これから何かあるかもしれない二人「あ」
「お……」
この再会は、彼にとって一言で言うなら、瓶詰にして冷蔵庫の一番上の棚の奥にしまってあったものを心ない人(この場合は本日の主役の深津である)によって引っ張り出されたようなものであった。深津の名誉のために言うと、深津本人が直接なにかしたわけではない。だが、この再会は間接的に深津によってもたらされたものである。そうしておそらく引っ張り出した瓶を見て遠慮なしに問うだろう。
――なんだこれは?
彼はなんとかごまかそうとする。
――別になんでもないっすよ。
だが、深津は彼の返事など聞いていなくて、瓶詰のラベルと中身を確かめて指摘する。
――もう賞味期限切れてるんじゃないか? 三年も前の日付のものをなぜ後生大事に持ってる? 捨てないピョン?
彼は悔し紛れに答える。
――忘れてただけですよ、捨てるの。
だけど彼は渡された瓶をすぐにはゴミ箱に入れられなくて、手の中で転がすことになる。蓋を叩いてみたり、光に透かしてみたり。結局のところ、ゴミ箱に簡単に捨てられるようなものならわざわざ瓶に入れて保管などしなかった。3年前の自分が何を思ってこの瓶詰作っちゃったか知らないけど。深津の言う通り賞味期限切れだし、味も匂いもよくないだろうね。だけどまだ意味もなく捨てられない。
「あ」
「お……」
ひととき、言葉を失ったまま見つめあって、次に口を開いたのは相手の方だった。
「おま……わざわざアメリカから?……いや、そっか、ま、大事な先輩か」
問いかけをしながら結局自分で答えを見つけ、独り言ちている男の部屋にある冷蔵庫を、彼はちょっと想像してみる。きっとこんな思い出の瓶は入ってないだろう。結構なんでも潔く捨てるタイプなのは知っている。少しかかとの薄くなった靴下や短い鉛筆なんかと同じように、彼との3年前の出来事などくしゃっとまとめてゴミ箱へ捨てられたはず――だから俺も捨てるべきだったんだよな……彼はそう思い、でもやっぱり瓶(そう、何を隠そう、その中には彼と目の前の男とのちょっとした思い出が詰まっている)を手の中で転がしている。
「山王の先輩たちの結婚式には全部参加するって約束したんだ」
彼は視線を逸らし、光沢のあるスーツに身を包んだ本日の主役に目をやった。チームのGMなども参加して少し堅苦しかった先ほどまでの披露宴と違い、場所を変えて行われているパーティはカジュアルなもので、新郎新婦の表情も柔らかい。今のチームメンバーだろうか。記念撮影をするたびに歓声が上がっている。でかい男たちに囲まれて、深津の180の身長は小さく見える。似合わないスーツを笑ってやろうと思っていたのに、濃紺のスーツが妙に似合っていた。そして隣には同じように背筋をすっと伸ばしたドレス姿の女性が並んでいる。深津は彼女の背中に軽く手を添え、たまに気遣うように目をやり、目尻に皺を寄せて甘い笑顔を見せている。見たことのない表情だ。彼の知っている深津といえば、冷静沈着、何を考えているかわからぬ表情、それでも何やかんや頼れる先輩。しかし、今日の彼にはそのどれもなくて、そこにいるのはただの幸せな男だった。
「なんか、めちゃくちゃ当てられる感じ」
「わかる、見たことない顔してるもんね。鼻の下伸ばしてさ」
呟きに同意の返事が返ってきて、そういえばこういうところは気が合ったのだ、と思い出した。
「っていうか、リョータはどうして?あ、同じチームだったか」
「そう、1年だけだけど。こっち戻ってきたばっかりのころずいぶんお世話になったし」
3年前、帰国したリョータが入団したのは深津のチームだった。その翌年には深津が別のチームに移籍したので、二人が同じチームでプレーしたのは1シーズンと短かったが。とにかく右も左もわからなかったときに、公私ともにお世話になったから、お祝いしたくてさ。続いた言葉に彼はぞんざいに頷いた。まあ、そこらへん俺が全然知らんことだけどな……っていうか今のことも知らんけど、なんかずいぶん仲良くしてたらしいじゃん? 嫌味になりそうな一言をぐっと抑え、いかにもよそ行きの笑顔を見せる。なんとか先に優位に立ちたかった。
「会えると思ってなかったから、うれしいよ」
もしかしたら再会するかもしれないと少しでも考えたことはおくびにも出さない。
「そうだな。まあ、俺は会えると思ってたけど」
リョータはしれっとそんなことを言う。ぐっと力を入れたはずのシーソーがあえなく元に戻る。それってなにか? 再会を期待したってこと? 頭に血が上りそうで、だから今度は慎重にいかなければならない。
「けど、なに?」
「いや、別に。俺も会えてうれしいよ」
同じ言葉を返されれば、さっきの自分の発言がいかにも取ってつけたようなものだと認めざるを得ない。悔しいから、そのわりにぜんぜん嬉しそうな顔じゃないねと指摘してやった。相変わらず歪んだ眉がピクリと動く。
「いつもこの顔だ」
「そーかな。かわいいこともあったけど?」
はあ? なんだって? こっちを見上げてくる様子がまるでヤンキー。だけど、これには散々慣れている。3年前まではよく見た表情だった。それをかわいいって思うくらいには見慣れていた。そして今はどうだ……いや、考えるべきではない。
「よく言うよ。従順なだけじゃつまんないくせによ」
「それはお互い様じゃん?」
そこでやっとリョータの表情が緩む。彼も肩の力を抜く。
「かわんねーな、エージ」
「リョータもね。相変わらずめちゃくちゃおしゃれだし」
黒のピンストライプのダブルジャケットは肌の上に直接羽織っているのだろうか。首筋から胸にかけてのきれいな筋肉のラインが覗く。首に直接巻いた細いシルクネクタイが揺れている。
「大事な先輩のパーティーだし?」
少なくともリョータとどう接していいかがわかって彼はほっとする。わかればあとは簡単で、二人は「久しぶりに会った友人」としての会話を滑らかに進める、はずだった。共通の友人の話とか、一緒にバスケしてたストバスコートがなくなっちゃったんだぜとか、深津さんの奥さんってどんな人かだとか、流川の活躍についてとか。実はシーソーゲームが終わっていなかったのだ、と気づいたのはそう言えば会ったら聞こうと思ってたんだけど、となんでもないふうにリョータが言ったときだった。
「なに?」
持っていたグラスの中のシャンパンを飲み干して、リョータが耳を貸せ、とでも言うように人差し指をくいと動かした。迂闊だった。深く考えずに屈み、彼の口元に耳を寄せるなど。隙を見せたら、相手はもちろんその隙をついてくる。そんなことはわかっていたはずなのに。魔が差したか、気の迷いか、あるいは久しぶりの再会に気を許しちゃったか、とにかく彼が隙を見せたのがいけなかった。リョータの狙ったようなセクシーな声を聞いた瞬間、ばん、とシーソーは大きな音を立てて勢いよく彼のほうに傾き、衝撃に尻が浮いて姿勢を崩した彼の手の中から持っていた瓶が滑り落ちた。
「なあ、お前、あのとき、なんで逃げたんだよ?」
瓶は床に落ちてあっけなく割れて、中身が飛び出す。なんでって、それは……。
3年前、彼がドラマで見ておいしそうだったチーズサンドを見よう見まねで作って二人で食べた真夜中のことだ。ドラマの中ではチーズサンドをキッチンで立ったまま食べた二人の目が合い、次の瞬間にはキスシーンが始まっていた。ドラマはその後主人公の唇がフォーカスされたので、肝心のチーズサンドがどうなったかはわからない。リョータの家のキッチンではどうだったかというと、チーズサンドは彼が作った食事の中で最高傑作とリョータにたたえられ、すべて二人の胃の中に収まった。いい匂いする、火傷すんなよ、と彼の後ろからフライパンを覗き込んでいた声と、やばいなこれ、毎日食いてえ、と言ったリョータの唇がバターで光っていたのだけは覚えている。
いや、それだけではない。そのあとむさぼった唇の感触とか、厚ぼったい舌とか、舌が歯に触れられてくすぐったかったこととかも。そのあとキッチンでできる行為ではとても満足できなくなった二人がどこで何をしたかも。忘れられるわけがない。
あっけないものだ。瞼の裏にカーテンの隙間から差し込んだ淡い朝日と、眩しそうに寝返りを打ったリョータの震えたまつ毛がまだ焼きついている気さえしてきた。あの朝、その無邪気な寝顔をずっと眺めていたいと思った。そして同時にその睫毛が震え、瞼が開くのが怖かった。ねえ、俺たちこれからどうなる?
幾通りものシナリオを考えた。恋人の甘い朝(いや、ないな)、何もなかったふり(わざとらしい演技に嫌気がさす)、どっちもできずぎこちない空気(きっとお互いなんでもないことにつっかかる)……。さらに二人の思惑が同じとは限らない。違う場合もっと面倒なことになるのは目に見えている。そう考えたら耐えられなくなった。耐えられなくなってそして――。
そのときはそのままちょっと冷静になれば、くらいに考えていた。数か月連絡を取らなかっただけで、リョータが帰国して会うチャンスがなくなるとか、考えもしなかったのだ。結局彼ができたことといえば、小さな瓶にその晩の出来事を全部詰め込んで、蓋をして冷蔵庫にしまうことくらいだった。
「なんで逃げたって、それは……」
顔を眺めるだけで答えられない彼を、リョータは勝気な瞳で射抜いた。勝機は見逃さない。だからこそ、今自分が捕まってしまったのが、彼にはわかった。
「あれ? 言えねえの?」
「そんなわけじゃ……」
言葉を濁し、彼は反撃のチャンスを伺う。どんなに危機的に見える状況でも諦めさえしなければ流れはやってくるから。
「それとも忘れちゃったかなあ? 忘れることにしたのかなあ? なんにしても許さないけどな」
そう、言葉のひとつひとつに耳を澄ませば……今みたいに。
「忘れたことを許したくないってことはお前が忘れたくなかったっていうふうにも取れるけど?」
オーケー、ここから反撃。そう思った彼にリョータはにやりと笑い返した。そう来るのはわかってたよ、そんな表情にも見える。
「おう、やられたらやり返せばいいってお前に教えてもらったからな」
「そんなこと言った?」
「言ったね、やられたらやり返せばいいだけじゃん。ただし3倍にしろよって」
あ、根に持ってる……まあそうか。朝起きてやった相手が忽然と消えていたなんてことが自分の身に起こったら、その朝の心づもりがどうであれ腹が立つものかもしれない。
いや、待てよ、でも「やり返す」ってどうやって? 「やり返す」ためには、その前の行為も必要になるのでは? つまりはあの夜をくり返す? それがリョータの望むこと?
彼は今すぐリョータの肩を揺すって言葉の真意を確かめたい衝動と、じっくりと距離を測りながら自分の優位でことを進めたい気持ち(だが、一体どうしたいのかと問われればよくわからなかった)との合間で揺れ動く。
「リョ……」
目が合う。リョータの瞳がきらめく。その瞬間、二人以外の世界は動きを止めた。瞬きがスローモーションで繰り返され、リョータの睫毛は相変わらず長くてそしてちょっとセクシーだ。もしかして手を伸ばせば届いたのか? そんな疑問が浮かぶ。あのときベッドから先に抜け出したのは間違いだった? 瓶に詰めて蓋しちゃったのも?
「沢北!」
だが、突然、一瞬閉じられたかと思った世界は外側から強引に開かれた。
「はい!」
先輩の声だと気が付き、反射的に声を上げた。手を上げて近づいてくる男のほうに意識が向きかけたとき、また耳元で声がする。
「今度は逃がさねーから」
え?言葉の余韻だけを残し、もうリョータは彼に背を向けている。再試合って、そういうことでいい?
「久しぶりです」
先輩たちに頭を下げながら、リョータの背中を見送る。この話が終わったら、なんとかリョータを捕まえなければと彼は考えている。割れた瓶からあふれ出た中身は思ったより匂いも味も落ちていなかったようだ。早くリョータを捕まえて、彼も言いたいと思った。
「今度は逃げねーし、逃がさねー」