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    菫城 珪

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    菫城 珪

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    タイトルが決まらないやつ

    星廻る焔の物語【仮題】1

     下げた頭に怒号と共に与えられるのはばしゃりという水の音。
     髪の合間から冷たい物が頭皮に触れ、濃いアルコールと葡萄の香りに鼻腔が犯される。ざわざわと周囲がざわめくのを感じながら気取られないように小さく溜息を零す。
     同時に、心が冷え切るのを感じた。
     相手は曲がりなりにも婚約者として内定してから数年、それ以前に幼馴染として生まれた頃からの付き合いだった筈の男だ。されどここ最近、内定している婚約者であるリオンドール・ヴァン・ラッツェル……俺に対する態度はすこぶる悪い。
     無視は当たり前、口を開けば俺を見下して嫌味ばかり、歩けば俺の悪い噂の喧伝、当たれば気分によっては暴力、とやりたい放題だった。まあ、こんな光景を見て、また普段から彼等の言動や行動を見てそんな噂を信じる人なんていないだろうけど。
     ああ、ぽたぽたと髪から落ちる雫で高そうな絨毯を汚すのが申し訳ない。
    「わかったか? この身の程知らずが」
     下げたままの頭に掛けられる侮蔑の声音に内心で嘲笑を浮かべる。
     どの口が言っているのだろう。近年大した功績もない名前だけ大層な落ち目の侯爵家と、政で活躍し近年の戦争でも武勇を振った我が伯爵家。どちらが周囲の覚えがめでたいかなんて直ぐにわかる。
     何代も前から陞爵の話も出ていたが、下手に地位があると有事の時に直ぐに動けないから、という建前で上位貴族は面倒だからと辞退し続けているのも知らないらしい。チラリと藍色の髪の合間から伺い見れば、目立つ形で俺に相対している人物は四人。
     一人は俺にワインをぶっ掛けた張本人で俺の婚約者であるベンヤミン・ヴァン・アッヘンバッハ侯爵令息。
     一人は婚約者の所業に驚いた顔をしている俺の兄、コンスタンティン・ヴァン・ラッツェル伯爵令息。
     一人はにやにや笑いながら俺を見下しているこの国の第一王子ルドルフ・ヴァン・バウムガルヘン。
     そして最後の一人はそんな王子の側で楽しそうに無邪気な笑みを浮かべるインゲ・トゥーマン男爵令嬢。更にルドルフ殿下の後ろにはその取り巻きが何人かいて下品な笑みを浮かべながら俺を見ているが、こちらはまあ無視しておけばいいだろう。
     思えば、インゲが殿下の側に現れてから全ておかしくなっている。
     トゥーマン家は元は有力な商人の家柄で近年起きた戦の際に物資の運搬や調達で功績を立てて新しく貴族となったいわゆる新興貴族だ。それ故にその娘が社交界に入った時、貴族としての立ち振る舞いやマナーがなっていない事に関しては大目に見られていた部分はあった。
     しかし、すぐに本性は露見するものだ。婚約者がいる相手と知りながら近付いては籠絡するこの女は元々評判が良くなかった。
     初めは子爵家が相手でその中でも比較的歴史の長い家の嫡男を婚約者から寝取り、それが追求されると「身分の差から逆らえなかった」と男性側から言い寄られたのだと泣いて見せたという。それからしばらくして今度は伯爵家、侯爵家とインゲは次々と男を籠絡し、その度にちょっとした騒動を起こした。されど、どんなに糾弾しようとも上手く逃れ、徐々により高位の男性に擦り寄るようになっていき、今ではこの有り様だ。
     本来ならこのような振る舞いは王子殿下・インゲ共々咎めなければならないし、王子殿下にもその側近にも言いたい事は色々あるが、話すのすらもう面倒くさい。
     もう一度ちらりと伺い見れば兄コンスタンティンは顔こそ笑っているが父譲りの深い緑の瞳を怒りに燃やしてものすごい眼光をしている。兄上の気持ちは有難いが、俺にとってベンヤミンのやらかしは好都合。ご機嫌取りしかすることの無い夜会なんてつまらないし、とっとと帰って寝たいと思っていた俺にこの状況は恰好の言い訳だ。帰る理由も出来たし、人前でやらかしてくれたお陰で父にこのバカ婚約者(仮)の所業を伝え易くもなった。
     にこりと笑みを作ってから顔を上げる。大事なのは平常心だ。
     俺が笑顔で顔を上げた事にベンヤミンが僅かにたじろぐが、無視だ無視。俺を怒らせたいのだろうが、そんな安い挑発に乗る程愚かじゃない。ただ、頭を上げた事で首筋を伝っていくワインの感触が不快だった。
    「失礼致しました。これ以上ベンヤミン様のご機嫌を損ねぬよう、今宵はもう下がらせて頂きます」
    「あ、ああ。さっさと下がれ」
     俺の言葉に満足したのか、犬を追い払うような仕草でベンヤミンが俺に下がるよう促す。その周りでニヤニヤ笑っている連中に腹が立って仕方がないが、致し方ない。ここで暴れられたらさぞかしすっきりするだろうが、後々面倒な事になるのが目に見えているのだ。
     とっととずらかろう、そう思って好奇心丸出しで俺達のやり取りを遠巻きに眺めていた聴衆の中を見せ付けるように悠然と進んでやる。俺は何も悪くないからな。狙い通りに俺を見た人達が眉を顰めてひそひそと話をする微かな騒めきが起きる。
     そして、もう少しでホールの出口に辿り着く、というところだった。
    「リオンドール・ヴァン・ラッツェル殿」
     背後から穏やかな声が俺を呼び留める。思わず立ち止まって振り返れば、そこにいたのはあまり会いたくない人物だった。
    「ハインミュラー公爵……こんばんは」
     予想外の相手に慌てて胸に手を当てて頭を下げる簡易的な挨拶をする。
     彼はハルトムート・ヴァン・ハインミュラー公爵。
     若くして公爵の跡目を継いだ優秀な男で真紅の髪と赤銅色が特徴的な美丈夫だ。年は俺より9程上で今25歳だっただろうか。身長も頭一つ分程高い男は柔らかに微笑みながら俺の方へと近付いてくる。
     ここでこの人に絡まれるのは予想外だった。
    「これを使うと良い。そのまま夜風に当たっては風邪をひいてしまう」
     動揺する俺を他所に、優しい笑みと共に差し出されたのは繊細な刺繍が施された見るからに質の良い絹の、それも真っ白なハンカチだ。葡萄酒の染みは落ちないからと受け取る事を躊躇していれば、そんな俺の様子にもお構い無しで有無を言わせずに頬を伝う雫を拭われてしまう。
     彼のつけている香水だろうか。幽かに柑橘の香りがする真っ白なハンカチに染み込んだ葡萄酒は夜会会場の隅に翳る薄明かりの中ではまるで血のようにも見えた。
     既に汚してしまったハンカチを拒否する訳にもいかず、俺はありがたく頂戴する事にする。
    「……申し訳ありません。後日、代わりの物をお返し致します」
    「構わない。君に差し上げた物だ」
     礼を述べれば、相手は鷹揚に笑う。まさか何のお返しもしないわけにもいかないだろう。
     下手に借りを作って今後にこうして構われるのも御免被りたいし、そもそもあまり何度も顔を合わせたい相手ではない。というのも、俺の家が所属している派閥と彼の派閥は現在敵対……というより競争状態にあるのだ。
     国を二つにして行われているその競争故に夜会は気が抜けない。何をするにも誰かと話すにも身の振る舞いにもいちいち気を遣わなければならないというのに。
     それもあってハンカチを素直に受け取れなかったのだが、彼は大して気にしていないようだ。もしくは、この行動にも何かしらの打算があるのかもしれない。
    「それにしても酷い男だな。公衆の面前でこのような事を」
    「慣れておりますので」
     ベンヤミンを非難する言葉を適当な返事を返して流す。
     頼むから早くどっか行ってくれ。義憤を露わに憤ってくれる事は有難いが、これは俺にとって日常でしかない。手や足が出てないから普段よりマシだ。
     ああもう、それにしてもいきなり接近してきた彼の目的は何だろうか。内心警戒している俺の返事に対してハルトムートは困ったような笑みを浮かべる。
    「それはそれで如何なものか。……いや、まあそれもあと少しだ」
    「?」
     何やら意味深な事を呟く相手にどういう意味なのか尋ねようとした。しかし、それもこちらに向けられた優しい赤銅色の瞳と伸ばされる手に気がついてつい飲み込んでしまう。
    「ああ、此処も濡れているな」
     そう言って優しく頬に触れるのは見掛けに寄らず、硬い掌と親指だ。武芸に生きる一族だからその掌だけでこの男が日々積んでいる研鑽が解ってしまう。
     穏やかな笑みを浮かべる精悍な顔に見つめられながらそんな掌ですり、と愛しむように触れられて思わず背筋がぞくりとする。ふと気が付けば、ホールの方からいくつも鋭い視線が飛んでくるのに気がついた。
     これは宜しくない。
    「……っ、お気遣いありがとうございます。もう帰りますから、大丈夫です」
     何とか離れようと身を翻しかけるが、そっと手を掴まれてそれも叶わない。本当に勘弁して欲しい。これ以上噂の的になるのは本当に遠慮したいのに。
     夜会の行われているホールの喧騒は多少遠いものの、どこで誰が見ているか分からない。というか、既に何人かがこちらを窺っている気配がするのだ。目立つように下がったのは失敗だったらしい。
     無礼だと叱責を受ける事を覚悟で慌てて手を引こうとするが、それよりも早く手の甲に唇が落とされた。柔らかな感触に驚いて呆然としていれば、ハルトムートがその赤銅色の瞳で真っ直ぐに俺を見つめる。その瞳には確かな熱があり、本能的に危険を感じた。
     くわれる。
     そんな言葉が脳裏を過り、尚更逃げなければと思うのにどうしても足が動いてくれなかった
    「……リオンドール」
     低い声が俺の名前を呼ぶ。
     愛おしくて堪らない。
     そんな熱を感じさせるような声音、熱い瞳。
     これに囚われてしまったらきっと逃げられない。
    「あ、の……離して……」
     本能が鳴らす警鐘に従ってなんとか逃れようと声を掛ければ、そんな俺の抵抗すら楽しむようにハルトムートは笑みを浮かべる。
    「近いうちに君の元に行くから、待っていてくれ」
    「え?」
    「引き止めてすまなかった。おやすみ、私の明星」
     もう一度手の甲に口付けを落とすと、ハルトムートは恭しく頭を下げてきた。ずっと格上の相手にそんな事をされた俺は慌てたが、ハルトムートは直ぐに頭を上げて俺を見る。
     穏やかな笑みだが、その瞳は真っ直ぐに俺を見ていて何だか居た堪れない気分になってきた。ゆっくり離された手は指先まで名残惜しそうで思わずドキリとしてしまう。それに今の言葉の真意はなんだろうか。
     訊ねる事も出来ず、優雅にホールへと戻っていく後ろ姿を呆然と見送りながら俺は弾む心臓を何とか抑えようと必死だった。
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