眠りの底にいた意識が、引き上げられる。静かに泳いでいたのに不躾な輩に釣り上げられた深海魚になったような気分だ。
薄く目を開けると、枕元に置いていたスマートフォンが震えていた。画面を確認。時刻、四時五十分の少し前。もちろん夕方ではなく、明け方だ。カーテンの向こう側からはまだ、薄明かりすらさしていない。
…俺としたことが、アラームの設定ミスをしてしまっていたらしい。無理に起こされたのは不快だが、誰のせいでもないのだから仕方がない。震え続けるスマートフォンの電源を切った。再び目を閉じて、二度寝を決め込む。起き上がるには、まだ早い。
ーコツン。
しばらくすると、何かが当たるような小さな音が聞こえた。気のせいかとも思ったが、何かの合図か信号かのように何度も、何度も繰り返される。どうやら窓の外からのようだ。
…俺は何も気付いていない。ひとの安眠を妨害すんな。
けれど、聞くまいとすればする程に逆効果となり、徐々に意識が覚めていく。観念した俺は苛立ちの溜め息と共にベッドから起き上がり、勢いよくカーテンを開けた。どこの誰だか知らないがイタズラだったら絶対ぇ許さん。
(あっ、やっと起きた!センパーイ!)
そこにいたのは尻尾を振る犬のごとく、満面の笑みでブンブンと腕を振る悠仁だった。ひとのことを起こしておいて、一応、時間帯は気にしているらしい。口元に手のひらを添えて、囁くような小さな声で話し掛けてくる。
「…いや、おまえ…ここ、二階…」
(しってるー)
寝起きの眼を凝らしてよく見てみれば悠仁は、寮の中庭に生えている木の枝を足場にしていた。
「…さっき、電話してきた?」
(したした!でもセンパイ、電源切ったっしょ)
さも文句ありげに唇を尖らせているが、文句を言いたいのはこちらの方だ。こんな時間に電話を掛けてくるヤツがいるだなんて誰が思う?自己責任として完結しようとしていた俺は、なんて殊勝なのだろう。悠仁、後でシメる。
「で?俺を起こしたからにはさぞ重要な話なんだろうな」
(いやー、さっきまで徹夜で任務でさ。いま帰ってきたんだけど、目ぇ冴えちゃって。センパイは何してっかなーと思って来てみた)
寝てたわアホウ。
「一発抜いてさっさと寝ろ。抜きゃあ寝れる」
(それもそうかもだけど、センパイ、ちょっと出てきてよ。見て、コレ)
そう言って悠仁が指した木の根元には、何年モノだよと言いたくなるくらいボロボロの、一台の自転車があった。
「どうしたんだよ、コレ」
簡単に着替えてから外に出る。近くで見た自転車は塗装が剥げて錆ばかりが目立ち、まともにブレーキがかかるのかすら不安になる。俺は思わず顔をしかめた。
「任務中に山ン中で見つけた!捨ててあるっぽいからいっかなーと思って、乗って帰ってきた」
「…任務って、Y県じゃなかったっけか…?」
「そだよ」
あっけらかんとした表情で頷く悠仁。
「補助監督がいただろ。車乗って来いよ」
「コレ欲しかったから!」
徹夜明けに山ン中から県跨いで、オンボロチャリで帰って来る。分かってはいたが、マジで体力オバケだな。
「…で?」
「うん。ニケツしよーぜ!」
「バカなの?」
悪い。バカだったな。こんなんでニケツしたら一メートルも走らないうちに大破だ。おまけにお前、長距離走らせてきてんだろ。
しかし悠仁は俺の反応など物ともせずに、ニコニコと笑っている。断られる、とは思わないのだろうか。…なさそうだな。良いツラしやがって。しかし実際、断れないのだから俺も大概、コイツの笑顔に弱いのだ。
悠仁が口ずさむ鼻歌が、ヒヤリと肌寒い空気に乗って流れていく。形に残らないことが少し惜しく感じて、つい、後方を振り返った。
「その歌、聴いたことある」
「CMで使われてたしねー。わりと有名よ」
そう言ったそばから悠仁は、別の曲を歌い始めた。先ほどのアップテンポからガラリと変わり、しっとりと優しく耳に馴染むようなバラード。俺はこっちの方が、好きかもしれない。
「センパイ。あんがとね」
「あ?」
「俺、センパイを後ろに乗せんの、憧れててさぁ」
ボロボロに見えたチャリンコは、予想より遥かに頑丈だった。今のところ、大破しそうな気配はない。
「ばぁか。ケツ痛ぇわ」
しかし後輪がおそらく、パンクしている。道を進むたびにガタガタと揺れて、座り心地はサイアクだ。
「それはゴメン。給料入ったらチャリ買おっかなー。また乗ってくれる?」
「バイクとか言えねぇのかよ」
まぁ、バイクに乗っている悠仁というのも、あまりピンとこない。何如せん、自動車よりも速く走るという噂があるヤツだ。
「チャリで充分!センパイ乗せたいだけだから」
「だったらおぶれ」
「え…それでいいの?何か、介護っぽくない…?」
「冗談に決まってんだろが」
悠仁の腰に両腕を回し、ぎゅうぅ…と思いきり締め付けてやった。出る出る!と、悠仁が苦しそうだったので満足した。シメる件は、これでチャラにしてやろう。
「…センパイ。さっき、俺の任務先、分かっててくれてたね」
そりゃそうだ。お前らがヘマしたら、代わりに呼び出し食らうのはこっちだからな。行き先くらい、確認しといて損はない。
「無理やり起こしたのに結局、付き合ってくれてるし」
だってお前、しつけーじゃん。俺が頷くまで粘るくせに何言ってんだ。
「俺のこと好きになってくれて、あんがとね」
告白をしてきたのは悠仁からで、俺はそれに頷いた。どうも悠仁は、同情や興味本位で俺が頷いたのだと少なからず、思っている節がある。
ンなわけあるか。
イヤなら断る。興味がなければ行き先など確認したりしない。断らないのは、気になってしまうのは、悠仁のことが好きだからだ。好きになった、というよりも、告白をされた時点で既に、俺は悠仁が好きだった。両想いだと分かって、どれほど俺が浮かれたことか、悠仁は知らないだろう。
「…今さらかよ」
「いんや?愛されてんなーって、結構前から思ってる」
「調子乗んな」
緩めた腕をもう一度、悠仁の身体に回した。片手を離した悠仁が空いた左手を、包み込むように俺の手に重ねる。
「センパーイ。どっか行きたいとこ、ある?」
気付けば空が白んでいた。見上げると、朝陽が登り始めている。
「別に…どこでもいいよ」
何処へ行こうと構わない。悠仁が、一緒にいるのなら。
ぴたりと悠仁の背中に耳をつける。覚えたばかりのバラードのワンフレーズを、繰り返し、俺は口ずさんだ。