宵闇翔ける夜鷹のように 宵闇翔けるよだかのように
嫌いだ、きらいだ。
この世界の何もかも。
だから、世界が反転したその時から俺は独りでこの世界に抗うと決めた。
Ωだとわかった途端、掌を返したように俺を棄てた家族や疎んだ友人も。
Ωだというだけで見下してくる連中も。
Ωだからと下卑た視線で近付いてくる奴らも。
皆みんな居なくなってしまえばいいのに。
ああ、でも、俺が本当に一番嫌いなのは………。
5月の昼下がり、水無瀬 湊は何かから逃れるように足早に大学の構内を歩いていた。
この4月から4年生となった湊にとって、卒論などのハードルはあれど生活にあまりは変化はない筈だった。
理解のある友人や先輩に、バースについて研究している尊敬する教授。
そんな人達に囲まれて、静かに日々を過ごし、憎くて憎くて仕方がない二次性別を解明する。
そんな研究に没頭出来る日々を送る筈だった。
逃げるように向かうのは自らの所属する研究室のある棟だ。
早くあの棟に研究室に逃げ込まなければ、アイツが来る!
その恐怖心に煽られるままに早足で歩いている時だった。
普段人通りが少なくて油断していたせいか、曲がり角で人と思いっきりぶつかってしまう。
「いった…すみません、急いでいて……」
ぶつかった衝撃で湊は相手の体に強かに顔を打ち付けたが、慌てて謝る。
急いでいたとは言え、ぶつかってしまったのはこちらなんだし。
そう思った矢先、するりと腰に腕が回されて、鼻先には嗅ぎ慣れてしまった嫌いな匂い。
げ、と思った時にはもう遅かった。
「湊の方から飛び込んで来るなんて天変地異の前触れかな? 俺は嬉しいけど」
「獅子谷…!!」
猫撫で声の美声と鼻先を擽る匂いに湊の体が総毛立つ。
逃げ出そうと相手の胸を押すが、相手の力が強いのか湊の力が弱いのか、ビクともしない。
必死で抵抗する湊を抱き締めながらご機嫌なこの男こそ、湊が逃げ回っていた相手である。
名を獅子谷 徹という。
湊の一つ下で入学してきたこの男は湊が知る中でもα性の特徴を最も反映している男だった。
容姿端麗、リーダーシップに溢れ、運動神経抜群、成績も優秀、おまけに家は金持ちの名家ときた。
まさにαの中のα。
Ωならずβやαだって女性ならば伴侶の座を喉から手が出る程に欲するものだろう。
しかし、湊は違った。
初めて出逢ったその日からこの男の事が恐ろしくて仕方がないのだ。
にこやかな貌から真っ直ぐに向けられる視線にはいつも獲物を狙う猛獣のような鋭さが見え隠れする。
湊はそれに追われる草食獣。
今だって腰に回された腕は余裕そうな雰囲気とは裏腹にがっちりと湊を抱き寄せていて離れる気配はない。
何とか逃げ出そうともがいてはみるものの、そもそもの体格からして徹と湊では差があるせいで外せる気配すら見えない。
ジタバタと抵抗する湊を無視し、徹は湊の艶やかな黒い髪に鼻先を埋めて幸せそうに匂いを嗅いでいる。
頭皮に触れる鼻息からその事に気が付いた湊の背筋にぞっと冷たいものが走った。
今までもαに目をつけられた事は幾度もあったが、この男はその中で一番嫌な相手だ。
完璧な外面と容姿とで周囲を騙しながら、3年にも渡り湊を追い続ける彼の執着心には空恐ろしいものがあった。
それまでのα達は湊が抵抗し、逃げ続ければ皆そのうち諦めて別の相手を見つけて去っていったというのに、徹は違う。
まるで逃げられれば逃げられる程燃え上がると言わんばかりに執拗に湊だけを追うのだ。
徹のようなαにはΩの方から近付いていく事も多いが、彼は近付いてくる者を皆一蹴して湊だけを追い掛ける。
近頃では大学内の者にとって徹と湊の関係は暗黙の了解とも言えるもので、一部を除いて誰もが微笑ましく見守っていた。
その事が湊にはまた不愉快で仕方がないのだが、誰もわかってはくれない。
同じΩに相談すれど、あんないい相手は他にいないと叱責され、時には嫉妬され憎まれ。
そもそも他の性別の人には問題の本質すら理解されない。
「湊…」
うっとりとした粘っこい低い声が耳をくすぐり、ゾッと怖気が走った。
「っ…! いい加減に、しろ!!」
ゴッと鈍い音と共に湊の拳が徹の顎にクリーンヒットし、今まで湊を捕らえていた腕が緩む。
思わず殴ってしまった事に一瞬たじろぐが、徹の腕から逃げ出す事には成功した。
流石に痛かったのか、顎をさする姿に罪悪感が湧くが、それも一瞬の事で徹の鋭い瞳が再び湊を捕らえた事に思わず後ずさる。
「…湊、流石に顎はやめて。一瞬脳が揺れた」
「五月蝿い。お前が俺に触るのが悪い」
「今回は湊から飛び込んで来たんだよ?」
「不可抗力だ。大体、なんでお前がここにいる」
毛を逆立てて威嚇する猫のような湊の姿に徹は苦笑する。
その表情を見て、周りにいた女性が小さく黄色い声を上げるが、湊にはそれが理解出来なかった。
どんなに顔が良くったってストーカーもセクハラも立派な犯罪行為だ。
湊の方が被害者である筈なのに、周辺はどちらかといえば徹に対して同情気味。
三年間に渡り一途に慕う優秀な後輩αとそれを毎度手酷く追っ払う先輩Ωという構図で認識されているらしく、時には「水無瀬君酷い」とまで言われるのだ。
今だって黄色い悲鳴を上げた連中が湊の方を見て何かこそこそと話している。
コイツが欲しいなら熨斗をつけてくれてやるから早く諸共どこかへ消えて欲しい。
だれも彼も、俺の気持ちなんて知らないで、勝手な事を…。
そんな苛立ちと不快感とで胸が重くなる。
「湊? 顔色が悪いよ」
「俺に触るな」
再び触れようと伸ばされる手を、相手をキッと睨み付けて拒絶する。
流石の徹も湊の雰囲気に何か思うところがあったのか、伸ばし掛けた手を引っ込めた。
その際に、ほんの少しだけ寂しそうな顔をするのが見えたが、湊はそれに気が付かないフリをして、徹の横を擦り抜けて目的地への走り出した。
「ひどーい! 獅子谷君にぶつかっといてあんな態度取るなんて」
義憤を見せながら取り巻きの女の子が寄ってくる。
これ見よがしに徹の腕に抱き着いて胸を押し付けてくるが、脂肪の感触と甘ったるい香水の匂いが不愉快で仕方がない。
同じ人間の筈なのに、どうして湊と他の人間はこうも違うのだろうか。
湊に触れた時の高揚は他の人間では感じた事がない。
初めて一目見た時からずっと運命だと感じた。
入学してすぐ、廊下で擦れ違った時に感じた花のような優しい匂いを嗅いだ瞬間から徹は湊の虜になった。
獅子谷徹が人生で初めて自分から触れたいと、手に入れたいと初めて心の底から思った人間。
それが水無瀬湊だった。
他の奴が湊に近付くのが嫌で、なるべく近くに行きたかった。
しかし、追い掛けるようになってから知ったのだが、湊は人が嫌いだ。
それはαもΩも関係無くて、自分に関わろうとする人間全てが嫌いなのだ。
その癖、世の為人の為とバースの研究に没頭している、そんな矛盾を抱えたのが水無瀬湊という青年だった。
湊と出逢ってからというもの、徹にとって他の人間が疎ましく感じられた。
αであるだけで人は寄ってくるが、その上に「優秀な」という言葉が付くだけでその数は跳ね上がる。
実際、大学での成績が優秀な徹の周りにはいつも他人がいた。
中には仲の良い友人もいるが、それ以外は勝手について回る小判鮫だ。
今腕に馴れ馴れしく抱き着いている女もそんな小判鮫の一人だ。
名前すら覚えていない相手にひと時たりとも触れられたくなくて少々乱暴に腕を振り解けば、女はわざとらしく赤い唇を尖らせて拗ねたような顔をする。
コイツはΩだったか、αだったか。
あんまり覚えていないが、こうもあからさまにアピールしてくるのだから、そのどちらかだろう。
「あんな人やめてさぁ、他の子にしたら?」
例えば私とか。
蠱惑的な笑みを浮かべながら再び擦り寄ってくる女に心底嫌悪感を感じる。
コイツは俺をαとしか見ていないのだろう。
そう思いながら徹は深くため息をつく。
優秀な胤を得るために、優秀なαの伴侶という地位を得る為に媚を売る姿が浅ましくて仕方ない。
「湊以外にはあり得ない。香水くさいからそれ以上俺に近寄らないでくれる?」
軽く威嚇してやれば、女がたじろぐ。
こうやって湊だけだと公言し、態度にも出しているにも関わらず擦り寄ってくる人の数はいつまでも減らなかった。
あわよくば、とでも思っているのだろうが、徹の意思は決して変わらない。
湊だけなのだ。
バースで徹を見なかったのは。
入学したての頃、あの頃は今程湊に避けられていなかった。
そもそも対面で話した事だって殆どなくて、通りすがりに垣間見る程度だ。
それでも、徹は既に湊を慕っていたが、接点らしい接点がなかった。
時折徹を巡って起きる小競り合いやトラブルにうんざりしていた時、たまたま彼から掛けられた言葉が本当に嬉しくて、それからますます湊の虜になったのだ。
それまでは徹自身も、ただΩとして相性が良さそうな湊を目で追っていただけだったが、その時から自分には湊しかいないと思っているし、彼に近付く為の行動を始めた。
女を置いて、目的地へと歩き出す。
流石にゼミの研究室まで無関係の者は追って来れないだろう。
目指すのはこの大学で最も著名な教授の部屋だ。
国内におけるバース研究の第一人者にして、世界でも著名な研究者である九条 智史(くじょう さとし)。
九条の教えを乞う者は多く、ゼミの席を勝ち取るのは大変だった。
元々徹の実家は老舗の製薬会社でバース関連の薬品も多く扱っている為、高校生の頃には九条の名を知っており、彼の教えを乞う為にこの大学を選んだ。
ワクワクした気分で足取りも軽く九条の研究室へと向かう。
彼の研究室はその研究内容のせいか構内でも外れの方に与えられていた。
バースというものは時に人の人生を壊す。
αやΩとして生まれた以上どうしても避けて通れないのがαのラットとΩのヒートだ。
動物の発情期のように一定期間、性的衝動が強くなるもので、その期間は特殊なフェロモンが発せられる。
ラットはΩを、ヒートはαを惹き寄せ、理性を砕き、繁殖行動にのみ思考が染まるのだという。あらゆる技術が発達した現代では抑制剤も副作用が少なく効果の高い物が開発され続けている。
服用する事が暗黙のマナーで、徹自身はそこまで強烈な性的衝動に襲われた事はない。
しかし、世の中では決して少なくない数で望まぬ行為を行なってしまう事がある。
事故で起きる事もあれば、薬物によって引き起こされる悲劇もあった。
αが行きずりのΩを襲ってしまう事もあれば、Ωが意中のαをものにするためにわざとヒートを仕掛ける事もある。
製薬会社を経営する父親が、自らの会社が作った薬物を悪用されて嘆いているのを何度も目にしてきたし、徹自身数回だがそういった事案に巻き込まれ掛けた事があった。
そういった悲劇や事件をこの世から無くしたいという自分の思いを叶える為、自分の将来のためにこのゼミを選んだ。
しかし、それ以外にもう一つ徹にはどうしてもこのゼミに入りたい理由があった。
「楽しみだな」
思わず漏れた呟きは誰にも届かずに空気に紛れて消えていく。