魔除け――うわ、なにこれ。
入ってきた男のただならぬ雰囲気にリョータはぎょっとした。なんかこわ……、ってか、めちゃくちゃお疲れか。
新宿歌舞伎町、午後4時。夜の世界がそろそろ動き出そうかというところ。いきなり気温が上がった雨上がりの午後は、天気予報で発表されている湿度以上に蒸し暑く感じられる。少し前倒ししてモヒートをメニューに加えないと、とバー「7」のバーテンダーリョータは頭の中のメモに書き加え、店のエアコンは低い唸り声をあげながら勢いよく冷たい息を吐き出したところだった。
「どうも」
入ってきた男の、見たこともないようなくたびれた姿を眺めながら、それでも何食わぬふりでリョータは客を出迎えた。一か月か二か月に一度顔を合わせるこのお客とはお互いに本心は悟らせない、というスタンスを貫いている。。目の前の男はリョータの人にあえて晒さずにいるところについてもすでに知っているのかもしれないが、リョータはそれでも何食わぬふりを突き通すつもりでいる。
「お久しぶりピョン」
疲れた男には妙な色気があるという。確かに目の前の男もその例に漏れない。それにしても、この人って疲れることもあるんだな。っていうか、感情を表に出したりすることもあるんだな。リョータにとっては新鮮な驚きである。もちろん、普段の男に倣ってそれを口に出して言うことはしないが。しかし意外だ。リョータの知っている目の前の男――深津――といえば、いつだって無表情で人を食ったような態度を崩さず、何を考えているのか相手に悟らせることはない。それでいて頭の中は常に計算式がまわっているような、すこし、いやかなり不気味な男である。この男との逢瀬はいつも疲れるというのがリョータの本音だ。会話はつかみどころがなく、飄々とした口調の裏になにか別の意味が隠されているのではないかと探ることになるからだ。
「ご無沙汰しています。外暑かったでしょ」
リョータは当たり障りのない返事を返し、慎重に相手を観察する。大きすぎるほどのため息。深津のため息とともに、シャツにプリントされた鷹だか鷲だかの顔が歪む。相変わらず派手なシャツだな今日も。探る必要もなく、疲れている深津は、どうやらそれを隠すつもりもないらしい。
「なにか飲みます? コーヒーは出ないですけど」
二人のお約束になったコーヒーの下りすら、そんな気分ではないのだと一瞥で軽くスルーされて、これはただごとではないのでは、とリョータはちらりと思う。スツールに腰かける音が重い。
「お疲れっすね」
結局、リョータは言わずにはいられなかった。興味を持った方が負け。そう思うのだが、それでも人は好奇心には勝てない。周囲の影響かもしれない。近頃、リョータの周りはなんにでも頭を突っ込みたがるやつらが多い。誰もがリョータのテリトリーに構わず入ってきては彼の場所をかき乱し、その混沌を楽しめとさえ言ってくる。
「世の中ままならぬことばっかりピョン」
ストレートな返事はリョータをさらに驚かせた。マジかよ、何があったんすか深津さん――。カウンターから乗り出したいのを堪え、リョータは考える。疲労回復……すっぱいものと甘いものだったらどっちがいいか。オレンジジュース、グレープフルーツ、グァバネクターも冷えている。だが、グラスを出すより前に、カウンターの上に小さな包みが置かれた。
いや、マジやめてくれ。リョータは思う。カウンターに置かれたのは小さなビニール袋に入った白い粉で、まさに犯罪ドラマに出てくる「あれ」だった。少し前には店でドラッグが見つかって少し騒ぎになったこともあったが、近頃は店は落ち着いていて、深津の言葉を借りるなら、「7」はものすごくクリーンな店なのだ。
「あの……」
深津の真意を図りかね、リョータはさてどう話を繋ごうかと考える。自分とは関係ない世界だ、絶対に巻き込まれたくない。だが、そんな気持ちを知ってか知らずか、深津はさらに小さな包みをこっちにぐいと押しやった。手に取れ、という無言の圧力がある。リョータにできることは包みを手に取ること以外にない。仕方なく手先に押し込まれたビニールを指先で慎重につまんだ。光にかざしてみる。ドラマとかで見たことがある白い粉とは少し違って見えた。前に店で見たことがあるドラッグは派手な色のドロップみたいだったり、ピンク色の粉だったりしたので、リョータに比べる術はない。
「なんか、粗塩みたいっすね」
正直な感想を述べる。粉っていうより粒だし、粒子がそろわず、透き通っているあたりはまさに粗塩だ。
「そう思うピョン?」
深津は静かに問うた。
「いや、俺に聞かないでくださいよ」
「試せ」
「は?」
「試してみ――」
「遠慮します」
深津の言葉の終わらぬうちにそう言ったリョータには大きなため息が返ってくる。いや、だって素人にドラッグ試せっておかしいでしょうが。それにたしかあんた「クリーンなヤクザ」だったんじゃなかった? 手を動かさないリョータの代わりに、深津はリョータの指先から袋をひったくるように取ると、躊躇なくその袋を開けた。そしてそこに人差し指を突っ込むと、その指先についた結晶を口に含む。
うわ……次の展開が予想できず、リョータの背中に震えあがるような緊張が走った瞬間、深津は言った。
「塩ピョン」
「は?」
「だから、塩だって言ってるピョン」
「はああああ?」
差し出された包みに、今度はリョータも指を突っ込んだ。恐る恐る舌に載せる。なじみのある味が広がる。
「……塩だ」
「そう、塩だ」
なにが、言いたい? 深津の様子を見るに、リョータをおちょくって楽しんでいるわけでは決してない。じゃあ、このもったいぶった儀式の意味はなんだ? ない頭を絞ってリョータは必死に考えた。
「素人の宮城ですら、一目見て塩だってわかる」
「いや、わかんないっすよ。それっぽいって思っただ――」
ぎろりと睨まれ、口を噤んだ。オーケー、ここで口を出すのは厳禁ってことね。
「だいたい黙ってこれを出されて、味見もせずに信じるか? これが……価値のあるものだと? 素人の宮城ですら、一目見て塩だってわかる」
「さあ……。そちらの世界の流儀はわかんないですけど」
再びの深いため息。
「何事にも注意深くなるべきだ。あらゆる仕事には相応のやり方というものが存在するし、最低限のルールやモラルが守られなければ、台無しピョン?」
「おっしゃるとおりです」
スツールの低い背もたれに腰を預け、深津は言う。
「その点、宮城の疑り深さは評価できるピョン。お前やっぱり山王に来るピョン」
「いや、それは遠慮します」
「全くどいつもこいつも……」
そこから、深津の口から語られた話をまとめると、どうやらこの塩は最近自分が管理を始めた店で働く黒服の男が騙されて受け取ったものらしい。クリーンなはずの店で、不正に金を入手しようとした(つまり歌舞伎町によくあるぼったくりだ)黒服も黒服なら、そこで手持ちがないからと財布に入っていた塩を渡した客も肝が据わっている。どこまでも頭の回らない黒服は、その塩を渡され、金以上に価値があると踏んだらしい。深津によれば「すべてがアウト」となる。真偽のほどはさておき「限りなくホワイトに近い企業運営」を目指す深津としては、納得のいかないことだらけ。眉間の皺を伸ばすように撫でる指先にそのいらいらが窺える。だが、話を聞き終わったリョータの関心は、黒服のクビでも、深津の苦悩でもなかった。
「へえ、やっぱ塩持ってる人多いんやね……そのぼったくられたお客さんってさ、たぶん沖縄の人だね」
深津が顔を上げた。リョータは再び袋を指先でつまんで光にかざす。母も塩を必ず財布に入れていた。お守りだから。そう言っていた母の指先をリョータはいまだに覚えている。
「沖縄の人って塩入れて持ち歩いている人いるみたい。ちょっとしたお守りくらいの気持ちで。うちの母も持ってて、俺たちはそんなん信じるなんてばかげてるって思ってたんですけどね」
「今回はまさにお守りになったってわけか?」
「そういうことですね。いや、人間何に救われるかわかんないね。俺も塩持ち歩こうかな」
「職質に引っかかったら、宮城ならアウトピョン」
「俺、自慢できますけど、一回も職質されたことないっすよ」
リョータはふと思いついて、袋の中身を皿に開けた。それだけでは少ないので店の塩を足し、手に持ったままだったグラスの縁にレモンを添わせる。ぐるりと一周、レモン果汁がついたのを確かめ、グラスの縁を皿に落とした。ほどなく美しい塩の結晶がグラスの縁を飾った。
「ぼったくられそうになった兄ちゃんの命を救った塩っすよ。ま、深津さんもいろいろあって大変だろうけど、胃に納めたら?」
グラスの縁のコーティングを傷つけないように氷を注ぐ、仕事中だろうからウォッカはほんの一滴。グレープフルーツジュースを注げば、ソルティドッグまがいのグレープフルーツジュースウオッカエキス入りが出来上がる。
「グレープフルーツジュースは疲労回復にいいそうです」
一言付け加えたところで、深津相手にここまですべきではなかったのではないかという思いがよぎる。リョータの気を知ってか知らずか、深津はグラスに慎重に唇をつけ、ジュースを喉に流し込んだ。
「一家に一人宮城ピョン」
あ、そっちね。便利な家電的扱いか。それはそれで腹が立つ気もして、リョータは自分中の複雑な心境にため息をつきたい気持ちになる。この男とはできるだけ関係を持たずにいたい、そんなことを考えていた日々がいつの間にか遠い。
「結構狂暴で噛みつきますけどね」
悔しまぎれに返した言葉には「駄犬と天秤にかけるとどっちがいいかって話になるな」とさらに混ぜ返された。
「あ、塩ついちゃいました、深津さん」
ここ、リョータは自分の唇の端を差した。深津は指先を自らの唇に滑らせる。
「もうちょっと上……あれ、塩じゃない? 光ってるけど。ライトのせいかな?」
リョータは少しばかり身を乗り出し、深津もまた自分の体を少しカウンターに寄せた。
不幸を数えるなら、いくつか重なっていた。人に聞かれたくない会話があるわけではないから、オープン前の店のドアは少しでも外の風を入れようと開けっ放しになっていた。だから続いて訪れた客の来訪を告げるドアベルは鳴らなかった。客はスニーカーを履いていたので、軽快な靴音は残念ながら響かず、そのせいで、客の来訪に中にいた二人が気付くのが遅れた。そうして、その二人はたまたま深津の顔についた塩だかなにかを取るのに気を取られていた――。
「ええぇ!」
叫び声に近い声に、リョータは飛び上がった。焦った声が近づいてくる。
「なになになになに! 待って! 離れてくれる? リョータ! 深津さん、今の何すか? 待って、ねえ、ちょっと――」
今日一番大きなため息が深津の口から洩れるのをリョータは確かに聞いた。
「エージ、落ち着けよ」
「落ち着いてられっかっつの。今、二人、キスしようとしてなかった? なんでそういうことになるの。深津さん俺のもんじゃない? 百歩譲って俺のものじゃなくても、リョータのものではないはずだよね。なにがどうなってここで化学反応が起こるわけ?」
そんなわけないだろ、いいからちょっと落ち着け……リョータの声はエージには届かない。ほっとけピョン、深津が呟く。
「リョータって三井さんとデートしてたじゃん。こんなん浮気だよ?わかってる? 深津さんもお願いだよ、俺、べつに多くは求めないけど、リョータは違う……リョータはだめだよ、ねえ」
騒ぎ続けるエージを横目に、「宮城、塩」と深津が小さな声で指示を出した。リョータは黙って塩が入ったさっきの皿を差し出す。
「栄治」
それは静かだったが有無を言わさぬ声だった。騒いでいたエージの口が止まる。まるでよくしつけられた犬みたいに感心するくらいの従順さでエージが黙る。
深津は人差し指を皿に強く何度か押し付け、エージに口を開けろと命令する。何かの儀式みたいにエージの口の中に人差し指が押し込まれた。静かにしろ、深津は言う。
「確かに、塩を持ち歩くのも悪くないかもしれないピョン」
指をくわえたエージを見下ろしながら深津は言う。
「魔除けに?」
「魔除けに」
二人の視線の端で深津の指を吐き出したエージがまた騒ぎだす。なに、これ!
「新種のドラッグ。めちゃトべるらしいぜ」
リョータは笑って言った。