『speechless』"日常とは突如崩れ去るものである"
まさか、こんな最悪の形で経験することになるなんて。
「……」
目が覚めたとき、特に違和感はなかった。
昨夜なかなか寝つけなかったせいで少し頭が重いのと、周りの景色の変化にまだ慣れないこと以外は。枕元のスマホを見ると6時30分。ほぼ普段通りの起床時刻だ。
きっちりカーテンが引かれた室内に少し開いた扉の隙間から人口的な光が差し込んでいる。耳を澄ますとリビングの方からパタパタとスリッパが鳴る音と、食器が擦れ合うような音が聞こえてきた。
クロノ、もう起きてるのか。
"はえーな"
そう呟こうとして、気づいた。
「 」
声がでない。
「 」
もう一度試してみるがやっぱりでない。
酸素を欲する金魚のようにパクパクと唇が動くだけで、いつもなら連立して発生するはずの音が消失している。
「(…冗談だろ)」
どうすれば声がでるのかという仕組み自体は理解しているが、"声帯を震わせる"だなんていちいち意識してやるもんじゃない。だから今更正しい声のだし方なんてわからない。
まずい。困った。
久々に感じる焦りだった。体の不調や喉の痛みはないから恐らく原因は疲労とストレスだろう。時間がたてば元通りでるようになるはずだ……たぶん。
状況に反して頭は冷静だった。最近身の回りで起こったアレコレを考えても、自分の体に何かしらの"バグ"が起こる可能性を予想していなかったわけじゃない。……まぁ、流石に声がでなくなるとは思っていなかったが。
俺にとって一番の問題は、この状態の自分を知った時のクロノの反応だった。
「(怒る…ってより、心配させちまうよな)」
クロノの泣きそうな顔が頭に浮かぶ。
俺が迷子になったとき。体調を崩したとき。無茶をしたとき……クロノは決まってそういう顔をする。額にシワを寄せ、口元をぐっと引き結んで不安定に揺れる瞳でこちらを見る。
端正な顔をぐしゃりと歪ませたその表情が、昔から自分はひどく苦手だった。いっそ頭ごなしに怒鳴られたほうがマシとすら思うほどに。
そろそろ朝メシができたと呼びにくる頃だろう。
……声がでなくなったことを、クロノには知られたくない。どうにかして誤魔化せないものか。
「(……寝たフリ)」
この状況では、その程度しか思いつかなかった。
「アカネさん。おはようございます」
それから数分と経たないうちに扉が開いた。布団に包まり背を向けて、只ひたすら黙りを決め込む。悪気がないとはいえせっかく起こしに来てくれたクロノを騙しているようでフツフツと罪悪感が湧き上がるが、ここは我慢だ。
「熱……は、ないな」
俺が微動だにしないから心配になったのだろうか。そっと額に大きな手が触れた。水仕事をしていたせいか少し冷たい。
その感触に、ふと昔を思い出す。
幼い頃はかなり頻繁に熱を出していたのだが、当時もこうしてクロノが傍にいてくれた。父も兄も仕事だ勉強だと忙しくしていて、部屋を覗きに来た記憶があるのは母と身の回りの世話をするお手伝いさんくらい。今ならばわかる"来たくても来られない"という事情は子供に説いたところでなかなか理解し難いもので……かくいう自分も布団の中でヘソを曲げていたタチだった。俺がどうなろうときっとアイツらは構わないのだ、と。
熱をだせばそれなりに人肌恋しくなった。ひとりで夜を明かすのは辛かった。キングサイズのベッドは広すぎて、余計に寂しさを助長させた。
あの頃唯一心を許せる存在だった友がそっと手を繋ぎ寄り添ってくれたことが、どれだけ心強かったか。
"よかった"と心底ほっとしたように漏れた声。名残り惜しくなって、離れていくクロノの手を咄嗟に掴んでしまった。
「(…ヤベ)」
「アカネさん?あの……」
起きてるんですか?と戸惑いたっぷりの声が降ってくる。当然だ。流石にこれ以上誤魔化すのは無理と観念して体を起こした。
「おはようございます。朝食できてますよ」
「……」
「……どうしました?」
「(声、でねぇ)」
「……え」
音がなくてもわかるように喉を指さしながら、一言一言、なるべくゆっくり口を動かして伝えた。
「ッ、声がでないんですか!?」
……やっぱり、言わないほうがよかったか。
悲痛に満ちた表情にズキリと胸が痛む。
「……病院に」
それはイヤだ。
拒否するように首を振った。行ったところでストレスだの精神的に参ってるだの言われるだけだ。こうなった原因はわかっているし、治すには自力でどうにかするしかないことも知っている。それに今は、外部の人間とあまり顔を合わせたくない。
「……わかりました。体調は?」
「(へーき)」
"ダメです"と腕を引かれる覚悟もしていたが、案外あっさりと折れてくれた。
精神状態を優先したか、声帯のことは俺自身が一番わかっていると判断したか……或いはそのどちらもだろう。
「熱はないようですけど、念のため今日一日は安静にしていてくださいね」
俺が平らげた朝メシの食器を片付けながら言い諭すようにこちらを見たクロノに頷く。
正直、今の状況を考えるとゆっくり休んでいる暇はない。
何しろメンバーを再編成するのだ。新しいベーシストとドラマーの選考、所属事務所の決定……デビューにこぎつけるまでやる事は山ほどある。今度こそ"最高のバンド"をつくるために。
けれど今動きたいと言っても許可が下りないことはわかっていた。
それにこんな状態では、良いパフォーマンスも発揮できないだろう。
「おやすみなさい」
俺の肩までしっかり布団をかけてクロノは部屋を出ていった。今度こそ一人きりになった部屋で、ゆっくりと目を閉じる。
これは罰だろうか。
都合の悪いことに目を瞑り、身勝手にバンドを解散させ、アイツらから"ルビア"という居場所を奪った自分への。
これは、罰だろうか。
……声(音)のだせない俺に、価値なんて。
その先を考えてしまう前に無理やり意識を飛ばした。
「……」
次に目が覚めたとき、耳に入ってきたのは聞き慣れた音色だった。
クロノがギターを弾いている。
子守唄のようにずっと傍に在った音だ。寝起きでぼんやりした頭でも直感でわかる。
……あぁ、でも。アコギで聞くのは随分と久しぶりかもしれない。バンドの方向性を考えれば当然のことではあるが。
アイツの人柄をそのまま現したような柔らかくてやさしい旋律。もっと近くで聞きたい。
「……あ」
ベッドを抜け出してリビングに向かうと、クロノは手を止めて慌てたように立ち上がった。
「すみませんっ。起こしてしまいましたか……?」
「やめなくていい」
「え、」
「それ続けて」
「は、い……」
呆気にとられたように目を丸くしたクロノは、次の瞬間顔を綻ばせた。ん、なんだ。俺なんか言ったか?
「……声。治りましたね」
「……お。ほんとだ」
言われてようやく気づく。いつの間にかスラスラ喋れるようになっていた。先程まで四苦八苦していたのが嘘みたいだ。
「はぁー……よかった……」
「ったく、相変わらず心配性だな」
気が抜けたように全身を脱力させたクロノに言うと、ジトリと横目で睨まれた。
「もう本当にっ……心臓が止まるかと思ったんですからね……!」
「……だな。悪かった」
宥めるようにぽんぽんと頭を撫でる。"ちゃんと反省している"という気持ちをこめて。
「クロノのおかげだな」
「え?」
「やっぱ音聞いてりゃ元気みたいだわ、俺」
自嘲気味に笑う。
だからやめられないのだ、結局は。
どんなに辛くても、苦しくても、それがなくては生きていけないから。
「つかもっと近くで弾きゃいーのに。なんなら枕元で」
「睡眠の邪魔になりませんか……?」
「エレキでも大歓迎」
「いや、流石にそれは……」
「お前の音。好きなんだからしょうがねーだろ」
照れくさそうに俯いたギタリストがこの先も隣にいてくれることを、俺は心から感謝すべきだ。