色香目が覚めた時は病院のベッドの上だった。窓の外はもうすっかり暗くなっていて、傍に両親が座っていた。
「かず君っ!」
「かずっ」
両親の顔が視界に入って、あぁ、心配させてしまったなぁと、その顔を見て反省した。
「目ぇ、覚めた。…良かったぁ…」
「どう、大丈夫?」
二人の安心した声が、俺自身もほっとさせる。病院で何かしらの処置をされたのか、今はそこまで気持ち悪くない。
「だ、いじょうぶ、ピョン」
「そう、…よかった…。心配したよ」
「先生、呼ぶね」
今は大丈夫。でも、わざわざ両親が病院まで来ていることで、自分の体がなにか重大な病気になったのではないかと、一気に不安が出てきた。どちらかというと体はでかい方だし、体力はあるからこそ試合はフルで出れているし、思い返してみても病気という病気は風邪くらいだ。わざわざ先生が両親を呼んで、こうやって俺が目覚めるのを待っていた。どう考えても只事じゃない。考えれば考えるほど悪いことしか思い浮かばなくて、はぁっと、深い溜息が出る。ドアが開く音がして先生が入ってきて、俺の顔を覗く。俺とは違い、笑みを浮かべて「大丈夫そうだね」という声が、今の状況と正反対な気がして、なんだかおかしな気持ちになった。
「起き上がれる?」
「はい」
「じゃあ、診察室で話をしよう」
今から何を言われるんだろうと、嫌な想像しか浮かんでこなくて、立ち上がった足がすごく重い。両親も何も答えないまま、後ろを歩くのは、多分、俺と同じ事を考えてるからなんだろう。診察室に入って椅子に座らされ、両親は俺の後ろに立つ。
「一成君の検査をして、分かった事が二つあります」
二つ…、も…
「非常に言いにくい事なんだけどね…」
その言葉で、ああ、やっぱり…、と確信して、何を言われても動じないように、ぎゅっと手を握りしめる。
「君は登録ではアルファになってるけど、今回の結果では…、オメガになってます」
えっ…
「世界的にも稀な事で、過去、一件しか前例がありません」
…お、れが、……オメガ……
「ま、間違い、では…」
てっきり重たい病気だとばかり思っていたから、“オメガ”と言われても、何を言ってるんだろうと、理解できない自分がいた。だから、俺より先に言葉を口にした母の声が震えているのに気づいて、やっと現実として飲み込む事ができた。
「それはありません。…おそらく、遺伝、であるかと思います」
遺伝、と言われて後ろを振り返ると、母の顔が青ざめていて、そんな母の肩を父がぎゅっと抱きしめた。それを見て、ああ、本当に遺伝なんだ、とすんなりと納得する事ができた。
「でも、一成君はアルファからのオメガです。これは初めての例になります」
先生の声が少しだけ高くなる。前例のない状況に先生自身、興奮を抑えきれていない。俺はまず、病気ではなかったことに安堵して、オメガと伝えられた事に対しては、ただ、伝えられた、としか認識できなかった。多分それは、実質的な変化がまだ体にでてないからで、吐き気とは別のオメガらしい症状が現れたら、その時にやっと実感できるのかもしれない。
「それと、もう一つ…」
さっきと同様、先生が言う前に一瞬躊躇って、嫌な間を置く。こうやって言いづらそうにするのは、これもやっぱり重大な事なんだろう。できれば命に関わる以外であってほしい。それならどうにか対応できる。だから、どうか、病気だけは…
「妊娠、しています」
瞬間、心臓が跳ねる。
「に、ん、しん…」
ドクンドクンと、耳元で響く心音が今にも爆発しそうな音を立て、母の悲痛な声が、まるで遠い所で囁かれているようだった。
俺が、…妊娠…
オメガになった事まではどうにか理解できた。でもそれ以上に人生で考えたこともない出来事が、今、自分の体の中で起こっている。どう答えたらいいのか分からなくて、言葉は出ないのに、心臓は今までにないくらい大きな音を立てている。
どうしよう…どうしよう…
体温が一気に熱を帯びて、その全てがお腹に集中する。
だとしたら……、
めちゃくちゃ、うれしい…
妊娠という言葉を聞いて、一気に嬉しさが溢れてきて、思わずお腹に手を添える。まさか、自分にこんなチャンスが巡ってくるなんて思ってもみなかった。オメガになっだだけでも奇跡なのに。一生叶う事のない、絵空事のような希望が、今、まさに叶ってる。
「大丈夫かい?気をしっかりもって」
嬉しくてお腹を摩る俺を見て、ショックを受けてるように勘違いされたのか、気遣う声が先生からかけられる。何も話さない後ろの両親は、おそらく倒れる数然なんだろう。
「怒らないであげてくださいね。運命のつがいに会うと、これはごく自然なことなんです」
「運命、…番」
「ご両親は、既にご存知の事と思いますが…、今から言う事は、これからの一成君にとってとても重要で、とても大変な事になります」
俺の行動を“負”と捉えた先生は、俺に対して少し困った視線を向けてきたが、それは大きな勘違いだ。俺は嬉しくて嬉しくて嬉しくて、今は底から湧き出る震えを止めるのに必死になっている。オメガになって、妊娠して、それを嬉しく思っている俺は、これ以上何を言われても、全く驚く事はない。ただ、最初に両親に対して向けられた言葉は、さすがに引っかかった。でも、それを問う前に、先生の話で意識を戻される。
「一成君は、今から国の保護対象になります」
保護、対象…。
ああ、やっぱり大した事じゃない。そんなの別に、いくらでも、なんでもしてくれて構わない。研究材料にだって好きなだけしてくれていい。
本当に、そんな事、どうでもいい。
それで、この子が無事に、産めるなら。
「一成君の場合、過去、例がないので、ほぼこちらの指示に従って、生活してもらうことになります」
「…あの、…子どもは…」
一番不安な事を父が躊躇いがちに尋ねて、俺の心臓がドクンと跳ねる。
「そうですね…」
どうか、お願い…と、お腹に当てた手に力が入る。
「勿論、産んでもらいます」
はぁ…、
よかった…
先生の言葉で緊張の糸が一気に解ける。
もし、降ろせと言われてたら…
逃げる手段を考えるとこだった。
「ただ、一成君には、できればちゃんと高校生活も送ってほしいと思ってます。卒業式には出れないかもしれないけど、産んでからも、行きたい進路に進んでもらうつもりです。その為にこちらは母子共に全面的にサポートします。だから、お父さんもお母さんも、心配だとは思いますが、信頼して全てをこちらに任せて下さい」
「……分かりました」
「おいっ!」
了承した父に対し、母は眉間に皺を寄せて父を睨みつけている。
お母さんは…嫌なんだ。
父より母が反対したことが、かなりショックだった。
「仕方ないよ。いくら僕達が反対しても、どうにもならない事だから。先生がちゃんとやってくれるって言うんだから、それを信じよう」
「でもっ」と何か言いたそうな母に対して父がまぁまぁと宥めている。気が立っている母とは比べ物にならないほど落ち着いている父は、こういう時、本当に頼もしい。
「…でも、これは、かず君の意志次第ですよね?」
有無を言わせないかのように問いかける父の姿は、俺を一番に考えてくれてるのが伝わってきた。こんなふうに両親を心配させてしまった事に、今の状況が俺の中でどんなに幸せであっても、さすがに申し訳なさが広がってくる。
「勿論、私達は一成君の意志を一番に尊重します。ただ、産む事に関しては、絶対に産んでもらわないといけません」
「そんなっ」
「これは国の決定事項で、私達が判断できるものではありません。それは一成君自身にも言えます。今回の例は、国としては大変な利益になります。だから、一番は一成君です。その一成君が、既に妊娠しているとなると、両方の命を守る義務が我々には課せられます。それにデータが何もない状況でこのチャンスを逃したら、…もう二度と妊娠できないかもしれません。それは国にとって大変な損失になります。そんな事を国は絶対に許しません。それは、ご両親が一番よく分かっている事だと思います」
「………」
今までの話を聞いていて、なんとなく、両親の事情が理解できた。遺伝と言われれば、もう確定だ。前例の一件はうちの両親で、どちらかが俺と同じように突然変異して、その結果、俺ができた。おそらく変異は母の方だろう。俺に対してこんなにも否定的な態度をとっているという事は、母にとってはすごく嫌な事だったのかもしれない。
「ごめんね、一成君。産む事に関してだけは、どうしても変えることができないんだ。もし君が、産む事を望まないとしても」
先生の言ってる事は分かる。
いくらオメガになったからといって、高校生が妊娠して、素直に喜べるものじゃない。両親だって、自分の子供がこの歳で妊娠したなんて嫌だろう。それに、この先やりたい事や夢を持っている高校生が妊娠するなんて、自らその道を断ち切って潰してるようなもんだ。自分自身、これからもバスケをやっていくつもりでいたから、こうなった以上、もう今まで描いていた未来を辿ることはできなくなった。でも、俺は嬉しかった。今まで描いていた道は辿れなくても、こんな奇跡が起こってくれて、また違う未来が開けた。本当に今、感謝しかない。決してそれが誰にも望まれない事でも。
「俺は…産みたい、ピョン。だから、その、…サポート、お願いします。ピョン」
「君がそう思ってくれてよかった。僕達は全力でサポートするよ」
笑顔で話す先生とは別で、後ろにいる両親の顔は、見る勇気がない。俺の言葉に対しても無言なのは、かなりショックが大きいからだろう。
「それで、一成君の今の状況ですが、妊娠五週目でつわりの症状がでてきて、体が変異に追いつかなくて、今回のように倒れたとみています。一成君がオメガになった原因なんですが。…首の後ろを何回か噛まれてる痕が残っています。おそらくそれが原因で、徐々にオメガへと変異したのではないかと考えています。それで、これは、…非常に言いにくい事なんですが…、」
首を噛まれて、オメガになって、既に妊娠していて…。もうここまでくると、先生の言いたい事は嫌でも理解できた。
「一成君は、既にその相手と番関係が結ばれています」
「………」
はぁっと、後ろでしゃがみ込んだ母に、父も先生も大丈夫かと声をかける。一気に強烈な三連コンボを喰らって、立ってる事ができなくなった母の深い溜息は、否定の意味が含まれている。それは俺にはキツくて、母とは暫く顔を合わせる事が無理になるかもしれない。それでも、こういう時に落ち着いていられるのは、俺が父親似なんだろう。
「ちょっと休まれますか?あなたの体も僕達は大切なんです。一成君がいた部屋を使って下さい」
「僕が運びます」
「では、お任せして。一成君と話の続きをさせてもらいます」
母を連れて父が部屋から出てくれて、少しほっとした。先生の口調で、変異したのは母の方だと確信した。だから尚更、俺がこうなった事がショックだったらしい。自分が遺伝させてしまったんだと、自分を責めてるのかもしれない。母にとって変異した事は、あまり喜ばしい事ではなかったのかもしれない。もしかしたら国の保護下になって、辛い思いをしてるのかもしれない。母に対しての否定ばかりの憶測が湧き出てきて、複雑な気持ちになったけど、それでも、俺は喜びの方が勝っている。
「いろいろ言われて、戸惑ってるよね?」
「はい。…でも、俺は妊娠した事は…正直、嬉しいです。…ピョン」
「…そっか。嬉しいんだ。そう思えるならよかった。ところで、ピョンって可愛いね。いつも言ってるの?」
「…前はベシだった、ピョン」
「そうなんだ!やっぱり君は面白いな。これからは敬語とか要らないからね。僕はずっと、…そうだな、僕がこの仕事を辞めるまでは、君の担当になるよ。あ、自己紹介がまだだったね。僕は片平晶。バースの研究員で、僕はアルファだけど、君はもう番がいるから、発情期に入っても他のアルファには匂いは分からないから安心して。今回の出産には他のオメガの先生が担当するけど、一成君自体はずっと僕が見ることになるよ。だから、堅苦しいのは抜き。それよりも僕の事を信頼してなんでも話してほしい。検査も多いし、プライベートを制限されて息苦しくなると思うけど、嫌な事はちゃんと言ってね。できる範囲でなら改善できるから」
「ピョン」
「ははっ、ピョン、可愛い」
「はい」
「ごめん、いいよ、そのままで。揶揄ってるわけじゃなくて、本当に可愛いと思ってるだけだから。…で、番の事なんだけど。相手ははっきりしてるのかな?」
「…ピョン」
「分かってるならよかった。合意なのか無理矢理なのか、その辺が心配だったんだ。オメガが急に発情期になって襲われるって事は君も聞いた事があるだろう?もし無理矢理なら、いきなりオメガと言われて知らない相手と番になってて妊娠までして、でも君は国の保護対象で望まない妊娠でも絶対に産まなければならない。そんなの普通なら心が壊れてしまう。だから心配だったんだ。でも君は嬉しいって思ってくれてる。ホッとしたよ。相手の人とは付き合ってるのかな?話せる範囲でいいから、具体的に聞いてもいい?」
今回、唯一、嬉しくない話だった。さっきまでの嬉しさでの“どうしよう”ではなく、困ったなという“どうしよう”が湧いて出てきた。“つがう”というのは、本来、お互いがそうしたいと思ってやるもので、今回みたいに、まずオメガだと思ってない相手にわざわざ番になるような行動はしない。だから噛まれてるのは、ただの噛み癖かプレーの一貫だ。そんな気もない相手に「俺達はもう番ってます」なんて言っても、受け入れてもらえるなんて到底思えない。それにどう考えても、あっちだって受け入れる気はないと思う。だって俺達は、そもそも何も、始まってないんだから…
「…部活の後輩で、…ただ、そういう関係だっただけで、付き合ってはないピョン」
これは世間で言うところのセフレであって、周りがすんなりと認めれる状態じゃない。
「そっかぁ。でも、番になった以上、伝えないといけないんだけど、君から説明する事はできるかな?難しいなら、僕から説明してもいいんだけど」
先生は、“セフレ”状態の俺達の関係には、一切興味がないようだ。それよりもこうなった過程や変異の方が知りたくて仕方ないんだ。じゃあ、関係自体にあまり興味がないなら、これは通るかもしれない。
「先生、それ、…言わなくちゃ、だめ、ピョン?」
俺の言う事は、セフレという立場ならあり得る発言だと思うけど、先生からしたら予想外の答えだったらしく、きょとんとした目で俺を見つめてきた。
「うーん、…まぁ、一成君が言いたくないなら、君の意志が一番だから、それはできると思うけど」
「でもなぁ」と、先生は考え込む。
「多分、と言うかほぼ100%に近い確率で、その子と一成君は運命の番、…いや、もっと特別な…なんていうのかな…あまり科学的ではないんだけど、前世でも未来でもずっと繋がってる、って言うのかな?言うなればまさしく、“運命の人”、だと僕は思うんだよね」
先生っていうのは、勉強し過ぎて逆に頭がおかしいのかと思ってしまう。“運命の人”なんて、なんでそこまで話が飛躍するのか。確かに今の俺に起こっている事は凄い事だけど、それこそ運命なら、出会った時から惹かれ合うのが運命だ。
「運命の番ってね、あらがう事ができないんだよ。殆どの人が出会った瞬間、強烈に惹かれあって、そのまま体を繋げちゃう。だから、君達がそうなったのも、自然な事で、恥じる事じゃない。今アルファは十人に一人、それに対してオメガは千人に一人って言われてるから、その中でアルファが運命の番を見つけるのは、容易な事じゃないんだ。寧ろ、そんな状況で出会えた事が奇跡で喜ばしい事なんだよ。それに君はアルファからオメガになった。こんな事は“運命の番”ってだけじゃ、なし得ないと僕は思ってる」
じゃあ、やっぱり、運命の番でもなければ、運命の人でもない。
「そんなんじゃ、なかったピョン。ただの性欲処理の相手なだけピョン。寮だから、環境的にそうなっただけピョン」
最初なんて酷いもんだった。それからダラダラとお互いで処理してきて、最後まで甘い感じなんて一つもなかった。本当に最後の最後、沢北がアメリカに旅立つまで、…あっさりと終了した。
「そんな事はないよ。アルファだった君を選んで、君の首を何度も噛んだんだ。君達だけが認識してないだけで、周りから見たらその時点で、もう運命の番って分かるよ。それに君はアルファからオメガになった。さっきも言ったけど、日本で初めての例だ。でも、それだけじゃないよ。世界で初めての例でもある」
やっと分かった。先生と俺との間には徹底的な乖離がある。こんな体にした相手を運命と簡単に言ってしまえる先生と、その相手に愛を感じなかった俺との差。だから、こんなにも目を輝かせて話ができるんだ。
「これが世間に知れたら君の安全も危ぶまれるから、どこかに閉じ込められてもおかしくないんだけど、勿論そんな事はしないよ。前途ある未来の若者にそんな不自由はさせたくないからね。でも君は奇跡の人なんだ。で、君をそうさせた相手も、僕等にとっては同じように大切な人になる。でも、優先順位はあるよ。一番は君、二番目が生まれてくる子、三番が相手の子。僕達は誰よりも何よりも君を一番に考える。だから、もし…出産する時に、何かあって…考えたくはないけど、どちらかの命を選択しなきゃいけなくなった場合、君の意志は関係なく、僕達は君の命を守ることになる。それで君が廃人になっても、だ。勿論そうならないように全力を尽くすよ。君も君の赤ちゃんも、僕等にとっては大事な宝なんだ」
ちょっと大層な話になってきて、母がああいう態度になるのも少し分かってきた。これから俺はかなり守られる側になるんだろう。でも、それなら、俺の事が一番なら、俺が知らせないでほしいと言えば、それは聞き入れてもらえるはず。
「先生、…やっぱり、言いたくない、ピョン」
「…分かったよ。言うのは無し!ただ、まだ決定事項じゃないよ。報告して、それに対しての結果が下るまでは言わないだけ。もし、それでも言うのが義務とされれば、その時は伝えないといけない。それは分かってくれるかな?」
「仕方ない、ピョン」
「ごめんね、もう既に不自由な事になってるけど、我慢してほしい。あと、相手には話さなくても、僕達が相手のことを知る必要はある。だから、その子の事、教えてくれるかな」
研究者の先生は俺の性行為になんて興味がない。それがはっきり分かったから、俺は最初から最後まで全てを話した。話終わっても、やっぱり興味を抱いていたのは、妊娠した日のタイミングで、それからオメガに変わっていく過程を逆算する事の方が楽しそうだった。俺自身に興味を持つんじゃなく、被験者としての俺に興味を持ってくれた事は、俺にとってはかなり楽だった。あとは、親とどう話しをするか。そっちの方がよっぽど大変だなと、後で確実に来る重たい時間を想像して、つわりなのか、なんかのか分からない吐き気が、波のように襲ってきた。