その日は壊れた橋の修繕に手を貸すために、将校を参謀や部下を引き連れて町へ出ていた。存外作業は順調に進んでおり、明日までかかる予定だった修復は夕方頃には片が付いた。対応が早くて助かったよと町の民たちがそれぞれに感謝を述べてくるのをルイは戸惑いを必死に飲み込んだ様子で対応していて、ツカサはそれを眺めて密かに口角を上げていた。
いつか、自分から与えられる愛情以外でも、他者から向けられる感情を上手に受け止められるようになってくれればいいなと、ツカサはどこか微笑ましく彼を見守っていた。
そうして戻った館は、大勢が橋の修繕作業に出向いていたため手薄だった。開こうとした執務室の扉の向こうにその気配を感じて、ツカサとルイはほぼ同時に剣を手に取った。木製の扉を蹴破り、予想通り室内に潜んでいたそれが飛びかかってくるのに合わせて刃を振った。二つのそれが刺客の手足にそれぞれ傷を作り、暗殺者は鈍い悲鳴を上げながらその場に倒れ込んだ。
掃除の行き届いた室内だというのに、奴の血で汚れてしまうなとルイは殺意を込めて刺客を見下ろす。そうでなくても、これの狙いが将校であるツカサだというのは明白だった。ルイにとって、世界で唯一大切な人。危害を加えようとするのを許せるはずがなくて、首を切り落としてしまえと刃先を向けて、そこでようやくルイは奴の顔を視認した。
「──君は……」
見覚えがあるのは当然で、暗殺のためにマスクで顔の大半を覆ってはいるがルイにとっては見慣れた姿でもあった。共に飼われ、巨悪に従わされ続けていた同胞とも呼べる人物だった。大臣が捕らえられ、奴直属の部隊が解体されてから随分と経つが、行方の知れない者も多かった。生きていたのかという安堵と、ツカサに剣を向けた怒りに混ぜられてルイは困惑しながら剣を収めた。
「……ルイ、知り合いか?」
「………」
廊下にいた部下たちに押さえられ捕縛される同胞の姿に、ルイは何も言えずただ静かに頷いた。それだけで様々なことを察したのか、ツカサの手がルイの背を撫でた。無意識に早くなっていた呼吸が落ち着きを取り戻し、掌の温かさにじんわりと涙が浮かんだ。それを見てか、捕らえられた男はルイを睨んで声を荒げる。
「ふざけるな!なんで、なんでお前だけ救われる!!」
「っ……!」
「あの方がいなければ俺たちは生きていられないのに、それを裏切ってどうしてお前だけ幸せになるんだ!ふざけるな、ふざけるなぁッ!!」
「……連れてけ、お前たち」
「はいっ」
「お前だけいつも上手いこと立ち回って媚び諂って、クソッ、クソクソクソ!!」
連れられながらも暴れ吠える暗殺者の視界からルイを隠すように、ツカサは頼りなく俯く彼を抱き寄せるようにして執務室へ連れて行く。それでも執拗に責め立てる声はルイの耳へ狙いを澄ましたかのように届いてくる。罵倒、嫉妬、断罪、その全てをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて煮詰めて吐き出したような、悍ましい想いが頭の中にこびりつく。
「──お前にっ、幸せになる権利なんか、ないんだからなぁっ!!」
咆哮に、びくりとルイの体が震えた。大仰にも思えるそれは、しかし証明をするようにルイの呼吸は荒くなる。執務室の扉を完全に閉めて暫くすれば、地下牢まで連行されたのか刺客の声は聞こえなくなった。二人分の呼吸だけが残る室内で、ツカサはルイの手を取ると優しく包み込んで微笑みかけた。
「ルイ──しっかりしろ、オレはここにいる。深呼吸をして、落ち着くんだ」
「っ……はい、はい……申し訳、ありません……」
「構うな、謝ることなどない。……大丈夫、大丈夫だ、ルイ……」
ツカサに触れられ、その声に導かれる内に呼吸は落ち着いた。けれど強い衝撃を受けたかのように頭はぐわん、ぐわんと揺れている。その揺れに慣れてしまっているような、酔ってしまっているような、不確かな感覚のままルイは口を開く。
「……彼の、言う通りなんです」
「……なにがだ」
「私は……主に、媚び諂って、痛みを向けられないように繕って、そうやって生きてきた」
躾も悪事も、受け入れるべきことだった。仕方ないことだった。それがあの世界での普通だから、当然のことだと思うようになるまで刷り込まれてきた。それ自体は、もう、どうしようもない。ルイはある意味諦めていた。どうしたって自分は、そういう人間として作られたから。
「けれど、そうしないと……そうやって、狡い生き方をする自分を作らないと──本当の僕は、……ぼくの、心は、堪えられなかった、から」
仮面を作って、乖離して、別人のように生きていないと、幼い心はどうしたって堪えてくれそうになくて。それが、彼らにはどんなにか卑怯な手段に見えたことだろう。嫌悪や羨望が殺意を孕んだ嫉妬に変わるのも、裏切り者という憤慨へ至るのも理解は難しくなかった。
だからこそ、ルイの頭にあの台詞がこびりついてはなれなくなる。
「ルイ、もういい。……今日は、もう休もう」
懺悔のように紡がれるルイの言葉を遮って、ツカサはその頬を掌で包み繋いだままの手を優しく撫ぜた。あの一瞬で見事なまでに青白くなってしまった顔は血の気がなく痛々しい。
少しは、彼を幸せに出来ていると自負していた。けれど、まだ全然足りてない。どんなにツカサが与えても、ルイの心の奥底には、ルイが生きてきた世界には、ルイを害し傷つけてしまうものがまだこんなにも溢れている。
それを避けることが叶わなくても、せめて癒やすことは諦めないでいたい。どうしても傷が生まれてしまうものならば、せめて膿んでしまわないように。
「おいで、部屋で休もう」
ツカサが手を引く。ルイはそれに縋りたいと思った。
けれど、縋ってはいけないと思った。
『──お前にっ、幸せになる権利なんか、ないんだからなぁっ!!』
だってルイは、世界で一番安心出来る場所に来てしまったら、どうしたって幸せになってしまう。
ただ傍にいるだけで、溺れそうなほどの幸福に落ちてしまう。
自分に、幸せになる権利なんてないのに。
たくさんの者を傷つけ、裏切り、踏み台にしてきた人間なんて、幸せになるべき存在じゃないのに。
所詮、あの暗殺者と同じ土台の上にいる、汚れた存在だ。
幸せになってはいけないのは、道理だとルイは思った。
「──いえ……申し訳ありません、将校どの。今日は……一人で、休みたいです」
「ルイ……しかし、」
「お願いします、どうか……一人に、させてください」
すっかり顔を伏せてしまったルイの表情は、ツカサには読み取れなかった。本当は今すぐにでもルイを私室へ引きずり込んで、この腕の中に閉じ込めて何度も大丈夫と囁いて、与えられたそれでくたくたになった彼を穏やかな眠りに落としてやりたい。
けれどもし、今はそれが逆効果なのだとしたらどうしよう。自分が与えるほどにルイが苦しむのなら、それはツカサの望むものではなかった。水を取りすぎて折角咲いてくれた花が枯れてしまっては自身のことを許せないと、ツカサはそっと繋いだ手を離した。
「……わかった。何も気にせずゆっくり休め、ルイ」
「はい……ありがとう、ございます」
「……部屋まで歩けるか?ほら、そこまでは一緒に行こう」
せめてと頼りない背を支えるようにしてツカサが言えば、ルイは軽やかとは言い難い足取りで私室まで歩く。開いた扉の向こうは見慣れてしまった自分の部屋が待っていて、それがどうしてか今のルイにはひどく罪深いことのように思えた。
「ルイ、……いや、オレも部屋にいるから、何かあったらおいで。わかったな?」
「……はい」
「ゆっくり眠るんだぞ、……おやすみ」
おやすみなさい、と小さく返す。それを最後に扉が閉まれば、途端に空気が静まり返る。張り詰めた空気がザクリザクリと胸を刺して、堪えていた罪悪感が顔を覗かせる。なにかに睨まれているような感覚が恐ろしくて、ルイはその場にしゃがみこむと大きい体を小さく小さく折り畳んだ。せめて、その視線の当たる範囲が広がらないようにと。
『──お前に、幸せになる権利なんか──』
何度も何度も、声が頭の中を汚していく。彼へ囲われてから懸命に育ててきた穏やかな感情までもがそれに踏み躙られるような感覚がして、ルイは自らを守るように己の肩を掻き抱いた。それでも、外部から侵してくる言葉は毒のように広がっていく。それを抑える方法をルイは知らなくて、ただどうかこれ以上毒が回らないようにと縮こまって祈るばかりだった。
体内を侵していくそれに、ルイは温度を忘れ始めた。あの腕の中に飛び込みたい。大丈夫と抱き締めてほしい。なのにそれは許されない。幸せになってしまうから。キリキリと胃が痛くなって、彼の領域がどれだけ優しい温かさだったかわからなくなった。
これまでどうやって呼吸をしていたんだったか。彼の傍では、そんなこと意識しなくてもいいほど融かされていたのだと実感した。それが、どれだけ深い幸福だったかと。彼の声も温度も、目も笑顔もなにもかも、全部がルイの幸せに繋がっていたと嫌でも理解してしまった。
幸せになるのが許されないのなら。
その中のどれを捨てれば、許されるのだ。
「──ッ、ゔ、……!」
込み上げたそれに慌てて手で口を押さえてルイは立ち上がる。覚束ない足取りで転びそうになりながら、滑り込むように部屋の奥の洗面所へ駆け込んだ。
「──ぉえッ、げほっ、ゔぇ……ッ!!」
ぼたぼたと吐瀉された胃液が鼻を突く。碌に吐き出すものなんてないのに、嘔吐感が収まらない。洗面台に縋りついて何度もえずきながらルイは泣きじゃくった。嘔吐感と涙のせいで、余計に呼吸が苦しかった。
「ッ、ゔ……ぅあ、ぁ……!」
あの人の優しさすら、塗り潰されるような。それだけは失くしたくないと縋りついたものすら、奪われていくような。
吐き出した後に残るのはひどい虚無感ばかりで、汚れた口を拭う気力もなくルイはその場に蹲る。
幸せになる権利なんか、ない。
でも、幸せになりたい。
あの人を幸せにしたい。
全部、願うことすら許されない。
ただ隣にいられるだけでよかったのに。
朝目覚めて、身支度をして。鮮やかな朝食を摂って、仕事をして。穏やかな夜を過ごして、また眠って。その全てに彼がいて、それだけが幸福で、ただそれだけでよくて。
だけど全部、許されない。
普通を享受する権利さえない。
幸せになんて、なれやしない。
「…………ぁ、は、……はは、ッゔ、ぅ……ッ」
幸せを求めてはいけないのなら、どうして自分はツカサと共に在るのだろう。
彼の幸福まで侵さなければならないなら、己の存在さえきっと、許されないのだと気付いてしまった。
「ッ、ぁあ、ああ……ごめんなさい──愛して、しまって、ごめんなさい……ッ!」
慟哭は、ただ虚しく響くだけだった。