日きちんと、朝ごはんを食べるようになった。
「朝ごはんは一日の活力になんだよ、先生!」
そうか。今まで任務にヤル気が出なかったのは朝ごはんを食べていなかったからか。なるほどねと納得したのだが、たぶんそれは違う、と言われた。
何はともあれ、悠仁の作る朝ごはんは美味しい。朝だけじゃなくて、悠仁が作ってくれるものは何でも美味しい。和食中心だったレパートリーも、洋食やスイーツ系が随分増えた。僕の好みに合わせてくれているようだ。その気持ちが嬉しいこともあり、出された食事は絶対に残さない。そうすると、悠仁は嬉しそうに笑う。悠仁の食事と笑顔のおかげで近頃の僕は、健康優良児(30オーバー)そのものなのである。
日頃の感謝を伝えるべく、悠仁を起こさないようにそっとベッドから降りる。昨夜も帰りが遅かったから、まだゆっくり寝ていてほしい。
顔を洗い、冷蔵庫の中身をチェックする。卵と牛乳、ベーコン。トマトにレタス。パンとヨーグルト。
うん。焼くでしょ。ホテルのバイキングにありそうなオーソドックスな朝ごはんになりそうだ。もしかしたら初めからそのつもりで、材料を揃えていたのかもしれない。
今回はシンプルなメニューだけれど、手の込んだものをまた今度、改めて作ってみよう。あ、二人で一緒に作るのもいいな。
並んでキッチンに立つ姿を想像したら、なんとも甘酸っぱい気持ちになった。だって、ねぇ…
「…し、新婚みたいじゃん…」
自分で呟いた独り言に、悶えて赤面。いまの僕、めちゃくちゃ恥ずかしい!
いい歳して何やってんだと自分にツッコミを入れ、水を飲んで落ち着きを取り戻す。気を取り直し、いざ調理開始と意気込んだ途端。ふと、先日の悠仁との会話を思い出した。
「最近のって筋肉の量とか、ないぞーしぼーまで測れるんだって!すごくね⁈」
僕はそれほどそそられず、ほーん、と思った。わざわざ測らなくても僕も悠仁も筋肉はそれなりについてることは一目瞭然だし、内臓脂肪が云々と言われたところで二人とも関係ないよねって感じだ。そもそも悠仁だって内臓脂肪の意味、分かってないでしょ。でも興味深々な様子だったので、とりあえず一台買ってみた。あって困るものでもないし。そして案の定、すっかり忘れていた。
洗面所に向かう。さも用無しですと言わんばかりに隅の方に置かれていたソイツを引っ張り出す。初期設定をして、初測定。
「ひぇっ…」
…僕は何も見なかった。
見なかったが、目に入ってしまったので動揺した。足元がグラグラ揺れる感覚を覚えながらその場を離れ、助けを求めるように未だ暢気に眠っている悠仁を目掛けてダイブする。
「…ゆ、ゆうじっ…!」
「な、なに⁈地震⁈呪霊⁈」
結局、悠仁も起こしてしまったし、朝のサプライズ計画も台無しになってしまった。残念だけれど仕方ない。そのくらい、僕は衝撃を受けていた。
◇
先生がベッドの中から出てこない。
いや、起きるには起きていたらしいのだが、再び潜り込んでしまった。
連日の任務がなかなかハードだったこともあり、その日の俺は深い眠りの底にいた。珍しく早起きをしていた先生は朝ごはんを作ろうとしてくれていたようで、キッチンにはパンや卵なんかが並んでいた。
が、そこで事件?が起きた。
突然、ドーン!と強烈な一撃を喰らい、寝呆けた俺は呪霊の仕業かと思い慌てて飛び起きたのだが、どうやら先生がタックルしてきたのらしい。先生はさっきまで俺がそうしていたように布団に包まった。身体を丸め、プルプル小刻みに震えている。
いつの間に買っていたのか、新品の体重計が出しっぱなしになっていた。もしや…と思った。なにやら先生の様子がおかしい理由に少しばかり心当たりがある俺は、敢えてそこに触れないよう、慎重に話しかける。
「せんせ。おはよ。どしたの?」
「…おはよ…起こしちゃった、ごめん…」
返事はあるものの、プルプルは止まらない。
「全然いーよ。俺も起きんくてごめんね。朝ごはん、食べようよ」
「…ごはん、いらないかも…」
「え〜なんで?って、あれ〜先生、体重計買ったん!乗ってみてもいい?」
「…いい、よ…」
ちょっとわざとらしかったかなと思いつつ強引に切り抜けて、お言葉に甘えて早速、計測。
「…おわ。先生、せんせー!見て!俺、太った!」
「へ…?」
プルプルが止まり、ようやく先生がひょこっと顔を出した。ベッドを降りて、布団をズルズル引き摺ってくる。
「悠仁って太るイメージ無いんだけど…」
「俺もビックリ!ほら、見て。太ったよ」
「…マジじゃん」
これには普通にビックリした。太ったという自覚は無かったのだ。
卒業した後も、定期的に高専での健康診断はある。それこそ特殊な職業であるが故に、「健康管理は絶対に怠るな」と、家入先生から呼び出されるのだ。前回の診断時より、筋肉量は大差ない。しかし体重は明らかに増えている。
俺と先生は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「やっばい!なんで悠仁まで太ってんの⁈」
「先生も?」
「そーなの!30過ぎると筋肉の上に脂肪がつくって聞いたけど都市伝説だと思って…あ」
先生はきゅっと口をつぐみ、左から右へ、すーっと唇をなぞる仕草をした。おくちチャック。かわいい。いまたぶん、内心ではかなり焦ってるんだろうな。あ〜言っちゃった〜やべ〜!とか思いながら。
「別に隠さんでいいっしょ。先生がちょっと太ったの、俺、知ってたよ」
「ウソでしょ⁈なんで⁈」
早くもチャックは開いたようだ。良かった。
「だってえっちの時、前よりお腹がぷにぷにしてイッテ」
ビンタをくらった。本気ビンタじゃないやつ。ちっとも痛くなくてむしろ愛しか感じません。
「も〜なんでそんな気にすんの」
「…だって…悠仁にきらわれたくない」
「はぁ⁈ありえんでしょ!」
ありえんでしょ!たかが太ったくらいで、そうでなくたって、俺が、先生を、きらいになる⁈天地がランバダを踊ってもまずありえない!
「だってさ。僕の良いところなんて、最強なとことお金持ちなとこと外見くらいでしょ」
そのひとつひとつがスケールが違いすぎるし、もちろん先生の良いところ、俺が先生を好きなところがそれだけなワケがない。でもいま訂正しようとしても逆効果になる気がして、ひとまず先生の話に耳を傾ける。
「こう見えて僕は、悠仁にベタ惚れなの。でも、良い歳した大人の本気って重いでしょ?だからいつでもスマートに、悠仁に好かれる僕でいたいわけ。だから、太りたくない」
…先生はいま、自分が何を言っているのか、自覚しているのだろうか。今だって十分、先生のこと大好きなのに、これ以上好きにさせてどうするつもりなのか。もう、煮るなり焼くなり、好きにしてください!そんな気分になってしまう。
「でも先生。今さらスマートも無いと思う」
「どーゆー意味⁈」
おっと。言い方を間違えた。
「んーと。俺、先生が俺の作るご飯、腹いっぱい食ってくれるとこ見んの、すげー好きなんだよ」
でっかく口を開けて、頬が膨れるくらいに頬張る先生。目尻を下げて、幸せそうに「うまーい!」と言ってくれる。その一言が、どれだけ俺を喜ばせていることか、先生は知らないだろう。あの表情と言葉は、「スマートな先生」ではなく、「素顔の先生」のものだ。
「だって、悠仁のご飯、おいしいんだもん…」
「あんがと。だからまだまだ、ウマいモン、二人で一緒に食べよ。なんたって食欲の秋だし!食ったら運動すればいいっしょ!」
「…運動、ね」
含みを持たせた視線で、先生がちらりとベッドを見る。
「…せんせーのえっち」
「なんのこと?」
小首を傾げ、目を細めながらクスリと妖艶に微笑む。先生には、色んな顔がある。芸術家に描かれた、絵画のように。
「…もー!そんな顔されると!」
強引に腕を引いて先生を抱き上げる。両腕にズシリとした重みを感じるけれど、まだまだ余裕で抱えられる。だから、もっと増えてくれていい。だってこれって、幸せの重さ、ってやつでしょ。
するりと腕を回してきた先生にコツンと額を合わせた。鼻先に呼吸を感じるくらいの距離で、二人して笑う。
「先に運動になっちゃうでしょーが」
「ゆうじのえっち」
「なんとでも!」
先生を抱えて再びベッドにダイブした。重なり合って、ついばむようにキスをする。朝ごはんは、もう少し待ってて。
ぎし、と、ベッドが軋む音がした。休日はまだ、始まったばかりだ。