秘密「へへお嬢ちゃんこっちこいよ」
酔っ払った兵士の数人グループが偶々通りがかったリンハルトにちょっかいをかけてくる。無視してさっさと通り過ぎようとしたところにずいっと立ちはだかる。
「おい待てよ」
「僕急いでるんですけど」
「あんた最近こっちの軍に入ったばかりだろう。まあまあ俺らと親睦を深めようぜ」
馴れ馴れしく肩に手をまわそうとしてくるのを鬱陶しそうに避けて、逃げだそうとする。だがやはり面白がってにやにや笑いながら男達はリンハルトの前に壁を作り、逃げ道を塞いでくる。
リンハルトは眼前の男をきつく睨みながら、攻撃しようかどうか迷う。この程度の雑兵なら何人集まろうと魔法で蹴散らすのは容易い……が先刻男の一人が言ったとおり、帝国から此方の陣営に入隊して間もない将であるリンハルトがもめ事を起こせばやっかいなことになる。まだ配属先の仲間と信頼が築けていない状態で余計なトラブルは避けたい。下手をすれば事と次第によっては処罰が下るのは彼のほうかもしれない。そこまで考えて目をつけてきたならかなり卑劣な輩である。
さてどうやって逃げようかと考えているうちに背後にまわった男につるりと尻を撫でられ、リンハルトはぞっとする。
「可愛いねえ……本当に男の子かな?どれ、ちょっと確かめさせてくれよ」
悲鳴を上げても相手を喜ばすだけだと思い、リンハルトは屈辱に耐えた。護身のために体術をもう少し真面目にやっておけば良かったと少し後悔する。
飛び出す隙とタイミングを冷静に見計らっていたその時、男達の背後から精悍な若者が表れ落ち着いた物腰で声をかけてきた。
「何をやっている?」
「あん?なんだてめえ……げっ灰色の悪魔!」
男の言葉は若者の姿を認めた途端、尻すぼみになる。明らかに怖じ気づき、へりくだった調子になると男は苦しい言い訳を並べ立てる。
「……えっといや、そのちょっと入隊者歓迎会を……」
若者はわずかに眉をひそめ、リンハルトと男達の様子を交互に見て首を傾げる。
「彼は困っているように見えるが……」
「はいとても」
リンハルトがきっぱりとそう答えると男達はぎくりとして「これは失礼しました」とそそくさ散開した。ほっとしたリンハルトは青年へ礼を述べる。
彼の噂はリンハルトも耳にしていた。強者揃いの傭兵集団の中でも恐ろしく腕の立つ剣士で眉一つ動かさず冷徹に敵を斬る姿から灰色の悪魔の異名を持つ、名前は確か……。
「あなたはベレトさんでしたっけ?助かりました、ありがとうございます」
「君はリンハルトだったか?これから時間があるだろうか?」
「はい……でも何かあるんですか?」
「少しつきあってくれないか」
そう言ってベレトはリンハルトに手を差し伸べてきた。思わずその手を握ると彼は歩き出した。
(どこへ行くつもりなのかな?)
リンハルトと手を繋いだままベレトはずんずん進んでいく。手袋ごしに自分とは異なる無骨な掌の感触がある。気がつけば次第に人気の無い場所へと移動していくのでリンハルトは少し心配になってきた。
(この人も同じなんだろうか?)
先ほどの酔った兵士と同じように自分を慰みものにするつもりなのではないかという疑惑がうっすら首をもたげてくる……しかしそんな場面を想像してみても不思議と嫌悪感はなかった。おかしな事にリンハルトはこの青年になら今すぐベッドへ引き込まれてもいいような気がしていた。そんな懸念よりもベレトが自分をどこへ連れていく気なのかという好奇心が勝っている状態である。
やがてごく普通の古い民家を立て直したような粗末な建物に辿り着くと、ベレトはリンハルトを招き入れた。
中には生活に必要な最低限の調度だけが置かれている。ベッドが二つあるのはおそらく父親の分だろう。つまりアイスナー親子が私的に使っている小屋ということか。
ベレトは戸棚から茶器を取り出した。
「君はハーブティーが好きか?」
「はい、好きです」
「良かった。茶葉はそれしか置いていないから」
ベレトは火を起こし、茶の支度をはじめた。薬缶で湯を沸かし、茶葉を入れたポットに注ぎ込んで適度に蒸らす。テーブルの上に紅茶を煎れたコップを二つ置くと、戸棚から白布のかかった籠を取り出した。
「これは秘密なのだが……」
深刻そうに声を潜めて話すベレトにリンハルトも居住まいを正す。さてどんな話が飛び出すかとどきどきしながら身構えているとベレトは白布に手をかける。
なんだろう?中身は薬品か武器かと注目するリンハルトの前でベレトははらりと包みを広げる……と中から出てきたのは甘い匂いのするパイだった。
「昼に食堂の女性がくれたパイだ。ブルーベリーと木苺が半々ずつ入っているそうだ。絶品だが試作品なのでこれしかないと言っていた。君に分けてあげよう。ただし他の人が欲しがるといけないので内緒にしてくれ。ジェラルトにもな」
まるで国家機密について相談を持ち掛けるようなもの凄く真剣な顔でそんな事を言うのでリンハルトはつい吹き出してしまった。
「どうした?」
リンハルトが何に対して笑っているのか本気で解らないというふうにベレトは小首を傾げる
「いえ、その……正直に言うとこれから何をされるのかなと少し緊張していたので。なんだか力が抜けてしまって」
ベレトはリンハルトの言葉にほんの微かに眉を下げた。どうやら少ししょげているふうに見える。
「自分はそんなひどい男に見えるだろうか?」
「そういうわけじゃないんですけど……」
「味方にもよく怖がられる。何かした覚えはないのだが……」
リンハルトは首を左右へ振り微笑みながら言う。
「少なくとも僕はあなたの事、怖いなんて思いません。今のでわかりました。ここに連れてきたのは、お茶ととっておきのお菓子で元気づけようとしてくれたんですよね?」
こくりとベレトが肯くとリンハルトは「ありがとうございます」と素直に礼を述べた。
無表情に敵を斬る姿から灰色の悪魔なんて呼ばれているが、皆誤解している。たぶん感情表現に乏しいだけで元来は優しい人なのではないかと思う。
俄然この青年へ興味が沸いた。
取り分けられたパイをさくさくとフォークで刻み口に運ぶ。甘酸っぱい味が舌の上に広がる。実家で出されたお菓子と比べても遜色ない美味しさである。ベレトもしばらく黙々とパイを口に運んでいた。その手と口元の動きをリンハルトはさりげなく観察していた。
勿論それだけでは何も解らないがシンプルに綺麗な人だなと思う。ベレトを見つめているうちに頭の芯がぼうっとして、心が浮き立ってくる。事のついでにリンハルトはさっきから気になっていたことを訊いてみた。
「あの、どうしてさっきはずっと僕と手を繋いでいたんですか?」
「子供の頃、自分が怖い目に遭うとジェラルトはよくそうしていた。なんとなくその時の自分と君が重なったから……迷惑だったろうか?」
「そんなことはないです。ただあまりこの年になって大人の男性と手を繋ぐことがないので驚いて」
「そうか」
世間一般と鑑みて自分が特に奇妙な行動をとったというふうには考えていないようだ。リンハルトよりも年上に見えるのにまるで物の道理を知らぬ子供のようだ。不思議な人だなとリンハルトは思う。
「あの……これからもなるべくあなたの近くに居させてもらえませんか?さっきみたいなことがまた起こらないとも限りませんし、そのほうが安心なので」
思い切ってそう言ってみるとベレトは少し考えてから肯いた。
「自分もまだここに来たばかりだから君とあまり立場は変わらない。困った時は助け合おう」
「はい、よろしくお願いします」
口元の端をわずかに持ち上げてベレトは微笑んだ。白花が綻ぶような無垢な笑顔。はじめて見る表情にリンハルトの胸はときめく。この青年の事がもっとよく知りたくなった。
成り行き上、敵陣営についてしまったがこの人と居れば見知らぬ土地での生活も楽しいものになりそうだとリンハルトは思った。