視界が反転した。
後頭部、背中から腰にかけて強い衝撃。首に圧迫感。締められている。だが弱い。馬乗りになったガキが拳を振り上げると同時、渾身の頭突きをお見舞いしてやった。顔面ヒット。拳は俺には届かなかった。くぐもった声を洩らし、顔を押さえてガキが退く。指の間から血がぼたぼたと溢れ出す。
敵と看做した傑が懐に手を入れる。
待て。そう言おうとしたと同時、
「あー待て待て。悪ぃな、躾がなってなくてよ」
かったるそうに腹をボリボリ掻きながら、男が姿を現した。
「禪院…!」
なぜ、ここにいるのか。いや、そんなことはどうでもいい。この男を前に、躊躇も容赦も不要。取るべき行動に選択肢は無い。殺す。それだけだ。
傑が撃った。間髪入れずに、二発。
が、すでにその姿は無く、
「伏黒、な。間違えんなよ」
腹に一発ずつ、クッソ強烈な右フックを食らい二人して身体がすっ飛んだ。馬鹿力にも程があんだろ、クソったれ。
✳︎
車を飛ばせばあっという間に東京郊外だ。長いトンネルを抜けた先には鬱蒼とした森が広がり、後方には山があり、廃線になったまま取り残されたロープウェイがある。ひとくちに「東京」と言ったところで、都心から外れればそんなもんだ。この風景の写真をポンと見せて、すぐに東京だと分かるヤツもそうはいないだろう。
「いま通ったトンネル、心霊スポットっぽくね?何か出たりしてな」
「実際そうだよ」
秒も空けずに傑が肯定した。
「…ま?」
「だって君、先に言ったら怖がって来なかっただろ?でも仕事だし。このルートが最短なんだよね」
何食わぬ顔で失礼なことを、しれっと言う。
まったく傑は、何年経っても俺をガキ扱いするところがある。いい歳こいて心霊スポットのひとつやふたつ、誰が怖がるというのか。
そんなん…そんなん、来ないに決まってる。
別に幽霊とか信じているわけではないが、いかにもな…何か出そうな陰気くさい雰囲気?そういうのが嫌いなだけであって。幽霊が怖いとかでは、断じて、ない。
「っつーかこんな雑用、なんで俺が行かなきゃダメなわけ?ヒマなヤツにやらせりゃいーじゃん」
「経験を積ませようとしてるんだろう。冗談みたいだけど君は、五条の次期組長だからね」
ひとこと余計である。
実家とか組とか、そんなものは俺はどうでもいい。かといって他にやりたいこともなく、そんな宙ぶらりんな状態で野放しにしてもらえるほど甘い世界でないことくらいは分かってる。己の立場を鑑みれば尚更だ。何が何でもイヤだというわけではないから、だったらまぁ、このままでもいいかという感じで、ズルズルに伸び切った麺のように生きている。
ちなみに傑はウチの人間というわけではなく、フリーで仕事をしている。しかし昔馴染みということもあり、金払いもいいということで、俺と連むことが多い。
「はー、だっる。さっさと終わらせてアイス食おうぜ」
向かった先にはボロボロの廃屋があった。蔓草に覆い尽くされた壁、ノブが錆び付いたぼろぼろのドア。どうやらここに、ネズミが巣食っているらしい。
グローブを嵌める。サツの指紋照合技術なんかはバカにできないから、念のため。相棒も準備が整ったらしい。目配せをする。どんな雑魚相手だろうが、踏み込む寸前のこの瞬間、テンションが上がる。良い悪人面だね、と言う傑。鏡見てみろ、お前も大概だよ。
「お邪魔しまーす」
さて。お仕事の時間です。
「傑くんよー。そっちはどうだい」
「ああ。終わったよ、悟くん」
二人の男は虫の息。顔は血と汗と涙に塗れ、弱々しい声ですみませんでした、と繰り返す姿は惨めったらしいことこの上ない。
ヒトのシマでヤクをバラまいた挙句、その金持ってトンズラこいた阿呆ども。さっさと海でも渡っていれば捕まらなかった可能性もミリ程度はあったかもしれねぇのに、と呆れて溜め息が出る。でもまぁ、どうせ結末は変わらないだろうから、やっぱり近場に留まっていてくれてラッキーだった。余計な手間が省けた。
イケナイことをすれば、相応の報いを受ける。いわゆる、因果応報。自業自得とも言える。
殺していいと言われているが、これだけ痛めつけられて、また繰り返すほどの度胸がこいつらにあるとは思えない。今回だけはこれくらいで勘弁してやろう。俺はいま、無性にアイスが食べたい。
「んじゃ帰ろーぜ。ダッツの新作ね」
「ナチュラルにたかるんじゃないよ」
帰ろかえろーと、入ってきたドアを振り返る。
ガキと目が合った。
「「「…」」」
俺も、傑も、ガキもだんまり。
掛けているサングラスを外し、目を擦る。目を開ける。うん、やっぱりいる。何故こんなところにガキがいるのか。ガキと言ってもそれほど幼いわけでもなく歳はおそらく、14,5というところか。薄暗い部屋の中で、決して良い目付きとは言えないやや吊り上がり気味の目玉が二つ、やけに浮かび上がって見える。
…まさか俺にだけ見えてるってことはないよな?さっき変なトンネル通ったけど…。
ほんの少しビビりつつ隣に目をやると、同じく驚いたように口をぽかんと開けている傑がいた。良かった、こいつにも見えているらしい。大して物事に動じないタイプの傑がこれほど間抜け面をするということは、相当にイレギュラーな事態であることは間違いない。そりゃそうだ。ガキの教育に悪過ぎる。
「…傑。今日は社会科見学の日だったか?」
「私たちが先生かい?はは。それも悪くはないけどね」
先生。とやらになった自分を想像してみようとして、早々に諦めた。まったく想像できない。そもそも俺はガキが嫌いである。傑なら向いてるかもな、となんとなく思った。物腰の柔らかさとか口調の丁寧さとか、教師やら保護者にもウケそうだ。中身はちょっとアレだけど。
「ガキ。お前、こんなとこで何してんの」
「そう威圧するな。怖がらせてしまうだろう」
先にも言ったが俺はガキが嫌いである。嫌いというより、苦手。いままで接する機会も無かっただけに未知の生物、宇宙人のようなものなのだ。おまけに室内を見られるのはさすがにマズイという焦りも相まり、こんな態度になってしまう。しかし当の本人はこちらの心境など露知らず、
「あんた、ゴジョーさん?」
と聞いてきた。
「そっちの黒い髪が、ゲトーさん」
傑のことまで知っている。
ただのガキではない。ピリと空気がひりついた。それでもまだ、油断があった。こちらが動くよりも早く、ガキが動いた。そして冒頭に至る。
✳︎
「…てめぇのガキか?似てねぇな」
込み上げる吐き気に抗うことなく腹の中のモンをぶち撒ける。ぐらぐらに揺さぶられていた内臓と脳が少し、落ち着いてくる。
「バカ言え。拾いモンだ」
禪院はそう言うと、苦々しそうに顔を歪めた。俺たちのような裏稼業者に対し殺しを生業として生きる、情など一切持ち合わせていなさそうなこの男がガキを拾うとは。天変地異の前触れか?
「それで、何故ここに?」
傑が尋ねる。
「せっかくだからこのガキ、鍛えてみようかと思ってよ。ちょっと腕試し♡」
「腕試しの相手に私たちを狙うのは些か浅はか過ぎるだろう」
「ついでにてめぇらの首取れりゃ一石二鳥だろ。がっぽり金が入る」
ニヤリと笑みを浮かべ、禪院がナイフを構える。傑も再び銃を構える。しかし俺は頭の中で、先ほどの禪院の言葉を反芻していた。
「おい…お前、ガキにまだ何も教えてねぇのか」
「あ?…ああ」
何も教えていない。それなのに、あの動き。不意を突かれたとはいえ、俺の急所を一度は押さえた。つまりはガキの身体能力、動体視力。ポテンシャルが成した技だ。
殴りかかろうとした時の瞳を思い浮かべる。今にも獲物を食いちぎらんとする肉食の獣を彷彿とさせる、鋭く光った瞳。
ぞくりと肌が粟立った。
何故そんな動きを出来るのか。今までどう生きてきたのか。どういった経緯で禪院と共にいるのか。途端に興味が湧いてくる。
「禪院」
気付くと俺は、口走っていた。
「そのガキ、俺に寄越せ」
傑が何か言っている。正気か⁈とか、そんな感じのことを。禪院は黙り込んだ。おそらく俺の意図を探ろうとしているのだろうが、無意味だ。俺自身にすら分からないのだから。
禪院は身体の緊張を解くと、首を鳴らしながら悪人らしい、凶悪な笑みを浮かべる。
「高くつくぜ?」
状況を理解していないらしいガキは、部屋の隅に積まれたガラクタをいじっている。そういえばこいつ、室内に血塗れの男が転がっているというのに、まったく興味を示さない。鈍いだけか、はたまた肝が据わっているのか。いずれにせよ、イカレている。ますます気に入った。
安かろうが高かろうが、どうでもいい。このガキは俺の下に置くと決めた。こいつがいれば俺の人生は愉快なものになる。その直感は、確信に近い。