怖いさんがお隣に引っ越してきた!②この街に潜伏して数ヶ月。組織の情報を掴む為、僕は偽名を使いながら日中はバイト先の喫茶店で過ごし、夜は本業の任務と二重の生活を送っていた。
そんな慌ただしい日々の中でも、今日は久しぶりのオフ。
さて、朝から何をしようか。たまには惰眠でも貪ってみようかなんて思いつつ、カーテンの隙間から差し込む陽光になんだかそれでは勿体ない気もして。結局、寛ぐのもそこそこに軽く朝食を済ませるとひとまず捨てるためにまとめたゴミ袋を手に外へ出た。
一日のスケジュールを脳内で組み立てながら見上げた空は真っ青で。あちこち錆びついた階段を降りていくと劣化の激しい鉄製のそれは、一歩踏み出す事にカンカンと甲高い音を立てた。
ふと、階下を見ると見慣れない男がこちらを背に立っているのが目に入った。忙しなく左右に視線を移しているが何かを探しているのだろうか。ふいに振り向かれ視線がばちりとぶつかった。切れ長の鋭い眼差しに、灰色がかった深緑色の瞳。目鼻立ちは整っているのに、目元を飾る濃い隈の存在がどこかミステリアスで近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。黒のニット帽を被った黒服という出で立ちが空気の澄んだ早朝に見かけるにはあまりに不釣り合いで。加えて辺りを見回しているのだからどう見ても不審者にしか見えない。正直職質にかけたいところだが安室の立場ではそれは不可能だ。
「おはようございます。あの、どうかされましたか?」
とりあえず声をかけてみることにした僕は、男に向けてにこやかに笑いかけた。こいつが犯罪者であればすぐにこの場を立ち去るか、何かしらの弁明をするか、はたまた逆上して襲いかかって来るかの3択だろう。いっそ襲ってきてくれるほうが正当防衛としてその場で取り押さえて警察に突き出せるのでありがたいんだが。僅かに期待を抱きつつ、一定の距離を保つため階段を降りきったところで立ち止まる。
「ああ、こいつを出す場所がわからなくてね」
男は僕にも見えるように右手に持っていたものを軽く持ち上げてみせた。発せられた声色にはあきらかに安堵のにじんでいて。完全に不審者だと決めつけていただけに男の反応には肩透かしを食らってしまった。促されるままそちらを見れば、そこには透明なビニール袋が握られており、袋の中には細々とした黒い小さな袋に混じり薄っすら割り箸やら弁当の空やら彼の日常生活の様子が垣間見えるものが詰め込まれている。そこまで確認してようやく肩の力を抜く。男の怪しげな行動にも合点がいった。どうやら目的地は同じらしい。
「それならご案内しますよ。ここからだと、丁度死角になってる場所にあるのでわかりにくいですし」
「助かるよ。ありがとう」
並び立って歩きながら、引っ越してきたは良いが色々バタバタしていたおかげで不動産屋に収集場所を聞き損ねてな、と苦笑する男の様子を盗み見る。目線はやや僕より高い。長い指先に袋をぶら下げ、左手を黒のボトムスのポケットに突っ込んで歩く姿は様になっている。体格の良さに加えミステリアスな雰囲気と整った顔立ちもあってモデルみたいだなとぼんやり思った。
「こちらにはいつから?」
「二週間前から。と言っても、搬入に一週間程かかったから正式に住み始めたのは先週からだな」
先週、というと、僕が組織絡みの件で庁舎に詰めていたタイミングか。それならばこんなに目立つ男に見覚えがないということにも納得が行く。そういえば一階に空き室があったっけ。
「業者に依頼しなかったんですか?」
「生憎、私物を他人に触られたくなくてね。多少時間はかかったが秘密基地を作っているみたいで楽しかったよ」
「なるほど秘密基地ですか。良いですね、僕も子どもの頃作ってました」
「あれは一種のロマンだからな。特に冒険を夢見る少年にとっては魅力的に映る」
「確かに。その辺の通行人を敵に見立てて作戦会議したり合言葉を決めたりして盛り上がるんですよね」
男の風貌に不釣り合いななんとも可愛らしい単語に思わず笑ってしまった。童心に還ったような懐かしい感慨に耽りつつ、電柱からブロック塀を左に折れれば歩き出して5分と経たない内にゴミ捨て場に辿り着く。
カラス避けのネットを捲りながら一応、と前置きして収集日や分別方法についても軽く説明しておいた。流石に余計なお世話かとも思ったが男は熱心な様子で耳を傾けていて、近寄り難い見かけとのギャップに好感が持てた。
元の道を辿れば帰りは行きよりも早い。
階段の下に来たところで、改めて彼の方に向き直る。
「では僕は二階なのでこれで」
「ああ、そういえば君もさっき階段から降りてきていたんだったな。奇遇なことに実は俺の部屋も二階なんだよ」
君も、というフレーズに思わず驚き彼が指さした先を反射的に視線で追う。示されたのは角部屋だ。
「その部屋って確か…」
僕の住む部屋のすぐ隣のそこは空室ではなかったはずだった。
こちらの言わんとしていることを察したのだろう、男は言葉をかぶせるように静かに口を開いた。
「前の住人か?彼なら故郷に帰ったよ」
「え?」
「なんでも、突然会社で首を切られたんだとさ。あまりに急な話だったから、本人もまだ気持ちの整理はつかなかったようでな。諸々落ち着くまで俺がそこに居座ることになったというわけだ」
淡々と紡がれる現実味に欠けた言葉は憐憫こそ帯びていたが、まるで用意された台本でも読んでいるのかと疑いたくなるほどにどこか冷たさを感じる声色だった。
「そうだったんですね、」
補足を終え、男は僕の横をすり抜け階段を登っていく。その背を追うように後に続きながらこの間までいた隣人のことが脳裏を過った。たまにしか顔を合わせる事はなかった田中さん。人当たりの良い人物だったと思う。40代くらいのその男性とは背広で出かけるところに出会すことが多かった。最後に会った時には暫く出張に行ってくる、という話をしていたっけ。覚えている。それまではノーブランドで固めていたのに、最後に会った日には某高級ブランドのロゴが入ったネクタイをしていたのが印象的だったんだ。
──何かが、引っかかる。
話の筋は通っている。どこにでもある、ありふれた蒸発話。居なくなった住人と、その穴を埋めるためにやってきた男。なのになぜ。僕は一体どこに引っ掛かりを覚えているんだろう。得体のしれない違和感がもう少しで輪郭を持ち始めそうになった時だった。
「どうかしたかな?」
かけられた声にハッとして立ち止まる。
気づけば階段を登り終えた男は既に自分の部屋の前にたどり着いていた。
「ああ、いや、なんでもありません。……ただ、本当に突然のことだったので驚いてしまって」
慌てて頭を振り取り繕う僕を、温度を感じさせない眼が射抜く。動揺を気取られただろうか。心臓が早鐘を打っている。
──この男は、何者なんだ。
兄弟、親戚や友達…あまりにも薄情な態度は、そのどれにも当てはまる気がしない。留守を預かるほどの間柄であれば突然起こった彼の不運にもう少し寄り添って見せても良いだろうに。まあ、あまり感情を面に出すタイプでは無いだけなのかもしれないが、今の彼を見ていると部屋に押し入った強盗だとでも言われたほうがよほどしっくりくるような気がした。
何れにせよ、今すぐに片付く疑問でないことは確かだった。僕の思い過ごしかもしれないし、水面下で何かが起こっている可能性もある。早とちりだったならそれに越したことはない。重要視すべきはそうでなかった場合のほうだ。
最後の段を登りきった時、僕の中でも答えが出た。
足りないのは情報。彼の素性を確かめるためにもまずは必要なものを集めなければ。
「……という事はこれから暫くは貴方がお隣さんになるわけですね。僕は安室といいます。改めてよろしくお願いします」
何事もなかったように仕切り直す。
にこやかに微笑めば、男もまた同じように口角を上げた。
「俺は赤井。こちらこそよろしく頼むよ、安室くん」