名前を呼んで 〜スタリオン石油〜「桜井さーん!」
聞き覚えのある声が、聞き覚えのない呼び方で自分を呼んできて、少し固まった。いや、バイト中なんだからしっかりしろと頭を切り替えて「はい!」と返事する。真面目なアイツがなんの用もなく人を呼ぶことはないんだから、早足で近づいていった。
「はあ……ありがとう。勉強はしてるんだけど、専門的な話になるとまだ全然わかんなくて……」
「あァ、気にすんな。俺はバイクいじってっからわかったってだけだしよ」
客からふられたエンジンオイル交換の話に困って俺を呼んだらしく、大きなトラブルではなかったことにほっとする。落ち着いたところで、さっき引っかかった部分が思い出されてしまった。
「そういやさっき……」
「ん?」
何も気にしていない目で見られると、気にしているのは自分だけかと怯んだ。それに、よく考えれば客や他の店員もいるバイト中だから、相手を名前じゃなく苗字で呼ぶのは自然なことで、俺だって呼ぶ機会があれば苗字で呼ぶだろう。
けれど、ルカと区別するためっていう理由だったとしても、俺のことを苗字で呼んだことのないアイツから呼ばれるのは変な感じがしていた。まだ距離を測りかねていたときに、俺は向こうを苗字で呼んでたのもあってか、距離が遠くなってしまった感じさえする。
きょとんとした顔でこちらを見続けられて、頭を振った。
「いや、なんでもねぇ。もう少しで上がりだろ? 俺も同じだから、帰り送ってってやるよ」
「いいの? ありがとう!」
本当に嬉しげな笑顔を見せて、彼女は持ち場へ戻っていく。俺も些細なことに気を取られてちゃ危ないと、気合を入れ直した。
シフトが終わり、片付けをしていたとかで少し遅れて仕事を上がったアイツをバイクの後ろへ乗せ、家まで送る。最初は直に感じる風と速さにビビっていた彼女も、最近は乗りなれてきたのか体を強張らせている様子はなかった。
見慣れた一軒家に近づくにつれゆっくりスピードを落とし、家の目の前で停まる。エンジンを切るか悩んだが、もう遅いしそんなに長話はしないだろうとそのままにした。着いたぞ、と一言だけ伝えると、体が離れていく。
「今日もありがとう、琥一くん」
へにゃっとした笑顔で名前を呼ばれると、バイト中の考え事のせいか、いつもより心臓が跳ねた。言葉に詰まって何も言えずにいると、重ねて「琥一くん?」と心配げな呼び方をされる。
ルカと一緒にいることが多いせいか、誰からも名前で呼ばれることは慣れているはずなのに、コイツから呼ばれるのは、また何か違う感情が湧いてくる。熱くなりつつある顔を隠すために、前を向いた。
「なんでもねぇ。じゃあな」
話を勝手に切り上げて、アクセルを回した。横目で少し不思議がった顔が見えたが、すぐに「じゃあねー!」と元気そうな声が聞こえる。
別に名前に特別な思い入れがあるわけじゃない。けれど、アイツのことは名前で呼びたいと思うし、アイツからは名前で呼ばれたいと思う。バイトの時間だけ、普段は名前で呼び合ってるのを隠してるみたいだな、と思えば、少し気恥ずかしい感じがした。