任務が終わった帰り道。秋の気配を感じるようになった夜の空気を吸いたくなって、道中にあったコンビニの駐車場で降ろしてもらった。
「ここで良いんですか?」
「うん、大丈夫。今日も一日、おつかれっした!」
せっかくなので店に入り、レモン味の缶チューハイを一本、買った。プルトップを開けて、飲みながら歩き始める。行儀が悪いのは百も承知。じいちゃんが見ていたなら、えらく叱られたに違いない。
現在地から自宅アパートまでの道筋も、どのくらい時間がかかるかも分からない。まぁ、なんとかなるでしょ、と気楽に考えて、適当にぶらぶらと歩を進める。アプリで調べれば良いのだが、なんとなく、そういう気分だった。どうせ明日は休みだし、特に急ぐ必要もない。
とうに夜は更けている。雨や曇りが続いていた空には一転、下弦の月が浮かび、僅かな星が瞬いている。群青色の空を見上げながら、先生はどうしてるかな、と思った。
先生に合鍵を渡したのは、二週間ほど前のこと。
「合鍵?僕に?ふぅん。ま、預かっとくよ」
預かっとく、の意味は計りかねた。預かって、先生はその鍵を、どうするのだろう。必要になる時まで仕舞っておく?必要になる時ってのは例えば、俺が死んだ後とか。いつ任務でしくじるか、分からんし。部屋の壁に貼ってあるジェニファーのポスターを剥がすくらいは、してくれるかもしれない。もちろん今のところ、合鍵が使われたことは一度もない。
そもそも俺は、何を思って先生に渡したのだろう。新しくアパートを決めて、大家さんに鍵をもらった。それが二つあるのを見た時、「先生に渡したい」と思った。伏黒でも釘崎でも良かったはずだ。だけど、真っ先に浮かんだのが先生だった。もっとも、渡されたところで扱いに困るだろうけれど。
道は続いている、なんて歌の通り、適当に歩いていた俺は無事にアパートに辿り着いた。零時を少し、回ったところ。三十分ほど歩いたらしい。案外、早く着いた。
二階の、右端に目を向ける。俺の部屋。灯りが点いている。気持ち程度に備え付けられた小さなベランダに、先生の姿があった。気の抜けたラフな格好で、まるで自分の家でくつろいでいるかのような出立ちだ。先生は俺が見上げていることに気がつくと、ひらりと手を振った。
「やぁ、おかえり。おつかれ」
「ただいま。…って、なんしてんの」
「悠仁がくれたんじゃない。合鍵」
渡したさ。渡したけれども。今日、来るなんて、聞いてない。いや、いいんだけどね、いつ来てくれても。
戸惑ったのも束の間、次第に嬉しさが込み上げてきた。先生が、俺の家にいる。そう思うとゆっくりと、胸の内側があたたかくなってくる。そうか。俺は先生に、鍵を使って欲しかったのか。
「月が、綺麗だったからね」
ベランダの手摺りに頬杖をつき、先生が言う。
「…先生。俺、それの意味、知ってるよ」
「…マジで?」
俺が知っているくらい、古典的な言葉だ。先生はこめかみの辺りを掻きながら、シクったなぁ、と呟いた。
俺は、自分が先生に合鍵を渡した意味が、分かりそうな気がした。あたたまった胸の奥が今度はムズムズとして、落ち着かない。
先生。ちょっとそのまま、待っててよ。すぐ、行くからさ。
階段を登る足が、いつもよりも軽く感じた。