愛を知るには早すぎる「ねえ、知ってる?」
この大学に、猫連れて歩いてる人がいるらしいよ。
大学は高校と違って、講義毎に自由席なので毎度隣前後ろの人が違う。だというのに。
この数日間で、少なくとも三回はこの話が耳に届いた。
毎度違う数人の女の子たちが「猫?」「野良?ペット?」「女?男?」などと同じようなことを話し合っていた。
話している人たちが知り合いではなかったので特に話に挟まったりはしていないのだが、心当たりがあるせいか余計耳についたのかもしれない。
いくつかある学食のうち、一番広いが古くて廃れている、人が疎らにしか座らないようなそこに向かっている途中で噂の人物の後ろ姿を発見する。
外は暑いと分かっていたが、学食への近道は外を経由していく道だった。近道のため仕方なく出たのだが、そうしてよかったなと思う。
「夏目」
声をかけながら走り寄る。
この後ろ姿を間違えるはずがない。
俺の声に気付いて振り返ったその腕には噂の。
「ポン太、こんにち」
言い終わる前に、どん、と胸にずっしりしたふわふわがのしかかってきたので反射でつかむ。頭突きをされたようだった。胸のあたりに鈍い痛みを感じる。
「ポン太じゃないと何度言ったらわかる」
「人前でしゃべるなよニャンコ先生」
夏目がこちらに手を伸ばしてきて、俺が胸に抱えた猫を再び自分の腕に抱きかかえるようにした。
頭を撫でられて気持ちよさそうに目を細めている猫と目が合う。
「だから田沼のガキにしか聞こえないように言っただろう」
「そういう危ないことをしないでくれって言ってるんだ。もう連れてこないぞ」
「連れてきてほしいと頼んだ覚えはない」
「じゃあ学校内をわざわざうろつくな!」
近くには誰もいない。
広い大学の敷地内。棟と棟の間の歩道で、道の両脇には木が適当な間隔で並んでいる。
木陰を、猫を抱いて歩いている夏目は、異質なものに見えた。悪い意味ではなく。不思議というよりは神聖なものの、ような。光がちらちらと夏目をたまに差す。その度に色素の薄い髪が光って揺れる。
「田沼?」
俺たち以外誰もいないこの道は、大学なのに大学じゃないような、切り離された場所のように感じた。夏目がそこに居るからかもしれない。
猫を抱いた夏目が振り返って俺を呼んでいる。
見蕩れていた、ようだった。
「暑いから、早く中に入ろう」
微笑んだ夏目に笑顔を返す。
少し歩いてたどり着いた学食の、扉をあけて俺が入るのを待っていてくれている。
「ありがとう」
こういうのは全部やってあげたいと、思っているのになかなかできないでいる自分が不甲斐ない。
近づきすぎて離れていったらと思うと手が出ない。これを、ずっと繰り返してきた。
などと考えているのが見透かされているのか、前を歩く夏目の肩からポン太がこちらを見て、鼻で笑っているのが見えた。
「いつまでも、意気地のないやつだな」
「なっ」
ばれている。
「なにがだ先生」
「なんでもないよ夏目」
ポン太に変なことを言われる前にすかさず答える。
……にゃあ、と猫が笑ってみせてくる。
その猫を軽くにらんで、視線を散らした。
周りに人がいない席を探したほうがポン太も夏目も楽だろうと思ったのでそういう席を探すことにした。
「ところで」
カレーをつつきながら夏目が口を開く。
さっきまでは単位の話やらレポートの話、図書室の使い方などと大学の話をお互いにしていたのになにやら突然に神妙な顔つきになるので、また妖関連でなにか悩んでいるのかとはっとする。
悩んでいただろうに気づいてあげられなかったな、と後悔した。
「あ、別に、たいしたことじゃないんだ」
肩に力が入ったのが気付かれてしまったのか、夏目が笑った。
妖のことじゃないと言いたいようだったが、もし妖のことじゃなくても夏目が悩んでいるのならいつでも力になるのに。
「最近、見られている気がして」
「え、どんなやつに」
やっぱり妖なのか。
ポン太は夏目のカレーをつつこうとして夏目の手で押しのけられている。カレーの取り合いをしているところも加え、用心棒をしているポン太があまり反応していないところをみると、「見られている」ことはそんなに大事ではないのかもなと少し安心する。
「いろんな人に……。いや、過剰なのかもしれない、俺が」
「人なんだな」
「た、多分」
隙あり、と夏目がスプーンに掬っていたカレーを猫が大口でかじって食していった。
夏目に殴られないようにテーブルの下にもぐり咀嚼しているようだ。うまいうまい言っている。本当にこれが猫なのかと疑うのは、もうやめた。
「人なら、心当たりがある」
「本当か!? おれ、なにかしたかな」
話し声が少し大きくなり、顔が白くなっていった。
夏目とは大学が一緒ということもあって高校時代よりも自由な時間が多くなったことに伴い、以前よりも一緒に過ごすことが多くなっていた。
だからわかる。人に嫌われるのを、特に気にしていてそこに神経をとがらせていたのに。何を間違ってしまったのだろうと考えているのだと思う。
「大丈夫だよ、夏目」
高校の時からそうだが、夏目は人に優しい。嫌われたくないと思っているのがよく伝わってきた。
なのにもし誰かに嫌われるようなことをしてひそひそと噂話をされ後ろ指をさされていると知ったら。息苦しいし辛いだろう。
実際はそんなことはないはずだが。
「たぶん、というか間違ってないと思うけど」
「知っているなら教えてほしいんだ」
一呼吸おく。
夏目が緊張しているのが分かった。
だから、笑って、教えてあげる。安心してほしい。
「ポン太だよ。猫が、気になる人がたくさんいるみたいだ」
呼んだか、と足元からポン太が顔を出して。
猫を見て、俺を見て、夏目は眉毛をハの字にした。
「な、なんで……?」
「あのな、高校の時は周りが慣れていたかもしれないけど、猫ってあんまり……」
夏目の困った顔は、可愛かった。
「連れて歩かないんだぞ、夏目。特にポン太は目立つから」
「そりゃあ私は高貴な存在だから目立つだろう」
「大きいからだよ」
「このガキが!」
こら!とげんこつが猫の額に落ちた。遠くても近くに人がいるからやめろ、と制したのだろう。
白かったのに、今はちょっと赤くなった夏目の顔を見て安心する。こわがっていないならよかった。
「つまり、皆先生をみてたってこと、か」
間違えてはいないはずだ。
おれの周りで、どれだけ聞いたことか。
「猫を連れて歩いている人がいるって噂になってるのを何回か聞いたよ」
「た、大変だ……」
「だから、安心して大丈夫だ」
夏目が思っているような、悪い噂じゃないんだ。
思っていたような悪い話ではなかったから安堵した顔をしたのにすぐ、「先生のせいで変に注目を浴びただろ」とまたポン太と言い合いを始めてしまった。
そういう顔を見ているのがやっぱり好きだなと思う。
いつか俺も夏目とこういう言い合いができるんだろうか。大学生になって、一緒に居る時間が増えて、動ける範囲も周りの人も増えた。
これからはもっと、楽しいことを共有したいし色々なことをしていきたいと思うと今後が楽しみで仕方なかったが反して夏目に目立ってほしくないし他の人とは共有したくないとも思う。いつか答えは出るのだろうか。
それまではまだおれとだけ、おれが知っているだけの友人であってほしい。
「若いな」
猫が、足元で笑っている。