クロノがマシロの看病をする話この熱が疲労によるものなのか、己への腹立たしさからくるものなのかわからない。それほど今の状態に苛立っていた。
「最ッ悪……」
わかりやすく熱をだすのはいつぶりだろう。不摂生を自覚しながら、体調を崩さないのをいい事に適当な生活を放置していた。体の強さを過信していたのが仇になったか。……本当なら、今日は揃って新曲のリハをするはずだった。
よりにもよって、なんだってこの大事な時期に。
自分の不甲斐なさに舌を打ったところで、この鬱陶しい熱がすぐさま下がるわけでもない。ため息をついて寝返りをうつと、室内に来客を知らせるチャイムの音が響いた。どうせ新聞の営業か何かだろう。無視していればそのうちいなくなる。そう軽く考えていたのだが……
「……うるさ」
その業者は有り得ないくらいしつこかった。布団を頭から被り抵抗してみるものの、リズミカルなチャイム音が止むことはない。ただでさえ調子が悪いというのに、こう連打されてはますます頭が痛くなる。あまりのしつこさに耐えきれなくなって、仕方なくベッドから這い出した。
「あっつ……」
汗を吸ったシャツが重い。体を拭いてスッキリしたいところだが、指一本動かすのさえ億劫だ。
みんな今頃なにをしているだろう。確か今日はルビレイディオの収録と雑誌のインタビューが数件、その後全員で音合わせをする予定だったから、この時間だとディグプロのリハ室にいるだろうか。
今朝。今日は休むと伝えた時のアカネの声が耳に残っている。
「気にすんな」 「いつも無理言って悪い」 「ゆっくり休めよ」
いつにも増して柔らかな声だったのに、胸が軋んで仕方なかった。"優しさが痛い"とはこういうことかと。
「……謝らなきゃいけねーのはこっちの方だっつの」
声に出すと自分の情けなさが身に染みて、余計惨めな気持ちになった。
「……は」
「よかった。なかなか出てこないから中で倒れているのかと」
一言文句をいってやると意気込んで扉を開けた手が行き場を失う。管理人に言って鍵を貰ってくるところだったと宣うソイツの手には、大きめのポリ袋が二つ。印字されたロゴはマンション近くのスーパーのものだ。来る前に寄ってきたのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。
「……なんでいんの」
「様子を見に来た」
「無理。帰って」
突っぱねるとクロノは口を閉じたが、依然としてその場を動こうとはしなかった。
「聞こえない?帰れっつってんの」
「断る」
今度は俺が口を閉じる番だ。アカネにしてもクロノにしても、どうしてこう頑ななのか。少しはこちらの主張に耳を傾けてもらいたい。
「人に家あがられんの嫌いなの」
「そうか」
「いや"そうか"じゃなくて……」
「言っておくが、敷居を跨ぐまで帰るつもりはない。さっさと俺を入れた方が身のためだぞ」
「はぁ!?」
なんだその新手の脅し文句は。つかドアの隙間に足挟むな。
「……俺、体調悪いの」
「知ってる」
「だから近づいてほしくねぇの。わかれよ」
もし、罹っているのが人に感染る類の病だとしたら。
ルビレのスケジュールのタイトさは、メンバーである自分が一番よく知っている。感染したことで万が一アカネやクロノ、ハイジにまで事が及んだら取り返しがつかない。ただでさえ予定を狂わせているのに、これ以上迷惑をかけたくない。
「病院には行ったのか」
「行ったけど……」
「診断は?」
「たぶん……疲労とストレス」
「処方された薬は」
「……解熱剤」
「それなら俺が傍にいても問題ないな」
秒で論破され、押し黙る。
「で、でも……」
「"でも"じゃない。お前は専門家じゃないんだから、医者の言うことを信用しろ」
「う……」
そこを突かれると痛い。他に何かいい言い訳はないかと思考を巡らせてみるが、特段思い浮かばなかった。
「で?諦めはついたのか」
「……わかったよ」
「そんな体でウロウロするんじゃない」と、肩を貸してくれたクロノに引きずられるようにしてソファに腰掛ける。それにしても、人を家にあげるなんていつぶりだろう。少なくとも、ルビレに所属してからは一度もない。
「マシロ。キッチンに調理器具がないんだが」
「あー……捨てた」
「は?」
「だって使わないし」
言うと、呆れたようにため息をつかれた。"そんなだから体調を崩すんだ"とお小言が飛んでこなかったのは、せめてもの情けだろうか。
だが、こんなことなら鍋やフライパンくらいは残しておいてもよかったかもしれない。せっかくクロノの手料理が食べられるチャンスなのに、これではみすみす機会を逃したようなものだ。
「……まぁ。また食べに行けばいっか」
「うちは料理屋じゃないと何度言えばわかる」
「あ、聞こえてた?」
なんだかんだ言ってつくってくれるくせにとおどけると、「次来る時までに食べたいものを考えておけ」と想定外の答えが返ってくる。
「快気祝いにリクエストくらいは聞いてやる」
「なんでもいいの?」
「ちゃんと治したら、だぞ」
「わかってますって」
やはり手料理を振る舞ってくれるつもりだったらしく、買い込んできた食材を冷蔵庫にしまって、今度はもう一方の袋をガサガサと漁りだす。水、スポドリ、冷却シート、ゼリー、それから。
「それは?」
「冷凍食品とレトルトだ。暫くは自炊も外食も辛いだろうから、簡単に出来るものを買っておいた」
「へー……」
「いいから気にせず寝ていろ。心配しなくても、勝手にモノを弄ったりしない」
以前ベースに触れた時のことを気にしているのだとわかった。だが、あれは落ちそうになったのを咄嗟に支えただけで意図的に触れたわけではないし、クロノが人が嫌がるようなことをする人間でないことは長年の付き合いで理解している。それにモノといってもベースでなければ……いや。楽器以外の私物も他人に触られるのは御免だが、コイツらなら別に構わない。
「包丁か果物ナイフくらいないのか?リンゴを買ってきたんだが……カットフルーツにしておくべきだったな」
「あー、そこの棚にあるかも」
「かも?」
「何年も開けてねーから記憶が曖昧でさ」
「見ていいか?」
「どーぞ」
中にあったのは、無駄に値が張りそうなカトラリーが一式と小皿が数枚。未開封の包丁とピーラー。自分で買うことはないから誰かからの貰いものだろうが、よく覚えていない。時間が経てば、他と同じように処分してしまっていただろう。
「これだけあればなんとかなりそうだな」
「そりゃ何より」
「話に付き合わせてすまない。休んでいてくれ」
「え、あぁ……うん。そうさせてもらうわ」
寝室の扉をしめてほっと息をつく。あんまり自然に「すまない」なんて言うもんだから、危うく吃りそうになった。これが通常営業なら、クロノが俺に謝るなんて明日の天気は槍かと要らぬ心配をするところだ。
「……きもちわる」
先程まで不思議なくらい引っ込んでいた倦怠感が再び顔をだした。ベッドに突っ伏して目を閉じてから数分、軽いノック音と共に扉が開く。
「マシロ、入るぞ……ッ、この部屋寒すぎないか?」
「そお?」
「一体何度に設定しているんだ。このままじゃ風邪をひく」
いくら暑いからって限度があると枕元のリモコンを弄って、額に冷えピタを張りつける。ヒンヤリとした感覚に、体にこもっていた熱が幾分か和らいだ気がした。
「体、自分で拭けるか?」
「へーき……あ。上だけ脱がしてもらっていい?腕あがんない」
丁寧な手つきでシャツを脱がされ、渡された濡れタオルで体を拭う。その場から動かないクロノに目を遣ると、固まったままこちらを凝視していた。
「なに。ジロジロ見て」
「お前の食生活が改めて心配になったんだ。元から線が細いと思っていたが……」
「言っとくけど、これでも肉付きよくなったほうだからね」
「クロノシェフのおかげで」と付け足すと、少し困ったような顔で「お前だって料理ができないわけじゃないだろう」と返される。酒や軽食で済まさず、バランスを考えて食べろと言われているのはわかるが、生憎自分のためにそこまで労力を割くつもりはない。
「アカネとハイジは?」
「スケジュール通りだ。まだリハ室にいるんじゃないか」
「抜けてきてよかったの?」
「あぁ」
「アカネに頼まれたとか」
「いや。自分から申し出た」
意外だった。ハイジの件はまだしも、俺にまで世話を焼くなんて。"弱っているやつには特に優しい"というのは、やはり本当らしい。
「……お節介」
「なんとでも言え」
「どうせ看病されるなら綺麗なおねーさんがよかった」
「無骨な男で悪かったな」
「……でも、助かったわ」
家に何もないし。まともにメシも食えないし。
放っておけば勝手に下がるだろうと思っていた熱は、存外辛くて。ひとりで何とかしようとしたら、完治するまでにもっと時間がかかっていたかもしれない。
「だから、まぁ…………ありがと」
最後は蚊の鳴くような声になってしまったが、クロノの耳にはきちんと届いたらしい。「普段もそれくらい素直でいろ」と笑われた。