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    nnsit75

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    nnsit75

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    陸上部キャプテン💛×生徒会会長💜(舞台は日本)
    注:💜は前生徒会長と付き合っていて、彼のことが大好きです。
    何に対して注意書きしたらいいのかわからないぐらいあちこちに地雷原がありそうな話です。なんでも許せる方向け。

    #mafiyami

     ばさばさと机の上に積まれた紙が地面に落ちる。
     目に通したはずの書類とそうでない書類が混ざってしまい、シュウはため息を吐いた。手に持っていた書類を置くと、それらを拾い上げようと思うも腰が上がらない。
     机の端に置いていたスマートフォンに目をやる。ギリギリ落ちていないそれをタップするも、通知は何も来ていない。それを確認するとまた一つため息を吐いた。
     毎回裏切られるとわかっていても、期待して通知を確認してしまう自分に嫌気がさす。
     シュウは今はこの学校の生徒会会長をしているが、前年は副会長をしていた。そしてその時の会長の男とこっそり付き合っていた。最初は彼からアプローチされて困惑していたが、ひと目に隠れて手を繋いだりキスをしてはドキドキして、彼のことを心の底から好きになっていった。
     たとえ彼が会長という役職を盾に好き勝手振る舞っては影でシュウや下級生に暴言や暴力を振るっていたとしても、彼が初めてシュウにキスをしたこの部屋で他の女を抱いていたとしても、彼は最終的にはシュウに優しくしてくれたんだ。
     それに彼はどんな人格をしていたとしても、表向きは仕事が出来た。そこもシュウにとっては好ましかった。彼は生徒の声に寄り添ってその意見を受け入れようと必死になっていた。
     だが、卒業してしまった今、彼はシュウに大量の仕事を残してなんの連絡も送ってこなくなってしまった。メッセージアプリを起動してみれば、一番上に固定された彼とのチャットは、自分が送った卒業を祝う言葉で終わっている。それには既読は付いているが、返信は返ってきていない。そのまま1ヶ月が経とうとしていた。
     シュウは机に残っている書類の山に顔を埋める。端に追いやられていたそれらがまたばさばさと落ちていったが気にならない。滲む涙をなんとか堪える。これらを濡らすのはまずいから。彼が卒業前に成し遂げようとした者たちの痕跡だから。これらを無事に完遂できたらきっと彼がまた現れて頭を撫でてくれると夢見ているのだ。
     突然、扉がノックされる。慌てて顔を書類から上げて、涙を拭う。
    「ど、どうぞ」
     幸いにも声はあまり震えていなかった、はずだ。

    「シュウ!最近ずっと引きこもってばかりだし一緒に走りに行かない?」
    「ルカくん!?」

     部屋に入ってきたのは親友のルカだった。ルカとの出会いは衝撃的だった。何も運命的な出会いを果たしたというわけではない。一年生の時たまたま隣の席になって、話してみれば趣味もクラスでの立ち位置も何もかもが違ったのに、なんだか妙に気があったのだ。
     ルカがポツリと漏らす言葉が
     二人は二年生で違うクラスになっても昼休みにお互いの教室へ行き来するほど仲が良かった。それもシュウに彼氏ができてからは無くなってしまったが。
     しかし三年生になり、再度同じクラスになって、シュウが生徒会長を引き継ぎ、彼から連絡が来なくなってからはまたよく一緒に話すようになった。その内容はもっぱらシュウの彼に対する相談だったのだが、ルカはにっこり笑って「大丈夫だよ」とシュウを慰めてくれた。
     そして最近はこうして事務仕事に勤しむシュウを心配してか外に連れ出すことが多くなっていた。シュウも気分転換になるし、やはりルカと話すことは楽しいので、そうしてくれることが嬉しかった。反面、何も返せていないことをもどかしく感じていた。
     ルカはシュウの愚痴や悩みを親身になって聞いてくれるが、ルカはそういった話をシュウにしたことはあまりなかった。一度、タイムが伸び悩んでいると相談を受けたが、シュウは陸上に詳しくないので、その時は有意義な回答は返せなかったと思う。だからシュウはルカにはもらってばかりだと感じていた。自分たちの友情はそんなことで壊れるものだとは全く疑ってはいなかったが。
    「今日はいい天気だから気持ちがいいと思うよ!」
     ルカは窓の外を指さして言う。確かに言われてみれば太陽の光は眩しくて、週は目を細めた。
    「でもルカくんについていける自信がないよ」
    「自転車でもいいよ!」
    「体力がもたないって」
     シュウは呆れたように笑う。だってこの男は陸上部の中でも最も期待されているエースなのだから。前回の県大会では優勝して帰ってきたので、生徒会で垂れ幕を発注したのは記憶に新しい。
    「じゃあ散歩しようよ!」
    「え〜……なんでそんなに僕のことを外に連れ出そうとするの」
    「シュウと話したいから!ここにいたらずっと仕事するでしょ」
     ルカは書類の山を見つめて言う。すると床に落ちたそれに気がついて、拾おうとかがんだ。
    「待って、ルカくん。大丈夫僕が拾うから」
     シュウも慌てて椅子から降りてそれらを拾いに行った。しかしルカは手を止めずに「手伝うよ」と言って全ての書類を拾い上げてくれる。
    「これ……」
     ルカは1番上に落ちていた書類を見つめると、他のものも同じように確認した。その瞳には書類に書かれている前生徒会長の名前が写っている。
    「あの人が残した仕事もシュウがやってるの?」
    「託してくれたの。僕にならできるって」
    「でも、連絡ないんだろ」
     シュウは何も言い返せなくなり、ルカを睨むと拾ってくれた書類を奪い取った。シュウの心には悔しさが込み上げていた。ルカには会長から暴力を振るわれていたことなども相談していたが、それ以上にシュウがどれだけ彼のことを好きであるかも伝えていたはずだった。だから最近、特に彼から連絡が来なくなったことを伝えてからのルカが彼を毛嫌っているような言動を繰り返すことが納得できなかった。
     またシュウの瞳には涙が込み上げてくる。彼の腕の中に入りたかった。優しく抱きしめて好きだと囁いて欲しかった。そうしてくれるだけでシュウはどんな時も幸せになれたと言うのに。
    「シュウ、ごめん。君を傷つけつもりはなかったんだけど」
     ルカはぎゅっと書類を強く握りしめているシュウの手を優しく包んだ。
    「ううん、連絡が来ないのは、事実だし……」
     二人の間に気まずい沈黙が流れる。
     シュウは書類を持って椅子に座り直して、それを仕分け始める。ルカは手持ち無沙汰になり、髪をいじりながら部屋に置いてあるソファの背もたれに腕を乗せて寄りかかった。

    「俺に何かできることある?」
     その沈黙を破ったのはルカからだった。シュウはその言葉にうーん、と悩む。
    「今はとりあえずこれに目を通して実現できるものかそうでないかを分けている段階だし……生徒会の役員もこの前無事に全員埋まったから……ルカくんは走ってきなよ。今度また大会あるんでしょ?みんな期待してるよ。それに次の大会に優勝できたら陸上部の予算をもっと引き上げることができるし」
    「シュウも?」
     気がついたらルカは机の反対側まで来ていて、シュウの顔を覗き込んでいる。
    「へ?」
    「シュウも俺に期待してくれてる?」
     その言葉にシュウは笑って答える。
    「もちろん!だってルカくんは僕の自慢の親友だよ!優勝するだろうと思って垂れ幕の準備はすでにしてて、いつでも作れる状態だよ」
     それを聞いたルカは、パァッと顔を綻ばせた。
    「じゃあ俺は走ってこようかな」
    「そうして来なよ」
    「シュウ、たまに俺が走るところ見てよ。ここから見えるでしょ」
     ルカは生徒会長机の裏にある窓に近づくと、その向こうを覗き込み、下に見えるグラウンドを指差した。そこにはいつも陸上部が活動をしているトラックがある。
     一緒に窓を覗き込んだシュウは口に手を当ててふふ、と笑った。
    「時々のぞいてるよ。ルカくんが気づいてないだけで」
    「え!?俺も時々見上げてるよ!」
    「そうなの?」
    「でもいつもシュウの後頭部しか見えないからてっきり見られてないんだと思ってた……」
    「僕も。いつ見ても走ってるからそんなことしてないと思ってた」
     二人は顔を見合わせて笑った。先ほどまで感じていた気まずい空気なんてどこかに吹き飛んでいったみたいだ。
    「応援してるから頑張ってきてよ」
     シュウはルカの肩を優しく叩いて笑った。
     ルカの瞳には、その笑顔と共に、シュウの袖口から覗く手首についた彼の痕が写ってしまった。それを見るとルカの瞳は薄暗く燃えた。しかしそれは一瞬のことだったのでシュウは気がつかなかった。
    「頑張ってくるからお願いしてもいい?」
    「お願い?」
    「うん」
     ルカはシュウの腕を掴むと、自分に引き寄せる。シュウはバランスを崩してルカに体を預けてしまう。
    「わっ、ごめん」
     シュウは慌ててルカから離れようとするが、その体はルカの腕に包まれ、阻まれた。
    「る、ルカくん……?」
     シュウは自分を抱きしめるルカの顔を見上げる。しかしルカはその顔をシュウの髪に埋めているため表情が見えなかった。
    「シュウ、俺が全国大会で優勝できたらお願いがあるんだ」
    「う、うん。わかった、何?聞くから離して」
     シュウの頭はこんなところを彼に見られたら、という考えでいっぱいだった。彼はもうここにはいないと言うのに、バレたらどんな目に遭うか、捨てられるかもしれない。そんな不安で心臓がキュッと痛んだ。
     しかしルカの腕の力は強く、シュウがどんなに身じろぎをしても離してはくれない。

    「優勝したら俺と付き合って」
    「わかっ…………へ?」
     
     ようやく解放してくれたルカは、なぜだか悲しそうな表情をしていた。





    「会長!応援団のはちまきが足りないそうです!」
    「追加で発注しておいて!」
    「会長!当日のプログラムが凡そ決定しました!」
    「後で目を通すから置いておいて!」
    「会長!グラウンドの観戦席の配置が決まりません!」
    「前年と同じでいいんじゃないかな!」
    「会長!1年A組が応援弾幕のデザインで揉めているそうです!」
    「それは担任の先生になんとか納めてもらって!!!!」

     シュウは生徒会室の扉を勢いよく閉めると、ソファに沈み込む。肺いっぱいに吸い込んだ空気をゆっくりとはきだすと、ようやく喧騒から隔離されたようで落ち着く。
     今は5月に行われる体育祭の準備で学内が大騒ぎになっている。特に合間に行われる応援合戦が目玉のプログラムで、応援団がダンスやパフォーマンスを披露するほか、各クラスが作った応援弾幕が掲げられ、それが一種の競技として最も優れたクラスには点が入ることになっている。
     そのため準備には一ヶ月ほど時間がかけられるし、それに付随して様々な問題が起きてくるので、それらを取りまとめている生徒会長であるシュウは文字通り忙殺されていた。
     シュウは机に乱雑に置かれた書類の中からプログラムの表を手に取ると、それに目をとおす。問題はなさそうだが、見覚えのない競技が一つ入り込んでいた。
    「借り物競走なんてあったっけ?」
     シュウは元々体育祭に興味がなく、自分がでる競技以外をあまりちゃんと見てこなかったがそれでもその競技名には違和感を覚えた。
    「これがあるから配置に悩んでたのか……」
     先ほど困った顔をして配置図を持ってきた下級生の顔を思い出す。おそらく借り物競走のお題は『〜〜な人』などのお題が紛れ込んでいるだろうから、導線を考えなければケガが起きてしまうかもしれない。ちゃんと考えてフォローしてあげなければ。シュウは頭を抱える。
     ふと一枚の書類が目に入った。それは借り物競走を開催することを求める許可証だった。そこには教頭や校長のサインがすでに入っている。そして、その書類の作成者は前生徒会長だった。そこには、学生たちの要望として借り物競走の開催が求められていることや、それを採用することによってどんなメリットがあるかがいい感じにまとめられているものだった。
    「そっか、あの人が……」
     シュウは書類に記載されている名前を指でなぞる。これも彼が自分に託してくれた仕事なんだ。そう思うと、不思議と頑張ろうと言う気持ちになった。よし!とシュウは気合を入ると、自分の机に向かう。
     その途中窓のそばを通って、ふと無意識にグラウンドを見やる。
     そこでは太陽の光を綺麗に反射するブロンドが風に靡いて、気持ちよさそうに走っていた。手を窓に当てて、覗き込む。彼は自身が風になっているかのように軽やかにトラックを走り抜き、他全ての選手を置き去りにして一番にゴールラインを踏み越えた。

     ルカはあの後、地方大会を優勝して無事に全国大会へと勝ち進んでいった。そしてその全国大会でもし彼が優勝したら。
     シュウは頭を振ってそれ以上は考えないようにする。ルカにはあの後考えさせて、と返したが正直あまり考えないようにしてきた。その理由はこの忙しさもあったが、一番は考えると心が苦しくなってしまうからだった。
     それこそ言われた初日は家に帰った後ベッドで眠れないほどに考えた。しかしどれだけ考えてもシュウの心は締め付けられる一方だった。前生徒会長のことがいまだに好きだし、でも彼の心はもうシュウにないかもしれない。ならばシュウはルカと付き合った方がいいのかと言われるとシュウの心がルカにない以上それは失礼な気がした。
     ルカから提案してきた以上、それでもいいから付き合いたいということなんだろうと思ったが、自分が上手く振る舞える気がしなかった。それにルカとは親友で、大親友で、どんな友達よりもずっと深い友情を互いに持っていると思っていたけど、それ以上の関係になるとは全く思っていなかった。
     だからどうしたらいいのかシュウには全くわからず、ただ前生徒会長の心が今どこにあるのかが気になって苦しみ続けた。
     なのでルカには申し訳ないけど、シュウはこれについて全く考えないことにした。幸いにも仕事はたくさんあるから考える時間がないというのもあった。あの会話があった後でもルカと気まずい雰囲気になることはなく、今まで通りに接してくれている。もしかしたら、このまま話題に出さなかったら約束のこともわすれるかもしれない、なんて願ってしまっている。

     そんな事を考えていたら、視線の先の金髪が揺れて、不意にこちらを見上げた。そしてぱち、と眼と眼が合ってしまった。シュウがびっくりして一歩後ろに下がった時、机に足をぶつけて手に持っていた資料を全て落としてしまう。慌てて窓から視線を下げてその場にしゃがみ、落とした物を拾う。
     顔が熱い気がする。その理由はわからないけど。きっとルカのことを考えている時に目が合ったからだと思うんだ。それに内容も内容だったし。このうるさい心臓も突然こっちを向いたからびっくりしただけで、ただそれだけ。
     シュウは頭の中で誰かに向けた言い訳をつらつらと並べながら、自分の心臓に手をあてて目を瞑り熱が逃げるのを待った。
     ガチャ。
     突然部屋のドアが開いた。
     シュウは振り向かなくてもそれが誰かわかった。生徒会のメンバーは全員ノックしてから入るように言ってあるし、シュウにはそんな言動を許せる気の置けない友人は一人しかいなかったから。
    「シュウ!大丈夫!?ぶつけてなかった?」
     案の定、ルカが部屋に入ってきては、しゃがみこんでいるシュウの真正面に回り込んでくる。そしてシュウは大した怪我をしていないと気づくと、良かった、と穏やかに微笑んだ。
    「は、走ってきたの?」
     シュウはなぜだかルカの顔が見れなくて、地面を見つめながらそう聞いた。
    「うん!だって目が合ったと思ったら急に見えなくなるからどうしたのかと思って!」
     やっぱり目が合っていたんだ。そう思うと、シュウの顔はまた熱くなってくる。しかしこの熱は持ってはいけないものだから、隠さなきゃ、とシュウは顔を膝と腕で隠す。
    「……廊下を走るのは校則違反だよ」
    「うっ……見逃して、生徒会長サマ」
     ルカは顔の前で手を合わせてシュウに拝んだ。シュウはルカにそう呼ばれることがあまり好ましくないように感じて、小さい声で「いいよ、もう」と返した。
     また部屋には沈黙が流れる。
     この部屋でルカと会うのはあまり良くないのかもしれない、とシュウは思った。そもそもここは生徒会長以外はあまり立ち入らない部屋だ。他の人がここにいるのがシュウには違和感なのかもしれない。
     それに、この部屋はつい数ヶ月前までこっそり前生徒会長と逢瀬をしていた場所だった。隠れてキスをして、隠れてお互いに触れ合ってた。そこに親友がいることがなんだかむず痒く感じる。ルカがここにくるようになったのは前会長がいなくなりシュウが会長になってからなので申し訳無さも感じるのかもしれない。もしかしたら、彼は誰かからルカがここに出入りしているのを聞いて怒っているのかもしれない。そんなことまで考え始めてしまう。

    「シュウ、今あの人のこと考えてるでしょ」
     突然ルカの声が聞こえて、シュウの思考はフリーズする。見抜かれていることにビクリと肩を揺らした。
    「か、考えてない」
    「嘘。見たらわかるよ」
    「何も見えてないでしょ」
    「俺はシュウのことずっと見てたから」
     ルカはシュウが膝を抱えている手に自分の手を重ねる。シュウの肩がまたビクリと震えた。
    「なんで急にそういうことを言うの」
    「急って?」
    「だって僕たちずっと友達だったでしょ」
     シュウはゆっくりと顔をあげる。その表情は明らかに困惑していた。ルカは笑って、もうシュウが顔を隠さないように両手で頬を包み込む。
    「友達に恋するのは変?」
    「わ、わからない」
    「俺は……本当はシュウが先輩と付き合う前からずっとシュウのことが好きだったから、諦めてたんだけど、先輩がシュウを捨てるなら……」
    「捨てられてない!」
     シュウは叫ぶとルカの身体を突き飛ばす。ルカの強い体幹は倒れることはなかったが、シュウから手を離す。
    「先輩は僕を捨ててない!まだ、わかんないでしょ……」
     シュウの大きな瞳からポロポロと涙がこぼれる。長い瞳が涙で濡れて、ほほを伝って雫は地面に落ちる。
    「ご、ごめん、シュウ。泣かせるつもりは……」
    「出てって!」
     シュウはルカの胸をぽかぽかと殴る。涙は溢れ続け、シュウの顔はぐちゃぐちゃになっている。
     ルカは肩にかけていたタオルで乱暴にそれを拭うと、ごめんね、と言ってその場を後にした。

     静かになった部屋の中で、シュウの手は空を掴んだ。その手が掴みたかったものはなんだったのか、その答えはシュウ本人にもわからない。涙が地面に落ちている書類に落ちたことに気付いて、慌てて拭う。滲んだあの人の名前を見つめて、シュウの瞳はまた潤んでくる。
    「僕、捨てられて、ない、よね」
     ポケットからすがるように取り出したスマートフォンは暗く沈黙している。



     次の日、シュウが登校する足取りは重かった。どんなに喧嘩をしても次の日にはごめんって笑いあってこれたが、今回は流石にそうはいかないだろうという気がしていた。シュウは教室の扉の前でため息を吐いた。
     ルカは怒っているのだろうか、それとも呆れてしまったのだろうか。まだ彼を信じている愚かな自分に付き合いきれないと思われてしまってもしょうがない。前会長のことを信じているが、その反面そんなことを考える自分がいる。
     ルカとシュウは隣の席である。なぜなら、最後の一年だから好きな席にしろと先生が言ったため、ふたりともすぐに隣の席を選んだのだ。ただシュウはそうした過去の自分を怨んだ。ルカと顔を合わせて何を話せば良いのだろう。謝るべきだとは頭で理解していても、それは自分が捨てられていると認めるようで嫌だった。
     シュウの頭の中はずっと相反する思考がぐるぐると回ってこんがらがっていた。

    「シュウ?そこで何してるの?」
     突然、シュウの耳にルカの声が聞こえる。一瞬幻聴だと思ったが、それが現実の、シュウの後から聞こえてきたことに気が付くと驚いて振り返る。そこにはいつもどおりの雰囲気をまとったルカが驚いた顔をして立っていた。
    「どうしたの?入らないの?」
     あまりにもいつものルカなので、シュウはそれに答えようとする前に目が潤んでしまった。それを見てルカはぎょっとすると、ブレザーの前を開いてシュウの顔を隠して周りから見えないようにする。
    「ルカくんのせいで涙もろくなっちゃった」
     シュウはルカの胸に顔を押し当てながら呟いた。
    「そ、そんなに俺のこと嫌いになった?」
    「昨日はひどいことを言ってごめんね」
    「そんな事言われた?俺のほうがひどいこと言ったよ」
     ルカはそう言いながらシュウの頭を優しく撫でてくれている。
     触れられている場所が、顔がだんだん熱くなっていく。そういえば、あの人はシュウが泣いている時はいつも殴ったりひどい言葉を投げかけるだけで、こんな風に触れられたことはなかった気がする。
     ルカが触れるたびにシュウのこんがらがった頭の中は緩く溶けて解けていくみたいだった。
     その後なんとか涙を納めたシュウはルカから離れる。その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。シュウはルカの濡れたシャツを見ると、申し訳無さそうにした。
    「ごめん、ルカくん、それ……」
    「いいよ!ブレザー閉じれば良いだけだし!」
     ルカはいつもどおりの明るい笑顔を見せ、それをみたシュウの心臓は強く跳ねる。
    「……そういえば、全国大会っていつなの?」
    「全国大会?夏休み前かな!」
    「そうなんだ……」
     シュウはどきどきと高鳴る心臓を抑えた。
     …ー決めた。それまでに先輩とルカに対する気持ちをはっきりさせよう。
    「応援してるね」
     その言葉が意味することをシュウは何故か理解していなかった。





     青しか見えない晴天の下、掛け声に包まれたグラウンドを生徒たちが駆け抜けていく。周囲に放送委員の小気味よいアナウンスが響き渡る。ゴールテープを切った生徒がガッツポーズをして、歓声を浴びている。
     体育祭は概ね予定通りに順調に進行している。大目玉だった応援合戦も無事に終わった。
     今年のシュウのクラスの応援団長はやはりというか、ルカが勤めた。太陽の下で大きな声を出してダンスをするルカをシュウは目を細めて眺める。一つひとつの動作がとてもサマになっていて、観戦席からは女子生徒の黄色い声援が上がる。ルカもそれに気を良くしたのかウインクをして返したりなどしていて、シュウは一人で笑った。
     そんななか、ルカの視線がシュウへ向いた気がした。そしてルカは手を上げて振る。シュウは周りをきょろきょろと見渡してからおずおずと手を上げてそれに返す。本日の主役にファンサービスをもらったかのような気分だ。シュウは自分の顔が熱くなるのを感じて、汗を拭った。その次の瞬間にはもうルカは他の所を見ていて、なぜかほっとした。

     シュウは運営本部テントの下で進みながら何事も問題が起きていないかを確認する。シュウが確認した限り大きな怪我人は出ていないようだ。生徒会のメンバーからも問題はないという回答が返ってきて、シュウの残った仕事は、何かが起きるまでここで優雅に観戦するだけとなった。
    「お疲れ様、シュウ」
    「おつかれ、ルカくん」
     シュウのいるテントにスポーツドリンクのペットボトルを持ったルカが訪れる。元から当日はここにいるというのを伝えていたので、種目の合間に遊びに来たらしい。
    「今日はルカくん人気者なんじゃないの?」
    「しばらく出番がないんだ」
    「だからってここでサボり?」
    「シュウだって何もしてないじゃん」
    「それはそう」
     二人は笑い合う。ルカはシュウにペットボトルを渡してきた。どうやらシュウのために持ってきてくれたみたいだ。シュウはソレを受け取るとお礼を言って口を付ける。ルカはどこからか持ってきた椅子をシュウの隣に置いてそこに座った。ここで観戦をするようだ。
    「わお、彼とても足がはやい」
     シュウは今トラックを走っている生徒の一人を指差す。
    「あいつは陸上部で俺の次に速いんだ。まだ二年生なのに」
    「抜かれちゃう?」
    「いや?それでもまだ去年の俺のほうが速かった」
    「さすが」
     シュウは隣に座るルカの肩に頭をあずけてリラックスをする。ルカもそれに違和感を覚えることなく受け入れて活躍している生徒の解説をする。これが彼らの通常の距離感なのだ。周囲もそれに慣れているため、本来生徒会以外あまり近寄らないテントにルカがいることを気にとめることはない。
    「ルカくんは次何に出るの?」
    「えーっと、綱引きと借り物競走と、クラス対抗リレーと部対抗リレー」
    「え、多くない?」
    「頼まれたもの全部出るって言っちゃった!」
     ルカは朗らかに笑う。困っている様子ではないので、シュウはつられて笑った。
    「借り物競走にルカくんの足を使うのは勿体無い気もするけど」
    「全力で勝ってこいって言われた」
    「いいお題が引けるといいね」
    「何が出るかはシュウは知らないの?」
    「そういうのは体育委員会がやったから、僕は知らない」
     力になれなくてごめんね、と笑うとルカは俺なら何が来ても勝てるから大丈夫!と笑った。
    「そういうシュウはなにに出るの?」
    「僕はクラス対抗リレーだけ。全部生徒会の仕事があるからって断っちゃった」
    「こんなに暇そうなのに!」
     ルカは爆笑する。ほんとにね、とシュウも一緒に笑うが、何にも出なくてよかったと思う。だって何かの競技に参加していたらこうしてルカとゆっくり観戦することもなかったかもしれないから。
    『綱引きに参加する生徒は入場門の付近へお集まりください』
     アナウンスが流れた。どうやら観戦の時間はここで終わりのようだ。
    「頑張ってね」
    「シュウも声出して応援してよ!」
    「善処するね」
     シュウは入場門へと軽く駆けていくルカを見送った。

     シュウは椅子に深く腰掛けると、目の前で行われる競技をぼーっと眺める。ただ何かが行われ誰かが勝って負けている様子が瞳に写されては、脳でそれが処理されることなくどこかへと流れていった。元からシュウはこの行事に対して興味はなかったが、ルカが隣からいなくなったことで一気に退屈に感じる。
     前を閉めたジャージに膝をくぐらせて椅子の上で体育座りをする。
     そうして時間が経つのを待っていれば、綱引きの時間になったようで、グラウンドに大きな縄が置かれた。そして選手が入場してくる。そこにルカの姿が見えてシュウは少しだけ姿勢を正した。ルカの応援はしたいのだ。
     軽い銃声が響いたと思うと生徒たちが必死に縄を引き合う。ルカは一番中心に近いところで正面の生徒と力比べをしていた。勝負は互角に見えた。どちらかが引けば、もう片方が同じぐらい引き返して、縄の中心は開始位置からそう変わらない場所に居続けている。
     ルカの顔は険しく、全力で引いてるがそれでも苦戦しているように見えた。シュウは少し悩んだ後、テントの前の方に移動してグラウンドと観客席を区切るロープに近づいた。そして肺いっぱいに空気を吸い込むと、
    「ルカくん、頑張れ!」
     大きな声で叫んだ。
     シュウは可能な限り大きな声で叫んだが、周りの声援も力強いものが多くて、ルカに届いた確信はなかった。しかし、シュウはその瞬間にルカの腕に今まで以上の力が入ったのが見えた。そして最後の最後で引き切り、僅差でルカのチームが勝利した。
     退場したルカはまっさきにシュウのところへと走ってきた。その姿を見て、シュウの心臓はどきり、と高鳴った。
     そしてルカはシュウのところへたどり着くと、そのまま力強くハグをした。ルカの腕の中で汗の匂いをかいでシュウの頭は一瞬爆発しそうになる。
    「シュウ!応援ありがとう!」
    「き、聞こえてたの」
    「もちろん!嬉しかった!」
     ルカはようやくシュウを離すと、嬉しそうにニッコリ笑う。太陽を反射してきらきらと光る金髪が眩しくて、シュウは上手く顔が見れなかった。
    「つ、次もすぐ準備じゃないの」
    「そうだった!行ってくる!」
     ルカは慌ててまた入場門の方へ走っていった。背後で「あれ、ルカどこ行った?」という誰かの声が聞こえてくる。ちらりとそちらをみると、それは先程一緒に綱引きを頑張っていたクラスメイトだった。ルカは彼らと合流することよりもシュウの元へ走ってきてくれたのだ。それを自覚すると、シュウの心はむず痒くなり、顔が火照った。
     いつも通りと言われればいつも通りなのだが、最近はその距離感が嬉しくもあり心臓が苦しくなることもあった。

     借り物競争が始まると、生徒たちは待ってましたと言わんばかりに盛り上がった。変なお題を引く人もいれば、普通のお題で安心半分残念という気持ち半分の複雑な顔をしてゴールする人もいる。困ったお題にグラウンドをウロウロしている人を見ていると、たしかにこれは競技としてというよりは余興として面白いな、と思った。これを提案した先輩のことを思い出して胸がチクリと痛んだ。
     シュウが心臓を抑えていると、ルカの番がやってきた。ルカがお題の書かれたカードを引く。ソレを眺めると、一直線にこちらにやってきた。
    「シュウ!」
    「え」
     シュウが困惑する間もなく腕を引かれてトラックに連れ出される。そして「走って!」と言われて、突然のことに足をもつれさせながら一緒に走った。ルカはシュウに合わせて走ってくれているためぎりぎり追いつけているが、それでも今までずっと座っていたシュウの身体は固まっていて、急な運動に驚いている。
     なんとかゴールテープを一番で切ると、シュウは完全に息が上がって、心臓がバクバクと痛いほどに高鳴っていた。
    「それではお題を確認します」
     そうだ、お題。ルカはなんで自分を選んだのだろうか。生徒会会長なんてお題が入っていたのか、それとも黒髪という指定だったのか、それとも、まさか。今は走り終わって止まっているというのに、先程よりも強く心臓が動く。
     審査員係の生徒にルカがお題が書かれたカードを渡す。そして生徒はそこに書かれた文字を見る。シュウの瞳にはその動作が全てスローモーションのように見えた。顔が熱くなっていくのは走ったせいか、太陽の下にいるせいか。
     生徒の口が開かれる。

    「お題は『親友』!」

     それを聞いた瞬間シュウの動きは固まった。
    「そう!俺達は親友!」
     ルカは膝に手を当てて荒い息をしていたシュウの肩に自身の腕を乗せて、肩を組む。
    「お二人は学内でも有名なご友人同士ですものね!一位通過です!」
     二人は1と書かれた旗の後ろに並べられる。
    「シュウ、やったね!俺達親友で良かった!」
     ルカはいつもどおり眩しい笑顔をシュウに向けてくる。シュウは、ゆっくり息を吸った。
    「そう、だね」
     シュウはこの場から逃げたかった。お題を勘違いしていたことに、一人で恥ずかしくなる。そして、そうであることを期待していた自分にも気づいて、叫びだしたくなる気持ちをぐっと抑えた。目頭が熱くなる。
    「シュウだいすき!」
     それは、どういう意味で?声は形を伴わずにただの空気として吐き出される。つばを飲み込んで、ようやく声を出す。震えないように、気をつけながら。
    「僕も、ルカくんだいすき」
     太陽みたいに咲いた笑顔を見て、自分が上手く笑えていることに安心した。


     シュウが壇上に登り、閉会の言葉を告げれば体育祭は大きな問題もなく無事に終わった。優勝したのはシュウ達のクラスだった。やはりルカの応援団長としてのパフォーマンスが高く評価されたのだろう。あの時間の中で一番の盛り上がりを見せていたと思う。

     片付けの指示を出しながら、シュウはため息を吐いた。ほとんどの時間をテントの下で過ごしていたが、それでも雰囲気に飲まれて身体は大きく疲労していた。
    「シュウ!お疲れ様!こっちは終わったよ」
     陸上部に依頼していた部分の片付けを終わらせたルカがシュウの元へ走ってくる。
    「ルカくん、お疲れ様。そしたらもう大丈夫。みんなに帰っていいって伝えて」
     シュウは手元のバインダーにチェックを付けてそう伝える。終わってないのは……、当たりをキョロキョロと見渡す。するとまだ近くに立ったままのルカに気が付く。
    「ルカくん?」
     ルカはスマホに何かを打ち込むと、シュウに向き直ってニコリと笑った。
    「今みんなに連絡した!他になにかある?手伝うよ!」
    「いや、多分だいじょ……」
    「会長!この机は旧校舎から持ってきてたみたいで、運ぶの手伝っていただけないでしょうか!」
     慌てたように副会長が寄ってきた。どうやら向こうは向こうで別の片付けが残っているらしい。
    「……ルカくん」
    「任せて!」
     申し訳無さそうな顔をしたシュウに、ルカは半袖のシャツの袖を更にまくって二の腕の筋肉を見せつける。あまりにも頼もしくてシュウは吹き出した。

     二人は机を持って旧校舎へやってくる。幸いにも片付けが必要だったのはこの二つだけだったので、コレを置いたら仕事は終わりだ。人気のない校舎で一番手前にある教室を覗けば、そこに空いたスペースがあった。
    「ここでよさそう」
     二人はそこに机を置くと大きく息を吐いた。
    「つかれた~!」
    「ふふ、ルカくんも流石に疲れるんだ」
    「そりゃそうだよ!」
     そうは言っても声はまだまだ元気そうだ。
    「僕はもうへとへと。ちょっとここでサボっていかない?」
     シュウはそう言うと運んできた机に行儀悪く腰掛ける。ルカはそれを見るとニヤ、と笑ってスマートフォンを取り出しその光景を写真に収める。
    「生徒会長が不良になっちゃった」
    「あ!こら!」
    「実は元々シュウはそんなに優等生ってわけじゃないのにね」
     ルカはくすくす笑いながら言う。彼の言う通りシュウは周囲にはお手本になるべき優等生だと思われているが、ふとした仕草はたまに子供っぽい事をする。しかしシュウがそうやって素の行動を晒すのはルカの前でだけだが。
     ルカはスマートフォンをしまうと、机に座るシュウの前に立つ。そして汗でおでこに張り付いたシュウの前髪を整えた。
    「シュウってば全然動いてないのに」
    「暑かったの」
    「長袖着てるから」
     ルカは苦笑した。しかし、それを脱げとは言わなかった。なぜならシュウが暑いのにジャージを脱がない理由を知っているから。その下に隠された痣を想像して顔を顰める。
    「……まだ治ってないの?しばらく会ってないんだよね」
    「……ちょっとだけね。よく見ないとわからないかもしれないけど、気になっちゃって」
    「そっか」
     シュウはルカの身体に頭をあずける。せっかく整えてくれた前髪がぐちゃぐちゃになったのを感じたが気にしない。
    「……っふふ、ルカくんも汗臭い」
    「!そりゃあ俺はたくさん動いたから!」
     ルカは慌ててシュウの肩を掴んでその顔を自分から離す。シュウは楽しそうにケラケラ笑っている。
     その笑いが途切れた時、夕焼けに染まる教室に穏やかな沈黙が流れる。二人はお互いを見つめ合い、何とも言えない空気に、居心地が良いような悪いような気分になる。ルカがシュウの肩を掴む力が強くなった気がする。
     夕日のせいか、二人の頬が赤く染められる。シュウはルカのシャツを掴むと、少し身を乗り出す。顔をゆっくりと近づけて、長いまつげが閉じられていく。
     もうすぐでそれが触れ合うという時、

    「シュウ……?」
     困惑したルカの顔がシュウの視界に入った。

     途端、シュウは青ざめて勢いよくルカから離れる。
    「あ……そっか、ご、ごめん。僕、また勘違いしてたかも」
    「シュウ?」
    「ごめん、ルカくん」
     そしてその場から逃げ出した。



     シュウは疲れ切った身体をベッドに沈めた。なんとかお風呂に入ることには成功したけど、髪を乾かすのは億劫でそのまま来てしまった。このままじゃ綺麗に保ってきた黒髪が明日はボサボサだ。そう思うも身体はピクリとも動かない。まぁいいか、明日は休日だし。それに……。
     シュウの頭の中には一つの考えがずっと渦巻いていた。

     …ールカくんは、僕のことをそういう意味で好きなわけじゃない。

     考えてみれば不思議だった。二人は三年間親友で、一度もそういう雰囲気になったことはなかったし、シュウに彼氏ができたときも心の底から祝ってくれていたから。あれら全てが演技だとは思えない。ルカという人はそういう人だ。隠していたとしてもここまでずっと近くにいたら気づく瞬間はあっただろう。でもそんな瞬間は一度もなかった。
     親友としてルカがシュウに向けてくれる視線はまっすぐだ。そういう意味ではルカはシュウのことが本当に大好きなのだろう。その自覚はある。
     しかし恋愛感情で見てくれているかと言ったら、きっとそんなことはない。今日のいい雰囲気になった時の反応が全てだろう。彼は拒むでも受け入れるでもなく、困惑していた。そういう対象として考えたことが一度もない人の反応だと思った。
     その事実がシュウの胸を苦しいほど締め付ける。
     はは、僕ってば単純かも。
     優しくされては好きになって、ボロボロになってもずっと大好きで。また、傷ついた心を癒してくれたルカのことを好きになってしまった。もう自分の心に気付かないふりなんて出来なかった。だって今までずっと頭の中を占めていたのは先輩だったのに、今はルカのことばかり考えている。
     笑顔を向けられると暖かくて苦しくて、触れられるとドキドキして、今日はキスなんてしたくなってしまった。そんなの親友に向ける感情ではない。
     シュウはまくらに顔を埋めて声が出ないように唇を噛み締める。濡れた布が顔に当たる感触が気持ち悪かったが、そんなことどうでもよかった。ぽろぽろと目から落ちていく涙を止めることはできないし。ここには泣いているシュウの頭を優しく撫でてくれる人もいない。
     あの暖かくて優しくて大きな手が恋しくて、欲しくて、シーツを握りしめる。

     これはきっと先輩以外の人を好きになってしまった自分への天罰なんだろう。愚かな脳はそんなことしか考えられなかった。


     翌朝起きたシュウは案の定ボサボサに寝癖が付いた自分の顔を鏡越しに見つめる。泣き腫らしたので目も腫れてて見てられないような状態だった。
     しかしこんな日に限って家族に買い物を頼まれた。シュウの顔を見た家族はぎょっとしたが、理由を聞かずに外に出たら気分転換にもなるでしょ!と用事を押し付けて出かけていった。

     シュウはため息を吐いてメガネと帽子でひどい顔を隠して家を出た。夏へ向けて強くなっていく日差しが眩しい。下を向いて歩いていれば、驚いたような声が聞こえた。
    「シュウ……?」
     その声に驚いて顔を上げれば、同じように目を見開いた顔がそこにあった。
     それは、あんなにも会いたくて声が聞きたくてしょうがなかった前生徒会会長だった。そしてその隣には栗毛色のふわふわした髪を風になびかせた可憐な女性が困惑した顔で彼と腕を組んで立っていた。
    「せ、先輩」
     彼はシュウの瞳が隣にいる女性を捉えてることに気が付くと、バツが悪そうな顔をして女性の腕を外す。そして頭をかきながら言いづらそうにしてシュウに向き合う。
    「あー……あのさ、あれは全部気の迷いだったんだよ」
    「え?」
    「俺もお前も高校っていう閉鎖的な空間で、気の迷いで、そうなっちゃったんだって気付いたんだ。だからお前も俺のことなんて忘れて幸せになれよ」
    「なに、言って」
    「今の彼女は俺の全てを受け入れてくれるんだ。思えばお前は泣いてたもんな。違ったってことだよ」
     シュウはちらりと女性を見る。彼女はシュウと目が合うとニコリ、と笑った。その時前髪が揺れてその下に隠れた痣を見てしまう。
    「ぼ、僕だって、受け入れてたよ」
    「あー……もうはっきり言うけどお前男じゃん」
    「え……?」
    「お前なら顔綺麗だしイケるって思ったけどやっぱ女のほうが柔らかいし優しいし、全部がいいんだわ」
     シュウは自分が上手く息を吸えなくなったのを感じて、後退りする。
    「じゃあな。俺はもうお前のことブロックしたから、そっちも俺の連絡先消しといてくれ」
     彼はそう言い放つと彼女の腕を取ってその場から立ち去った。
     シュウはその場に立っているのが難しいほどのめまいに襲われる。一体何が起きたのか、彼が何を言っていたのか理解できなかった。呼吸が難しくなって、荒い息をなんとか整えながら足を後に向けると、走って家まで逃げ出した。
     家につくと部屋に籠もり、頭から布団を被る。今見た記憶を全て消したくて頭を抱えるけれど、むしろ言われた言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
     どうしてこんなに苦しいことばかりが起きるのだろうか。なにか悪いことをしたのか。彼のことを好きになってしまった過去の自分を呪うことしか出来なかった。
     暫くそうしてると帰ってきた家族がシュウが買い物をせずに一日を終えたことに文句を言う声が聞こえてきたが、無視して耳を塞ぎ続けた。


     その翌日、シュウは学校をサボった。
     それまでなんとか皆勤賞ではあったのだが、もう布団から出たくなかった。なにも見たくないし何も聞きたくない。特に、ルカとはどう顔を合わせればいいのか、前回気まずくなった時以上にわからなかった。
     その反面でルカに会って、起きた出来事を全て話してルカの腕の中で泣いて、優しく頭をなでて欲しいとも思った。この期に及んでそんな事を考える自分の頭をシュウは軽く殴る。泣きすぎて麻痺した頭はその程度の痛みは感じられなかった。
     どうしてこんなに苦しいのだろう。ルカのことを好きになって、彼のことはもうどうでも良くなったのかと思っていた。だって最近は通知を確認することなんて減っていたから。それなのに彼に言われた言葉がグサグサとシュウを突き刺す。
     面と向かって拒否されたことがこんなにも辛かった。
    「あーあ……捨てられちゃった」
     シュウはスマホから彼の連絡先を消し去ると、電源を落として部屋の隅にソレを放り投げた。

     夕方になればシュウの心はようやく落ち着いてきて、起き上がり、水を一杯飲んだ。
     …ー先輩のことも、ルカくんのことも、諦めよう。僕では二人と並ぶことなんて出来なかったんだ。
     ここのところの出来事で完全に自己肯定感が壊れてしまったシュウはそう結論付けた。今は苦しいけど、全部諦めたらきっといつか楽になる。先輩とはもう顔を合わせることはないだろうし、ルカとは良き親友でいよう。ルカが覚えているかはわからないけど、もしルカが全国大会で優勝しても、あの約束はなかったことにしよう。
     そう決めたら少しだけ心が軽くなった。久しぶりに自分のためだけに息が出来た気がする。

     突然家のチャイムが鳴らされた。
     この時間はまだ家族は帰ってこないはずなので不審に思う。宅配便も普段から夜に時間指定していたはずだからこの時間は誰も訪れないはずだ。
     それに、今のシュウはきっとひどい顔をしているだろうから、誰であろうと顔を合わせたくなかった。
     おそるおそる玄関のドア越しに声を掛ける。
    「ど、どなたですか」
    「シュウ?シュウ!どうしたの?」
     その声はルカのものだった。
     扉を開けたくなる衝動をぐっと堪える。今、彼に会うわけには行かない。先ほど決めた覚悟が揺れてしまうだろうから。
    「ルカくん、ごめん。ちょっと風邪ひいちゃって」
    「……本当?」
     普段彼はシュウの言葉をこんな風に疑ったことはないのに、今日に限って彼は勘が冴えているみたいだ。シュウはルカが自分のことを考えてくれているというだけで泣き出しそうになる。
    「っ本当!移すわけにはいかないから、今日は帰って」
    「……わかった。でも思ってたよりは元気そうで良かった。連絡返ってこなかったから」
     シュウは投げ捨てたスマホの事を思い出した。そういえば連絡先を消した時に通知が来ていたような気もする。
    「ごめん、見てなかった」
    「じゃあ俺帰るね。差し入れ、ここに置いとく」
    「……ありがとう」
     ドアの向こうからガサガサと音が聞こえる。
     足音が遠ざかると、シュウはゆっくり玄関の扉を開ける。扉の横に袋がおいてあった。しゃがみこんでそれを覗き込めばスポーツドリンクやゼリーからチョコまで様々なものがコンビニの袋に詰め込まれていた。
     そういえば、この時間は確かルカは部活の時間なのでは。ルカはキャプテンだというのに部活を休んででもシュウを心配してコレを用意して様子を見に来てくれたのだ。それに気づくと、胸が今までで一番締め付けられて苦しくなる。視界が潤んで、溢れる涙が抑えられなくなる。
     シュウは震える手で袋を持ち上げると、ソレを抱きしめた。
    「……ルカくん……っ」
    「やっぱり大丈夫じゃないじゃん」
    「っ……!」
     後ろから降り注いだ声にシュウは振り返る。そこには怒った顔をしたルカが立っていた。そしてそのまま泣いているシュウを優しく抱きしめる。
    「シュウ、なにがあったの。なんでそんなに泣いてるの」
     怒った顔をしていたのに、その声が優しいのでシュウの涙は更に止まらなくなる。ずっと欲しかった温もりがシュウを暖めて、冷え切った心が溶けていく。シュウは袋から手を離してルカの制服を握ると声を上げて泣いた。
     ルカはシュウが落ち着くまでずっとそのまま優しく抱きしめて頭を撫でていてくれた。

     落ち着いたシュウはルカを部屋に上げた。その時ついでに隅に追いやられたスマホを拾って電源を入れれば、そこにはルカからの心配のメッセージが大量に届いていた。
    「こんなに送ってくれてたんだ」
    「だってシュウが学校休んだの初めてだったから」
     ルカは我が物顔でシュウのベッドに腰掛けると、隣に座るよう促す。促されるまま隣に座れば、ルカはシュウの頭を抱えて自分の肩に乗せた。そのまま頭をぽんぽんと叩く。あまりに優しいその仕草に落ち着いたシュウの涙腺はまた緩む。
    「それで、なにがあったの?」
    「……僕は馬鹿だったんだって気付いたんだ」
    「えぇ、シュウが?」
    「……昨日、偶然先輩と会ったんだ」
     その瞬間ルカの手が止まった。シュウはぐり、と頭をルカの手に押し付ける。
    「それで、その、先輩の隣には女性がいて」
    「わかった。もういいよ、シュウ」
    「僕が男だから、触り心地が気に入らなかったみたい」
     最初に好きだと言ってきたのは向こうなのに。シュウは話していると、悲しみよりも怒りがこみ上げてきた。
    「シュウの魅力に気付いてないんだ。勿体無い」
     ルカはシュウの髪を撫でながら言う。ここ数日はまともに手入れのされていないソレは痛んでいるはずなのに、ルカの手は愛おしいものを撫でるようで、擽ったくなる。
    「そうだよ!なんであんな人、好きだったんだろう」
     シュウはルカの顔を見上げる。
    「ルカくんも、さっさと別れろって言ってくれたら良かったのに」
    「シュウはそれで幸せなんだと思ってたんだよ!俺は恋愛経験ないからよくわかんなかったし」
    「僕のことずっと好きだったのに?」
     ルカの動きはぎくりと止まり、笑顔がひきつる。
    「僕、気付いてるよ。ルカくんは僕のこと友達としては好きだけど、それだけでしょう」
    「っそんなこと」
    「わかるよ。ルカくんが僕の嘘を見抜けるように僕にだってそれぐらいわかるよ」
    「……ごめん」
     ルカの手はベッドに降ろされた。シュウは瞼を少し伏せた。やっぱりそうだったんだ。知っていたけど、自分の恋心を自覚してしまった心臓は軋む。
    「シュウが幸せなら良いと思ってたけど、泣くぐらい苦しめられてるなら、って咄嗟に……でもずっと好きだったのは本当だよ!」
    「友達としてね」
     ふふ、とシュウは笑う。いつだってルカはシュウのことを心配してくれて、行動に移してくれる。愛おしさが溢れてくる。いけない、これはしまおうと思っていたのに。
    「でもシュウがあの人とちゃんと別れられたなら、良かった。きっと次の恋人はいい人だよ」
    「それはルカくんじゃないの?」
    「へ?」
     シュウはルカの膝の上に乗り上げて顔と顔を見合わせてそこに座る。ルカは一瞬バランスを崩すも、しっかりと付いている筋肉でそれを支えた。
    「全国大会で優勝したら付き合うんでしょ」
    「だから、それは……シュウが先輩を諦めるきっかけになるように言っただけで」
    「ダメだよ。僕は本気になっちゃったから」
     シュウは両手でルカの顔を包むと、目を閉じて、自分の唇をルカのそれに押し付けた。柔らかい感触を味わって、すぐに離れる。目を開くと、ルカは目を丸くさせて驚いた表情のまま固まっていた。シュウはふ、と口角をあげる。
    「嫌だったらもう優しくしないでね。諦められなくなっちゃうから」
     シュウはルカの顔から手を離して膝から降りようとするが、ルカの手に掴まれそれは阻まれた。ルカはシュウの腕を掴むと引き寄せて身体をぎゅっと抱きしめて、顔を埋めた。
    「……ルカくん?聞いてた?」
    「聞いてた。けど、いつから?」
    「わからないよ。僕はどうやら優しくされたら好きになっちゃう単純な男みたいだから」
    「優しくされたら俺以外のやつも好きになるの?」
    「優しくされたことがないからわかんないけど、そうなんじゃない?それが何?」
     シュウは怪訝な顔をする。
    「僕が軽い男だって言いたいの?」
    「そうじゃないって!」
     ルカは顔を上げた。その頬は真っ赤に染まっていた。シュウの心臓はどきっと高鳴る。
    「俺、シュウのことは友達だけど、でも、俺以外のやつを好きになるのも嫌」
    「はぁ?」
    「俺が世界で一番シュウのこと幸せにできる」
     ルカはそう言ってシュウのことを力強く抱きしめる。
    「決めた!俺、全国大会までにシュウのこと好きになる」
    「はぁ?!」
    「だから俺が全国大会で優勝したら付き合おう」
    「む、無理だったら?」
    「俺が優勝しないとでも?」
     ルカはさも当然のようにそう答える。シュウは慌てて手を振った。
    「それはそうかもしれないけど、そっちじゃなくて」
    「だって俺シュウのこと大好きだし」
     折れない様子のルカにシュウは笑って息を吐いた。シュウは惚れた者にとことん弱いから、ルカくんがそう言うならしょうがないな、と思う。
    「じゃあ僕はルカくんに好きになってもらえるように頑張らなきゃ」
     シュウはぎゅっとルカを抱きしめ返す。ふと、気になったことがあったのでルカの顔を覗いて聞いてみる。
    「されて嫌なことある?例えば、さっきのキス、とか」
     するとさっきのことを思い出したのか、ルカの顔が一気に赤くなった。
    「な、無いと思う」
    「え?嫌じゃなかったの?」
    「シュウにされて嫌なことなんてないけど」
    「じゃあ……もう一回する?」
    「どうぞ」
     下心を持ってそう提案してみれば、ルカは瞼を閉じてシュウの口づけを待つ。あまりにも簡単に許されてしまったそれにシュウは困惑する。彼はどこまでシュウを受け入れるのだろうか。好奇心がうずうずと湧き上がってきた。
     ゆっくりと顔を近づけて、もう一度唇を重ねる。ぺろ、とルカの唇を舐めると意図が伝わったのか、薄く口が開かれる。どうやらこれも受け入れてくれるみたいだ。
     薄く開いた唇の間に舌を差し込むと、ちゅっとそれが吸われた。シュウの背筋が震える。ルカは楽しそうにシュウの舌を弄ぶ。唇で食んでみたり、自分の舌を絡ませてみたり。想像以上にノリノリなルカにシュウは困惑した。
     それだけで終わらず、ルカの舌はシュウの口内に侵入してくる。それは形を確かめるようにシュウの歯列をなぞったり、上顎を撫でてくる。口内でルカの舌が動くたびに、シュウの頭は痺れた。キスだけで今までに感じたことのない快感に襲われてシュウは思わず口を離した。
     いつの間にか息をするのを忘れていたようで、肩で荒い呼吸をする。ふとルカが不満そうな顔をしていることに気が付く。
    「き、気持ち悪かった?」
     恐る恐るそう聞けば、ルカは不思議そうな顔をした。
    「むしろ良かったけど。なんで離れたの?」
     どうやらキスを中断したことに不満だったらしい。シュウの頭の中ははてなでいっぱいになる。ルカは本当に自分に恋愛感情を持っていないのだろうか。
    「る、ルカくんは友達にキスできるの?」
    「まさか!シュウだけだよ」
    「それに、なんか上手かったけど……僕が知らない間に彼女出来てた?」
     シュウが知る限りルカにキスをするような関係の相手はいなかったはずだ。だけど、さっきのは経験者であるシュウの腰が砕けるほどに、気持ちよかった。
     ルカはぶんぶんと頭を振る。
    「恋愛経験ないってば!俺上手く出来てた?」
    「う、うん……」
     ルカはシュウをぎゅうっと抱きしめた。ルカの腕に包まれ、シュウは幸せな気持ちでいっぱいになる。少し前まで絶望していたというのに、こんなに幸せになってもいいのだろうか。
     シュウは幸せな熱に浮かされて、自分の前の部分が緩く持ち上がっていることに気が付くと、慌ててルカから離れる。
    「シュウ?」
     驚いた顔をするルカは平然としていて、ちらりと視線を向ければ下半身が反応しているような様子は伺えなかった。
     やっぱりルカはまだ恋愛的な意味では自分の事を好きではないみたい。性欲がイコールで結び付けられるかと言えばその限りではないと思うが、少なくともシュウはそれでしか恋愛感情を証明する方法を知らなかった。自分だけ興奮している状況に、ルカとの感情の熱量の差を感じて頭が冷えていく。
    「ごめん、ちょっとトイレ」
     そう言うとシュウは部屋から出てトイレに向かう。しかしソレを出す気分にもなれず、収まるまで隅に座って素数を数え続けた。もし、今のルカに抱いてと頼んでも抱いてくれるかもしれない。それぐらいにルカはシュウのことを特別に思ってくれている。
     でもそれは友情の延長で、シュウが望んでいるからそれを与えてくれるというだけだ。シュウはそれでは嫌だった。ルカくんに甘やかされつづけて欲張りになったかも、と一人で笑う。ルカに自分を欲してもらいたいと思った。
     でもそれにはどうしたらいいのかがシュウにはわからなかった。今まで通りの関係を続けていたら、ずっとルカには親友以上の感情を持ってもらえないかもしれないという思いがある。
    「やっぱり顔かな……」
     シュウは洗面所の鏡を覗いて自分の顔を見つめ、ほっぺたをぺたぺたと触る。先輩にもどんだけ暴言を吐かれようと、顔だけはずっと褒められていたのだ。どんな顔をしたらルカは自分を求めてくれるんだろうか。鏡の前で百面相をしてみるも答えは出ない。
    「シュウ?大丈夫?」
     遠くからルカの声が聞こえてくる。時間をかけすぎてしまったみたいだ。シュウは慌てて洗面所から出た。
    「大丈夫!ごめんね」
    「ううん、いいけど、俺そろそろ行かなきゃ。部活サボってきたから怒られちゃう」
    「んはは、それは大変だ」
     ルカは荷物を持って玄関に向かう。
    「優勝しないとだし、練習頑張る」
    「っ……怪我はしないようにね」
    「シュウも明日は学校に来れそう?」
    「多分……」
    「絶対来てね!シュウいないとつまんないから!」
     そう言ってシュウの頭を優しく撫でて笑うと、手をひらりと振って玄関の向こうへと出ていってしまった。シュウは撫でられた所を手で抑えて、我慢できないほど顔が緩んでしまうのを感じた。
     あんなにも辛く感じた人生が、ルカが隣にいてくれるだけで明るくなった。

     シュウは部屋に戻ると、ベッドに身体を沈める。ルカが座ってたところにはまだわずかに体温が残っていて、ソレを大切に抱きしめる。
    「もし、ルカくんが僕のことを好きになってくれなくても、友達でいてくれるのかな」
     シュウの心は完全にルカに依存しきっていた。今まで先輩に対してそうだったように。しかし今回はどれだけルカが自分のことを恋愛対象として見てくれてなくったって、たとえ拒絶されたって、諦められる気がしなかった。ずっと隣にいてくれないといやだ。
     シュウはルカの残り香を抱いて眠りについた。



     窓を雨粒が打ち鳴らす。ざあざあと激しい雨声が世界を支配していた。
     ルカはだるそうにソファに身体を沈めると、目の前にある机に突っ伏した。
    「毎日雨ばっかりで走れない……」
    「梅雨だからねえ」
     シュウは手元の書類を整理して机に並べる。今日の仕事もたくさん溜まっている。どれから目を通すべきか、適当に一枚手にとった。
    「体育館使わせてよ」
     未だに項垂れてるルカがシュウの方を向いて顔を膨らませて言う。
    「今日は野球部がキャッチボールしてるよ」
    「混ざってこようかな」
    「ルカくんなら歓迎されそう」
     野球部に一人混じって練習に参加しているルカを想像して、ふ、とシュウは笑った。
    「明日は晴れる?」
    「さあ、僕は天気予報士じゃないしわかんないよ」
    「晴れてもこの雨じゃあ明日はグラウンド使えないかも……」
     ルカはシュウの後ろの窓の外を眺めて呟く。薄暗い空の下で雨が降り続けている。ここからは見えないがグラウンドは水たまりでいっぱいだろう。
    「シュウ~退屈だよ~」
     ルカはシュウが座っている椅子までくると、抱きついてシュウを揺さぶった。
    「ちょっと、邪魔しないでよ」
    「一緒に読んであげようか?」
    「君が退屈でないなら」
     そう言ってシュウは活字だらけのソレを適当に一枚とり、手渡した。ソレを見たルカの眉は顰められる。
    「部費でルームランナーとか買ったら?もうなかったっけ」
    「シュウ」
    「何?予算は上げられないから買うなら今ある分で買ってね」
    「そうじゃなくて」
     ルカは渡された書類をシュウに見せる。
    「これ、やってみない?」
    「へ?」
     そこには『学校生活に関する悩み相談にのるラジオが欲しいという要望について』と書かれていた。
    「なにこれ」
    「お昼の放送がつまらないからなにか面白い事をしてほしいんだって。そういう人が複数人いるって書いてある」
     そしてそれに対して学校側からは前向きな返答が書かれていた。
    「じゃあ放送委員に伝えなきゃ、相談を送る場所も設置してもらって……」
    「俺らでやろうよ」
    「はい?」
    「しばらく俺も昼は走りにいけないしさ!シュウもいつも退屈そうにしてるじゃん。みんなの悩みを聞くのって面白そうだし!」
    「僕らに解決できるの?」
    「シュウは生徒会長だし俺は運動部のキャプテンだよ?」
     ルカは胸に手を当ててドヤ顔をする。だからそれが解決できるという理由にはなっていないと思うんだけれど、とシュウは呆れた顔をする。
    「まぁ第一回だけでもさ!」
    「もう、ルカくんがやりたいだけじゃん……いいけど」
     結局シュウはルカに甘いので、渋々了承する。その書類に目を通して企画概要を読み上げる。企画者名に前生徒会会長の名前が見えてシュウは苦い顔をした。
    「こんなこと押し付けて……」
     内容はそのまま、学校生活に関して生徒が相談を送り、それに対して答えるラジオらしい。仮番組名は『生徒会放送』、どうやら最初から答えるのは生徒会のメンバーだと決まっていたみたいだ。
    「なにも来なかったらどうするの?」
    「漫才でもする?」
    「絶対やだ」
     シュウはため息を吐きながらその書類にサインをした。



     学生掲示板でこの事を告知すれば、同時に設置した意見箱にはたくさんのお便りが寄せられた。内容を確認してみれば、くだらないものからまじめなものまで様々なものが送られてきている。
     二人は放送室で選び抜いたお便りを手に持ちながら、マイクの前に座った。機材を弄ると、機械音の後にぷつっとマイクが入った音が鳴る。
    「あー、聞こえますか。お昼休み中の皆さんこんにちは。生徒会会長の闇ノシュウと」
    「陸上部キャプテンのルカ・カネシロ!」
    「で~す」
     ふたりともこのように喋ることは初めてだったが、一緒にやる相手が親友だからかリラックスして話していく。
    「今日から定期的にこの時間にみんなからのお悩み相談に乗りたいとおもいます」
    「早速一通目!」
    「『この前の定期試験で赤点を取ってしまいました。どうしたら両親に隠し通せますか?』だって。ルカくん赤点取ったことある?」
    「ない」
    「僕も」
    「この人が俺達に聞くべきなのは勉強のコツとかだよ。シュウ、何かある?」
    「授業を……よく聞く……とか?」
     シュウは腕を組んでうーん、と呻りながらなんとか必死に答えた。それにルカはふはっと吹き出した。
    「俺もそれぐらいしかわかんない!」
    「はい次のお便りいこう~」
     シュウはパンパンと手を叩いて話を終了させた。
     緩い声で放送されるなんともいえない二人の会話に、全校生徒は昼食をとりながらぷっと吹き出す。真面目に質問に答えたかと思えば、どちらかがふざけた回答をしはじめて、誰かがクスクスと笑い始めた。梅雨のじめじめした空気に負けないほど温かで穏やかな空気が校内全体に流れる。
    「さて次が本日の最後のお便りです」
    「『こんにちは生徒会の皆さん』俺も生徒会!」
    「実は生徒会って生徒のみんなも入ってるんだよ」
    「そうなの!?そっか俺等が生徒会の人って呼んでる人たちはそのなかで役職がある人たちってこと?」
    「そうそう。で、お便りの続きは?」
    「えっと、『憧れの先輩がいて話しかけたいのですが、緊張して話しかけられないし、何を話せば良いのかわからないです。なにか良い話題はありますか?』だって」
    「わあ、恋バナだ」
     シュウは手をあごにあてて悩む。
    「そうだなあ、『生徒会ラジオ聞いた?良かったよね』とか」
    「それで盛り上がれる?」
    「わかんない」
     二人はくすくすと笑い合う。彼らは放送室の外で自分たちの話に耳を傾けている人の数が多いことに気付いていなかった。
    「ルカくんはなにかある?」
    「その先輩はなにか好きなことがあるんじゃない?それを知ってたらその話をしに行けばいいと思うし、知らないなら聞いてみれば良いんじゃない?」
    「おお~~それっぽい」
    「でもこれを聞いて実行したらその先輩にバレるよね」
    「むしろそのほうが話が早いんじゃない?」
    「そういうこと?」
    「わかんないけど」
     このラジオは終始このようにふわっとした着地で終わった。これが二人にとっては普通の会話だったのだが、その会話がどこか面白いとみんな感じた。
    「それじゃあ今日はこのへんで」
    「ばいば~い!」
     二人はその場でマイクに向かって手を振った。また機材を操作してマイクの音量を0にするとシュウは深く息を吐いた。
    「これで良かったのかな。いつも通りに話しちゃったけど」
    「シュウがただの優等生じゃないってみんなにバレちゃったね」
    「そうかな」
     シュウは肩を竦めた。ルカは楽しそうに笑っているので冗談なのだろうことがわかっている。
    「好評だといいね」
    「そしたら次もルカくんを呼ぶからね」
    「任せて!」
     二人は笑いながら放送室を出た。


     結果から言うと、生徒会放送は大好評だった。また二人に相談を呼んで欲しいという声が多数上がってシュウは困惑した。自分たちはただ楽しく話していただけなのだけれど。

     ともかく、次回もまたルカくんを呼んで二人でラジオをやろう。
     シュウは要望が書かれた手紙を手に持ち、教室にいないルカを探した。外はまだ雨が降っている。室内でルカがいそうなところは見当が付いていた。廊下を少し歩けば、見覚えのあるブロンドが見えて声をかけようとする。
     しかし、その前にシュウの瞳にはルカに話しかける女子生徒の姿が映り、声は形を伴わなかった。その女子は頬を赤らめて、ルカに何かを話しかけている。それを見るだけでどんな状況かを察したシュウは、どうするべきか迷う。
     シュウのいるところでは二人の会話は聞こえないけれど、覗き見をしているようで嫌な状況だ。しかし、二人でお昼の放送をやることはルカに早く伝えたい。悩んでいると、女子生徒が頭を下げているのが見えた。
    「断ったのかな」
     しかし、その後も女子はその場を去ることはなく、二人は何かを話している。そしてふたりとも笑っていて、その様子はなにやら楽しげだ。シュウの心臓はだんだん締め付けられてくる。女子生徒は未だに顔を赤くさせているし、ルカはにこにこと楽しそうになにかの話をしている。
     雰囲気的に告白をしたのは間違いなさそうだと思ったのに、ソレを断った様子がない。それってつまり。
     シュウは手に持っている書類にシワが出来ていることに気づくと、慌てて手を離した。バサッと音を立てて足元に散らばった。早く拾い上げないと、と思うもシュウの視界はだんだんぼやけて地面と紙の見分けがつかなくなっていく。
     必死に手探りでそれをかき集めていると、後ろから足音が近づいてくることに気付いた。
    「シュウ?そこで何して……」
    「ル、ルカくん」
     声をかけられて咄嗟に振り返れば、そこには困惑した顔のルカが立っていた。とはいってもシュウの視界は完全にぼやけて上手くその表情は見れていないが。
    「シュウ、なんで泣いてるの?」
    「なんでもないよ」
     急いで制服で涙を拭おうとすると、ルカの手によってそれは止められる。
    「そんな乱暴にしたら跡になっちゃうよ」
     ルカの大きな手のひらで頬が包まれ、瞳に溜まった雫はその親指に優しく拭い取られた。ようやくはっきりと見えたルカの顔はなんだか怒っているようだった。
    「今度は誰?」
    「なにが……?」
    「誰がシュウを泣かせたの」
     ルカの瞳には完全に怒りの色が浮かんでいて、シュウは一瞬それに圧倒されたが、慌てて首を振った。
    「な、なんでもないってば」
     そしてルカの胸を押して離れさせる。クリアになった視界で素早く書類を拾い上げると、立ち上がった。
    「僕にこんなことしてるの、彼女に見られたら気まずいでしょ」
     そう言うと足早にその場を立ち去った。後ろからルカがシュウの名前を呼んでいるような気がしたが、小走りで廊下を走り抜ける。

     生徒会室の前までたどり着いたところでゆっくりと後ろを振り返る。
    「んはは、ルカくんの足で僕に追いつかないはずがないよね」
     誰の姿も見えないただの廊下を眺めて、ほんの少し抱いていた希望が打ち砕かれた音がした。




    「本日の生徒会放送を担当するのは、生徒会会長闇ノシュウと」
    「会計の◯◯です」
     あれから何度か放送を重ねて進行がスムーズになったこの放送。生徒会の役員を中心に持ち回り制で放送をこなして、シュウは何度目かの司会である。もう慣れたもので、未だに少し緊張している様子の後輩に話を振りながら相談に答えていく。

     ただその数回のうちにルカが出たことは第一回以降一回もなかった。シュウはあのあとルカにラジオの話をしなかったのだ。そのままなんとなく話を避けつづけて、今に至る。あのときの涙の理由もルカは深く聞いてくることはなく、今まで通りの友達の関係をずっと続けているが、シュウはなんとなく今まで以上にルカと触れ合うことも避けていた。それはやっぱり彼女の存在があるからだ。
     あれからもたまにルカと例の女子生徒が一緒にいる所を見た。それを見かけるだけでシュウの胸は締め付けられ、涙が溢れそうになった。そしてルカの顔を見るのが申し訳なくなり、一緒にいても沈黙することが目立つようになってしまった。シュウはルカへの気持ちを抱えたままどうしたら良いのかわからなかった。ただ、ルカが幸せだと嬉しいので、シュウはやっぱりルカのことを諦めるのが一番いいんだろうと考えるようになった。
     そうしていれば、いつの間にか雨が上がり、梅雨があけてしまった。
     シュウは期末試験に向けて勉強に集中しなければいけなかったし、ルカは大会に向けて練習を詰め込んでいた。必然的に2人が会話する機会は少なくなっていた。寂しさも覚えたが、そうでもしないとルカを諦められるような気がしなかったのでシュウにはこれぐらいの距離感がちょうどよかった。

    「それでは本日最後のお便りです」
     ようやく緊張が溶けた様子の後輩が一通の手紙に目を通す。
    「最近では恒例になりつつある恋愛相談のお手紙ですね」
    「僕らに相談して解決しているのかは疑問だけどね」
    「どうやらその答えみたいですよ。『こんにちは、私は第一回で恋愛相談を送らせていただいた者です。早速お答え頂いた翌日に先輩に話しかけてみましたところ、関係がぐっと近づいて付き合う事ができました!ありがとうございました!そこで相談なのですが、学校内でデートするならどこが良いでしょうか?おすすめの場所はありますか?』といういうことですが、おめでとうございます」
    「おお~おめでとう」
     シュウはにっこり笑って拍手をした。しかし心の中では全く笑っていなかった。この相談の送り主とルカの彼女が重なってしまい、心の底から祝福することが出来なかった。
    「校内でおすすめのデート場所だそうですが、会長どうですか?」
    「学校は勉強するところだよ?」
    「それはそうですが、放課後とか……落ち着く場所とか綺麗な場所とか知らないですか?」
    「うーん、生徒会室にしかいないからなぁ」
    「そうなんですよみなさん、この人ずっと生徒会室で仕事してるんです」
    「ちょっと」
     後輩を睨んだ。後輩は全く反省していない顔ですみません、と答える。シュウはため息を吐きながら言う。
    「まぁでも生徒会室は居心地良いよ。静かだし。デートにもってこいなんじゃないかな」
    「デートでの使用を許可するんですか?」
    「僕が仕事してないときなら」
    「出来ないじゃないですか」
    「おっとこの辺でそろそろ時間だからこの質問はここまで!まぁ、二人で校内探索してお気に入りの場所を探すデートとかするのも良いんじゃない?」
    「あ、それ良いですね」
    「というわけで本日のお相手は僕と〇〇くんでした~」
     挨拶を終えるとマイクのスイッチを切る。両手を上に上げて「んん~……」とストレッチをした。正面に座っていた後輩がなにか言いたげな顔をしていることに気付いて声をかける。
    「なにかあった?」
     後輩は肩をはねらせて、目を泳がせる。なんだかその顔が赤く見えるのは気のせいだろうか。
    「いや……あの、自分も生徒会室に行ってもいいですか」
    「え、もちろん。役員だしいつも来てるでしょ」
    「そうなんですけど、その……会長と落ち着く空間を共有したいと思って……」
     シュウは伏し目がちにそう言う後輩の顔を見てその言葉の意味がピンときた。どうやら彼はシュウに気があるらしい。
     顎に手をあてて少し悩んだ後、シュウは目を細めて綺麗な笑顔を作った。
    「良いよ、おいで」
     後輩の手を取ってシュウは彼を自分のテリトリーに引き込んだ。



     放課後、早速ドアをノックして訪れた彼にシュウは薄く笑った。別に彼の事を特別に思ったことはなかったが、好意を持たれていることは純粋に嬉しくてくすぐったかった。
     彼は緊張した様子で部屋をキョロキョロと見渡しながら恐る恐るシュウの座る机に近づいてくる。
    「そんなに緊張する?」
    「会長のお部屋に入ったことはめったにないので」
    「そう、じゃあ気になる物なんでも眺めてごらん」
    「自分が一番気になるのは会長ですが」
     そう言ってじっと見つめてくる後輩がおかしくてシュウはクスクスと笑った。
    「そんなこと言わずに、君は来年も会長になる気はないんでしょ?ほら、この窓からグラウンドが一望できるんだよ」
     そう言いながら後ろの窓を指差すと、やっぱり気になっていたのか彼は素直に窓に手を当てて覗き込んだ。そしてほうと息を吐いてその眺めに圧倒されているようだった。
    「いい部屋でしょ」
     にこと笑ってそう言ったが、後輩から返答が返ってこなかった。疑問に思い顔を覗き込めば彼は窓の外の一点を見つめていた。
    「どうしたの?」
    「あの、こちらを見ている人が」
     指を指すそちらをみれば、グラウンドに描かれた白線から生徒会室を見上げる男子生徒、ルカがいた。シュウの心臓はどきりと高鳴る。それと同時に、ルカの顔が顰められていることに気が付く。なにやら不機嫌そうで、苛ついているようにも見える。しかしシュウにはルカがこちらを見て怒っている理由なんて見当もつかなくて首を傾げる。
    「ルカくんだ。タイム伸び悩んでるのかな」
     そう呟けば今度は後輩の眉が歪んだ。
    「会長と先輩は仲が良いですよね」
    「うん。親友なんだ」
    「それだけですか?」
     その質問にどきっとする。ルカには彼女が出来たし、きっとあの約束はなかったことになるだろうから、ただの親友なだけのはずだ。そう思って頷けば、後輩の顔はぱっと明るくなった。
    「それじゃあ、頑張ったら可能性ありますか」
     真っ赤な顔をしてそう言ってくる彼が可愛く感じてシュウは心が擽ったくなる。こうしてストレートに好意を向けられることなんてしばらくなかったので、心臓がどきどきと高鳴ってくる。それと同時にまだルカのことが好きだという気持ちが心に絡みついている。
     様々な気持ちが複雑に絡み合ってシュウの頭の中はまたこんがらがってしまう。
     混乱した頭でおずおずと手を差し伸べようとしたその時、部屋の扉が勢いよく開かれた。どんな力で開けたのか、蝶番が外れてネジが吹き飛んで窓ガラスに当たる音が部屋に響いた。
    「わっ」
    「カネシロ先輩!?」
     そこに立っていたのは先程グラウンドでこちらを睨みつけていたルカだった。その表情は未だに険しいままで、シュウが差し伸べようとして宙に浮いた手を見つけると、眉間のシワは更に深くなった。
    「ルカくん……?どうしたの?」
     キョトンとした顔で固まっていると、ルカはずかずかと部屋に入ってくる。そして後輩とシュウの間に身体を滑り込ませると、彼に低い声で言った。
    「俺、シュウに用事あるから借りてもいいかな」
    「で、でも」
    「いいよね?」
     引き下がろうとしなかった彼にルカはニコリと笑った。先程まで怒っていた男の笑顔はとても威圧的で、後輩は頷かざるをえなかった。
    「じゃあ、今日は帰ってもらえる?」
     ルカがそう言えば彼は荷物を慌てて急いでその場を出た。そうしなければ何をされるのかわからない雰囲気が今のルカにはあった。
     シュウはその様子をぽかんと眺めていることしかできなかった。
    「ルカくん?」
    「シュウ、あれ誰」
    「へ、あの子は生徒会の会計の」
    「あぁ昼の放送の」
     ルカは苛々と溜まった何かを吐き出すように深い溜め息をついた。
    「なんでここに入れたの」
    「入りたいって言ってたから」
    「その意味はわかってる?」
     シュウはルカに責められるような口調でそう言われることに困惑していた。こんなことを言われる理由がわからなかった。それに、ルカがこうやって怒りを顕にしているところも初めて見た。自分がそんなに悪いことをしたのだろうかと思い、シュウが答える声はだんだんと小さくなっていく。
    「一応わかって……る、けど」
    「わかってて入れたの!?」
     ルカはここ最近で一番大きな声を出した。その表情は信じられないと言っているように大きく目が見開かれている。
     その瞳が揺れたかと思うと、シュウの視界からふっと消えた。どこにいったのか探そうと瞳を動かそうとした時、それが眼前にあることに気がついた。ふに、と唇に柔らかな感触が触れた。
    「っ……!?」
     突然のことにシュウはルカを突き飛ばしてしまう。彼からそうしてもらうことを望んでいたはずなのに、シュウの手は震えていた。
    「……シュウ、もう俺のこと好きじゃなくなった?」
     突き飛ばされた体勢のまま、ルカはそう低く呟く。下をむいていてその表情はシュウからは上手く見えなかった。
    「な、なんでそんなこと聞くの」
    「俺のことよりもあいつのほうが好き?」
     会話が成り立たなくてシュウは涙目になる。こんなルカは初めてだ。
    「だから俺のことはもう呼んでくれなくなっちゃったの?」
    「何の話……」
    「お昼の放送」
     ルカはそういうとどこからか取り出した一枚の紙をシュウに差し出す。
    「これ……!」
     それはまたルカとシュウの二人で生徒会放送をやってほしいという要望が書かれた書類だ。一枚どこかで無くしたと思いながら、ルカを誘わないなら別に良いやと忘れていたものだった。
    「なんでルカくんがこれを?」
    「シュウが落として行ったんだよ。これ見て俺、嬉しくて」
     ルカの顔にいつもの笑みが戻ってきた。それにシュウは安心するが、その次の瞬間、ルカの表情はするりと抜け落ちた。
    「でもシュウは俺にこの話をしてくれなかった」
    「それは……」
    「シュウになにかの事情があるんだろうと思ったんだけど、それがあいつ?俺と話すよりもあいつと話すほうが楽しい?」
    「なにそれ、なんでルカくんがそんな事を言うの」
    「シュウが好きだから」
     その言葉がシュウの忌諱に触れた。シュウの大きな瞳から突然涙がぼろぼろとこぼれ始める。
    「君は僕のこと友達としてしか見てないのに!結局ルカくんも僕みたいな男じゃなくてかわいい女の子のほうが良いんでしょ」
    「なんで俺の気持ちをシュウが決めつけるの」
    「先に決めつけたのはルカくんだもん」
     シュウは頬を膨らませて怒鳴った。顔を逸らせば窓に情けない顔をした自分が映ってもう全てに目を瞑ってしまいたいと思った。
    「僕はまだルカくんのことが苦しいくらいに好きだよ」
     シュウの頬に大粒の涙がとめどなく流れる。どれだけ拭っても拭っても止まる気配がない。ふと、滲んだ視界の向こう側でルカが近づいてきていることに気付いて身体が固まる。
     手が伸びてきて思わず目をつむると、シュウの腕が掴まれる。その力は逃げれないほど強いものではなく、優しく腕を掴むと、涙を拭う動きを止められた。
    「そんなに乱暴に拭ったら跡になっちゃうってば」
     そして温かい手で涙が拭われる。その温もりでシュウの涙は更にこぼれ落ちていく。
    「僕に優しくしないで……」
    「なんで、優しくさせてよ」
    「彼女さんに申し訳ない……」
     突然ルカの手が止まった。顔を上げると、ルカは目を見開いていた。
    「シュウ、彼女いたの?」
    「僕はいないよ、ルカくんの彼女さんの話……」
     そう言うとルカは眉を顰めた。
    「俺、彼女いたの?」
    「へっ?」
     あまりにも怪訝そうな顔をして本気の声色でそう言うルカに、思わずシュウの涙は引っ込んだ。
    「だ、だって最近よく一緒にいる子がいるじゃない」
    「あの子は……色々あって俺が相談に乗ってもらってて、だからそういうのじゃないんだ」
    「相談……?」
    「そう、その、なんていうか」
     ルカは言い淀んで口をもごもごさせている。シュウがこて、と首を傾けると、彼は観念したというように両手を上げて息を吐いた。
    「友情と恋愛ってどう違うんだろうって思って、彼女が俺に告白してきたから恋愛に付いて教わってたんだ」
    「告白は断ったの?」
    「もちろん。俺にはシュウがいるから」
     当たり前のように言い放たれたそれにシュウは目をパチクリと瞬かせた。
    「なのにシュウがあいつと一緒にここにいるから、気が動転しちゃった」
    「……俺のなのにって?」
    「そう。まだ俺のじゃないのにね」
     期待を込めてそう聞けば、ルカは肩を竦めて笑った。シュウはルカの首に飛びついて愛おしいブロンドをぎゅっと抱きしめる。
    「わっ、シュウ?」
    「ごめん、ルカくん。僕勘違いして……」
    「いいんだよ、今シュウが悲しくないなら」
     ルカもシュウの頭を優しく撫でて抱きしめる。こんな風に触れ合えたのは久しぶりで、なんだか懐かしさを感じた。ルカのシュウを甘やかす言葉も以前と変わらなくて、シュウはルカに愛されていることを実感する。
    「ルカくんがこうやって僕に優しくするから僕はどうあがいても君を諦めきれない……」
    「どこに諦める必要があるの?俺は友情だろうがなんだろうがシュウのこと大好きだよ」
    「僕がわがままなのかも」
    「シュウはもっとわがままを言って良いんだよ」
    「ほらすぐルカくんは僕を甘やかす……」
     シュウはルカの腕の中で口を尖らせた。
    「ルカくんこそもっと僕にわがままを言うべきだよ」
     そう言えばルカはちょっと悩んだ後、腕を離してシュウと顔を見合わせた。
    「じゃあシュウ、キスしていい?」
     ルカの両手に頬を包まれながらそう言われて、シュウは目を見開いた。何を言っているのか理解できるまで時間がかかって、ようやく理解できた頃には顔から首までその肌は真っ赤に染め上げられていた。
    「し、したいの?」
    「したいよ」
     シュウが恐る恐る聞けば、ルカも顔を真っ赤にさせて頷いた。そのルカの瞳は真剣な時のもので、冗談を言っているようには見えない。
    「まって、ルカくんって本当に僕のことが好きなの?」
    「あの子にはキスがしたいならそれは友情を越えてると思うって言われたんだけど」
     ルカの親指がシュウの唇をなぞる。シュウの肩が跳ね、背筋はぶるりと震えた。シュウは瞳をうろうろさせながら、喉を鳴らす。そしてルカの瞳をまっすぐに見つめると、震えた声で聞く。
    「その先も……したいっておもう?」
     もしもこの質問の答えがNOなら……
    「正直に言うと、したいよ」
     そんな事を考える前にルカがゆっくりと頷いた。シュウは瞳が零れ落ちそうになるほど目を見開かせた。
    「最近あんまり話せてなかったからかな、めちゃくちゃシュウに触りたい」
     ルカはそう続けてシュウの頬を撫でる。シュウは耳まで真っ赤にさせて小さく震えることしか出来なかった。
     ずっとルカに求められたいと思っていたが、ルカは自分を求めていただなんて。
     シュウは目を泳がせたが、少し息を吸って覚悟を決めると、長いまつげをゆっくりと降ろして目を瞑った。すると、頬を撫でていたルカの手の動きがぴたりと止まる。添えられていただけの手にわずかに力が入ったのを感じる。そして相手の吐息を近くに感じてシュウは少しだけあごを上げた。
     唇に暖かいものが触れる。シュウの花唇がルカに優しく食まれて全身の血液が沸騰するのを感じた。互いの味を確かめるように触れ合ったそこは、熱を惜しむようにゆっくりと離れた。
    「シュウ、もっと」
     しかしこれでは満足できないとルカの瞳は言っていた。熱を持った薄紫がシュウをまっすぐに見つめている。
    「ルカくんは、いつから僕をこんなに求めてくれうようになっちゃったの」
     シュウはルカの背中に手を回して挑発的な笑みを浮かべながらそう訪ねた。
    「初めてキスした日。あの時はキスに夢中だったんだけど、帰ってもシュウとキスした瞬間のことがずっと頭に残ってて、君がとんでもなく魅力的だって気付いたんだ」
     ルカは恥ずかしそうに頬をかきながらシュウにそういった。あの日はルカがシュウをそういう目で見てないと確信した日だというのに、まさかその逆だったなんて。シュウは目を見開かせた。シュウはルカの厚い胸板に顔を預ける。
    「誰に言われるよりもルカくんにそう言ってもらえるのが一番うれしい」
     そう言えば頭を大きな手のひらで優しく撫でられる。
    「シュウを幸せにできるのは俺だけだよ」
     ルカの腕の中でシュウはその言葉に嬉しそうに微笑んだ。




     遥かに広がる蒼穹の下、爽やかな風とともに地面を蹴る。鍛え抜かれた筋肉がしなやかに収縮して力強く地面を蹴って行く。整備されたグラウンドの土が僅かに舞って、靴の中に入り込むがそんなの気にならない。それよりも一歩足を進めるごとに感じる風と肺いっぱいに広がる空気に心臓が高鳴る。地面を横切る白いラインに足を乗せると、ピッと笛の音が鳴る。それまで感じていなかった疲労にどっと襲われるが、それ以上に太陽の下で汗をかくことが気持ち良い。
     荒い息を整えながら、隣を見ると、横に並んでいる人は誰もいなかった。トラックの横に設置されている電光掲示板には今までにみたことのない数字が書かれていた。
     深く息を吐けば、興奮で冷え切った耳に血が通って周りの音がよく聞こえてくる。それは歓声だった。顔を上げれば無数の人々が手を叩いて自分に向けた称賛の声を雨のように降りそそぐ。
     顔を上げてぐるりと観客席を見渡す。そしてその中に愛おしい人を見つけた。世界で一番好きな人。これがどんな種類の感情でも、世界で一番大切だと思える人。嬉しそうに手を叩いて喜んでくれている彼。
     ルカはその人の顔を見上げると、目が合うことに歓喜した。思えば一方的に見上げることがほとんどで、彼も視線を向けてくれていたことがあったらしいが、それでも目が合ったのは一回だけだった。それが、今は見上げれば目が合うことが嬉しい。
     その人に向けて爽やかな笑顔を向ければ、可愛い笑顔が帰ってきた。走った興奮だけではない熱が胸いっぱいにひろがる。

     今日は記念日だ。
     髪色と同じ色に光るメダルを首から下げながら、ルカはこの後抱きしめられるであろう体温を想像して口角を上げた。
     長い間ぼんやりとしていた二人の関係に、今日やっと名前が付く。
     ルカにとってそれはあまり大事なことではなかった。二人がずっと一緒にいれるのならば、その関係は何でも良かった。
     ただ、世界で一番幸せにするには恋人になるのが一番だと判断しただけだ。
     たくさん傷ついて苦しんできた彼。絶対に幸せにしたいし、自分ならそうできると信じている。彼が望むのならば神に誓ったって良い。それにはまた半年ぐらい時間をかける必要があるだろうが。

     更衣室から出たルカを迎えてくれたのは、今まさにずっと考えていたシュウの笑顔だった。
    「ルカくん!優勝おめでとう」
     さらりと黒髪をなびかせて、大きな紫色の瞳を細めてルカに微笑みかけてくれるその笑顔。すっかり暑くなった季節に合わせてその服装は夏らしく半袖のシャツを着ていて、そこから見える肌は綺麗な白色をしていた。
     その腕が伸びてきたと思うと、首に巻き付いてくる。

    「んへへ、約束守ってくれてありがとう。幸せにしてね」

     蕩けたように笑うその唇にルカは自分のそれを重ねた。


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