俺はいま、猛烈に後悔している。
容赦なく照りつける日差し。やかましい蝉の鳴き声。ボトルの水は飲み干してしまった。辺りには一軒のコンビニすら見当たらない。
「あ〜〜!チクショウ!!」
誰も居ないのを良いことに、あらん限りの力で吠える。
「クソッ。俺が死んだら傑のヤツ、ぜってー祟ってやるからな」
不快な汗を乱暴に拭いながら、脳裏に思い浮かべた親友に向かって悪態を吐く。
アスファルトの道路を歩いていたはずが、いつの間にやら獣道を進んでいた。鬱蒼と茂る木々に囲まれて、なんだ森林浴じゃんと思えれば良いのだが事態はそれほどお気楽ではない。要するに、山中で遭難している真っ最中なのだ。
月に二度。だいたい、第二と第四の土曜日が多い。傑はバイトへ向かう。どんな仕事かは知らない。ただ、遠いところだというのは分かる。毎回、わざわざスクーターに乗って行くからだ。俺や硝子が「遊ぼ〜ぜ〜」と誘っても、絶対に休まない。
「すまない。明日はバイトがあるんだ」
結構な高確率で断られる。
「なぁ。お前のバイトって何なの?近くにすりゃいいじゃん。…まさか、やべぇ仕事なんじゃ」
「違うよ。君じゃあるまいし」
「あぁ⁈俺がいつやべぇコトしたよ」
失敬な。事実無根である。
「未遂だけど、面白そうだったらやりそうじゃないか」
「ケッ。ンなわけあるかよ」
…たぶん、やらない。断言は出来ないが。
そんな感じで傑はずいぶんとそのバイトを気に入っているようなのだが、ある日突然、代打を頼まれた。
「どうしても外せない急用が入ってしまってね。今回だけ代わりに行ってくれないか」
「はぁ〜?なんで俺が?一回くらい休んだって文句言われねぇだろ」
「いや。明日は重要な日なんだ。人手を減らしたくない。頼むよ」
普段、物事にそれほど執着を見せない傑がここまで言うのも珍しい。いったい何をやっているのかと、薄れていた興味が再び湧いてきた俺は、「わかった。いいぜ」と頷いた。
「ただし!内容を先に教えろ」
「それは行ってのお楽しみ。大丈夫、まったく健全そのものな仕事だよ」
つまらなさそうだったらやっぱり断るつもりだった。どうやら見抜かれていたらしい。
「悟は免許、持ってないだろ。バスで行ける距離だから安心してくれ」
「バス〜?めんどくせ!」
「このバス停で降りて。迎えに来てもらうよう、先方には伝えておくから」
バス停の名前と、バイト先の電話番号を傑がメモに書いて寄越す。市外局番は03だったから、都内ではあるようだ。半ば強引に押し切られた気がしないでもないが、今回だけだしまぁいいかと、そのメモを受け取った。
受け取ったのが間違いだった。
見渡す限り、辺り一面、山である。なんなのここ。マジで東京?イノシシとか出そうなんだけど!
教えられたバス停で降り、時間になったら来るはずの迎えとやらを待っていたものの、一向に現れる気配がない。電話をかけてみても、繋がらないどころか留守電にすらならなかった。
「おいおい…今時、ドッキリじゃねぇだろうな…」
メモの裏面には念のためにと、簡単な地図も描かれていた。どうやら一本道で行けるらしい。どのくらいの時間が掛かるのか、それが問題だ。
一か八か。
そう気の長くない俺は、先へ進むを選んだ。
…暑い。
都心に比べれば湿度はだいぶマシではあるが、それにしたって暑い。水もなく、気を紛らわせるものもなく。ただ黙々と、実在するかも怪しい目的地を探す。こんなに気の滅入ることもそうはない。
とんでもないビンボークジ引いちまった…。
これは慰謝料を請求して然るべき事案だ。無事に日常に戻れたなら、ダッツ一年分を要求する。もちろん、傑に。
「あ〜ダッツ食いてぇ!」
大声を出してしまったせいだろうか。ぐらりと視界が揺れる。
「…あれ?」
意識、暗転。その後のことは記憶に無い。
・・・
ぼんやり滲む視界の先に、天井からぶら下がるオレンジ色の灯りが見える。あんな蛍光灯、実際に使ってるところ初めて見た。次いで、木の匂いと、何やら美味そうなメシの匂い。
「…!」
飛び起きるように体を起こすと、ブランケットがぱさりと落ちた。手のひらに乾いた感触。畳だ。
「な…ど、どこだここ…」
「お。起きた!気分どう?気持ち悪くない?」
背後から聞こえた声に振り返る。
少し歳下くらいだろうか。赤茶色の髪をした、やや吊り目がちの少年が、タオルを手に持ち立っていた。
「たぶん熱中症だわ。倒れてたんだけど、覚えてる?」
「いや…あ〜。なんとなく…」
どーぞ、と手渡されたタオルを、どーも、と受け取る。水に濡らしてあって、ヒンヤリして気持ち良い。
「早めに見つけて良かったよ。あんた、ゴジョーさんでしょ?」
「は?なんで知って…あ」
ここは、もしかして。
少年は口を横に開いてニカッと笑い、
「そ。うち、夏油さんのバイト先」
と言った。
「迎えに行くって言ったのに、遅れてゴメンなー。隣のばあちゃん家にイノシシが出てさ」
「やっぱ出んのかよ!」
「庭荒らされても困るから、山にお帰りいただいたんだわ」
「ジ●リじゃねーか」
こいつ、ナニモンなわけ?もの●け姫と友だちですとか言い出さねぇだろうな。
「でもまさか、あんな山ン中まで歩いてると思わんかったわ。ゴジョーさん、おもしれーね。夏油さんから聞いてた通り」
「ちょっと待て何て聞いてんだよ」
「イメージ通り、って言っとくね」
傑のヤツ、変なこと吹き込んでたら許さん。いや、困るような変なことなんてひとつも無いが。
「で。お前はこんなとこで何やってんの?一人暮らし?」
「いや。ここ、じいちゃん家。いま風呂入ってるけど、そろそろ出るんじゃねぇかな。畑で野菜作って、それ売って生活してんの」
「…ってことは」
バイトの内容は、つまり。
「そ。畑仕事!」
マ〜ジかよ傑の野郎!俺にはめちゃくちゃ縁の無い世界なんだけど!畑仕事?要は、土いじり?ムリ。泥くさいのも汗くさいのも、ぜってームリ!
…あ。でも今日は確か、大事な日だっつってたな。経緯はどうあれ介抱してもらったのだし、仕方がない。今日だけ、ちょっとだけ、手伝ってやるか。
「…って、もう夜じゃん!」
そうだった。ドラマでしか見たことないタイプの蛍光灯が、頭上で灯っている。
「うん。よく寝てたねー。今日は泊まってってね。明日、じいちゃんに送ってもらうから」
「スクーター?」
「軽トラ」
軽トラ!どんだけ未知なるアイテム持ってんだ。やべぇ、ちょっと興味出てきちまった。
「あのさ…今日、大事な日だって聞いてた。何だったんだよ」
「あぁ。収穫があってさ。そっか、だから夏油さん、ひと寄越してくれたんだ。優しいな〜」
「…悪かったな。手伝わなくて」
「全然!こんなとこまでわざわざ来てくれて、あんがとね。もし気が向いたらさ、また来てよ」
奥の方からシュー!と、甲高い音がする。
「あっ!やべ、鍋…!」
慌てて立ち上がり、少年が奥に姿を消す。どうやら台所があるらしい。
「ゴジョーさん!苦手なモン、ある?」
「あ?いや、特に…」
「ほんと?今朝、作っといたんだー。食ったことある?トマトの煮浸し」
なんだそれは。初めて聞いた。
「…無い」
「良かったら食ってみて〜自信作!ダシがしみてウマイよ!」
台拭きを持って戻ってきた少年がテーブルを拭き始める。何か手伝うか、と聞いたけれど、ゆっくり休んでてと言われてしまった。
開け放った窓の外から夜風が静かに吹き込んでくる。俺が身を置く日常生活ではこんな風に、窓を全開にしたりしない。防犯面で危険だからだ。
遠いような近いような、ここはまったく知らない別世界。
…傑がハマる理由が少し、分かるかもしれない。
ふと、少年の右腕に目が留まった。日々の仕事ゆえか、くっきりと日焼けの跡が浮かんでいる。
そういや、まだ名前も知らねえわ。
今さらそんなことに、気がついた。