「類、起きられるか」
あの任務から何日が経ったかも分からない。ろくに動かない体のまま頷けば、司の手が背を支えてくれる。ベッドの上に身を起こすだけで息が切れて、ぜえぜえと荒い呼吸をすれば宥めるように優しい温度に撫でられる。けふん、と小さな咳をしてからもう大丈夫と懸命に頷いてみせれば、探偵はホッとした様子で隣に腰掛けた。くらりと目眩に揺れた体躯を受け止められて、安心感にゆったりとした眠気が思考を覆う。
「こら類、まだ寝るな」
少しでも食べてくれと口元に匙を運ばれて、類は重い瞼を開く。怪我をしてから殆ど食事を摂っていないのに、大した食欲もない。動いてないからだろうか、と小さく口を開いて差し出された粥を咥えれば、自己嫌悪に頭痛がした。
休んでいる場合なんかではない。鍛えた腕が鈍ってしまう。もう十分動ける程度には傷は癒えているはずだ。これまでだって、多少の怪我なら完治せずとも任務を請け負ってこれた。早く組織に戻って、銃を手に馴染ませ直して、仕事を熟さなければ。
(……なのに、なんで、動けないんだろう)
重い病にでもかかったかのように体は言うことを聞かなかった。司のベッドに寝転がされている間は、殆ど泥のように眠ってしまう。そこから這い出でようとすると寒くて気持ち悪くて嘔吐しかけてしまう。司も類のその状態を理解してか、必要以上にベッドから出そうとはしない。落ち着くまで休んでいればいいと、夢現の中で聞いた声は平時のそれとは比較にならないほど優しくて、無意識に身を預けてしまいそうになるものだった。
この場所で横になっている間だけは穏やかだった。ほんのりとした熱っぽさは感じるものの、呼吸は楽でただ休んでいればいいのだと安心出来た。身動げば腰の傷が痛むが、傍らの司に頭を撫でられるとそれさえすぐに和らぐ錯覚がした。
「……類、もう少し食べてくれ」
「………」
「もう一口。頼む」
「…………ん、む……」
「よし、偉いぞ」
聞き慣れない褒めの言葉に意識を委ねれば、このままで良いのだと安堵する。休んでいていいのだ、深く眠ったままでいいのだと。
(ああ、いや……ちがう)
このままで良いと、思っていたいのだ。
まだ、もう少し、ここで休んでいたい。彼の傍で眠ることを許されたい。体が動いてくれないのは本当だけれど、それはきっと伸し掛かるダメージの他に、この弱い心がそう望むからなのだ。
「…………司くん」
「っ、ああ、どうした?」
「……ねむ、い」
覇気のない声で訴えれば、そうか、無理をさせたなと柔らかい声が笑う。彼本来のこの慈愛の声よりも、すっかり捕食者としての獰猛な声音ばかりを聞き慣れてしまった。そちらが耳に馴染んでしまうくらい、彼に寄りかかってきていたことを、今更ながらに思い知った。
(僕はただ──……甘えていたかったのか)
どうしてこの探偵を選んだのかも分からない。初めて会った夜を思えばそれは偶然とでも成り行きとでも、幾らでも呼び名がついただろう。それでも類は、彼が良かった。その手が欲しかった。この温度に、快感に、満たされていたかったのだ。
愛されているようだと、錯覚に溺れていたかっただけだった。
「吐き気はないか? 痛みは?」
「……ない……」
「そうか、良かった。ちゃんと回復しているようだ、慌てずに休んでいればいいからな」
頷くことも出来ないまま目を閉じた。最早自分のものと勘違いするほどに落ち着く柔らかなベッドの中で、安眠に意識を捧げた。
慌てなくていい。休んでいていい。本当に落ち着くまではそれでいいからと、彼は言う。
でも治ったら、ここから出ていかなければならない。
この安寧の地から這い出て、この手に銃を握らなくてはならない。そんなことは苦痛ではないのに。引き金に掛ける手は、このお人好しの探偵が思うほど重くもないのに。そんなことよりもずっとずっと、この温かい場所から出ていかなければならないのが、恐ろしかった。ずっとここにいたかった。そんなことを思う自分が、なにより煩わしかった。
家主の閨を占領して、組織に連絡も取らず眠りこけて、いつまでもここにいたいなどと祈っている。そんな自分が気持ち悪くて、また体が重くなってしまうのだ。悪循環とはこのことかと、理解しても尚言い聞かせられるものでもなかった。
(……駄目だ、眠い…………)
考え込めば、睡魔に感覚が食われていく。もう止めだ、全部放り出してこのまま眠って、永遠に目覚めなければどれだけ楽なことか。諦念に意識を飛ばす間際、冷えた手を包まれる微かな感覚がして、類は涙に似た安堵にそのまま眠りに落ちた。
* * *
類はあれから殆ど寝たきりだった。
無論、呼びかければ目を覚ますことも多いし微量だが食事も取ってくれる。支えてやればベッドからも出られるし、傷はまだ痛むようだが風呂や排泄も今のところは問題ない。
ただ顔色は常に悪く、起こしてやってもすぐに眠い、或いは寒いと訴える。怪我のせいで神経系になにか機能異常が起きているのだろうか、などと考えてみても医学知識のない司にはお手上げだった。
いっそちゃんと医者に見せてやるべきだとは、分かっている。だけれど組織の立場上表の病院に向かうのは憚られると、かつて類が言っていたのを思い返すとそれを無視してまで連れて行くことは出来なかった。
ならば、裏の医師に診てもらうべきなのだ。類に伝えていない組織とやらからの連絡でも、その手配は可能だと幾度となく告げられている。
(……だが、今類をオレの傍から離してしまうのは……どうしてだか、とても恐ろしい)
ここがいいと縋るようにベッドに沈む彼を、手離してはいけないと思った。青い顔が幾分か穏やかな寝顔に変わる光景が続いてくれるなら、少しずつでも快方に向かっているのなら、それでもいいだろうと。幸いなことに寝込む者の世話をするのは苦ではなかった。今さら肌に触れるのに抵抗がある仲でもなかったし、類はそもそもそんなことを気に留める余裕もないだろうけれど。
「……それにしても、よく眠るな」
安眠であるならば良いのだがと、先刻風呂で洗ってやったばかりの髪を掬い撫でる。あの日連れ込んだばかりの類は、今にもその心臓を止めてしまうのではないかと危惧するほど頼りなく細い呼吸を繰り返していたものだが、今となっては随分と穏やかな寝息を立てるようになった。それだけで幾らか、果ての見えない恐怖心からは脱していられるような気がした。
不謹慎極まりない、と司は自嘲しながらも、願ってしまった。この安寧のような時間が続いていればいいのにと。そして、自分はもしかしたら本当は、こんな緩やかな二人の時間を求めていたのかも知れないと。
類を抱く時間を好んでいたのも間違いではない。引き締まった体を組み敷き、煽るような文言を吐く躾の行き届いていない声を情欲に溺れさせ、恥も外聞もなく乱れ嬌声を上げて喘ぐ彼を我が物であるかのように抱き潰す時間は、何にも代えがたい興奮と高揚感に満ちていた。司は間違いなくそうして過ごす欲に汚れた空間を、好んでいた。
それでもこんな風に、下心も策略もなく触れ合って、頽れそうになる肢体を支えてやって、ただ穏やかに過ぎゆく時間の中で惰眠を貪る時間だって、好ましいと思えた。
「……ああ、類」
眠る彼へ呼び掛ける。穏やかな寝息は、どうかしたのかいといつもの調子で小馬鹿にするように笑うことさえない。
「オレは、お前を──愛して、やりたかったんだろうか」
あの夜に見つけた濡れ鼠の男に、お節介にもフレンチトーストを振る舞ったように。そんな稚拙でありふれたたった一粒の幸福を、齎し愛してやれる人になりたかったのだろうか。
(……今更だな)
もうそんな淑やかな関係には戻れないほど、互いに劣情に堕ちてしまった。そこに在る快楽を知っている以上本能には抗いようもないし、そもそも自分たちの間にあるこの行為の本意は性欲処理だ。それ以上も以下もない、発散し合うためだけの利害関係。そこに至るまでに絡まった糸を、今更正しく解くことなどきっとかなわないのだ。
それならば、せめて。今はここで休んでいられるように、類が本当の意味で目覚めた時にいつも通りに笑わせてやれるように。司は届く限り手を尽くしてやる他ないと確信した。
彼に対して愛だの恋だのは正直よく分からない。気が付けば壊れるほどに抱き潰してやりたいと欲する本能を、慎ましい恋心などとは呼べる気がしない。
そんな純粋な道には戻れないのなら、これまで通りでいいと思った。変わらず互いの空白を埋めるための行為を、駄犬と飼い主の役割に従事して悦楽を叩き込むことを、いっそ愛情と呼んでしまってもいいじゃないかと、そう思えたのだ。
「……だから、早く良くなってくれ」
類が変わらず求めてくれるのなら、司も変わらずその身を食い尽くそう。彼の欲求を満たし、自らが与えたい愛情を注いでいられるのなら、そこにあるのは変わらない利害関係だ。反することなどありはしない。そのためにも、早く。いつも通り元気になって、あの綽々とした目で誘って、互いの境界も分からなくなるほどに抱き合いたい。
「……ッ!」
そんな細やかな願いを裂くように、聞き飽きた端末の着信音が鳴り響いた。
* * *
「──……から、それが約束出来ないのならオレはそちらの指示には従えない」
微かに聞こえてきた、怒号にも似た鋭い声音にふっと意識が浮上した。その声の主を聞き違えるはずがないと、類は眩む視界の中でその在り処を探した。そうして漸くぼやけた視界の奥、こちらに背を向けて端末に向かって声を上げている探偵の姿を視認した。どうしたんだい、そんなに声を荒げてと、宥めたくても掠れる吐息と司から発される圧に負けて類はただその光景をぼんやりと眺めていた。
「……そちらにも組織の都合があるのは、理解している。だがオレにも、オレたちの都合がある」
「……?」
「…………だとしても、オレは今の類をそのままそちらに帰そうとは、思えない」
平行線だ、と司が溜め息を吐く。類は、自らの手がひどく冷えていくのを感じた。彼が手にしている端末は己のもので、会話には何度も組織の名が出た。あれだけ連絡もせずに眠りこけていたのだ、任務が言い渡されるのは当然のことだ。一体いつからこの連絡は来ていたのだろうか、司の慣れすら感じる呆れた声に、これが初めての連絡でないことは考えずとも理解出来た。
「……だからそれは、…………はぁ、切れたか」
通話の終わったらしい端末を置き、はぁと深く息を吐く司の背に、類は得体の知れない恐怖心に怯えながら口を開いた。銃を撃つときも、傷を負うときも、彼に食われるときだってこんな恐ろしさを抱いたことはなかったのに。それなのに何故だか今、言葉を絞り出すのがどうしようもなく怖かった。
「……司、くん」
「! ……類。すまない、起こしたか」
焦ったように振り返った司は、しかしすぐに穏やかに微笑んで類の傍に歩み寄った。それから行為の時のそれとは雲泥の差のように思える優しい手付きで類の頬を撫で、また少し熱があるんじゃないかと穏やかな声音で呟いた。先刻のそれとは全く異なる、大人びた声だった。
「司くん……ぼく、は……」
「……いいから、寝ていろ。今日も、まだ眠いだろう。心配しなくていいから。おやすみ、類」
「……ちがう、……僕は、ね、司くん」
掠れる呼吸の中で、類は懸命に絞り出す。もう二度と彼に伝えることのないであろう、本音を一粒。
「君に、飼われたいな」
その言葉を聞いて、司はひどく緩やかに、噛み締めるように静かに、破顔した。
「……ああ。飼ってやるとも。だから、ここで休んでいろ」
なにも案ずることはないと撫でられて、類は目を閉じる。そのまま、眠ったフリをした。
冴えてしまって一向に閉じられない意識に蓋をして、ただ時が過ぎるのを待った。夕日が沈んで、梟が鳴いて、司が仮眠を取るために寝室を後にする僅かな時分まで堪えた。
しんと世界ごと静まり返った真夜中、漸く類は身を起こした。鉛のように重たい体を支える腕は情けなく震えていて、すぐに元の感覚を取り戻せるよう鍛錬に励まなければならないなと思い知らされた。律儀に畳まれたいつもの服を捕まえて袖を通す。悴むように震える指で装備を留めて、久々に手にしたせいかひどく重く感じる銃をホルダーへ収めた。最後に黒い革手袋を嵌めれば、途端に自分が自分に戻ったような気がした。あの安寧の中でただ水中を揺蕩う枯れ葉のように過ごすのも心地好かったけれど、本来あるべき自分とはこうだったのだと思った。
「……行かなきゃ」
呟いて、類は開け放った窓の枠に足をかけ床を蹴った。
夜が明ける頃、司が見たのは開け放たれたままの窓と、もぬけの殻になったベッド。それから、お世話になりましたと一言添えられただけの簡素な書き置きだった。