【つるみか】十二月新刊進捗①「ぬしさまが、またご執心の女に金を貢いだそうでして」
小狐丸の呆れ顔を見て、三日月は食卓に並んだ朝食の質素さの理由をおおむね察した。
長机には人数分の白飯と味噌汁、そして小皿が置かれている。小皿の中身は梅干しがひとつきりである。なるほどこれは久しぶりの粗食だ、と思いつつ三日月は席についた。いただきますと手を合わせて箸を取る。
「して、今回はどのような顛末だ?」
「田舎から出てきたばかりの娘に入れ込んで、金を渡したそうです。なんでも実家の父が危篤でどうしても帰省したいが、金もなければ仕事もない、父の死に目に会えなければ死んでも死にきれないと泣かれたようで、同情してかなりの大金を渡したと」
「それはそれは、主はよいことをしたな。で、主は?」
「それきり娘と連絡が取れないので、絶望して部屋で泣いておられます」
「はっは」
三日月は笑いながら箸で梅干しをつまんだ。質素な食事も美味くなる、なかなかの話である。
梅干しは、たいそう美味だった。これは確か去年の夏に、加州清光が懇意の問屋から訳ありの梅を安値で大量に仕入れてきて皆で必死で漬けたものだ。あの時は梅のへたを取る細かい作業が嫌になってしまってしばらく梅干しなど見たくもないと思っていたが、なかなかどうして、こうして役に立つものである。
その加州は、梅干しにも手をつけずに頭を抱えていた。
「やばい。このままだとまた米を薄める生活になりそう」
「そうか。あの、椀の底が透ける粥はもう食いたくないものだな」
「俺だってやだよ。ってことで、今日から全部隊で出来るだけ遠征の予定を組むから。食事が終わったら、早速出るよ」
はい、わかりました、承知ですと食卓のあちこちから声があがる。多くは短刀のものである。そうして何事にも素早い彼らはそそくさと食事を済ませ、各々が戦支度のために駆けていった。三日月は、まだ椀の中身を半分ほども減らしたところである。
「皆ああも働き者だというのに、何故本丸の家計は常に火の車なのだろうなあ」
「それは勿論、ぬしさまの金遣いが荒いせいです」
小狐丸は、具のほとんどない味噌汁をすすりながら澄ました顔でそう言った。
ここは、小さな本丸である。
設立されてからはもうずいぶん長くなるが、住まう刀は未だに両手に少々あまるぐらいでしかない。刀が少ないのには理由があり、設立当初から経営が厳しく、新たな刀を迎える余裕が容易には作れなかったのだと聞いている。おまけにそもそも、主には多くの刀の顕現を維持していくだけの能力がない。これは主本人からの申告である。
三日月と小狐丸は、何某かの祝いの折に政府からこの本丸へ配布された刀である。今でも三日月は、顕現した日に青い顔をした加州にこう言われたことを覚えている。「どうしよう、三日月宗近なんて、怪我させたら手入れするだけの資材ないじゃん」幸い今のところは資材の不足で怪我を放置されるようなこともなくやれている。しかしいざという時の資材も惜しまねばならぬ懐事情は、何年たっても変わらぬ有様である。
「人が人として暮らすというのは、金のかかるものなのだな」
「ええ、まったく」
朝食を終えた後、小狐丸と三日月は納戸で再び顔を合わせた。
小狐丸は主の居ない場ではなかなか辛辣なことも言うが、主本人に対しては常に全肯定の甘やかし狐である。食事のあと、彼は密かに主を慰めようと部屋を訪れたようだったが、傷心の主には門前払いをくらったようであった。失恋のたびに部屋にこもってわんわん泣くのは主のいつものくせである。小狐丸はおとなしく引き下がり、代わりに納戸へやってきた。そこへ、三日月も行きあった。
本丸の財政が傾くと、大抵誰かがここへくるのが常であった。納戸には主の私物がある。しかししまいこんであるだけあって不要なものが多く、そこから金目のものを売って生活費に充てるということをこの本丸では繰り返してきた、時には主が懇意にしていた女性に贈ろうと奮発して買ったものの、その前にふられてしまい、未開封のまま納戸の奥底にしまわれている装飾品が発掘されることなどもあり、なかなか馬鹿には出来ない狩場なのである。
しかし、その日納戸には、金目のものはひとつもなかった。
「さすがにもう、売れるものはありませんか」
「ずいぶん売ってしまったからなあ。あとは、最低限の資材を残して金に換えるか?」
「いえ、資材を売ってしまっては遠征部隊にもしものことがあった時に困ります。何か他から捻出しなくては……」
こめかみに手を当てて唸る小狐丸の自慢の髪は、どことなく艶が失われて見えた。自分たちは人ではなく、あくまで人に似た肉体を持っただけの付喪神である。しかしやはり、苦労は外見に滲み出るものなのだろう。同時期に顕現し、これまで苦楽を共にしてきた小狐丸を三日月は憐れに思った。そして何より、自分たち刀は最悪餓死することもないが、このまま本丸の経営状況が悪化すれば主の健康と命にも差し障る。
三日月は、ほんの少しだけ思案したあと、そっと小狐丸の肩を叩いた。
「案ずるな、小狐丸。俺に心当たりがある」
「何か、金になるものを持っているのですか?」
「うむ」
頷いて見せると、小狐丸の瞳には希望の光がともった。普段はすました小言の多い刀だが、内心では自分を頼りにしてくれていることを、三日月は知っている。なかなか可愛い刀なのである。
「俺を売ってみるというのはどうだ?」
「は?」
しかし可愛い刀であるはずの小狐丸は、三日月の提案に冷ややかな目を向けた。三日月は、その視線に晒されながら、説明を試みることにした。
主は三日月から見ればまだまだ年若い、成人男性である。
自分は人の世では何も成果を残せなかった。
主はよくそう言って笑った。若い身空で何を、と三日月は不思議だったが、どうやら一度社会に出て何かしらの失敗をした経験があるらしい。それから主は、第二の人生として審神者の道を選んだのだと言う。
「才能のある審神者はさ、もう子どもの内から政府に目をつけられてるもんなんだよ。主みたいに大人になってからこっちの道を志願したやつってのは、仕方なく審神者になったって扱いで、とっくにキャリアからは外れてるってわけ。だからそもそも待遇が違うし、期待もされてない。楽なもんだ――って主がよく言ってる」
これは加州の言である。なるほど主は、あまり優秀な審神者とは言えなかった。しかし顕現させた刀には優しく、情もあり、悪い主ではない。ただ少々女癖が悪く、金の使い方が上手くないのは事実であった。己に下された低評価に腐ることもない鷹揚さはなかなかのものだが、それをよいことにあまり審神者の使命には熱心ではない。そういう主である。
三日月は、一度主に随行して政府の中枢へと出かけたことがあった。確か本丸の定期査定のためだったと記憶している。主はそこで、何人かの審神者に親し気に声をかけられた。聞けば主が審神者になる前、養成所で知り合った仲間たちだと言う。
「その中に、ひとり、美しい蘇芳の着物を着た女性がいてな」
「ぬしさまのご学友ですか」
「うむ。彼女は主を見て鼻で笑い、まだクビになっていなかったのか、ぼんくら、と言った」
「……それは、ずいぶんな言いようですが」
「蘇芳の君は養成所でも名の知れた才媛で、当時から落ちこぼれだった主を毛嫌いしていたそうだ。しかし主はにこにことして彼女に話しかけに行った。さすがの俺も感心した」
「ぬしさまは大物でいらっしゃいますので」
小狐丸は、冗談でなく誇らしげである。
納戸を出て、三日月は主の部屋へ向かおうとしていた。その道中に、小狐丸へ説明してやっているところである。
「彼女は俺を見て、主が持つには相応しくない、よい刀だと言った。どうせ女遊びで借金を抱えているんだろう、買い取ってやろうか、とも言った」
「な」
「無論主は断った。しかしな、それからもたびたび、蘇芳の君がまだ俺を欲しがっていると嬉しそうに話すんだ。思うに彼女に話しかけられて、主は嬉しいのだろうな。ともかく蘇芳の君には俺を買い取る用意がある。冗談半分かもしれないが、上手くことを運べばあるいは――」
「あなたはまさか、他の本丸へ、売られようというんですか?」
その時小狐丸は突然語気を荒げ、三日月の目の前に立ちはだかった。三日月はさすがに驚いた。まさかも何も、はなからそう話していたつもりであった。どうやら小狐丸にとっては突拍子もない提案だったようで、ようやく今、事情が呑み込めたという様子である。
「冗談ではありません。あなたを売ったその金で、糊口をしのげと言うのですか」
「はは、糊口をしのぐとは言ってくれる。俺は恐らく、もっと高く売れるぞ」
「三日月殿」
三日月は笑ったが、小狐丸はどうにも少し怒っているように見えた。鋭く名を呼ばれて、さすがに三日月は笑みを収めた。
「冗談ではないぞ。俺は本気だ。だが、戻ってくるつもりがある。金をためて、いずれ買い戻してくれればよい」
「まさか、ぬしさまにそんな甲斐性があるはずがありませぬ」
「俺も主の甲斐性には期待していないが、まあ聞け。蘇芳の君の本丸はそれは立派で、かなり羽振りもいいと言う。つまりな、働けば、それなりの給金が出る」
小狐丸が、はっと思い至った顔をするのを、三日月は見る。
「あちらで得た給金を、俺は本丸に送ろう。その金を貯めて俺を買い戻してくれ。つまり俺は、奉公に出るようなものだ。移籍するだけで金を払ってもらえる上、給料まで貰えるとなれば、こんなに上手い話はないぞ」
「それは、確かにそうですが」
小狐丸の貧乏暮らしも、それなりの年月になる。損得勘定は人間並みには得意である。
それでも、小狐丸の表情は曇りがちだった。
「しかし、やはり、あまりにもひどいやり方ではないですか」
「そう思うか? 主君のために奉公に出るというのは、そう珍しくもないことだと思うが」
「無事に帰ってこられると決まったわけではありません。もしもあちらであなたに何かあったら」
小狐丸は、いやに不安そうな顔をした。
こういう時、三日月は、小狐丸が図体の大きな弟のように思える。無論自分と小狐丸は血を分けた兄弟などではない。だが刀としての出自にも縁があり、本丸に顕現してからも何かと一緒に過ごしてきた仲である。三日月は、小狐丸の頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが、彼が主以外に毛を触らせるのを好まないことをよく知っていた。それで代わりにぽんと肩を叩いて彼を宥めた。
「あちらは戦力も資材も潤沢な本丸だろう。そう心配することもない」
「ですが」
「そう悪いことばかりでもないぞ。あちらの本丸はさぞ飯が美味いに違いない。風呂もどれだけ広いことか。もしかすると、毎日八つ時に茶菓子が出るかもしれぬ」
「三日月殿……」
小狐丸は、困ったように眉を下げた。おそらくは、三日月の意志が既に固いことを悟ってしまったのだろう。三日月が言い出したらきかない性質であることを、彼はよく知っている。
「わかりました。必ず無事に戻ってきてください」
小狐丸は、最後には寂し気に笑ってそう送り出してくれた。
こうして三日月は他所の本丸へと売られることになったのである。主に「例の売却話を進めてみないか」と持ち掛けた時は一笑に付されたが、三日月が本気だとわかると主は苦しい顔をした。主もまた、この計画の有用さに気づいてしまったのだろう。三日月は、主にも、小狐丸と同じ説明をして説得を試みた。いずれ必ず戻ると言い聞かせると、主は泣きながら三日月に頭を下げた。
すまない。必ず迎えに行く。
主はおいおい泣きながらそう言ったが、とはいえあまり期待できないことはわかっていた。主は本心から言っているのだろうが、大概は行動が伴わないのだ。そういうところも含めて、憎めない主である。
三日月は五日もしないうちに本丸を立った。蘇芳の君の本丸とは、早々に話がついたのだ。
今回のことは政府に公式に届け出もした「貸与」の扱いである。刀の「譲渡」つまり正式に主の登録を書き換える処理には大層面倒な申請が必要だと聞いているが、貸与であれば申請書類は一枚で済むのだと言う。とはいえその書類がある内は、三日月の使用権は新しい主にある。
三日月は、新しい本丸へひとりで旅立つことになった。その先導を、政府から派遣された管狐が請け負った。
「まったく嘆かわしいことです。近頃の審神者はすぐに刀を金銭でやり取りして」
管狐は三日月の数歩前を歩きながら、呆れたようにそう言った。本丸から本丸への移動は、政府がつないだ異空間を歩いて移動することで実現する。異空間とは言っても、見た目は普通の街道である。政府には、この手の技術を得意とする術者が案外多く居るらしい。
三日月は、短い旅の連れである、管狐の言うそれが意外だった。
「刀を金銭でやり取りするとは、そんなに多くあることなのか?」
「ええ、まあ。近頃は、別本丸出身の同じ刀を収集することが流行りになっているそうですよ」
「ほう。何故そんなことを?」
「なんでも、同じ刀でも主が違うとそれぞれに個性が出るのだとか。その差を吟味して楽しむそうです。まったく審神者の力を何だと思っているんだか」
どうやらこの管狐は、真面目なたちのようである。三日月は、小言の多い彼の様子を見て本丸の小狐丸を思い出した。同じ狐だったからということもある。
「まあまあ、それもよいではないか。刀というのは美術品としても扱われるさだめにある」
「政府は、あなたたちを床の間に飾るために顕現させたわけではありませんよ」
管狐の言い分はもっともではある。彼はそうやってしばらくぶつぶつ言っていたが、途中休憩の際に三日月が本丸から持たされた油揚げを一枚やると途端に愛想がよくなった。これもまた、小狐丸の気遣いである。よく出来た弟分を持って幸運だとしか言いようがない。
新しい本丸へは、半時もしないうちに辿り着いた。
「こちらが、あなたが貸与される新しい本丸です」
管狐の案内で道を抜けると、そこは大きな建造物の前だった。
由緒ある寺のようなものものしい造りの門がまずあった。瓦屋根のついた立派な門があり、その左右には白壁が延々と続いている。敷地をぐるりと塀が囲んでいるようだ。塀の向こうにはどうやら背の高い松の木の頭らしきものが覗いていたが、今見えるのはそれだけだった。なにしろ塀が高いのである。三日月は、思わず間の抜けた顔でその塀のてっぺんを見上げた。青空の広がる、よい天気である。
三日月ははじめ、間違って政府の重要施設にでも連れてこられたのかと考えた。門の前に立っただけで、そのとてつもない規模のほどがわかったからだ。しかし管狐に聞いてみると、彼は間違いなくここが目的の本丸だと言った。つまりこれが、個人の持ち物だという訳だ。
三日月は、素直に感心した。
「なんと。これほどまでとは思わなかった」
「ここは刀剣男士を常時二百振りは顕現させている、規模としては指折りの本丸です。と言っても、特別なことではありませんよ。あなたの元いた本丸の規模が、むしろ小さすぎるんです」
なるほどこの本丸に比べると、三日月のいた本丸はまるで馬小屋のごとくである。
三日月は、かつて一度会ったきりの蘇芳の君を思い出した。審神者の慣例で三日月の前では顔を隠していたが、主よりも幾分かは若そうな女性だったはずだ。あの彼女がこの立派な本丸の主とは、いやはや、人は見た目によらぬものである。
管狐は、すぐに迎えのものが門を開けてくれるはずだと言った。しかし待てど暮らせど、その重厚な門が内側から開く気配はなかった。本丸という場所は、それぞれが独立した空間の中にあり、本来滅多なことでは訪問者などない。三日月の元居た本丸は門前に誰かが訪ねてくればすぐに気配でわかるような小さな住まいだったが、この立派な門と塀にぐるりと囲まれた本丸では、誰がいつどうやって訪問者に気が付くのだろうか。三日月は、指の背でこんこんと門を叩いてみたが、応答はなかった。次第に三日月は、待つことに飽き始めた。
「そこから入って、声をかけてみるか」
やがて三日月はしびれを切らして、立派な門のすぐ横にある通用門から中に入ってみようと管狐をそそのかした。管狐ははじめ渋い顔をしたが、実際待たされすぎて彼も嫌になってしまったのだろう。ついには三日月の提案を受け入れた。
通用門は、三日月の背丈では少し身を屈めなければ通り抜けられないほどの小さな木戸である。幸いなことに、鍵はかかっていなかった。木戸をくぐると、その先には木々に囲まれた細い道があった。抜けると、一気に景色が開けた。
「――これは」
目の前の光景に、三日月は大きく息を呑んだ。
元の本丸では、門を抜けると敷地の大体がすぐに見渡せた。小さな前庭があり、右手には厩舎へ続く道があり、住居としていた建物へは十数歩も歩けば辿りついた。あとは裏手に稽古場と畑がある程度のものである。
だがこの本丸は恐ろしいことに、門の先にはただただ広い庭園が広がっているばかりであった。砂利と石畳の敷き詰められた道の左右にはなだらかに隆起した築山が築かれ、それらは少しの乱れもなく青々とした苔や草木に覆われている。そこには、人の手の入っていないものはひとつも無いのではと思われた。何もかもが美しく整えられている。
建物の影は、見えなかった。おそらくは先へ進まねばならないのだろう。
「いやはや、これは、迷子になりそうだ」.
三日月は案内を待たなかったことを後悔した。それでも歩き出すと、管狐も大人しく後をついてきた。石畳で舗装された一番広い道を選んで歩くと、庭園の奥の方には池や東屋があるのが見えた。何とも立派で、一国一城の主の庭といった風情である。
これだけの庭園を、ここの主は何故築いたのだろうという疑問が生まれる。本丸にはほとんど来客がない。しかしこの庭園は、明らかに人に見せることを目的として作られている。もしかすると造園が趣味の主なのか、それとも年に数度の訪問客の目を楽しませるためだけに作らせたのか。いずれにせよ、本丸の財政にはよほどの余裕がありそうである。
(これは、期待できそうだ)
本丸の懐が豊かであるということは、三日月には有難い事実であった。何しろ三日月は、ここで金を稼がなければならないのである。雇い主の資金は、潤沢である方がいい。
そんなことを考えながら歩いていた三日月は、そのとき不意に鈴の音を聞いた。
まったく突然のことだった。複数の大きな鈴が、重なって鳴る低い音である。三日月は、それに儀式的なものを感じて音の出所へと足を向けた。人為的に鳴らされたのであれば、そこには必ず誰かがいる。この広い庭園を闇雲に進むより、その音の主を見つけて案内を頼んだ方がよいだろうと思ったのである。
道を外れて先へ進むと、やがて低い竹垣があり、それを越えると美しい庭園は唐突に終わった。庭園の向こうは林のようになっていて、その先は容易に見渡せなかった。鈴の音は、どうやらその先から聞こえたようである。
手入れのされていない自然のままに生えた木々の合間をしばらく進む。やがて木々はまばらになり、視線の先に人為的に開けた空間が再び見えた。それは庭園のようなものではなく、ただただ何もない空間だった。
つるりとした黒い石畳の敷かれた、真四角の敷地である。三日月は、それを、演練場に似ていると思った。端にひとつ、祠のようなものがある。鈴はそこから鳴っている。
目を瞠る。
(あれは)
そこには、たくさんの刀の姿があった。
この本丸の住人だろう、多くの刀たちが集まっている。三日月が驚いたことに、そこにいる刀たちは整然と等間隔に並び、跪いてそのほとんどが平伏していた。立っていた刀は数えるほどである。一振り、二振り、三振り――全部で、六振り。それは異様な光景に思えた。刀が刀にかしずいているように、三日月には見えたからだ。
三日月は、彼らに声をかけるのを躊躇った。それでしばらく木の陰に隠れて、様子を見守ることにした。
平身低頭する刀達の間を六振りの刀が歩いていく。それは、やはり何かの儀式のように見えた。彼らの先頭には、真っ白な着物を着た美しい刀がいた。髪も、肌も、その手指の先までもが白い、印象的な容姿の刀である。三日月は、その姿を見てはっとした。思わず数歩近づいていくと、彼は袖を翻すようにして、どうやら腰の刀を抜いたようだった。
刹那、三日月の目の前に恐ろしい速度で現れたものがあった。三日月は反射的にそれを腕で弾いた。思いのほか軽い音を立てて三日月のすぐ足元に落ちたそれが、白っぽい刀の鞘だと気づくまでには少しかかった。三日月が次に視線を足元の鞘から元に戻したとき、目の前には鋭くきらめく刃の先があった。さすがのことに仰天して、三日月は目を瞠った。
先程の白い着物の刀が、すぐ目の前で刀を構えてそこにいた。
「何者だ?」
彼が恐ろしいまでの正確さで鞘を投げつけ、その隙に距離を詰めたのだと理解するまでには少々の時間が必要だった。三日月は、どうやら自分が侵入者として怪しまれているのだということに気づいた。彼の誰何の声は低く、警戒と威圧に満ちていた。
「鶴丸国永……」
三日月は、しかし、彼に答えるよりも先にその名前を呼んだ。彼は――鶴丸は、三日月に向けた刃の先を一切動かさず、ただ片眉をすこし跳ね上げるようにしてそれに応えた。三日月は、まじまじと彼の姿を見つめてしまった。三日月の本丸には鶴丸国永は顕現していない。だが付喪神としての彼の姿は本霊の記憶として三日月の中にもあった。他本丸の鶴丸に、演練場で会ったこともある。だが目の前の鶴丸国永は、どうも記憶の中のそれらとは少し顔つきや空気が違うように思えた。極修行、という単語が頭の中に浮かんできたのは、その少し後だった。
「私たちは、怪しいものではございません! 当本丸の審神者様に招かれてやってきた者でございます!」
足元の管狐が慌てたように叫んだのが、その時だった。鶴丸は暫く黙っていたが、不意に思い至ったように目を眇めると、ああ、と低く声をあげた。
「きみが、例の刀か」
鶴丸は、刀を引く代わりにそう言って嘲るような視線を三日月に向けてきた。そうして足元の鞘を拾うと、それきり三日月には目もくれず、元いた場所へと帰っていった。刀たちが跪いて集まっていた、その中心へである。
異様なことに、この騒ぎの中、跪いていた刀たちは誰一人として頭を上げた様子はなかった。元から立っていた残りの五振りは、ただ元の位置で鶴丸を待っていたようである。
六振りがそろうと、不意に彼らの居た場所が眩しく光った。三日月は、それが出陣用の術のせいだと気づいた。彼らは出陣前の部隊だったのだ。
目を細めた一瞬後、光が消えた頃には、六振りの姿はなくなっていた。今の今まで置物のように微動だにせず頭を下げ続けていた幾多の刀達が、ぱらぱらとようやく顔を上げ始める。
彼らは三日月と、そのすぐそばにいた管狐を見て怪訝な顔をした。鶴丸との問答は、もしかすると聞こえていなかった者もいるのかもしれない。幾人かが腰の刀に手をかけるのを見て、三日月は先手を打って荷物の入った風呂敷しか持たぬ両手を示した。こちらには刀を抜く意思はない。
「俺の名は三日月宗近。訳あって売られてきたのだが――主殿の元へ、案内してはくれぬか?」
三日月の本丸の主は、普段刀たちと同じ家屋で寝泊まりしていた。共に寝、共に食べ、共に生きる、つまり刀たちと主は、家族のような距離感で生活していたと言ってもいい。無論主とは主従の関係にある。家族というのは言い過ぎだろう。だが主の気安いところのある性格のせいもあって、刀たちと主の距離はいつも近かった。
しかしどうやらこの本丸では事情が違うようであった。三日月は、新しい主と会うために長い渡り廊下でつながった建物を三つは経由し、ようやく恐ろしく広い畳張りの謁見の間に案内された。畳は、おそらく、数百は使われているだろう。将軍との謁見もかくや、という規模の部屋である。
三日月は、その広間で新しい主を待った。やがて主の訪れが知らされると、三日月は厳格な礼をとるよう、指示を受けた。
「よくぞ参られました。この本丸へ来たからには、主様のために命を投げ出す覚悟をしていただきます」
三日月に名代としてそう言葉をかけたのは、平野藤四郎だった。そして、それきりだった。主は部屋の上座にあつらえられた御簾の向こうにいるようだったが、直接声をかけてくることはなかった。そもそも三日月は、顔を上げることを許されなかった。短い謁見が終わり主が早々に部屋を去ってしまってから、ようやく三日月は頭を上げることが出来た。これで新しい主との挨拶を済ませたのだ、と思うと、なんとも拍子抜けする気持ちだった。
元の本丸の主曰く、蘇芳の君はずいぶんと三日月に執心していたということだったが、それにしては素っ気ない対応である。三日月を本丸に呼ぶために、蘇芳の君はそれなりの大金を支払ったと聞いている。あるいはこれも金持ちの道楽というやつなのだろうか。
なにとはなく、寂しい気持ちである。
ともかく三日月は、それで正式に新しい本丸へと迎え入れられた。
「小狐丸じゃ。おぬしの世話係を任ぜられた」
謁見の間から出た三日月を待っていたのは、見慣れた顔をした刀であった。とはいえ勿論初対面の、しかも何やら見たこともない仰々しい衣装を着てどこか横柄な様子の小狐丸である。さきほどの平野もそうだったが、彼もまた、恐らくは修行の旅とやらを既に経てきた個体なのだろう。三日月の本丸では馴染みのない姿である。
とはいえ、三日月はほっとした。元いた本丸を離れてたったの半日、すでに古巣が懐かしいような気持ちである。同派となれば、知らぬ仲ではない。
「おお、小狐丸か。いやはや知らぬ場所に来て、さすがに緊張していたところだ。おぬしが本丸を案内してくれるとなれば心強い。主殿とは、顔を見て挨拶は出来なかったが、あれがここのならわしなのか? 新参者が何をと言われるかもしれぬが、やはり出来るなら一度目を見て話したいものだ。いずれ機会を得られるだろうか」
話しかけると、小狐丸は妙な顔をした。それは、どうやら物珍しいものを見たという呆れ顔だった。
「よく喋る三日月じゃな」
「ふむ、そうか?」
「ぬしさまは、刀が無駄口を叩くのは好まれぬ。御前へ侍るつもりでいるなら、口は慎むがよいぞ」
ぴしゃりと言われて三日月は瞬いたが、悪い気持ちではなかった。なにしろ小狐丸の小言には慣れている。
だが、元の本丸の小狐丸の穏やかな空気が懐かしくはあった。
小狐丸は、そのまま三日月を八畳の和室へと案内した。そこが自分のために用意された私室だとわかって三日月は仰天した。まさか個室が与えられるとは思っていなかったからである。元いた本丸では、三日月は六畳の和室を小狐丸と共有している。
「この部屋を、俺ひとりで使っていいのか」
「ここはこれでも、本丸で一番狭い部屋よ。とはいえ個室が与えられるのは本来一握りの功労者のみじゃ。ただおぬしを迎えるにあたり、皆部屋によそ者の臭いが紛れ込むのを嫌がったのでな」
「なるほど、それは気をつかわせてしまったなあ」
申し訳ない気持ちで三日月が眉を下げると、途端に小狐丸は笑い出した。
「嫌味の通じぬやつじゃのう」
そこから、小狐丸は三日月に少し親身になってくれたように思えた。
まずは荷物の整理をせよと言われてそうしたが、三日月の荷物は風呂敷一枚に包める程度のものである。あっというまに整理を終えると、すぐに手持ち無沙汰となった。三日月は、そこでようやく人心地ついたという気持ちになった。妙な出陣の儀に居合わせたり、刀を向けられたり、思いがけない新しい主との謁見があったりと忙しなかったが、ようやく本来の目的を思い出す。
つまり、三日月はここへ金を稼ぎにきたのである。
「何か仕事はないか? 給料分は働きたいのだが」
「おぬしの仕事は明日からじゃ。急に言われても、教える方の手がまわらぬ」
「手入れの資材がかかると言われてあまり機会はなかったが、出陣も、遠征も、ひととおりの手順はわかるぞ。内番の方が慣れてはいるが」
「出陣? おぬし、出陣できる気でいるのか?」
小狐丸はまた声をあげて笑った。どういうことかと問いかけると憐れんだような視線が返ってくる。
「ここは総勢二百振りからなる本丸じゃ。主に戦に出る第一部隊の定員は六振り。遠征部隊を含めても、二十振りに満たぬ刀だけが出陣できる。その枠は、常に熾烈な奪い合いじゃ。新参の、その上よそ者のおぬしに席が回ってくるものか」
「ははあ、なるほど」
それは考えてみれば、当然の話ではあった。
「では、俺の仕事とは? 馬当番か? 畑仕事か? 厨に入るのもやぶさかではないが、料理はあまり上手くはないぞ」
「おぬしの仕事は庭園の整備じゃ。草をむしって、樹に水をやり、花がしおれぬように薬を撒く。刈り込んだ庭木に蜘蛛が巣を張っていればそれを除く。ぬしさまは、美しい庭園がご自慢じゃ。手を抜くと、鋼に戻されるぞ」
「庭園の整備」
それは、つまり庭師になれということか。
これだけの規模の本丸である。設備の維持は大変だろう。しかし、まさか刀にそれをやらせていようとは思わなかった。三日月は思わず考え込んでしまう。
「主殿は、どういうつもりで俺をこの本丸に迎えられたのだろうな」
「知らぬ。三日月宗近など、今はそう珍しくもない。わざわざ他の本丸から迎える理由など、ないはずだが……。下働きが欲しかったとも考えられるな」
「人数が多いのは結構なことだが、ここはむやみに刀を顕現させすぎではないのか? 維持が大変になってゆくばかりに思うが」
「ぬしさまのお考えに疑義を挟むな。それに、多くの刀を抱えることは、ぬしさまの威光のあらわれでもある」
小狐丸は、少々不機嫌そうだった。三日月は、そこに小狐丸という刀の特性を見た。彼らは主人に小言は言っても、他者に主を否定されることは決して許さぬ刀である。どこの本丸でもそれは同じか、と三日月は無意識に表情を緩めた。頭の中で、元の本丸の小狐丸が、不服そうな顔をしているのが思い浮かんだ。
「いやいや、すまぬ。その通りだな。ところでひとつ聞いておきたいんだが、庭園の整備に給金は出るのか?」
「なんじゃ、意地汚い。無論、出る。だが出陣部隊と同じとは思わぬことだ。戦で誉を得た者には、当然多くの褒賞が出る」
「ふむ。ではやはり、出陣したいものだな」
「おぬし、金のために戦に出るつもりか?」
小狐丸は可笑しげにした。金のために働く、とはおそらくこの小狐丸にはない価値観だろう。三日月も、この数年間の内に、主の元で培った概念である。小狐丸がそれを面白がるのも頷ける。
「出陣したいと思うなら、第一部隊に配属されることじゃ。だが並みのことではないぞ。今の第一部隊は控えを含めて皆が皆、この本丸の精鋭部隊として戦に出ることを何よりの誉と信じて疑わぬ者たちばかりよ。当然選ばれるだけの能力もある。おぬし、取って代われるのか?」
「第一部隊とは、もしや、先ほど戦に出かけたか?」
三日月の脳裏には、先に見た光景が浮かんでいた。
小狐丸が首肯する。
「左様。仰々しい送りの儀を見たであろう。ああして送られるだけの道理が、あやつらにはある。蹴落とすには、骨が折れるぞ」
三日月は、小狐丸の話を聞きながら、鶴丸国永のことを思い出していた。
それから三日月は小狐丸に本丸を簡単に案内してもらった。とはいえ本丸のごく一部である。敷地は広大で、すべてを案内するには一日あっても足りないと小狐丸は言った。
「おぬしはこの棟の造りさえ覚えておけばよい。別棟には、用もないのに立ち入るでないぞ」
「ふむ、何故だ?」
「そういう決まりじゃ」
刀たちは、いくつかの棟に別れて生活しているのだと説明された。単純に部屋数と利便性の都合だと言う。しかし主の住む棟があり、そこから近い建物と遠い建物がある以上、与えられる部屋には明確な序列が存在するのだと小狐丸は語った。つまり、主に気に入られている刀ほど、主の傍に部屋が貰えるという訳だ。
「と、いうことは俺のいる此処は……」
「当然、一番遠い最下の棟じゃ。とはいえ増築された分、設備は新しいぞ」
三日月としてはそれはありがたい事実ではあった。
聞けば棟ごとに厨があり、風呂場があり、その他生活出来るだけの設備がそろっているのだと言う。手入れ部屋や稽古場といった戦のための設備だけが、主の居住区から一番近い第一棟だけにある。小狐丸がそう説明しながら歩く途中、三日月は幾人かの刀たちと行きあった。彼らは皆、例外なく、廊下の隅に寄ってうやうやしく小狐丸に頭を下げた。
「小狐丸。そなたの部屋は?」
「第一棟じゃ。それゆえこの棟のことはよく知らぬ」
道理で小狐丸の案内は、適当であった。
三日月は、少しずつこの本丸の事情が見えてきた。驚いたことにこの本丸は、数多いる刀が明確に階級分けされているのである。能力のあるもの、あるいは主に気に入られたものはかしずかれ、そうでないものは逆にかしずく側にまわる。三日月は、それを、異様なことだと思った。主の元に集う刀は、みな平等だという意識があったためである。
とはいえ、集団生活に規律は必要である。
大きな本丸には、そこにしかわからぬ苦労と、それを維持するための知恵があるのかもしれない。
夜になり、三日月は夕食の席へ案内された。この頃には小狐丸は自分の居住棟へと戻って行ってしまった。代わりに案内を引き受けてくれたのは、五虎退である。五虎退は、三日月と同じ、第四棟の住人であった。
見知らぬ刀ばかりの広間へ通された三日月は、ひとまず挨拶でもしようと考えたが、刀たちは皆既に黙々と食事をはじめていた。人数が多いからだろう、皆で手を合わせて同時に食事を始めるという習慣はないようである。
三日月は、促されるままに空いていた席についた。広間のあちこちからは新参者の三日月に対してちらと好奇の視線が向けられたようだったが、誰も話しかけてはこなかった。三日月は、手を合わせて箸を取った。そこで初めてぎょっとした。
「これは、祝いの膳か何かか?」
「え?」
三日月の問いと、話しかけられて驚いたような五虎退の声は広間によく響いた。幾人かが手を止めて、またこちらを見たようである。
卓の上には、十以上の皿が乗せられていた。白米。汁物。煮物。刺身。焼き魚。天麩羅。肉類に、副菜、茶蕎麦――諸々。三日月は一瞬、新しく本丸へやってきた自分を歓迎するためのご馳走ではないかと錯覚したほどだ。しかし周りを見るに、とてもそういう雰囲気ではない。
なんと豪華な食事だろうか、と三日月は改めて目を瞠った。
「凄いな。おぬしらは、普段からこんな食事をしているのか? 俺はすっかり粗食に慣れてしまったので、食べきることが出来ぬやもしれぬ。ここは皆、よく食べるのだな」
「あの、えっと、残してもいいんです」
五虎退は、困ったように、至極小さな声で言った。
「僕も、いつも、食べきれなくて、残しています」
「それはもったいないことだ。主殿に、食事の量について進言した方がよいのではないか」
「ええと、でもその」
「五虎退。食事中に喋るものではないよ」
刺すような声が、五虎退のひとつ向こうからやってくる。見ると、歌仙兼定であった。
五虎退が、すみませんと謝って食事へ向かう。その小さな体越しに、三日月は歌仙を見やった。
「すまぬ。俺が話しかけてしまったのだ」
「主は、見栄を大事になさる方だ。だから僕らにも、相応以上の食事を与えてくれる」
歌仙は、既に箸を置いたところだった。彼の膳の上の皿はおおむねが空になっていたが、それでも手をつけていない小皿が見える。
「貴殿も、なるべく早く、この本丸のやり方に慣れるのがよいでしょう」
歌仙がそう言って席を立つと、広間はまた静かになった。
ちらちらと向けられる視線から、三日月はどうも自分が歓迎されていないことを悟った。正確には、三日月が持ち込んだ、前の本丸では当たり前だった価値観が歓迎されていない様子である。元の本丸と、この本丸では、主に対する意識も、仲間に対する意識も全く違う。
郷に入っては郷に従え。三日月は、自らの立ち回りの下手さを恥じた。
「そうだな。すまぬ、黙って食事をするとしよう」
三日月は誰に言うでもなくそう告げると、後は静かに食事をした。豪華な食事は、見掛け倒しでなく素直に美味だった。ただその喜びを分かち合う仲間がいないことが、三日月には少々寂しいことのように思えた。
万事がすべてその調子なので、三日月は夕食後部屋にこもってしまった。単純に食べ過ぎて腹が苦しかったというのもある。三日月は、あの豪勢な食事を残す気になれなかった。出来るなら半分包んで元の本丸へ届けてやりたかったほどである。それは叶わなかったので、三日月は全てを胃へおさめるしかなかった。
いつになく満たされた腹を抱えて、三日月は畳へ寝転がる。天井を見つめながら、素直に思った。――とんでもないところへ来てしまった。
元の本丸とは、あまりにも違いすぎる。無論、多少の軋轢は覚悟していた。しかしどうにも、思った以上にここへ馴染むのは難しそうである。深く考え始めると、柄にもなく鬱々としそうであった。三日月はそれを嫌った。いっそ風呂にでも入って早々に寝てしまおうかと思ったが、新入りは仕舞湯に入るものだと小狐丸に教えられたことが気になっていた。何とも面倒な話である。風呂など入りたい時に好きに入りたいものだ。三日月は、時間を持て余した。だがしばらくすると、にわかに部屋の外が騒がしくなった。
何事かと襖を少しだけ開け、部屋の中から様子を伺う。正装の刀たちが何人も廊下を歩いていくのが見えた。三日月は次第に、第一部隊が帰還するのだという事情を察した。思わず部屋を出てさりげなく各所で聞き耳を立てると、昼に出陣の現場に立ち会ったあの場所が、西庭と呼ばれていることを知った。出陣部隊は、皆そこから出立、帰還するようである。
三日月は、西庭を見に行ってみる気になった。第一部隊の帰還を見届けようと思ったのである。少々迷いながらも西庭に辿り着くと、そこには煌々と明かりが焚かれていた。遠くから見てもよくわかる。昼と同じく、刀たちがずらりと並んで跪いている。
相変わらず異様な光景である。昼間よりも落ち着いてよくよく観察してみると、集まっている刀たちは全部で三十振り程度であった。すべての刀が迎えに来ているという訳ではないようだ。
不意に場の空気が変わる。昼にも聞いた鈴の音がした。転送用の術が生み出す光が地面を、そして空間をぼんやりと照らし、部隊が戻る兆しを知らせる。光が少しずつ強くなり、やがてあたりが昼間のように明るくなると、次の瞬間にはそこに六振りの刀がいた。皆自力で立っている。負傷者はいないようだ。部隊の先頭には、昼と同じく、鶴丸国永の姿があった。
「おかえりなさいませ」
誰かがそう言って彼らを迎えたようだった。誰も頭をあげないので、誰が喋ったのかは定かではない。鶴丸を先頭とした六振りは、昼と同じく平伏した刀たちの間を悠然と歩いた。昼と違うのは彼らが建物に向かって歩いていることで、それはつまり、三日月の居た方へ歩いてくるということであった。
鶴丸が、ぼんやりと立ち尽くして西庭を眺めていた三日月に気づく。彼は思いがけないことに三日月へニッと笑いかけた。それは、三日月が想像する通りの鶴丸国永の笑顔だった。彼が人好きのする、明るい気質の刀であることを三日月は知っている。正直言って、三日月は安堵した。昼の一件もあり、もしかすると無視をされるかもしれないと思っていたからである。
「盗み見かい? きみは、昼の三日月宗近だろう?」
「ああ、そうだ。昼は失礼した」
鶴丸は、気さくに三日月へ話しかけてきた。その態度は、この本丸に来て三日月がはじめて得たものだった。三日月は、嬉しくなって鶴丸へ笑みを返した。鶴丸という刀と自分とは、遠からぬ縁もある。彼が親しげにしてくれるのは、そのせいかもしれないと思うと、心強い気持ちだった。
「へらへらと、機嫌がよさそうじゃあないか。三日月宗近」
「うむ、その、お前が話しかけてくれたのが嬉しくてな。いやしかし、立派になったものだ。俺の知っている鶴丸の姿とは少し違うようだな」
「ははっ、立派になったって? きみ、きみさ――なんのつもりなんだ?」
不意に鶴丸の声が低くなった、と感じて視線をやると、しかし鶴丸はまだ親し気に三日月へ向けて笑いかけていた。三日月は、そこに鶴丸からの敵意があると気づくまでにずいぶんかかった。鶴丸は、おもむろに手にしていた刀の尻を三日月の肩口に当て、力強くそこを打った。三日月は、思わぬことによろめいた。
「跪けよ、三日月宗近」
鶴丸が、笑みを消して言う。
「きみはよそから売られてきた新参者だ。それが、どうしたら俺に気安く話しかけられると思うんだ? 教育係は、きみに礼儀を教えなかったようだな」
教育係、という言葉を発したとき、鶴丸はちらとあたりを見渡したようだった。三日月はその視線を追う気にならなかった。少なからず衝撃を受けていたためである。
しかし同時に、すっと冷静になっていく自分も感じていた。
「――あいわかった。大変失礼をした、鶴丸殿」
素直に詫びてその場に跪き、平伏すると、頭上からは何の反応もなかった。ただ少しして、鶴丸が石畳を蹴ってその場から去っていく足音がした。足音は、複数続いた。三日月は、それでもしばらくの間黙って頭を下げ続けた。
「おぬし、存外肝が据わっているな」
やがてふと落ちてきた声は小狐丸のものだった。三日月が顔をあげると、西庭にはもう第一部隊の姿はなかった。迎えの刀たちは皆立ち上がり、少し離れた場所で遠巻きに三日月をうかがっている。いつの間に現れたのか、小狐丸は、やけに愉しそうに目を細めてそこにいた。
「見たか? 五条のやつの拍子抜けした顔を。あやつ、おぬしが悔しがる顔を見たかったとみえる」
「そのような意地悪をされるほど、機嫌を損ねただろうか」
「格上の刀には気安く話しかけぬのがこの本丸での決まりじゃ。あやつはことに矜持が高い。おぬしがぼうっと突っ立って迎えの礼も取らぬことに、さぞ苛立ったろう」
小狐丸は、愉しそうだった。三日月にとっては初耳の決まり事である。なるほど小狐丸の「教育」は、鶴丸の言うとおり行き届いていなかったと言える。
「失礼をしてしまったようだな。改めて謝罪に行くべきかもしれぬ」
「やめておけ。おぬしは良くも悪くも鷹揚じゃ。その態度は、あやつを苛立たせるばかりじゃろう。それにしても――」
小狐丸は、まだ石畳に膝をついたままの三日月を愉快気に見下ろす。
「三日月宗近がそうやすやすと跪くとは、うちでは考えられぬ姿じゃ」
「そうか。ここにも、三日月宗近がいるのだな」
「勿論、いる。とうに隠居して近頃は姿も見ぬが、あやつは滅多なことでは跪くまいよ。五条のやつも相当面食らったと見える。いや、愉快愉快」
「なるほどなあ」
この時三日月が考えていたのは、鶴丸国永の態度に関することではなかった。自分以上に練度の高い他の三日月の存在を知り、ますますもって、自分に出陣の機会が与えられることの難しさを思い知ったのである。
「このままでは本当に、俺の出番はないな」
「なんじゃ、おぬし、まさか本当に取って代わるつもりでいるのか?」
「そのつもりで第一部隊の顔を拝みにきた」
言うと小狐丸はまた声に出して笑った。ふと視線を感じて振り返ると、少し離れた場所で固まっている刀たちが異様な雰囲気でこちらを見ていた。彼らは、恐らくは「格下」の刀たちだ。小狐丸に話しかけることが憚られる分、遠巻きに見ているしかないのだろう。
小狐丸は、しばらくして笑いを収めた。
「おぬしは本当に愉快なやつじゃ。ひとつ、いいことを教えてやろう」
「いいこと?」
「ここでのし上がりたいのなら、格上の刀は蹴落とすのではなく、上手く利用することじゃ。あやつらの矜持を上手く擽って取り入って、気に入られれば出世するぞ」
囁くような小狐丸の助言を受けて、三日月は目を瞠った。なるほどそれは、新しい視点であった。
「そうか。蹴落とすか、媚びを売るか、道はふたつという訳だな」
呟きながらも、三日月は、内心取るべき手法を選び取っていた。
蹴落とすよりは、取り入る方が、多くの軋轢を生まずに済むだろう。
媚びを売るのは得意な方だ。何しろ貧乏本丸育ちである。